第一章 聞こえるはずのない声
「ねえ、サエキ。ちょっと厄介な話があるんだけど」
電話に出るなり、ミサキはそう切り出した。
榊原ミサキ(さかきばら みさき)。日本でも有数の総合出版社で編集長を務める女性で、サエキとは同い年の旧知の仲だ。仕事のできる華やかな女性で、人付き合いがよく、業界内外に幅広い人脈を持っている。怪異の存在は知っているが、本人に特別な能力があるわけではない。以下、ミサキと表記する。
仕事を通じて知り合って以来、互いに何かと厄介事を持ち込む関係が続いている。恋人というわけではないが、酒を飲みに行ったり、冗談を言い合ったりする間柄だ。遠慮のない軽口も、今ではすっかり日常の一部になっていた。
「君からの電話で、厄介じゃなかった話のほうが少ない気がするな」
『開口一番それ? せっかく頼りにしてあげてるのに』
「頼りにしている人間への態度としては、ずいぶん雑だと思うが」
『長い付き合いでしょ。今さら取り繕っても仕方ないじゃない』
ミサキは笑った。こちらも、つられて少しだけ口元が緩む。
彼女がわざわざサエキに電話をかけてきたということは、単なる仕事上の揉め事ではないのだろう。
「それで、何があった?」
『知り合いの会社でね。秘書をしている女性が、ちょっとおかしなことになってるの』
「体調不良か?」
『それだけなら、あんたに電話してないよ』
ミサキの声から、軽さが消えた。
『社長の声が聞こえるんだって。本人が近くにいないのに』
「録音や通話の聞き間違いではなく?」
『本人にも確認したらしい。電話もかかってきていないし、社長がその場にいるわけでもない。それなのに、仕事の指示が聞こえる。最初は普通の指示だったみたいだけど、最近は少し違うらしいわ』
「どう違う?」
『辞めないでほしい、とか。あなたのためだから、とか。そういう言葉が増えてるって』
サエキは椅子の背から身体を起こした。
声が聞こえるという訴えだけで、怪異と決めつけることはできない。疲労や心理的な負担、別の原因も考えられる。しかし、声の内容が特定の人物の発言と結びつき、その人物がいない場所でも繰り返されるというなら、調べる価値はある。
「本人は、医療機関に相談しているのか?」
『体調のことは相談してるみたい。でも、声の話は誰にしても信じてもらえないと思って、ほとんど話せてなかったって』
「君が話を聞いたのは?」
『会社の事情を知ってる人から相談されたの。私も本人に少しだけ話を聞いた。ひとりで抱え込んでる感じだったわ』
「社長と秘書の関係は?」
『社長は篠宮真紀。秘書は水瀬千尋。篠宮さんは仕事ができる人で、社員からの評価も悪くない。ただ、水瀬さんに対しては少し……特別なのかもしれない』
「特別?」
『そこは実際に話を聞いてみないと何とも言えない。私も憶測だけで決めつけるつもりはないよ』
その答えに、サエキは頷いた。
「わかった。まずは水瀬さん本人から話を聞く。会社側の事情も、君がわかる範囲で整理しておいてくれ」
『了解。あんた、またひとりで無茶するんじゃないよ』
「調査と無茶は別物だ」
『その台詞、何回聞いたかな』
「数えるのは君の仕事じゃないだろう」
『はいはい。じゃあ、進展があったら連絡して』
通話が切れた。
サエキは机の上にノートを開き、聞いた内容を書き留めた。
社長の不在時に声が聞こえる。声の内容は仕事の指示から退職の引き留めへと変化している。
まだ、怪異と判断するには情報が足りない。
だが、最初に確かめるべきことは決まっていた。
声を聞いている本人が、何を経験し、何を恐れているのか。それを、本人の言葉で聞くことだ。
2.水瀬千尋の話
水瀬千尋は、会社近くの落ち着いた喫茶店でサエキを待っていた。
三十代に差しかかった女性で、身なりは整っていたが、顔色には疲れが見えた。サエキが名乗ると、彼女は少し迷ったあと、深く頭を下げた。
「お時間をいただいて、ありがとうございます」
「こちらこそ。まずは、これまでに起きたことを、覚えている範囲で話してください。順序が前後しても構いません」
水瀬はカップに視線を落とした。
「最初は、本当に普通だったんです」
社長室に書類を届けようとしていたとき、背後から篠宮の声が聞こえた。提出前に数字を確認してほしいという、いつもの指示だったという。
振り返っても、誰もいなかった。
そのときは、別の場所にいる篠宮の声が廊下に響いたのだろうと思った。だが、同じことが何度か続いた。
「会議室にいるときも、帰宅してからも聞こえました。社長が近くにいるはずのない時間に、はっきりと」
「声は、いつも篠宮さんのものと同じですか?」
「はい。話し方も、声の高さも。聞き間違えるようなものではありません」
「内容は?」
「初めは仕事のことばかりでした。資料の修正、予定の確認、次の日の準備。でも、だんだん変わってきて……」
水瀬は膝の上で手を組んだ。
「辞める話をしたあとからです。『まだ早い』『あなたのためだから、考え直して』と。社長に直接言われたこともあります。でも、誰もいない場所で聞こえると、何をしていても仕事に戻らなければいけない気がして」
「退職することは、いつ決めたのですか?」
「半年ほど前です。実家に戻って、家の果樹園を継ぐつもりなんです」
水瀬の表情が、わずかに柔らいだ。
家族から以前より手伝いを頼まれていたこと。年齢を重ねた両親だけでは、これから先の管理が難しくなること。自分自身も、いつかは故郷に戻るつもりだったこと。
そして、故郷には結婚を考えている相手がいるという。
「彼とは、帰ったら一緒に暮らすことも話しています。もちろん、結婚も」
「そのことは篠宮さんに?」
「はい。最初は応援してくれました。実家のことも、私の将来のことも、よく話を聞いてくれていたんです」
水瀬は、少しだけ言葉を選んだ。
「篠宮社長には、本当に感謝しています。仕事を教えてもらいましたし、私のことをよく見てくれていた。だからこそ、辞めたいと伝えたとき、あんなに強く引き留められるとは思いませんでした」
「引き留め方が変わったのは、そのあとですか?」
「はい。最初は、後任が決まるまで待ってほしいという話でした。でも、そのうち『あなたのためだから』と繰り返すようになって。私が何を望んでいるのか、聞いてくれなくなりました」
声が聞こえる頻度も、そのころから増えた。
仕事中に集中が途切れる。眠ろうとすると声がする。聞こえた内容が気になって、何度も会社の連絡を確認してしまう。
「声が聞こえると、身体にも変化が出ますか?」
「息苦しくなったり、頭が重くなったりします。最近は、社長から連絡が来るだけで、また何か言われるんじゃないかと思ってしまって……」
サエキは、水瀬の話を遮らずに聞いた。
現時点で、声と身体症状の関係を断定することはできない。だが、少なくとも彼女が強い負担を感じていることは明らかだった。
「これから、発生した時間や場所、聞こえた言葉、身体の状態を記録してもらえますか。無理のない範囲で構いません。声を確かめるために、わざと危険な状況を作る必要はありません」
「わかりました」
「それから、篠宮さんと話すときは、できるだけひとりにならないでください。退職の手続きについても、会社の人事など、第三者がいる場で進めることを勧めます」
水瀬は不安そうに頷いた。
「社長を疑っているんですか?」
「まだ、何かを断定できる段階ではありません。ただ、あなたの症状が続いている以上、安全を優先する必要があります」
サエキはそう答えた。
篠宮が何を考えているのか。声が何に由来するのか。それらは別々に調べるべき問題だった。
水瀬の話を聞く限り、少なくとも、彼女が自分の意思で選んだ将来と、篠宮が彼女に望む将来は、すでに食い違っている。
その食い違いが、異変とどう関係しているのか。
次に確かめるべきは、記録と会社側の事情だった。
3.重なる言葉
水瀬から受け取った記録は、日付と時刻、声の内容、場所、症状の強さが簡潔にまとめられていた。
サエキはそれを、ミサキから得た情報と照らし合わせた。
『水瀬さん、ちゃんと記録をつけてくれてるんだね』
ミサキは、電話越しに記録の要点を確認していた。
「本人も、何が起きているのか知りたいんだろう。症状が出たときに無理をしていないかも確認したい」
『会社のほうは、退職の話が出てから篠宮さんの様子が変わった、って話がいくつかあるよ。仕事を理由に引き留めることが増えたみたい』
「水瀬さんが退職を伝えた時期と、声の内容が変わった時期は?」
『大きくは重なってる。ただ、細かいところはまだ確認中』
「それで十分だ。今の段階では、因果関係を決めつける材料にはならない」
サエキは記録の余白に、声の内容を短く分類していった。
仕事の指示。退職の再考を促す言葉。水瀬の将来を心配する言葉。そして、繰り返される「あなたのため」。
初期の記録では、声は業務上の指示を伝えるだけだった。水瀬も、聞こえた声をそれほど恐れてはいない。だが、退職を伝え、篠宮が引き留めるようになってから、声は明らかに彼女の私生活へ踏み込んでいた。
さらに、症状が強く出た日には、篠宮から退職について連絡があったり、直接引き留められたりしていることが多かった。
「篠宮の発言と症状の相関。因果関係は未確定」
サエキはノートにそう書いた。
記録が示しているのは、あくまで重なりだ。篠宮が何かを言ったから怪異が発生したのか。それとも、別の存在が篠宮の発言に反応しているのか。現時点では判断できない。
ただし、声が単に篠宮の言葉を再現しているだけなら、説明しにくい点があった。
水瀬が声を聞いたと記録している時刻の一部は、篠宮が別の場所で会議に出席していた時間と一致していた。ミサキが確認した会社側の情報とも、大筋で矛盾はない。
それでも、サエキは篠宮本人に話を聞く必要があると考えた。
「篠宮さんに会いたい。水瀬さんの症状について、本人がどこまで知っているのか確認したい」
『私も、同席したほうがいい?』
「会社側の事情を確認する意味では、君がいてくれると助かる。ただし、本人の話を聞く場では、こちらから答えを決めつけないようにしたい」
『了解。じゃあ、日程を調整するよ』
通話を終え、サエキは記録を閉じた。
水瀬の症状が強くなった時期と、篠宮が彼女を引き留める言葉を口にする時期は重なっている。
そして、その言葉には決まった表現があった。
「あなたのため」。
その言葉が怪異にとって何を意味するのかは、まだわからない。
だが、次の面談で確かめられることはあるはずだった。
縁を留める女
1.聞こえないはずの声
「ねえ、サエキ。ちょっと厄介な話があるんだけど」
電話に出るなり、ミサキはそう切り出した。
榊原ミサキ(さかきばら みさき)。日本でも有数の総合出版社で編集長を務める女性で、サエキとは同い年の旧知の仲だ。仕事のできる華やかな女性で、人付き合いがよく、業界内外に幅広い人脈を持っている。怪異の存在は知っているが、本人に特別な能力があるわけではない。以下、ミサキと表記する。
仕事を通じて知り合って以来、互いに何かと厄介事を持ち込む関係が続いている。恋人というわけではないが、酒を飲みに行ったり、冗談を言い合ったりする間柄だ。遠慮のない軽口も、今ではすっかり日常の一部になっていた。
「君からの電話で、厄介じゃなかった話のほうが少ない気がするな」
『開口一番それ? せっかく頼りにしてあげてるのに』
「頼りにしている人間への態度としては、ずいぶん雑だと思うが」
『長い付き合いでしょ。今さら取り繕っても仕方ないじゃない』
ミサキは笑った。こちらも、つられて少しだけ口元が緩む。
彼女がわざわざサエキに電話をかけてきたということは、単なる仕事上の揉め事ではないのだろう。
「それで、何があった?」
『知り合いの会社でね。秘書をしている女性が、ちょっとおかしなことになってるの』
「体調不良か?」
『それだけなら、あんたに電話してないよ』
ミサキの声から、軽さが消えた。
『社長の声が聞こえるんだって。本人が近くにいないのに』
「録音や通話の聞き間違いではなく?」
『本人にも確認したらしい。電話もかかってきていないし、社長がその場にいるわけでもない。それなのに、仕事の指示が聞こえる。最初は普通の指示だったみたいだけど、最近は少し違うらしいわ』
「どう違う?」
『辞めないでほしい、とか。あなたのためだから、とか。そういう言葉が増えてるって』
サエキは椅子の背から身体を起こした。
声が聞こえるという訴えだけで、怪異と決めつけることはできない。疲労や心理的な負担、別の原因も考えられる。しかし、声の内容が特定の人物の発言と結びつき、その人物がいない場所でも繰り返されるというなら、調べる価値はある。
「本人は、医療機関に相談しているのか?」
『体調のことは相談してるみたい。でも、声の話は誰にしても信じてもらえないと思って、ほとんど話せてなかったって』
「君が話を聞いたのは?」
『会社の事情を知ってる人から相談されたの。私も本人に少しだけ話を聞いた。ひとりで抱え込んでる感じだったわ』
「社長と秘書の関係は?」
『社長は篠宮真紀。秘書は水瀬千尋。篠宮さんは仕事ができる人で、社員からの評価も悪くない。ただ、水瀬さんに対しては少し……特別なのかもしれない』
「特別?」
『そこは実際に話を聞いてみないと何とも言えない。私も憶測だけで決めつけるつもりはないよ』
その答えに、サエキは頷いた。
「わかった。まずは水瀬さん本人から話を聞く。会社側の事情も、君がわかる範囲で整理しておいてくれ」
『了解。あんた、またひとりで無茶するんじゃないよ』
「調査と無茶は別物だ」
『その台詞、何回聞いたかな』
「数えるのは君の仕事じゃないだろう」
『はいはい。じゃあ、進展があったら連絡して』
通話が切れた。
サエキは机の上にノートを開き、聞いた内容を書き留めた。
社長の不在時に声が聞こえる。声の内容は仕事の指示から退職の引き留めへと変化している。
まだ、怪異と判断するには情報が足りない。
だが、最初に確かめるべきことは決まっていた。
声を聞いている本人が、何を経験し、何を恐れているのか。それを、本人の言葉で聞くことだ。
水瀬千尋は、会社近くの落ち着いた喫茶店でサエキを待っていた。
三十代に差しかかった女性で、身なりは整っていたが、顔色には疲れが見えた。サエキが名乗ると、彼女は少し迷ったあと、深く頭を下げた。
「お時間をいただいて、ありがとうございます」
「こちらこそ。まずは、これまでに起きたことを、覚えている範囲で話してください。順序が前後しても構いません」
水瀬はカップに視線を落とした。
「最初は、本当に普通だったんです」
社長室に書類を届けようとしていたとき、背後から篠宮の声が聞こえた。提出前に数字を確認してほしいという、いつもの指示だったという。
振り返っても、誰もいなかった。
そのときは、別の場所にいる篠宮の声が廊下に響いたのだろうと思った。だが、同じことが何度か続いた。
「会議室にいるときも、帰宅してからも聞こえました。社長が近くにいるはずのない時間に、はっきりと」
「声は、いつも篠宮さんのものと同じですか?」
「はい。話し方も、声の高さも。聞き間違えるようなものではありません」
「内容は?」
「初めは仕事のことばかりでした。資料の修正、予定の確認、次の日の準備。でも、だんだん変わってきて……」
水瀬は膝の上で手を組んだ。
「辞める話をしたあとからです。『まだ早い』『あなたのためだから、考え直して』と。社長に直接言われたこともあります。でも、誰もいない場所で聞こえると、何をしていても仕事に戻らなければいけない気がして」
「退職することは、いつ決めたのですか?」
「半年ほど前です。実家に戻って、家の果樹園を継ぐつもりなんです」
水瀬の表情が、わずかに柔らいだ。
家族から以前より手伝いを頼まれていたこと。年齢を重ねた両親だけでは、これから先の管理が難しくなること。自分自身も、いつかは故郷に戻るつもりだったこと。
そして、故郷には結婚を考えている相手がいるという。
「彼とは、帰ったら一緒に暮らすことも話しています。もちろん、結婚も」
「そのことは篠宮さんに?」
「はい。最初は応援してくれました。実家のことも、私の将来のことも、よく話を聞いてくれていたんです」
水瀬は、少しだけ言葉を選んだ。
「篠宮社長には、本当に感謝しています。仕事を教えてもらいましたし、私のことをよく見てくれていた。だからこそ、辞めたいと伝えたとき、あんなに強く引き留められるとは思いませんでした」
「引き留め方が変わったのは、そのあとですか?」
「はい。最初は、後任が決まるまで待ってほしいという話でした。でも、そのうち『あなたのためだから』と繰り返すようになって。私が何を望んでいるのか、聞いてくれなくなりました」
声が聞こえる頻度も、そのころから増えた。
仕事中に集中が途切れる。眠ろうとすると声がする。聞こえた内容が気になって、何度も会社の連絡を確認してしまう。
「声が聞こえると、身体にも変化が出ますか?」
「息苦しくなったり、頭が重くなったりします。最近は、社長から連絡が来るだけで、また何か言われるんじゃないかと思ってしまって……」
サエキは、水瀬の話を遮らずに聞いた。
現時点で、声と身体症状の関係を断定することはできない。だが、少なくとも彼女が強い負担を感じていることは明らかだった。
「これから、発生した時間や場所、聞こえた言葉、身体の状態を記録してもらえますか。無理のない範囲で構いません。声を確かめるために、わざと危険な状況を作る必要はありません」
「わかりました」
「それから、篠宮さんと話すときは、できるだけひとりにならないでください。退職の手続きについても、会社の人事など、第三者がいる場で進めることを勧めます」
水瀬は不安そうに頷いた。
「社長を疑っているんですか?」
「まだ、何かを断定できる段階ではありません。ただ、あなたの症状が続いている以上、安全を優先する必要があります」
サエキはそう答えた。
篠宮が何を考えているのか。声が何に由来するのか。それらは別々に調べるべき問題だった。
水瀬の話を聞く限り、少なくとも、彼女が自分の意思で選んだ将来と、篠宮が彼女に望む将来は、すでに食い違っている。
その食い違いが、異変とどう関係しているのか。
次に確かめるべきは、記録と会社側の事情だった。
水瀬から受け取った記録は、日付と時刻、声の内容、場所、症状の強さが簡潔にまとめられていた。
サエキはそれを、ミサキから得た情報と照らし合わせた。
『水瀬さん、ちゃんと記録をつけてくれてるんだね』
ミサキは、電話越しに記録の要点を確認していた。
「本人も、何が起きているのか知りたいんだろう。症状が出たときに無理をしていないかも確認したい」
『会社のほうは、退職の話が出てから篠宮さんの様子が変わった、って話がいくつかあるよ。仕事を理由に引き留めることが増えたみたい』
「水瀬さんが退職を伝えた時期と、声の内容が変わった時期は?」
『大きくは重なってる。ただ、細かいところはまだ確認中』
「それで十分だ。今の段階では、因果関係を決めつける材料にはならない」
サエキは記録の余白に、声の内容を短く分類していった。
仕事の指示。退職の再考を促す言葉。水瀬の将来を心配する言葉。そして、繰り返される「あなたのため」。
初期の記録では、声は業務上の指示を伝えるだけだった。水瀬も、聞こえた声をそれほど恐れてはいない。だが、退職を伝え、篠宮が引き留めるようになってから、声は明らかに彼女の私生活へ踏み込んでいた。
さらに、症状が強く出た日には、篠宮から退職について連絡があったり、直接引き留められたりしていることが多かった。
「篠宮の発言と症状の相関。因果関係は未確定」
サエキはノートにそう書いた。
記録が示しているのは、あくまで重なりだ。篠宮が何かを言ったから怪異が発生したのか。それとも、別の存在が篠宮の発言に反応しているのか。現時点では判断できない。
ただし、声が単に篠宮の言葉を再現しているだけなら、説明しにくい点があった。
水瀬が声を聞いたと記録している時刻の一部は、篠宮が別の場所で会議に出席していた時間と一致していた。ミサキが確認した会社側の情報とも、大筋で矛盾はない。
それでも、サエキは篠宮本人に話を聞く必要があると考えた。
「篠宮さんに会いたい。水瀬さんの症状について、本人がどこまで知っているのか確認したい」
『私も、同席したほうがいい?』
「会社側の事情を確認する意味では、君がいてくれると助かる。ただし、本人の話を聞く場では、こちらから答えを決めつけないようにしたい」
『了解。じゃあ、日程を調整するよ』
通話を終え、サエキは記録を閉じた。
水瀬の症状が強くなった時期と、篠宮が彼女を引き留める言葉を口にする時期は重なっている。
そして、その言葉には決まった表現があった。
「あなたのため」。
その言葉が怪異にとって何を意味するのかは、まだわからない。
だが、次の面談で確かめられることはあるはずだった。
篠宮真紀は、年齢に見合った落ち着きと、相手に隙を見せない態度を備えた女性だった。
応接室でサエキとミサキを迎え、こちらの話を聞く間も、表情を大きく変えることはなかった。
「水瀬の体調について調べていると伺いました」
「はい。本人から、声が聞こえるという相談を受けています。篠宮さんが近くにいないときにも、あなたの声が聞こえるそうです」
篠宮の指先が、机の上でわずかに止まった。
「……そうですか」
「心当たりはありますか?」
「いいえ。少なくとも、私が声を届けているわけではありません」
その答えは自然だった。少なくとも、最初から怪異の存在を認めているようには見えない。
サエキは、退職の話が出てから水瀬への接し方が変わったのか、順に質問した。
篠宮は、後任が決まるまで残ってほしいと頼んだことを認めた。水瀬の仕事ぶりを高く評価していることも、彼女が辞めるのを惜しんでいることも、隠さなかった。
「水瀬は優秀です。仕事を任せられる人間がいなくなるのは、会社にとっても損失ですから」
「それだけですか?」
篠宮は、サエキの目を見た。
「……それだけではありません」
沈黙が落ちた。
「私は、あの子のことをよく知っています。何が得意で、何が苦手で、何をすれば無理をするのか。長い間、そばで見てきました。あの子にとって、今の選択が本当に最善なのか、心配なんです」
「水瀬さん自身は、故郷に戻ることを望んでいます。果樹園を継ぎ、結婚を考えている相手もいる。本人の意思は明確でした」
「それでも、今まで築いてきたものを捨てる必要があるのでしょうか」
「それを決めるのは、水瀬さんです」
サエキが答えると、篠宮は口を閉ざした。
彼女の感情が何であるか、サエキが断定することはできない。ただ、水瀬を失うことに対する反応は、単に有能な秘書を失うという話だけでは説明しきれないように思えた。
篠宮は、水瀬の仕事だけでなく、日々の体調や食事、帰宅時間まで把握していたという。水瀬が故郷の恋人と電話で話す時間が増えたことも、気にしていた。
それらは一つひとつを取り上げれば、気遣いや親しさとして説明できる。
しかし、相手が距離を置こうとしたとき、それらが引き留める理由へ変わるなら、話は違ってくる。
「篠宮さん。水瀬さんの症状が、退職の話と重なるように強くなっていることはご存じですか」
「……本人から、体調が悪いとは聞いています」
「声のことは?」
篠宮はすぐには答えなかった。
その沈黙を、サエキは見逃さなかった。
「知っているのですね」
「……少しだけ」
篠宮は目を伏せた。
「最初は、疲れているのだと思いました。でも、あの子が私の声を聞くと言い出してから、私自身にも……妙なことが起きるようになったんです」
「どのようなことですか?」
「誰もいない部屋で、声がすることがあります。私が何かを考えていると、それに答えるように」
ミサキが、静かに口を挟んだ。
「その声は、あなた自身の声なの?」
「いいえ。私の声ではありません。けれど、私が何を望んでいるのか、知っているような話し方をするんです」
篠宮の表情に、初めて動揺が浮かんだ。
サエキは質問を続けた。
「その声に、何かを頼みましたか?」
篠宮は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
「水瀬に、ここに残ってほしいと……言いました」
「声に?」
「はい。最初は、独り言のようなものでした。でも、声は返事をしたんです。あの子が残る方法がある、と」
サエキは、背筋に意識を集中させた。
「それを聞いて、どうしましたか」
「何もできないと思いました。そんなことが本当に可能なのかもわかりませんでしたから」
「その後は?」
篠宮は、唇を結んだ。
「……水瀬が体調を崩していると知ってからも、声が聞こえました。あの子が仕事を辞められなくなるのなら、それでいいと考えたことがあります」
ミサキが息を止めたのがわかった。
篠宮は目を伏せたまま続けた。
「私は、あの子にここにいてほしかった。私のそばにいてほしかったんです。あの子がいなくなることを、どうしても受け入れられなかった」
その言葉は、怪異の説明にはならない。
だが、篠宮が何を選んだのかを示していた。
怪異が存在することと、篠宮がそれを利用しようとしたことは、別の問題だ。
「篠宮さん。声が何者であれ、水瀬さんを引き留めるために、症状を利用しようとするのはやめてください」
「……わかっています」
「わかっていることと、やめることは違います。水瀬さんが自分の意思で決めた未来を、あなたの望みのために奪ってはいけない」
篠宮は返事をしなかった。
サエキは、それ以上の追及をしなかった。彼女の感情を無理に言葉にさせても、怪異の性質がわかるわけではない。
面談を終え、応接室を出る直前、サエキは一度だけ振り返った。
篠宮は、私たちが出ていく扉を見つめていた。
その表情には、後悔も、諦めも、そしてまだ消えていない何かもあった。




