終章 苦しむ聖人
場所は、夜になると人通りが少なくなる路地に近い通り。オリヴィエが単独で歩き、ルチアは人通りの多い大通りに面したカフェで待機する。
ルチアの胸元には、髪のような装飾がついたブローチ型の小型デバイスが留められていた。これを通じて、オリヴィエの状況を確認する。
「本当に一人で歩くのね」
作戦前、ルチアは念を押した。
「ええ。相手が現れるかどうかもわからないけれど、二人で並んで歩いていたら、囮としての意味が薄くなるでしょう?」
「それはそうだけど……」
「心配しないで。あなたも、私も、できる準備はしておくわ」
二人は互いの首元に聖水を施した。首を狙う攻撃への備えとして、できる限りの対策をしておくためだった。
さらにオリヴィエは、ルチアと自分の双方に防御魔法をあらかじめかけておいた。
「これで十分、とは言えないけれど」
オリヴィエが言う。
「何も準備せずに待つよりはいいわ」
「そうね。無理だと思ったら、すぐに引いて」
「わかっているわ」
ルチアは最後にもう一度、オリヴィエの顔を見た。
「絶対に無茶はしないこと」
「あなたもね」
それが、二人の間ではいつもの約束だった。
作戦が始まると、オリヴィエは一人で静かな通りを歩いた。
大通りから離れるにつれ、人の姿はまばらになっていく。建物の影が石畳に長く伸び、遠くから聞こえていた街の喧騒も薄れていった。
ルチアはカフェの窓際に座り、ブローチ型のデバイスを通じてオリヴィエの状況を確認していた。
今のところ、異常はない。
ただ歩くだけの時間が、ひどく長く感じられた。
「お願いだから、何も起きないで……」
小さく呟いた、そのときだった。
デバイスから届く情報に、急な変化があった。
オリヴィエが反応する。
何かが現れたのだ。
それは、背後からではなかった。
オリヴィエが顔を上げた先、建物の上方から、黒い影が落ちてきた。
人の形をした何か。
その顔には、穏やかな微笑みが浮かんでいた。
ルチアは息を呑んだ。
証言にあった姿。人の形をした襲撃者。
そして、その笑顔。
怪異が、ついに姿を現した。
襲撃者は、落下の勢いを利用してオリヴィエに迫った。
オリヴィエは反射的に身を引いたが、相手の腕が伸びる方が早かった。
狙いは首だった。
しかし、その手が触れた瞬間、聖水による備えと、あらかじめ施していた防御魔法が作用した。
襲撃者の動きが、わずかに鈍る。
その隙に、オリヴィエは相手の腕を押し返し、間合いを外した。
「やっぱり、これが目的なのね」
オリヴィエは短剣を構えた。
相手は人の形をしている。だが、その立ち姿には人間らしい自然さが欠けていた。動きは単純で、複雑な技術を使っているようには見えない。
それでも、首を狙ってくる一撃には十分な危険があった。
オリヴィエは不用意に距離を詰めず、相手の腕の動きを観察した。
襲撃者が再び手を伸ばす。
今度は、短剣でその腕を受け流す。続けて身体を入れ替え、相手の正面から外れた。
無理に力比べをする必要はない。
相手の攻撃を受け止め、軌道をずらし、体勢を崩す。
短剣の扱いと近接戦闘の技術を組み合わせ、オリヴィエは一つずつ相手の動きを封じていった。
かつてなら、魔法で一気に決着をつけようとしたかもしれない。
だが、ここは街中だ。
周囲には建物があり、少し離れた場所には人々が暮らしている。大規模な魔法を使えば、怪異だけでなく周囲まで巻き込むおそれがあった。
だからこそ、今は身につけた技術で対処する。
襲撃者の腕が、再びオリヴィエの首へ伸びた。
オリヴィエは身を沈め、その腕をかわした。相手の懐に入り、短剣を使って動きを制し、続けて体勢を崩す。
襲撃者は抵抗したが、そこに高度な格闘技術は見られなかった。
ただ、首を絞めようとする。
それを妨げられると、再び腕を伸ばす。
同じ動きを繰り返すばかりだった。
「それしかできないの?」
オリヴィエは息を整えながら呟いた。
相手の攻撃は単純だ。だが、単純だからといって油断はできない。
次の一撃を受け流し、オリヴィエは相手の体勢を崩した。
そして、短剣を構え直す。
これ以上、長引かせるつもりはなかった。
相手の動きを見極め、攻撃の隙を突く。近接戦闘の技術を使い、襲撃者を追い詰める。
やがて、襲撃者の動きが大きく乱れた。
オリヴィエはその機を逃さず、決定的な一撃を加えた。
人の形をした怪異は、崩れるように身をよじった。
その身体から、黒い霧が噴き出した。
「……!」
オリヴィエはすぐに距離を取った。
黒い霧は地面へ広がることなく、ひとつの流れとなって動き始めた。やがて、通りの先へと向かっていく。
怪異の姿は、もうそこにはなかった。
オリヴィエは短剣を下ろし、息を吐いた。
ひとまず、目の前の襲撃者は退けた。
しかし、これで終わりではない。
黒い霧は消えたのではなく、どこかへ向かっている。
「ルチア、聞こえる?」
デバイスに向かって呼びかける。
『聞こえているわ! 怪我は?』
「今のところ大丈夫。でも、黒い霧が逃げた。追いかけるわ」
『待って。単独で追うのは危険よ!』
「わかっている。無理はしない。あなたは美術館を確認して」
短い沈黙のあと、ルチアが答えた。
『……わかった。気をつけて』
「あなたもね」
通信を切ると、オリヴィエは黒い霧が向かった先へ走り出した。
一方、ルチアはカフェを出て、美術館へ向かった。
襲撃者を倒しても、事件の原因が消えたとは限らない。
あの絵が本当に怪異の発生源なのか。
それを確かめる必要があった。
ルチアが美術館に到着したとき、館内はまだ開館中だった。
来館者たちは、それぞれの展示を見て回っている。係員も普段どおりに仕事を続けており、事件が起きているとは思えないほど平穏な光景だった。
ルチアは展示室へ向かい、問題の肖像画を確認した。
聖人は、額縁の中で穏やかに微笑んでいた。
その姿に、変わったところはない。
だが、先ほどまでの襲撃者の顔を思い出すと、胸の奥に嫌な感覚が広がった。
あの怪異の顔は、目の前の肖像画に描かれた聖人とよく似ていた。
ルチアは必要以上に絵を見つめ続けないよう注意しながら、距離を変えて観察した。
やはり、微笑みが変わったように感じられる。
しかし、どのような条件で変化するのかはわからない。今の時点では、絵の変化を確実な現象として説明することも難しかった。
ルチアは視線を外し、通信端末を確認した。
そのとき、EURO-Aから新たな連絡が届いた。
別の観光客から得られた証言が、独立した情報として共有されたのだ。
その証言にも、人の姿をした襲撃者についての記述があった。
襲撃者の顔は、聖人のようだった。
そして、その笑顔が印象に残っていた。
ルチアは、これまでに集めた情報を照らし合わせた。
複数の生存者や目撃者の証言。事件の前に美術館を訪れていた被害者たち。変化するように見える聖人の微笑み。そして、先ほどオリヴィエが遭遇した怪異の姿。
それぞれの情報は、完全に一致しているわけではない。
それでも、偶然として片づけるには、共通する点が多すぎた。
「やっぱり……」
ルチアは小さく呟いた。
肖像画が、事件の原因に関わっている可能性が高い。
少なくとも、怪異を退けただけでは、事件が終わったとは言えない。
ルチアはオリヴィエに連絡を試みたが、すぐには応答がなかった。
追跡を続けているのだろう。
無事でいてほしい。
そう願いながら、ルチアはもう一度、肖像画を見た。
聖人は相変わらず穏やかだった。
その笑みは、何も知らない者を安心させるように見える。
だが、その顔が襲撃者の姿と重なったとき、もう以前と同じようには見られなかった。
絵の微笑みが、次の標的を示しているのだとしたら。
いったい、誰が選ばれているのだろう。
そして、選ばれた者は、何をきっかけに襲われるのだろうか。
答えは、まだ見つかっていなかった。
そのころ、オリヴィエは黒い霧の行方を追っていた。
霧は街の建物の間を抜け、やがて美術館のある方向へ向かっていた。
オリヴィエはその後を追いながら、先ほどの戦闘を思い返した。
怪異の動きは単純だった。だが、倒したあとに黒い霧となって逃げたことを考えれば、あの姿そのものが本体とは限らない。
ならば、真の原因は別にあるのかもしれない。
オリヴィエは足を速めた。
黒い霧の向かう先には、あの肖像画がある。
そう考えるだけの理由は、すでに揃いつつあった。
第八章 微笑みの終わり
ルチアが展示室で肖像画を確認していたころ、オリヴィエもまた、美術館へと戻っていた。
黒い霧は、途中で見失いかけたものの、やがて美術館の方向へ流れていった。
オリヴィエは急いで館内へ入り、ルチアを探した。
しかし、展示室に着いたとき、そこには予想していなかった人物がいた。
肖像画の前に、一人の男が立っていた。
男は、絵を眺めている。
ただ、それだけのように見えた。
ルチアは少し離れた場所から、その様子を見ていた。絵に意識を向けすぎないよう注意していたはずなのに、いつの間にか男が現れていたのだ。
そして、異変は突然起きた。
肖像画の微笑みが、歪んだように見えた。
絵の中から、黒いものが滲み出す。
それは霧のように広がり、男へ向かって動き始めた。
「危ない!」
ルチアとオリヴィエは、ほとんど同時に叫んだ。
だが、男は慌てなかった。
迫りくる黒いものを見て、わずかに眉をひそめる。
そして、手を動かした。
次の瞬間、黒い霧は男の前で弾かれた。
ルチアは目を見開いた。
オリヴィエもまた、足を止めていた。
何が起きたのか、二人にはすぐに理解できなかった。
男は、特別な武器を構えたわけでも、複雑な術式を展開したわけでもない。
ただ、そこに立ち、迫ってきたものを退けた。
黒い霧は揺らぎ、絵の周囲へと戻ろうとした。
男はその動きを見て、面倒そうに息を吐いた。
「……なんでこんな絵を飾ってるんだ?」
まるで、展示品の管理に不満を抱いた来館者のような口調だった。
男は肖像画へ向き直り、法力を放った。
強い光が展示室を満たしたわけではない。
大きな音が響いたわけでもない。
それでも、絵にまとわりついていた黒いものは、男の法力に触れると急速に薄れていった。
微笑んでいた聖人の顔が、歪む。
穏やかだった口元が引きつり、目元が苦痛に歪んでいく。
まるで、誰かに首を絞められているかのような、激しい苦悶の表情だった。
そして、その表情のまま、絵は動かなくなった。
黒い霧は消えた。
展示室には、再び静けさが戻っていた。
ルチアは、しばらく声を出せなかった。
あれほど手掛かりを集め、危険を冒してようやく辿り着いた怪異の正体。
それを、この男はほんのわずかな動作で退けてしまった。
オリヴィエも、警戒を解かないまま男を見ていた。
男は、もう用事は済んだとでもいうように、展示室を出ていこうとした。
「待ってください!」
ルチアが慌てて呼び止めた。
男は足を止め、振り返った。
「何か?」
「今のは……いったい、何をしたんですか?」
「何を?絵を見ていただけですが?」
男は慌てる様子もなく自分はなにもしていないと冷静に言い放ってた。
「何もしてないなんて嘘です!!」
思わず強い口調になったルチアを、オリヴィエが横から制した。
「ルチア。落ち着いて」
「でも、オリヴィエ……!」
「聞きたいことがあるのは私も同じよ。だからこそ、まずは話を聞きましょう」
オリヴィエは男へ向き直った。
「失礼しました。私たちは、この絵に関係する事件を調べていました。」
オリヴィエとルチアは同時にEURO-Aの身分証明書を見せて、名を名乗った。
「実はあの絵に関しての事件を追っていたのです、それであなたが絵を浄化といえばいいのか、その場面を目撃したもので」
少し考えてから、男は淡々と答えた。
「なるほど、私は日本でフリーランスをしてるサエキと言います」
サエキも国際免許を2人に提示して名乗った。
サエキは、もう一度、肖像画を見上げた。
「それで、これは何だったんでしょう? 美術館に飾っていいような物には思えませんが」
「私たちも、それを調べていたんです」
「この辺りで事件になって被害者も出ていたんです。この美術館を訪れていました。襲撃者は聖人のような姿をしていて、撃退したあと、黒い霧になり消え、逃げた所を追って来たのです」
「なるほど」
サエキは短く答えた。
「私が絵に放ったのは浄化の……魔法みたいなものです、明らかな瘴気を放ったので咄嗟に反撃しただけですが、もうこの絵に力はないかもしれませんね。ただ油断はできないのでできることなら然るべき機関で処理すべきかと」
サエキの言葉に2人は頷いた。
それ以上、絵について説明することはなかった。
オリヴィエは、展示されている肖像画へ視線を戻した。
そこには、もう穏やかな微笑みはなかった。
聖人の顔は、何かに苦しめられたかのように歪んでいる。首を絞められたような、あまりにも生々しい苦悶の表情だった。
だが、なぜその表情になったのか。
絵の中で何が起きていたのか。
そして、サエキが何を見て、何を退けたのか。
二人には、まだわからなかった。
事件は終わったのだろう。
少なくとも、あの黒い霧が再び襲いかかってくる気配はない。
けれど、すべての疑問が解けたわけではなかった。
「申し訳ありませんが、次の予定があるので私はこれで失礼します。EURO-Aでしたら知り合いもいるので何かあれば連絡を下さい。最も上層部への連絡はおすすめしませんが」
サエキはルチアとオリヴィエに一度会釈をし、もう一度だけ絵を見てから、展示室を出ていった。
「……本当に、これで終わりなのかしら」
ルチアが小さく呟いた。
オリヴィエは答えなかった。
ただ、友人の隣に立ち、絵を見つめていた。
そこに描かれた聖人は、もう微笑んでいない。
それでも、その顔には何かが残っているように思えた。
誰かに首を絞められたような苦悶。
あの怪異が最後に見せた姿なのか。
それとも、絵そのものが抱えていた何かの痕跡なのか。
答えは、まだ見つからない。
フィレンツェの街には、再び穏やかな日常が戻っていく。
人々は美術館を訪れ、絵を眺め、次の観光地へと向かうだろう。
だが、あの肖像画の前に立った者は、以前と同じものを見ることはできない。
微笑みが消えたあとに残された、苦悶の表情。
それは、いったい何を意味していたのだろうか。
番外編 聖人の肖像
その男は、生前、敬虔な聖職者として知られていた。
貧しい者には慈悲を施し、教会では熱心に祈りを捧げ、誰に対しても穏やかな笑顔を向ける。
人々は彼を聖人のような人物だと称えた。
だが、その内面はまったく異なっていた。
男は極端なナルシストだった。
自分の容姿を愛し、自分の声を愛し、自分の振る舞いに酔いしれる。鏡を見ることを欠かさず、食事の席でも窓ガラスに映る自分の姿を眺めていた。
そして、彼にはもう一つ、誰にも知られていない異常な嗜好があった。
それは、他人の命を奪うことだった。
特に、首を絞めて命を奪う行為に執着していた。
男は自分の行為を罪だとは考えていなかった。むしろ、自分だけが理解できる特別な儀式だと思い込んでいた。
ある日、男は高名な画家を訪ねた。
相場を大きく上回る金額を提示し、自分の肖像画を描くよう依頼した。
画家は驚いたものの、依頼を引き受けた。
男は何度も画家のもとへ通い、表情や姿勢について細かく注文をつけた。
「もっと穏やかに。そう、慈悲深い者の微笑みです」
男が求めたのは、見る者が安心し、自然と敬意を抱くような笑顔だった。
数週間後、肖像画は完成した。
そこには、まるで聖人そのもののような男の姿が描かれていた。
男は大いに満足した。
そして、その絵を自宅に飾るため、画家を招いた。
その夜、画家は帰らなかった。
男は完成した肖像画の前で、画家の首を絞めて殺害した。
動かなくなった身体を傍らに置き、男は絵を眺めた。
絵の中の自分は、穏やかに微笑んでいる。
その足元には、つい先ほどまで生きていた人間が横たわっている。
男は恍惚とした表情を浮かべた。
自分の美しい姿と、命を奪われた人間。
その光景こそ、男にとって何よりも完成された芸術だった。
以来、男は同じことを繰り返した。
肖像画を描かせては画家を殺し、完成した絵を眺めては悦びに浸る。
やがて男は老いて死んだ。
しかし、彼が残した肖像画には、奇妙なものが宿っていた。
それが何であったのか、最初は誰にもわからなかった。
ただ、絵の中の男は、いつまでも微笑んでいた。
そして、時折その微笑みは変化した。
まるで、次の犠牲者を見つけたことを喜ぶかのように。
聖人の肖像は、今も人々に穏やかな笑顔を向けている。
その笑顔の裏に、どれほど醜悪な悦びが隠されていたのかを知らぬまま。
しかし、聖人も知らなかった。
1人の東洋人により永遠の苦しみを肖像画が消えてなくなるまで続くことを。
サエキの焦り
焦った。
変な絵画が瘴気を伸ばしてきたので、咄嗟に法力にて浄化をした。
別に間違えたことはしたとは思っていない。
だが、浄化後に絵の表情が変わったことは本当に焦った。
その後2人の女性が話かけてきたが、早くその場から離れたかった。
EURO-Aの人間であの絵のことを調べていたらしいので、その場を立ち去り直ぐにリーヴに連絡を入れた。
今はもう帰りの飛行機だ。
別に弁償だとかの話にはならなかったのでホッとしている。
キャビンアテンダントがシャンパンを持ってきてくれた。
この旅は色々あった。
しばらくは欧州はもういいかな……。
帰ったら温泉にでも行こう。




