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異聞始末録  作者: 黒サケ缶EX
異聞始末録 神隠しの代役
51/59

単章 供物と代償



その依頼人は、都会に住んでいた頃からサエキのことを知っていた。


電話口の男は、ひどく疲れた声で事情を話した。妻と幼い子供を連れて、この村へ移り住んだのだという。自然に囲まれた暮らしを求めての移住だった。夫婦は畑を借り、野菜を育てながら、村の生活にも少しずつ馴染んでいた。


問題が起きたのは、村の行事が行われた日だった。


人の集まる場所で、子供が姿を消した。夫婦は村人たちと一緒に捜し回ったが、見つからなかった。警察への届け出も含め、行方を捜すためにできることを続けたという。


そして二日後、子供は戻ってきた。


それだけ聞けば、喜ばしい話だった。だが、電話の向こうの男は、安堵した様子を見せなかった。


「確かに、私たちの子なんです。顔も、声も、服も……間違いありません。でも、何かが違うんです」


戻ってきた子供は、それまでよりもずっと従順になっていた。以前なら嫌がったことにも素直に従い、駄々をこねることもなくなった。会話をしていても、どこか噛み合わない。質問に答えてはいるのに、返事が妙にずれていることがある。


しかし、どれも決定的な証拠ではない。子供が行方不明になったあと、性格や振る舞いに変化が生じたとしても、それだけで別人だと断定することはできない。


「私たちの思い過ごしなら、それでいいんです。ただ……」


男は言葉を切った。


サエキは、依頼を引き受けることにした。


村へ向かう道は、山と田畑に挟まれていた。道沿いの家々には、祭りの片づけをしているらしい人影があった。村は静かで、外から見れば、何事もなかったかのように日常へ戻っている。


依頼人の家に着くと、夫婦は揃って出迎えた。二人とも礼儀正しかったが、表情には隠しきれない緊張があった。


子供は居間にいた。


サエキを見ると、子供はきちんと頭を下げた。年齢にしては行儀がよい、と言えなくもない。だが、夫婦の話を聞いたあとでは、その仕草がかえって不自然に感じられた。


「こんにちは。少し話をしてもいいかな?」


サエキが声をかけると、子供は素直に頷いた。


会話は成立した。名前を尋ねれば答え、好きな食べ物を尋ねれば、それらしい返事をする。けれども、質問を重ねるほど、言葉の端に小さな違和感が積み重なっていった。


子供は、以前の自分を知っているように振る舞っている。だが、その答えには、本人にしかわからないはずの感情や癖が欠けているように思えた。


もっとも、サエキには、目の前の存在が何であるかを判断するだけの材料がなかった。


面談を終え、夫婦から詳しい話を聞いたあとも、結論は出なかった。


「警察には、何かお話しになりましたか?」


「行方不明になったことは届けています。戻ってきたことも伝えました。ただ……私たちが感じている違和感を、どう説明すればいいのか」


夫は苦しそうに答えた。


自分たちの子供ではない気がする。それを訴えたところで、客観的な根拠がなければ、事件としてどう扱われるかは別の話になる。


サエキは夫婦に、気づいたことがあれば些細なことでも知らせてほしいと伝えた。そして、村のことを調べ始めた。


この時点では、まだ何も確かではなかった。


ただ、二日間の空白と、戻ってきた子供の違和感。その二つを、偶然という言葉だけで片づける気にはなれなかった。




村のホームページには、祭りや地域行事の紹介が並んでいた。昔から続く習わしを大切にしていること、村の歴史、周辺の自然。どれも、地方の農村なら珍しくない内容だった。


その一方で、ネット上には、妙な噂も残っていた。


この村では、昔から子供が突然いなくなることがある。神隠しに遭ったのではないか。そんな話だった。


具体的な記録が揃っているわけではない。書き込みの多くは古く、伝聞が重なり、いつの出来事なのかさえ曖昧なものもあった。


また、村には河童がいたという伝承も残っていた。川辺に現れ、人間と相撲を取ったという話。今では昔話として語られる程度で、真剣に信じている者はいないらしい。


サエキは村人たちにも話を聞いた。


祭りについて尋ねると、誰もがそれなりに詳しく説明してくれた。子供がいなくなった日のことを話題にすると、口調がわずかに硬くなる者もいたが、それだけで何かを隠しているとは断定できない。


村の歴史を調べているうちに、ひとつ気になる点が見つかった。


およそ二百年前、この村では有力者たちが頭角を現し、村の運営に強い影響力を持つようになったらしい。


それ自体は、歴史の中で起こり得ることだ。だが、山姥の伝承について調べた際、サエキは、山姥がこのあたりに現れるようになった時期も、同じく二百年ほど前とされていることを知った。


もちろん、年代の一致だけで両者を結びつけることはできない。


伝承が後世に作られた可能性もある。村の有力者が台頭した時期と、怪異の噂が広まった時期が、たまたま重なっただけかもしれない。


それでも、気に留めておく価値はあった。


村長の家を訪ねた際、サエキは、相手の態度にもわずかな違和感を覚えた。


村長は表向き、協力的だった。子供が戻ったことを喜び、家族が安心して暮らせるよう願っている、と語った。言葉だけなら不自然なところはない。


だが、サエキが過去の失踪の噂や、村の古い伝承について質問を重ねると、村長の返事は少しずつ短くなった。


「昔の噂ですよ。今さら調べても、たいしたことはわからないでしょう」


「そうかもしれません。ただ、今回の件と似た話があるようなので」


「子供がいなくなったことは、残念でした。しかし、無事に戻ったのです。これ以上、村を騒がせる必要がありますか」


村長はそう言って話を切り上げようとした。


サエキは、その場では追及しなかった。


村長が本当に何かを知っているのか。それとも、村の評判を気にしているだけなのか。まだ判断するには早い。


ただ、こちらの調査を快く思っていない者がいる。そのことだけは、少しずつ明らかになっていた。


調査を続けるうち、村長だけでなく、村の有力者たちも落ち着かない様子を見せ始めた。サエキが何を調べ、どこまで知っているのかを、気にしているようだった。


彼らが恐れているのは何なのか。


子供の行方を案じているのか。それとも、別の何かを失うことを恐れているのか。


サエキには、まだ答えを出せなかった。


そこで、別の手がかりを探すことにした。


村の近くを流れる川には、河童が住んでいるという噂がある。


昔話の中だけの存在なのか。それを確かめる必要があった。



 村を流れる川は、山の奥から湧き出た水を集め、集落の脇を抜けていく。上流は澄んでいるが、村に近づくにつれて水の色は濁り、川岸には流れ着いたゴミが引っ掛かっていた。


河童がいる川にしては汚いといサエキは思った。


同時に河童への警戒心を引き上げる必要がある。


河童と一言でいっても多種多様な妖怪だった。


伝承や目撃事例は全国にある、ある意味で1番ポピュラーな妖怪だ。


創作物にも沢山でてくる。


数々の創作物にある河童は現実的でもあるのだ。


人間に友好的で言葉を話をする個体もいるが、非常に凶暴であり人語を話さずまるでモンスターのように暴れ狂う個体もいる。


前者のいる川は比較的綺麗だか、ゴミが多い、または周辺の木々や岩に不自然な抉れや破壊後がある場合は危険な場合が多い。


もちろん全てが当てはまるものではない。



サエキは川辺に立ち、水面や周辺を観察した。


その時だった、妙な気配を感じて振り返ると、川岸の岩に小柄な人影が腰掛けている。皺の深い顔に、妙に大きな目。頭には皿のようなものが乗り、濡れた髪が頬に張り付いていた。


人間の老婆にも見えるが、そうではない。


河童はこちらを静かに観察している。


サエキは慎重に声をかける。


「話せるか? 河童だよな?」


サエキの言葉に河童が反応した。


「そうだよ。見りゃ分かるだろ」


「話を聞きたいんだが」


「何の話だい」


「この村で起きていることについてだ。山姥と人間が取引をしているらしい。そのことを知っているか?」


河童はサエキをじろじろと眺めた。


「知ってたら、何だっていうんだい」


「情報を教えてくれれば、礼をする」


「礼ねえ。人間の礼なんて、ろくなもんじゃないよ」


「金じゃない。あんたの好きなものを用意する」


「好きなもの?」


「キュウリだ」


河童の目が、わずかに動いた。


「……何本だい」


「情報の量による」


「先払いだよ」


「話を聞く前にか?」


「当たり前だろ。人間は口ばっかりだからね。後で払うなんて言って、そのまま逃げるに決まってる」


サエキは少し考えた。


「分かった。用意してくる。どれくらいあればいい?」


「そうだねえ。ケチケチしないことだね」


「分かった」


「それと、傷んだやつはお断りだよ」


「注文が多いな」


「当然だろ。こっちは食べ物をもらうんだからね」


河童は満足そうに笑い、川へ足を浸した。


サエキはその姿を一度見てから、川辺を離れた。




翌日、サエキは段ボール箱を抱えて川辺へ戻ってきた。


中には、キュウリがぎっしり詰まっている。依頼人夫婦が育てた有機栽培のものだ。形は少々不揃いだが、どれも新鮮で、表面には瑞々しい艶があった。


「持ってきたぞ」


「おや、ずいぶんあるじゃないか」


河童は箱の中を覗き込み、一本を手に取った。


「いいキュウリだねえ。これはどこのだい?」


「依頼人の夫婦が育てたものだ。農薬をなるべく使わずに育てているらしい」


「へえ。人間にも、まだまともなものを作る奴がいるんだね」


河童はキュウリをかじった。ぽりぽりと小気味よい音が川辺に響く。


「それで、何が聞きたいんだい?」


「まず、この辺りの山姥についてだ。あんたは山姥を知っているか?」


「知ってるよ。山と村を行き来してる、あの嫌な女だろ」


これは想定外の情報だ、サエキは内心喜んだ。


「いつ頃からいる?」


「さあねえ。少なくとも、あたしがここに住み始めた頃にはいなかったよ」


「ここには長く住んでいるのか?」


「長いどころじゃないよ。あんたたち人間が、この川の水を飲んで暮らすようになる前からいるんだから」


河童は二本目のキュウリに手を伸ばした。


「昔は人間もよかったんだよ。川に来て、水を飲んで、魚を捕ってね。子供なんかは、あたしを見つけると喜んで寄ってきたもんさ」


「人間と交流していたのか」


「そりゃあね。相撲も取ったよ。子供だけじゃない。大人だって相手をしてやった。あたしに勝てる奴なんて、そうそういなかったけどね」


どこまで信じて良いかわからないが、サエキが遭遇した中ではかなり友好的な河童だった。


「今はやらないのか?」


「やらないねえ」


河童はキュウリをかじりながら、川面に目を向けた。


「人間が変わっちまったからさ。川にいろんなものを捨てるようになった。食べ残しだの、古着だの、よく分からないものまで。水は臭くなるし、魚も減る。昔みたいに付き合う気にはなれないね」


「近代化の影響か」


「そういうんだろ? 便利になったとか、暮らしがよくなったとか。あたしには関係ないけどね」


「山姥は、いつ頃現れた?」


「二百年くらい前じゃないかねえ」


「ずいぶん最近だな」


「そうだよ。あたしからすれば、ついこの間みたいなもんさ」


「山姥が村にも行くようなことを言っていだか、人間と関わりがあるのか?」


「ああ、あの汚い人間たちのことかい」


河童の声に、わずかな嫌悪が混じった。


「取引の中身を知っているのか?」


「知らないよ。知りたくもないね。山姥と手を組むなんて、ろくな人間じゃない。あんなのと関わる奴は、みんな汚い人間さ」


「子供が関係しているという話は聞いたことがあるか?」


河童の手が止まった。


「……子供を連れていくんだろ」


「見たのか?」


「何度かね。夜になると、人間が子供を連れて村の外れへ向かうんだよ」


「どこへ?」


「神社があるだろ。あっちの方さ」


「神社に連れていって、その後は?」


「知らないよ。あたしは人間の後を追いかけたりしないからね」


「子供が供物にされている可能性は?」


「そうなんじゃないのかい」


河童はそう言って、残りのキュウリをかじった。


「山姥に何か渡して、その代わりに何かをもらう。そんなところだろうさ。胸糞悪い話だよ」


どうやらこの河童は子供には優しい河童みたいだ。


「山姥の住処は分かるか?」


「知らないねえ」


「山のどこかにいるんじゃないのか?」


「山にいるのは分かってるよ。でも、どこに住んでいるかなんて知るもんか。あんなのに近づきたいと思うかい?」


「思わないだろうな」


「だったら聞くんじゃないよ」


河童は箱の中を覗き込んだ。まだ何本も残っている。


「ところで、あんた」


「何だ?」


「川のゴミはどうにかならないのかい」


「それは俺に言われても困る」


「人間が捨てるんだから、人間がどうにかするんだろ」


「正論だな」


「そうだろ。まったく、食べ物をくれる人間がいるかと思えば、川を汚す人間もいる。どうなってるんだか」


河童は呆れたように息を吐いた。


「それで、ゴミがどうした?」


「川に流れてくるものを、あたしが片付けてるんだよ。ここはあたしの縄張りだからね。汚くされちゃ困るんだ」


「片付ける?」


「山の外れに持っていくのさ。川に置いておくよりはましだろ」


サエキは河童の顔を見た。


「その場所を見せてもらえないか」


「何であたしが?」


「そこに何かあるかもしれない」


「知らないよ。あんたの探し物なんて」


「案内してくれるなら、残りのキュウリも置いていく」


河童は箱を見た。


「……全部かい?」


「ああ」


「仕方ないねえ。こっちだよ」




河童は川から上がると、山へ続く細い道を歩き始めた。


サエキはその後を追う。


「こっちでいいのか?」


「黙ってついておいで。足元に気をつけな」


「分かった」


「まったく、どうして人間のゴミを片付けるために、こんなところまで歩かなきゃいけないんだか」


「自分の縄張りをきれいにするためだろ」


「そうだよ。あんたのためじゃないからね」


「分かってる」


「ならいいけどさ」


河童はぶつぶつ言いながら、山道を進んでいく。


しばらく歩くと、木々がまばらになった場所へ出た。斜面の下には、大小さまざまなゴミが積み上がっている。川から運ばれたものらしく、古い布や割れた容器、腐りかけた食べ物の残骸まで混じっていた。


「ここだよ。あたしが運んできたものは、だいたいこの辺に置いてある」


「ずいぶん溜まっているな」


「人間が捨てる量が多いんだよ。片付けても片付けても、すぐ増えるんだから」


サエキはゴミの周囲を見回した。


そのとき、積み上がったものの隙間に白いものが見えた。


「……あれは?」


近づいて確かめると、骨だった。


動物のものかと思ったが、形を見れば人間の骨だと分かる。さらに少し離れたところに、土に半ば埋もれた足があった。


骨とは違い、そちらはまだ新しいように見えた。土に汚れてはいるものの、長い年月を経たものではない。


サエキは足を見つめた。


依頼人夫婦の子供。行方が分からなくなったという、その子のものではないか。


「何かあったのかい?」


河童が後ろから覗き込んだ。


「人間の足だ」


「そうみたいだねえ」


「ここに捨てられていたのか?」


「川に流れてきたものもあるし、誰かが持ってきたものもあるよ。全部を見ているわけじゃないからね」


「これを見たことは?」


「ないよ。あたしが運んできたものじゃないね」


サエキは足から目を離さなかった。


「この場所には、他にも人間のものがあるのか?」


「さあね。あたしはゴミを置いていくだけだよ。中身までいちいち調べないからね」


「そうか」


サエキは周囲をもう一度見渡した。


骨と足。ここにある理由は分からない。誰が運んできたのかも、いつからあるのかも分からない。


ただ、見過ごしていいものではなかった。


「案内してくれて助かった」


「だから、あんたのためじゃないって言ってるだろ」


「分かってる。礼はする」


「キュウリはもうもらったよ」


「それとは別だ」


「いらないよ。あたしは川をきれいにしたいだけなんだから」


河童は踵を返した。


「山姥のことは、あたしに聞かないでおくれよ。あんなものに関わるのは御免だからね」


「分かった。これ以上は聞かない」


「そうしておくれ」


河童は先に歩き出した。


サエキはもう一度、土に埋もれた足を見た。


依頼人の子供のものかどうかは、まだ分からない。


だが、山姥と人間の取引を追う上で、見過ごせない手掛かりが一つ増えた。


河童は、最後までサエキを助けようという態度を見せなかった。山姥と人間の取引を止めたいとも思っていない。河童にとって大切なのは、川がきれいであることだった。


その利己的な態度は、むしろ信用できた。少なくとも、サエキを動かすために都合のよい話を作っているようには見えなかった。


村へ戻ると、村長たちがサエキの動向を気にしていることが、いっそう明らかになった。


調査について尋ねる者がいた。何を見つけたのか、誰と会ったのか。質問はさりげなかったが、知りたいことを隠しきれていない。


サエキは、必要以上の情報を与えなかった。


相手の反応を見れば、こちらが何を知っているのかを探っていることはわかる。だが、彼らが何を恐れているのか、まだすべてを把握したわけではない。


夜になるのを待ち、サエキは村外れの神社へ向かった。




神社は、山の入口に近い場所にあった。


小さな社殿と、掃き清められた境内。荒れ果てているわけでもなく、特別に不気味な様子があるわけでもない。人が手入れをしているのだろう。昼間に訪れれば、どこにでもある神社のひとつに見えたはずだ。


だが、不自然に暗くて夜の境内には人影がなかった。


サエキは足を止め、周囲を見回した。風が木々を揺らしている。遠くで虫の声が聞こえた。ほかには、目立った物音はない。


そのとき、社殿の脇に女が立っているのに気づいた。


年齢は、見た目だけではよくわからない。村の女だと言われれば、そう見えなくもない。女はサエキを見て、穏やかな顔で微笑んだ。


「こんな時間に、何かご用ですか」


「少し、人を捜していてね」


「人を?」


「夜になると、ここへ子供を連れてくる者がいるそうだ」


女の表情は変わらなかった。


「そんな話があるのですか」


「ええ、今日はその日かな?と思ってね」


サエキは女から目を離さなかった。


女は人間の姿をしている。声も、仕草も、不自然ではない。だが、サエキは、目の前の女に違和感を覚えていた。


何が違うのか、すぐには言葉にできない。だからこそ、慎重に見極める必要があった。


「あなたは、この神社に詳しいのかな?」


「ええ。時々、来ますから」


「そうか。それなら、ひとつ聞きたい」


サエキは、わずかに口元を緩めた。


「あなたは山姥か?」


女は瞬きをした。


それから、困ったように笑った。


「急に何を言うかと思えば。この神社にいるとでも?」


とぼけている。


その返答自体は、決定的な証拠にはならない。だが、女の声が途切れたあと、境内の空気が変わった。


風が止んだわけではない。木々も揺れている。それなのに、周囲の気配が急に重くなったように感じられた。


女の微笑みは、もう消えていた。


「何を根拠に、そんなことをおっしゃるのですか?」


「根拠なら、いくつかある。もっとも、あなたが認めないのなら、話は進まないが」


「初対面で、失礼な方ですね」


「それは失礼した」


サエキは、わざとらしく頭を下げた。


「ただ、河童から聞いた話があってね」


女の目が、かすかに動いた。


「河童?」


「そう。あれは、あなたのことをずいぶん悪く言っていたよ」


目の前の女の雰囲気が変わる。


「……何と?」


「河童いわくは吐き気を催すほど醜く、肥溜めのような臭いがする、とな」


その瞬間、女の顔から人間らしい表情が消えた。


怒りが、境内を満たした。


女の身体が大きく揺れた。背丈が伸び、骨格が変わる。白い髪が広がり、額から角が生えた。手の先には鋭い爪が伸び、顔は年老いた鬼を思わせる恐ろしいものへと変わっていく。


ただの鬼ではない。古い山姥が、その内側に隠していた真の姿を現したのだ。


身長は、二メートルほどにもなっていた。


「生臭さ河童の分際で!それに貴様!人間風情が……! わらわを愚弄したな!!!!」


怒声が境内に響いた。


サエキは一歩、横へ動いた。


山姥の爪が、先ほどまでサエキのいた場所を切り裂いた。速い。人間の姿から想像できる動きではない。


サエキは腰の銃を抜き、聖銀製の銃弾を撃ち込んだ。


銃声が夜の静けさを破る。


山姥の身体が揺れた。だが、倒れない。傷を負いながらも、獣のような勢いで突っ込んでくる。


サエキは距離を取り、攻撃をかわしながら、さらに数発撃った。


銃弾が命中しても、山姥の動きは止まらなかった。


爪がサエキの服をかすめる。彼は身をひねって避け、社殿の脇へ飛び退いた。力比べをするつもりはない。相手の攻撃を受け止め続ければ、いずれ押し切られる。


山姥が再び襲いかかる。


サエキは、その動きを見極め、足元へ呪符を放った。


地面に描かれた魔法陣が反応する。


呪符が光を帯び、山姥の身体を拘束した。山姥は身をよじり、爪を振るったが、すぐには抜け出せなかった。


サエキは銃を構えたまま、距離を保った。


「聞きたいことがある」


「人間ごときが……!」


「なぜ、子供を食べる?」


山姥の目が、憎悪に燃えた。


しばらく、答えは返ってこなかった。山姥は拘束を破ろうと身体を揺らしていたが、やがて、嘲るような声を上げた。


「なぜ食べるかだと!?村の者どもが望んだことよ! 子を供物とし、わらわの力を得る。それで満足する者どもが、自ら始めた取引よ!」


サエキは、銃を下ろさなかった。


村長たちの態度。調査を妨げようとする様子。二百年前という年代の符合。そして、河童が語った話。


点在していた情報が、ようやくひとつの形を取り始めていた。


村の有力者たちは、山姥と取引をしていた。子供を供物として差し出し、その見返りを得ていたのだ。


その具体的な利益が何なのか、取引にどんな条件があるのか。山姥は、それ以上を詳しく語らなかった。


サエキも、問い詰めることを優先しなかった。


目の前の怪異を倒さなければならない。ここで時間をかければ、拘束が破られる可能性がある。


「貴様もやつらと同じ人間だろうが! なぜ、わらわの邪魔をする!」


山姥が吠えた。


サエキは、すぐには答えなかった。


人間だからこそ、という言葉が頭に浮かんだわけではない。正義を語り、相手を説き伏せるつもりもなかった。


ただ、子供を差し出すことを取引の材料にする者たちと、それを受け取って食らう怪異を、見過ごす理由はなかった。


サエキは照準を定めた。


最後の銃声が、境内に響いた。


山姥の身体が大きく揺れ、やがて動かなくなった。


夜の神社に、静けさが戻った。


サエキはしばらく銃を構えたまま、山姥の様子を確かめた。


山姥は白く変色し、その体は塵になり風に吹かれてなくなった。


戦いは終わった。


だが、それで事件のすべてが解決したわけではなかった。




村へ戻ると、村長たちが待ち構えていた。


数人の有力者が、村長の後ろに並んでいる。彼らの顔には怒りが浮かんでいた。サエキの姿を認めると、村長は一歩前へ出た。


「お前……いったい何をした!」


その声には、村を案じる者の心配よりも、何かを奪われた者の憤りが強くにじんでいた。


「何をした、とは?」


「とぼけるな! お前が何をしたのか、わかっているのか!」


村長は声を荒らげた。


サエキは、彼らの顔を順に見た。誰も、子供たちのことを尋ねなかった。山姥に何が起きたのかを知りたがっているのは明らかだったが、失われた子供たちの運命を案じているようには見えなかった。


「……村の心配か。それとも、お前たち自身の心配か?」


「何だと!」


村長が詰め寄ってきた。


サエキは村長の襟首をつかんだ。


大きな動きではなかった。だが、村長の身体は止まり、周囲にいた者たちも一瞬、動けなくなった。


「よく聞け」


サエキは、村長の目を見据えた。


「こういった事柄には因果応報ということが起こる。お前達の身に何も起こらないと楽観視しないことだ」


村長は何かを言い返そうとしたが、言葉にならなかった。


サエキは襟首から手を離し、村長を押し放した。


それ以上、話すことはなかった。


彼らが何を失ったのか。どのような利益を得ていたのか。これから何が起こるのか。今ここで問い詰めても、すべてが明らかになるとは限らない。


村長達は何も喋らずにただ下を向いていた。


後に残る問題はある。だが、今、サエキが向かうべき場所は別にあった。


依頼人夫婦の家だった。


家に着くまで、サエキはほとんど口を開かなかった。


山姥は倒した。取引も、少なくともこれ以上は続かないだろう。


しかし、それによって失われた命が戻るわけではない。


そのことを、サエキはすでに理解していた。


家の扉を開けると、夫婦がいた。


居間の床に、子供の服が残されていた。


それだけだった。


夫婦は服のそばに立ち尽くしていた。何が起きたのか、すぐには言葉にできないのだろう。母親は服を見つめ、父親はその隣で、何度も妻の顔を見ていた。


サエキが入ってきたことに気づくと、母親が振り向いた。


「……あの子は?」


サエキは答えられなかった。


母親の顔から、わずかに残っていた期待が消えていく。


「ねえ……あの子はどこ?」


サエキは視線を落とした。


何を言えばいいのか、わからなかった。


謝ることしかできない。だが、謝罪したところで、目の前の現実が変わるわけではなかった。


「……すまない」


母親は、サエキの服をつかんだ。


「返してよ……!」


その声は、怒りとも悲鳴ともつかないものだった。


「お願いだから、あの子を返して……!」


サエキは動かなかった。


母親は、サエキの胸元をつかんだまま、何度も同じ言葉を繰り返した。子供を返してほしい。それだけを、必死に訴えていた。


父親が妻の肩を抱いた。


「サエキさんは、あの子の無念を晴らしてくれたんだ!」


そう繰り返しながら、父親も泣いていた。


「いいんだ…..いいんだ…..」


妻を支えようとしているのだろう。だが、彼自身も、何をどう受け止めればよいのかわからないのだ。声は震え、妻を抱く腕にも力が入っていた。


サエキには、慰めの言葉が見つからなかった。


何を言っても、軽くなる悲しみではない。自分の言葉で、失われたものを埋められるはずもなかった。


ただ、そこに立っていることしかできなかった。


やがて母親の手が、ゆっくりとサエキの服から離れた。


サエキは、もう一度だけ頭を下げた。


そして、家を出た。


背後から、夫婦の声が聞こえていた。何を話しているのかまでは、わからなかった。


振り返ることはできなかった。



翌日、サエキはキュウリを持って川へ向かった。


依頼人夫婦が育てたものだった。箱いっぱいに持参したときには、まだ、何かを失う前の暮らしがそこにあった。


今、その家に残っているものを思うと、胸の内に重いものが沈んだ。


河童は、いつものように川辺に現れた。


「おや、また来たのかい。しかもキュウリまで」


「そうだ。世話になったからな」


「へえ。礼なんて、いいのに」


河童はキュウリを受け取り、満足そうにかじった。


「それで、あれはどうなったんだい」


「山姥は倒した」


「あれを倒すとは凄いじゃないかい、これでこの山や村も静かになるね。昔からああいう奴らはいたがろくなもんじゃないからね」


河童は、少しも驚いた様子を見せなかった。


「なら、川も少しはきれいになるだろうね。あれがいなくなれば、余計なものも減るかもしれない」


河童は機嫌よくキュウリを食べ続けた。


その言葉に、悪意はなかった。河童にとって、山姥がいなくなることは、自分の暮らしが少しよくなるというだけの話なのだ。


「取引のことを、もっと知っているかと思っていた」


「言っただろう。あたしは、あんなものに関わりたくないんだよ。人間が何を望もうと、あたしには関係ない」


「そうだったな」


「それにしても、あんたたち人間は面倒だねえ。自分たちで始めたことなのに、後始末は誰かに任せたがる」


サエキは返事をしなかった。


河童は川を汚す人間を嫌っている。山姥と取引する人間を汚いと呼んでいた。だが、その言葉の中に、人間を救おうという意思はなかった。


それでも、河童が話してくれたことがなければ、サエキは神社へたどり着けなかったかもしれない。


「情報には助けられた。ありがとう」


「礼はキュウリで十分だよ」


河童はそう言うと、次の一本に手を伸ばした。


「俺はもう行く、達者でな」


「あんたもね」


河童は軽く手をあげた。



サエキはそれ以上、話を続けなかった。


川の水は流れ続けている。水面には、木々の影が揺れていた。


ここには、いつもと変わらないものがある。


それが、少しだけ遠いものに感じられた。




河童に礼を済ませたあと、サエキはもう一度、依頼人夫婦の家を訪ねた。


夫婦は、昨日よりも落ち着いて見えた。母親はサエキを出迎え、父親も静かに頭を下げた。


だが、落ち着いて見えることと、悲しみを乗り越えたことは同じではない。


「先日は……取り乱してしまって、申し訳ありませんでした」


母親が言った。


「気にしないでください」


サエキはそう答えた。それ以上の言葉は出てこなかった。


母親は小さく頷き、視線を落とした。父親は妻のそばに立っていた。二人の間には、以前と同じ暮らしには戻れないという事実が、重く横たわっているようだった。


「私たちは、街へ戻ることにしました」


父親が告げた。


「ここで暮らし続けるのは……難しいと思います」


「そうか…..そうですね」


サエキは、それ以上、理由を尋ねなかった。


この村での生活には、二人なりの希望があったはずだ。自然の中で暮らし、畑を耕し、子供を育てる。そんな日々を思い描いていたのかもしれない。


だが、今は、その場所にとどまることさえ苦痛なのだろう。


父親は、少し迷った様子で口を開いた。


「それで、今回の報酬についてですが……」


サエキは静かに手をかざして父親の言葉を遮った。


「こちらから然るべき専門機関に連絡しています。また辛いことを話さないといけないことになると思いますが、今回の件についてのカウセリングやケアを受けれるはずです。」


父親は、何かを言いかけて口を閉じた。


サエキは、二人を見た。


「今は、奥さんの側にいてあげて下さい」


父親はしばらく黙っていたが、やがて頭を下げた。


「……わかりました」


サエキは、夫婦に別れを告げた。


家を出ると、村の空気は静かだった。畑には作物が育ち、道端には草が伸びている。人々はそれぞれの暮らしを続けている。


山姥はもういない。


子供を供物にする取引も、これ以上は続かない。


だが、失われたものは戻らなかった。


村の有力者たちが何を得ようとしていたのか。これから彼らに何が起こるのか。すべてが明らかになったわけではない。


それでも、サエキには、ひとつだけ確かなことがあった。


怪異を倒すことと、事件に関わった者たちのすべてを救うことは、同じではない。


そして、何かを終わらせたからといって、失われたものまで取り戻せるわけではないのだ。


サエキは村を後にした。


背後には、山と、川と、静かな農村が残っていた。


あの家庭に、もう子供の声が戻ることはない。


それだけは、どれほど考えても変わらなかった。




異聞始末録    記録者サエキ


今回の事件では、村長を含む村の有力者たちが山姥と取引し、子供を供物として差し出していたことが判明した。

山姥は子供たちを喰らい、その見返りとして力を得ていたという。

河童から得た情報と、山中で発見した骨、依頼人夫婦の家に残されていた子供の服。それらを思い返すと、事件の全容はあまりにも胸糞が悪い。

山姥は討伐したが、失われた命は戻らない。依頼人夫婦が探し続けていた子供についても、確かなことは何もわからなかった。

村の有力者たちは事件の真相を知りながら、最後まで自分たちのことしか考えていなかった。

怪異を排除することはできても、被害者の失ったものを取り戻すことはできない。

今回もまた、その現実を突きつけられることになった。

せめて、依頼人夫婦がこれ以上苦しまずに済むよう、特怪局とにはできる限りの支援を続けてもらいたい。

村長達は子供たちの犠牲を踏み台にして得たものが何だったの

だろつか。




後日談


事件の後、依頼人夫婦は特怪局の被害者対応部門による支援を受けることになった。


二人には、今回の事件によって負った心の傷を少しずつ癒やしていくため、専門家によるカウンセリングや継続的なケアが行われている。事件について何度も話さなければならないことは、二人にとって決して容易なことではない。それでも、支援を受けながら、少しずつ日常を取り戻そうとしていた。


一方、村では事件の後、村長をはじめとする有力者たちの家が次々と落ちぶれていった。かつて村を取り仕切り、周囲に影響力を持っていた者たちも、やがてその地位や財産を失っていった。


そして、村長を含む有力者たちは、相次いで自ら命を絶った。


彼らが亡くなる数日前から、奇妙な変化があったという。


夜になると、どこからともなく子供の声が聞こえてくる。誰もいないはずの場所から、幼い声が自分たちを呼んでいる。そう訴えては、ひどく怯えるようになったらしい。


声の正体が何だったのかはわからない。


彼らがかつて供物として差し出した子供たちの声だったのか。それとも、罪の意識が生み出した幻聴だったのか。


真相を確かめる者は、もういない。


ただ、子供たちを犠牲にして得たものを守ろうとした者たちは、最後には自分たちの築いたものすら守ることができなかった。



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