単章 儚い想い
サエキは自宅の保管庫を整理していた。
フリーランスをやっているとどうしても文献や道具類が増えてしまう。
文献などはデータ化しているものもあるが、データは消えてしまう恐れが高く、また定期的に記憶媒体を更新する必要があるためどうしても古い文献は紙媒体になってしまう(あとデータ化が面倒)。
自宅とは別に倉庫も借りているので、自宅には比較的新しいものや、直近で利用するものが多い。
「…….これは」
サエキは無意識に着けているネックレスを指でなぞった。
サエキが見つけたそれは特殊な木箱に入ったとても分厚いノートだった。
タイトルは「エリーの日記」
サエキがフリーランスとして成功し始めたある日のことだった。
温泉宿でようやく肩の力を抜いていたところに、学生時代の先輩である特怪局のクロダから電話が入った。
『サエキ、今すぐに特怪局にこれるか?』
「あいにく休暇中なんです」
『緊急だ。妙なものが現れてな。』
電話の向こうで、クロダが言葉を選ぶ気配がした。
『獣だ。半身が……魔女のような姿をしている。そいつが、片言だが……サエキとずっと呟いている』
「私を?」
『ああ。それと、もう死にかけてる。』
サエキは小さく息を吐いた。
クロダが騒ぎを抑えている間に急いで戻ることにした。
特怪局の隔離室には、厳重な結界が張られていた。
その中央に、奇妙な生き物が横たわっている。
片側は獣だった。毛皮は裂け、牙は欠け、巨大な前脚は血に濡れている。
もう片側は女だった。
青白い肌。細い腕。すでに息はなく、瞳も閉ざされている。衣服は擦り切れ、長い旅路を物語るように汚れていた。
獣と女は、身体の中央で不自然につながっていた。
「……なんだ、これは」
サエキが近づく。
獣の目が、ゆっくりと開いた。
そして、彼を見た。
唸り声はない。牙を剥くこともない。
ただ、ひどく安堵したように目を細めた。
「サエキ……?」
掠れた声が、獣の喉から漏れた。
「……アァ……会えたタ……あい」
それきり、獣の目から光が消えた。
サエキはしばらく、その場に立ち尽くした。
聞き覚えのある言葉だった。
いや、正確には違う。言葉ではなく、目の奥に残った何かが、遠い記憶を引っかいていた。
女の顔を見る。
その瞬間、忘れたはずの村が脳裏によみがえった。
駆け出しの頃、サエキは魔女討伐の依頼を受けて、山あいの小さな村を訪れた。
村では人が襲われ、家畜が引き裂かれ、夜になると森から不気味な声が聞こえるという。
村人たちは口を揃えて、治癒師の女が魔女なのだと訴えた。
女はエリーという名前で怪我人を治し、病人を看て、村の者たちから頼りにされていたらしい。
だが、いつからか不吉な噂が流れ始めた。
治癒の術は魔術だ。
薬草の知識は呪術だ。
夜に森へ入るのは、怪物を呼び出すためだ。
恐怖は、いつだってもっともらしい理由を欲しがる。
サエキは現場を調べた。
傷痕。足跡。荒らされた納屋。家畜の死骸。
どれもエリーの仕業とは思えなかった。
数日の調査の末、サエキは結論を出した。
「エリーは無実だ。村を襲っているのは別の獣だ」
サエキはエリーを後ろに庇いながら叫んだ。
村人たちの顔に、戸惑いが広がった。
ただひとり、声を荒らげた男がいた。
「嘘っぱちだ! あいつが魔女でなければ、誰がこんなことをする!」
「彼女だという証拠はない!それに現場にある毛や爪痕、家畜の食い残しは魔女によるものではない、ましてやエリーではなく大型の獣、それか怪物によるものだ!」
「証拠ならある! あいつが森へ入るのを見た!」
「治癒師が薬草を採りに行っただけだろう!!」
男は何も言い返せなかった。
それでも、謝ろうとはしなかった。
自分の間違いを認めるくらいなら、真実のほうを嘘にしたかったのだろう。
その夜、獣が村へ入った。
悲鳴が響いた。
戸板が砕け、火の手が上がり、逃げ惑う人々を巨大な影が追い立てた。
サエキは銃と短刀を抜き、獣へ向かった。
治癒師のエリーは逃げなかった。
倒れた村人に駆け寄り、傷を押さえ、逃げ遅れた子供を抱き上げた。
「エリー!!逃げろ!」
サエキの叫びに、エリーは振り返った。
その顔を見たのは、一瞬だった。
次の瞬間、獣の爪がサエキの身体を深く裂いた。
膝が崩れる。
それでもサエキは短刀を振るい、獣に傷を負わせた。
獣は吠えた。
サエキを憎んでいるかのような、底知れない怒りの咆哮だった。
ふたりはもつれ合うように崖へ転がり落ちた。
サエキが目を覚ましたとき、村は半壊していた。
生き残った村人たちは近郊の街へ逃げていた。
治癒師のエリーは見つからなかった。
獣の死骸もなかった。
サエキの傷が癒えるまで長い時間を要した。動けるようになってからも、幾度も村の周辺を調べた。
何も見つからなかった。
やがて年月が過ぎた。
仕事に追われ、実力をつけ、いくつもの怪異を始末した。
あの村のことを忘れたわけではない。
廃村になったが、そこに赴いて周辺も調査した。
ただ、調べても何も出てこない。事件は長い年数がたてば、諦めという記憶の底に沈んでいく。
エリーはどうなったのか?
獣は死んだのか?
あれから5年の月日が流れたが答えは、とうとう見つからなかった。
特怪局の隔離室に戻り、サエキは女の顔をもう一度見た。
記憶の中のエリーと、目の前の女。
歳月を経ているはずなのに、面影は確かに重なった。
「……エリー……なのか?」
返事はない。
だが半身の獣方には覚えがない。
エリーと思える半身と違い、獣の半身はボロボロで衰弱しきっていた。
サエキは、獣が握りしめていた紙に気づいた。
そこには、簡素な地図と住所が記されていた。
指定された場所は、記憶にある廃村から遠く離れた森の奥だった。
小さな小屋が一軒、木々の間に埋もれるように建っている。
扉は歪み、窓は曇り、屋根には枯れ葉が積もっていた。
簡素だか認知を惑わす魔法も施されていた。
魔女の工房。
そう呼ぶには、あまりにもお粗末な場所だった。
棚には乾燥した薬草が吊るされ、机には使い古された道具が並んでいる。床には魔法陣らしきものが描かれていたが、線は歪み、ところどころ掠れていた。
サエキは室内を見回した。
その隅に、一冊の分厚い日記が置かれていた。
表紙は擦り切れ、端は何度も濡れたように波打っている。
サエキは椅子に腰掛け、ページを開いた。
最初のほうは、村での日々について書かれていた。
魔法のこと。
薬草のこと。
怪我人のこと。
村人たちが笑ってくれた日のこと。
魔法の訓練や知識について。
そして、噂が広がり始めた日のこと。
ページをめくるたび、文字は少しずつ荒れていった。
村人たちに石を投げられたこと。
家の窓を割られたこと。
助けたはずの人々に、化け物と呼ばれたこと。
それでも彼女は、誰かが怪我をすれば手当てをしたらしい。
最後まで、治癒師であろうとしたのだ。
サエキはページをめくった。
そこに、自分の名前があった。
『あの人は、サエキさんは私の言葉を信じてくれた』
短い一文だった。
『私を魔女だと決めつけなかった。私が何者なのか、ちゃんと見てくれた』
その先には、獣のことが書かれていた。
獣は深手を負いながらも森の奥深くへ隠れていたこと。
獣は自分の体にある深い切り傷や銃痕を見るたびに怒り狂っていたこと。
自分は治癒師なので魔法の心得があり、獣の傷を癒えるのを遅らせる方法、封印はできずとも体に倦怠感を植え付ける方法があること。
しかし、遅らせるだけでいずれは獣は傷が癒えること。
そして自分では獣を倒せないこと。
次の文章を見た時、サエキは思わず立ち上がった。
獣を倒すために魔女になること。
人間のままでは勝てないこと。
自分が何を失うのか、もうわからないこと。
獣の傷が癒えてしまい、計画を変更すること。
同化の魔法が不完全に発動したこと。
文字の間には、何度も書き直した跡があった。
それから先は、日付が飛び飛びになっていた。
獣を追ったこと。
傷を負ったこと。
また逃げられたこと。
何年もの歳月が、数ページに押し込められていた。
そして、ある日を境に、日記の内容が変わった。
『不完全ながら同化して、わかった』
『この獣は、村を襲ったことを悔いているのではない』
『あの人を憎んでいる』
サエキは、指を止めた。
獣は、あの時から自分を憎んでいたのか。
答えは、日記には書かれていなかった。
その先には、ただ獣を殺すという決意だけが綴られていた。
エリーが獣を発見してから5年の時間が流れていた。
日記の最後のほうは、文字がひどく乱れていた。
『もうすぐ、終わる』
『これで、この獣を殺せる、あの人を守れる!』
『でも私の身体は、モウ』
そこから先は、しばらく空白だった。
最後のページに、細い文字が残されていた。
『一度デ……イイカラ、モウイチ….ド…..会いたい』
『自分ダッタ……ハンシン…..死んじゃったけど』
『サエキ……..気づいてくれるかな?』
その下には、さらに小さな文字が続いていた。
『ワタシはエリー……会えたら、渡ソウ』
サエキは日記を閉じた。
机の上に、小さな布包みが置かれているのに気づいた。
開くと、綺麗なネックレスが入っていた。
飾りは簡素で、特別な価値があるようには見えない。
ただ、わずかな魔法の力が感じられた。
治癒師だった頃から、彼女が身につけていたものなのだろう。
魔女になってからも、これを手放さなかったのか。
サエキはしばらく、それを手のひらに載せていた。
彼女が何を考えていたのか、すべてを理解できたわけではない。
なぜ自分に会いたかったのか。
なぜ、ここまでして獣を殺したのか。
日記に書かれた言葉だけでは、わからないことも多かった。
いや、サエキはわかっていた。
けれどその答えを出すことは悲しいことだった。
けれど、ひとつだけ確かなことがある。
彼女は、最後まで生きようとしていた。
サエキは日記を鞄にしまった。
それからネックレスを首につけた。
少しだけ、温かい気がした。
彼は工房を振り返らなかった。
扉を開け、森の中へ歩き出す。
木々の隙間から、薄い光が差していた。
サエキは歩き続けた。
首元の小さな飾りを、指先で一度だけ確かめてから。




