単章 呪いの行方
寺の住職から連絡があったのは、日が傾き始めた頃だった。
電話口の住職は、普段よりも声を落としていた。相談したいことがある。ただし、電話では詳しく話しにくい。そう前置きしたうえで、できるだけ早く寺まで来てほしいと言った。
サエキが寺に着くと、住職は玄関先まで出てきた。
「急に呼び立てて申し訳ありません」
「構いません。何かあったんですか」
「実は、神社の御神木に妙なものが打ち付けられているんです」
「妙なもの、ですか」
「藁人形です。それも、一つや二つではありません」
住職は周囲を気にするように境内を見回してから、サエキを客間へ案内した。机の上には、数枚の写真が並べられていた。
写っていたのは、古い神社の境内に立つ大きな御神木だった。その幹には、藁で作られた人形がいくつも打ち付けられている。胴体に釘が通され、紙片が結び付けられていた。紙片には、それぞれ名前が書かれている。
「これを見つけたのは、神社の関係者ですか」
「朝の掃除に来た方です。最初は一体だけだったそうですが、確認すると、ほかにも見つかった。全部で五体です」
「名前は?」
「すべて子供の名前です。近くの学校に通っている子たちだと聞いています」
サエキは写真を一枚ずつ手に取った。名前は読み取れるものの、写真だけで術の内容まで判断することはできない。人形の形や釘の打ち方にも、統一された作法があるようには見えなかった。
「住職は、どうしてこの件を?」
「神社の方から相談を受けました。名前のある子供たちの中に、体調を崩している子がいるそうなんです」
「どのような症状ですか」
「眠れない、急に具合が悪くなる、理由もなく怖がる。詳しいことまでは分かりません。ただ、複数の子に似たようなことが起きていると」
「藁人形が見つかった時期と、体調不良が始まった時期は一致しているんでしょうか」
「そこまでは確認できていません」
住職は写真から目を離さなかった。
「私は、こういうものを見て見ぬふりはできません。子供たちに何かあってからでは遅い。できることはしておきたいんです」
「神社の方では、何か対応を?」
「人形は取り外さず、まず写真を撮って記録したそうです。その後、私に相談がありました。私は私なりに、清めたり、念仏を唱えたりしています」
「効果は分かりませんか」
「ええ。正直に言えば、分かりません。ただ、何もしないでいるよりはと思いまして」
住職の言葉に、サエキはうなずいた。
住職が行っていることに、確かな効果があるとは言えない。かといって、無意味だと断じる根拠もなかった。少なくとも、住職は子供たちを守ろうとしている。その気持ちに疑いはなさそうだった。
「私に何を調べてほしいんですか」
「誰が、何のために藁人形を打ち付けたのか。それを突き止めていただきたいんです。それから、子供たちに本当に呪いがかかっているのか。もしそうなら、解くことはできないでしょうか」
「分かりました。まずは人形そのものを確認します。写真だけでは判断できません」
「神社の方には話を通してあります。いつでも見ていただけるはずです」
「では、明日にでも行きましょう」
住職は深く頭を下げた。
「どうか、子供たちを助けてください」
サエキは、机の上に並んだ写真をもう一度見た。
御神木に打ち付けられた藁人形。その一体一体に、子供の名前が記されている。
誰かが、明確な意図を持って行ったことは間違いない。
それが単なる脅しなのか、それとも実際に呪詛を行うためのものなのか。判断するには、まだ情報が足りなかった。
翌日、サエキは住職とともに神社を訪れた。
境内は静かだった。平日の昼間ということもあり、参拝者の姿はほとんどない。社殿の脇に立つ御神木は、遠目には何の変哲もない大木に見えた。
「こちらです」
神社の関係者に案内され、サエキは幹に近づいた。
写真で見た通り、藁人形は複数打ち付けられていた。いずれも人の形を模した簡素なもので、胴体には釘が通されている。結び付けられた紙片には、子供の名前が記されていた。
「これを見つけたとき、ほかに何か変わったことはありませんでしたか」
サエキが尋ねると、神社の関係者は首を横に振った。
「特には。ただ、最初に見つけた人は、気味が悪くて触れなかったそうです」
「取り外してはいないんですね」
「ええ。住職さんからも、ひとまずそのままにしておくようにと言われました」
「人形が増えたことは?」
「最初に見つけたときには、すでに複数ありました。いつからあったのかは分かりません」
サエキは人形を一体ずつ確認した。紙片の名前は、住職から聞いていたものと一致している。人形の作りには多少の違いがあったが、同じ人物が作ったのか、別々に作られたものなのかまでは判別できない。
ただ、幹に残された釘の跡や人形の状態から、これらが一度に打ち付けられたとは限らないことは分かった。
「この人形に、何か感じますか」
住職が小声で尋ねた。
「少なくとも、単なる悪戯として片付けるのは早いでしょう」
「やはり、呪いが?」
「まだ断定はできません。人形を使った呪詛の形を取っているようには見えますが、実際に何が起きているのかは別の問題です」
サエキは幹に近づき、釘の周辺を注意深く観察した。
そのうちの一体に、わずかな違和感があった。藁の一部が黒ずみ、周囲の状態もほかの人形とは異なっている。自然な汚れなのか、何らかの作用によるものなのか、現時点では判断できなかった。
「この人形だけ、少し状態が違いますね」
「それは、何か意味があるのでしょうか」
「可能性はあります。ただし、今の段階では何とも言えません」
サエキは写真を撮り、位置や状態を記録した。
調査を進めるためには、名前のある子供たちについて知る必要がある。住職を通じて学校関係者に確認を依頼し、後日、分かる範囲の情報を集めることになった。
数日後、住職から連絡があった。
「名前のある子供たちについて、少し分かりました」
「何か共通点が?」
「全員、同じ学校に通っています。それから、最近亡くなった男子生徒がいるそうです」
「その生徒と、藁人形の子供たちに関係があるんですか」
「どうやら、そうらしいんです。亡くなった生徒と、何らかの形で関わっていた子供たちだと」
「何らかの形、というのは?」
「詳しいことは、まだ確認中です。ただ、学校では少し前から問題になっていたようです」
サエキは住職から聞いた情報を整理した。
「その男子生徒が亡くなった原因について、学校側は何か説明しているんでしょうか」
「そこまでは分かりません。ただ、母親が学校に強く抗議していたという話は聞きました」
「抗議の理由は?」
「息子さんが、学校でいじめられていたという主張だそうです」
サエキは、藁人形に記されていた名前を思い返した。
「その母親が、子供たちを恨んでいる可能性がありますね」
「私も、そうではないかと思っています」
「ただ、まだ決めつけるわけにはいきません。男子生徒のことも、藁人形のことも、もう少し詳しく調べる必要があります」
その後、学校関係者や周辺から得られた情報によって、男子生徒の行動が少しずつ明らかになった。
彼は同級生に対して日常的に横柄な態度を取り、いじめと呼べる行為を繰り返していた。ある生徒には大怪我を負わせていたという。学校内での振る舞いを問題視する声もあったが、周囲は次第に彼と距離を置くようになった。
やがて、同級生たちは彼を避け、話しかけることもなくなった。そして男子生徒は自ら命を絶った。
母親は、息子が同級生たちからいじめを受けた末に自殺したのだと信じていたらしい。
息子が他の生徒に何をしていたのか。どのような経緯で周囲から避けられるようになったのか。母親がどこまで把握していたのかは、まだ分からない。
ただ、藁人形に記された子供たちが、母親の恨みの対象になっている可能性は高かった。
「住職。母親についても調べる必要があります」
「その方が、藁人形を?」
「まだ確証はありません。しかし、息子さんの死と藁人形の時期が近く、名前のある子供たちとの関係も一致しています」
「もし、その母親が本当に呪いをかけているのなら……」
「子供たちに危険が及ぶ前に、止めなければなりません」
サエキは、御神木に打ち付けられた人形の写真を見直した。
そこに記された名前は、すべて子供のものだった。
恨みを向けられる理由が何であれ、子供たちが呪詛の対象にされていることを見過ごすわけにはいかなかった。
母親についての情報を集めると、息子の死後、学校に対して激しい抗議を続けていたことが分かった。
学校側は、男子生徒が同級生に対して行っていた問題行動についても説明していたらしい。しかし母親は、それを受け入れなかった。息子は一方的にいじめられていた。周囲の生徒たちが息子を追い詰めた。その主張を繰り返していたという。
「息子さんのことを、相当かわいがっていたようですね」
住職が言った。
「溺愛していた、という話もあります」
「それほど大切にしていた子供を亡くしたのなら、悲しみは深いでしょう。しかし、それと他の子供たちに呪詛を向けることは別です」
「母親は、自分の息子が悪かったとは思っていないのでしょうか」
「少なくとも、周囲から聞いた話では、そのようには受け止めていないようです」
母親の行動を調べる中で、サエキは丑の刻参りに関する情報を集め始めた。
古い伝承や民俗資料に記された作法だけでなく、現代の書籍やインターネット上に流布している情報も確認した。そこには、古くから伝わるものと、出典のはっきりしない俗説が混在していた。
母親がどの情報を参考にしたのかは、まだ分からない。しかし、藁人形の作りや釘の打ち方には、伝承として知られる作法と一致する部分がある一方、異なる部分も見られた。
母親は、丑の刻参りについて独自に調べ、複数の情報を組み合わせて実行した可能性がある。
その頃、サエキはもう一つの情報を得た。
藁人形の名前が記された子供たちの中に、オカルトに強い興味を持つ生徒がいるという。彼は男子生徒から被害を受けていた一人でもあった。
サエキは、住職を通じてその生徒と話す機会を得た。
「君は、丑の刻参りについて調べたことがあるそうだね」
少年は少し驚いた顔をした。
「ええ。まあ、オカルトは好きなので」
「呪詛返しについても?」
「知っています。ネットで見たことがあります」
「実際に何か試したのかな」
少年はすぐには答えなかった。視線を落とし、少し考えてから口を開いた。
「……自分を守れたらと思ったんです」
「誰から?」
「亡くなった人です。あの人が生きていた頃、ずっと嫌なことをされていました。怪我をした人もいます。僕も、友達も」
「それで、呪詛返しを?」
「本当にできるとは思っていませんでした。ネットに書いてあったことを、少し試しただけです」
「どんなことをしたのか、覚えている範囲で話してくれるかな」
少年は、ネットで見つけた情報をいくつか試したと説明した。詳しい作法を知っていたわけではない。書かれている内容も、出典が明らかでないものばかりだったという。
「その情報は、丑の刻参りの作法と関係していた?」
「そうです。呪いを返す方法だと書いてありました。でも、サイトによって書いてあることが違っていて……」
「それを組み合わせた?」
「はい。全部をその通りにやったわけじゃありません。できそうなことだけです」
「その後、何か変わったことは?」
「分かりません。何かが起きたのかもしれないけど、僕には判断できません」
少年の話だけで、呪詛返しが成立したと断定することはできない。
しかし、サエキが御神木で確認した人形の状態や、調査の過程で得た情報を合わせると、見過ごせない点があった。
母親が行った丑の刻参りは、古い伝承に基づく作法と、現代の俗説を混ぜ合わせたものだった可能性がある。一方、少年が試した呪詛返しも、ネット上の断片的な情報を組み合わせたものだった。
双方の行為が、意図せず一部で重なったのではないか。
それならば、呪詛返しが成立したことにも説明がつくかもしれない。
ただし、呪詛が術者である母親に戻っているわけではなかった。
「返されたものが、別の場所へ向かっている……」
サエキは、人形に残された異常を確認しながら呟いた。
呪詛の流れを追うと、その先に浮かび上がったのは、母親のもう一人の子供だった。
娘である。
母親が息子を溺愛していた一方で、娘には冷淡だったという話は、調査の過程でも耳にしていた。母親が娘に長年向けていた負の感情、血縁と生活を通じた強い結び付き、そして不完全な作法が混在した呪詛。その複数の条件が重なり、返された呪詛が娘へ向かってしまった可能性がある。
娘が何かをしたからではない。母親の行為と、偶然成立した呪詛返しの結果だった。
「住職。呪詛が向かっている先が分かりました」
「どの子供ですか」
「母親の娘です」
住職は言葉を失った。
「母親の娘……。それでは、あの子も危険な状態に?」
「そう考えた方がいいでしょう」
「どうして、そんなことに」
「呪詛返しが成立したものの、術者本人に戻らなかったようです。どのような条件が重なったのか、完全には分かりません。ただ、娘に向かっていることは確認できました」
「母親が、自分の娘に呪いをかけたということですか」
「意図してそうしたわけではないでしょう。しかし、結果として娘が呪詛の影響を受けています」
住職は深く息を吐いた。
「すぐに、その子を助けなければ」
「そのためにも、まずは本人の状態を確認します。母親にも話を聞く必要があります」
「母親は、素直に話してくれるでしょうか」
「難しいでしょうね」
サエキは、母親のこれまでの言動を思い返した。
息子の死を受け入れられず、同級生たちに恨みを向けている。自分の行為が娘を危険にさらしていると知ったとき、どのような反応を示すのか。
それを考えると、早急に対処する必要があった。
娘と父親が寺を訪れたのは、その数日後だった。
住職が事情を説明し、娘の状態を確認するために呼んだのだという。
娘はまだ幼さの残る年齢だった。顔色は悪く、父親のそばから離れようとしない。父親もまた、娘の様子を気にしているようだった。
「娘が、ここしばらく体調を崩していまして」
父親はそう説明した。
「病院には?」
「何度か連れて行きました。ですが、はっきりした原因は分からないそうです。眠れないこともあるようで……」
「いつ頃からですか」
「少し前からです。最初は疲れているのかと思っていたんですが、最近は怖がることも増えました」
「何か、怖がる対象があるんでしょうか」
父親は娘の顔を見た。
「どうかな。何かあるの?」
娘は父親の服を握ったまま、小さくうなずいた。
「ママが、怖い」
「お母さんが?」
サエキが尋ねると、娘は少し考えてから答えた。
「怒ると、怖い」
父親は困ったように娘を見た。
「母親は、最近少し不安定でして。息子を亡くしてから、ずっと気持ちが落ち着かないんです」
「奥さんが息子さんを亡くしたことは、理解しています。ただ、娘さんの体調不良についても、何か心当たりはありませんか」
「心当たり、ですか」
「娘さんが、お母さんを怖がっているようです」
父親はすぐには答えなかった。
「妻は、息子のことをとてもかわいがっていました。娘にも愛情はあると思います。ただ……」
「ただ?」
「息子と娘で、接し方に違いがあったのは確かです」
「それについて、奥さんと話をしたことは?」
「何度かあります。でも、息子を亡くしてからは、何を言っても聞き入れてもらえなくなってしまって」
父親の言葉は歯切れが悪かった。妻の行動に疑問を持っていたことはうかがえる。しかし、どこまで事情を知っていたのかは分からない。
「奥さんが、何かをしている可能性があります」
「何か、とは?」
「娘さんの体調不良に関係することです。詳しく調べる必要があります」
そのとき、住職が母親について話を切り出そうとした。
しかし、寺の外から荒い足音が聞こえた。
「あなたたち、何を話しているの!」
母親が客間に入ってきた。
父親は驚いて立ち上がった。
「どうしてここに」
「あなたこそ、何をしているのよ。娘をこんなところに連れてきて!」
母親は娘の腕をつかもうとした。娘は反射的に父親の背後へ隠れる。
「やめなさい。今は話をしているんだ」
「あなたは黙っていて!」
母親の視線がサエキへ向いた。
「あなたがサエキさん? うちの息子のことを調べているそうね」
「話を聞いています」
「なら分かるでしょう。あの子は被害者なのよ。あの子は、学校でいじめられていた。周りの子たちが、あの子を追い詰めたの!」
「息子さんが亡くなったことは、残念に思います。ただ、同級生に大怪我を負わせたことも確認されています」
「そんなの、あの子が悪いわけじゃない!」
「悪いかどうかという話ではありません。何があったのかを確認しているんです」
「あなたまで、あの子を悪者にするの!」
「私は、確認できた事実を話しているだけです」
母親は声を荒らげた。
「息子は優しい子だったのよ。あの子たちが、あの子を無視したから! みんなであの子を追い詰めたから!」
「その子たちに、何をしたんですか」
サエキの問いに、母親の表情が変わった。
「何のこと?」
「御神木に藁人形を打ち付けたのは、あなたですね」
「知らないわ」
「人形に書かれていた名前は、息子さんと関わりのあった子供たちでした」
「知らないと言っているでしょう!」
母親の声が一段と高くなった。
住職が間に入ろうとしたが、母親は聞く耳を持たなかった。
「あなたは、呪詛を行いましたね」
「何を言っているのよ!」
「丑の刻参りです。古い作法と、現代の俗説を組み合わせたようですが」
母親は一瞬だけ黙った。
その反応で、サエキには十分だった。
「やっぱり、あなたが……」
住職が呟いた。
「何が悪いのよ。あの子たちが息子を殺したのよ。許せるわけがないでしょう!」
「その呪詛が、あなたの娘に向かっています」
母親の顔から、怒りとは別の感情が消えた。
「……何ですって?」
「呪詛返しが成立しています。ただし、あなた自身に返ったわけではありません」
「そんなはずない」
「娘さんに影響が出ています。このままでは危険です」
「嘘よ。そんなこと、あるわけない!」
父親が母親を見た。
「お前、何をしたんだ」
「あなたは黙っていて!」
「藁人形のことか? あれをお前がやったのか?」
「息子のためよ!」
「やめろ。もうやめてくれ」
「あなたに何が分かるのよ!」
父親は娘をかばうように立ち、母親へ向き直った。
「息子のことは分かっている。私だって悲しい。だが、ほかの子供たちに呪いをかけるなんて、そんなことをして何になるんだ」
「息子が死んだのよ!」
「だからといって、娘まで巻き込むな!」
母親の表情が激しく歪んだ。
「あなたも、私を責めるのね!」
次の瞬間、母親は父親に襲いかかった。
父親が後ろへ倒れ、母親がその上に覆いかぶさる。母親は激しく腕を振り回し、父親を殴ろうとしていた。
サエキはすぐに二人の間へ入り、母親を引き離した。
「落ち着いてください!」
「離して! 邪魔をしないで!」
母親は暴れ、サエキの腕を振りほどこうとした。父親は床に倒れたまま、息を乱している。
「大丈夫ですか」
「ええ……。娘は?」
「住職が保護しています」
母親はその隙に身を翻し、寺の外へ走り出した。
「待ちなさい!」
サエキが追おうとしたが、まず父親と娘の安全を確認する必要があった。住職に二人を任せ、外へ出たときには、母親の姿はすでに見えなくなっていた。
その後、母親は逃走中に道路へ出たところでトラックにはねられ、死亡した。
事故の詳細は警察の調査に委ねられた。少なくとも、サエキが確認できる範囲では、呪詛と事故の直接的な因果関係を示すものはなかった。
母親の死後、警察による調査の過程で、娘が家庭内で虐待を受けていたことも明らかになった。
息子を溺愛する一方で、娘には長年冷淡に接し、暴力を振るうこともあったという。
父親がどこまでそれを知っていたのか、どの程度気付いていたのかについては、明確なことは分からなかった。
ただ、父親が妻の行動を止められなかったこと、娘が母親を怖がっていたことは、サエキの記憶に残った。
母親が亡くなったからといって、娘に向かっていた呪詛が消えるわけではなかった。
住職から娘の状態について連絡を受けたサエキは、改めて寺へ向かった。
「母親が亡くなったのに、まだ影響が残っているんですか」
住職は不安そうに尋ねた。
「呪詛がすでに成立している以上、術者がいなくなったからといって、自動的に消えるとは限りません」
「では、娘さんはまだ危険な状態だと」
「ええ。放置はできません」
サエキは、御神木に打ち付けられていた藁人形の記録と、これまでの調査内容を確認した。
母親が行った丑の刻参りは、複数の情報を混ぜ合わせた不完全なものだった。そこへ、少年が試した呪詛返しが偶然重なったことで、呪詛の流れが変わったと考えられる。
問題は、その行き先だった。
母親ではなく、娘に向かっている。
サエキは呪詛の状態を改めて調べ、娘へ向かう影響を断つための処置を行った。
住職はその間、少し離れた場所で静かに見守っていた。
「これで、終わるのでしょうか」
「少なくとも、娘さんに向かっていた呪詛については対処しました。ただ、経過を見る必要があります」
「分かりました」
処置の後、娘の体調は少しずつ回復していった。
以前のように眠れない夜が続くことも減り、顔色も戻ってきた。住職からは、娘が落ち着いて過ごせるようになったと報告があった。
「本当にありがとうございました」
住職は、何度も頭を下げた。
「まだ、すべてが終わったわけではありません」
「それは、どういう意味でしょうか」
「呪詛を解いたことと、子供たちが受けた傷がなくなることは別です。あの子たちが経験したことは、簡単には消えません」
「そうですね……」
「娘さんについても、体調が回復したからといって、これまでの生活がなかったことになるわけではありません。これから安心して暮らせる環境が必要です」
住職は静かにうなずいた。
「お父さんが、娘さんを守ってくれることを願うばかりです」
「そうですね」
サエキは、娘の様子を思い返した。
母親を怖がり、父親の背後に隠れていた姿。呪詛の影響だけでは説明できないものが、あの子の中には残っているはずだった。
今回の件で、娘が受けていた苦痛のすべてを取り除けたわけではない。
それでも、少なくとも呪詛による危険は取り除くことができた。
サエキにできることは、そこまでだった。
それからしばらくして、父親と娘が寺を訪れた。
住職から連絡を受けたサエキも、二人に会うことになった。
娘の顔色は以前よりずっとよくなっていた。服装も整い、父親のそばで落ち着いた様子を見せている。
「その節は、本当にありがとうございました」
父親は深く頭を下げた。
「娘さんの具合はどうですか」
「おかげさまで、すっかり元気になりました。夜も眠れるようになりましたし、以前のように怯えることもなくなりました」
「それはよかった」
「住職さんにも、本当にお世話になりました」
「いえいえ。私は大したことはしていませんよ」
住職はそう言って微笑んだ。
娘は父親の隣で、寺の中を興味深そうに眺めていた。以前会ったときのような不安げな様子はない。
「もう、怖くない?」
サエキが尋ねると、娘は明るくうなずいた。
「うん。もう大丈夫」
「そうか。それならよかった」
娘は父親の顔を見上げ、それから何気ない口調で言った。
「ママがいなくなって良かった〜」
まるで、今日の天気や学校での出来事を話すような、何のためらいもない声だった。
父親は娘をたしなめなかった。困ったように笑うことも、言葉を訂正することもない。ただ、娘の様子を見守っていた。
サエキは、娘の言葉について何も尋ねなかった。
母親がいなくなったことで、娘が安心して暮らせるようになったのなら、その言葉を責める理由はない。長い間、母親を怖がっていたことは、サエキ自身も聞いている。
父親は、少し間を置いてから話を続けた。
「これからは、娘と二人で新しい生活を始めようと思っています」
「そうですか」
「実は、再婚することになりまして」
父親によれば、相手は娘が通っていた保育園の先生だという。娘もその女性に懐いており、新しい生活を楽しみにしているらしい。
「娘も、あの人のことが好きなんです。よく懐いていますし、安心して任せられます」
「それは何よりですね」
「これから私たち幸せになれます」
父親は、そう言って微笑んだ。
サエキは二人の顔を見た。
娘は明るい表情を浮かべている。父親も穏やかだった。母親が亡くなり、娘に向かっていた呪詛も解けた。これから新しい生活を始めるという二人の言葉に、表立って異を唱える理由はない。
「どうぞお幸せになって下さい」
サエキは、そう答えた。
「ありがとうございます」
父親は再び頭を下げ、娘の手を取った。
二人は住職にも礼を述べ、寺を後にした。
サエキは、並んで歩いていく父娘の背中を見送っていた。
娘は父親の手を握り、何かを話している。父親はそれに応じ、時折うなずいていた。
どこにでもいる、仲のよい親子の姿に見えた。
母親がいなくなったことで、娘は救われたのかもしれない。父親もまた、これからの生活に希望を抱いているのだろう。
そう考えれば、二人の言葉も態度も、何ら不自然ではない。
それでも、サエキの中には説明しがたい違和感が残っていた。
父親の言葉なのか。娘の明るさなのか。それとも、二人が並んで歩く姿そのものなのか。
何が引っかかっているのか、サエキには分からなかった。
呪詛は解けた。娘の体調も回復した。事件としては、ひとまず終わったと言っていい。
だが、二人の背中が見えなくなっても、サエキはしばらくその場を動かなかった。
あの父娘が、これから本当に幸せになるのか。
それを疑うだけの根拠はない。
ただ、最後に見た二人の姿は、なぜかサエキの記憶に不気味なものとして残った。




