第一章 花の都の聖人
フィレンツェの街は、午後の陽光に包まれていた。
石畳の道を観光客が行き交い、歴史ある建物の壁面には柔らかな光が差している。路地の奥からは食器の触れ合う音と人々の笑い声が聞こえ、広場には街角の演奏家が奏でる弦楽器の音色が流れていた。
そんな街を、二人の女性が並んで歩いていた。
「ねえ、ルチア。さっきからずっと地図を見ているけれど、次はどこに行くつもり?」
「次は美術館。そのあとは、評判のジェラート店に寄って、それから教会を見に行く予定よ」
「ずいぶん詰め込んだわね」
「せっかくフィレンツェに来たんだから、見られるものは見ておかないと!」
ルチアは地図から顔を上げ、得意げに笑った。
その様子に、オリヴィエは小さく肩をすくめた。
「休暇なのに、調査計画みたい」
「失礼ね。これは観光計画です」
「はいはい。じゃあ、その観光計画に一つだけ提案。少し休憩しない?」
「……ジェラート?」
「ジェラート」
二人は顔を見合わせ、同時に笑った。
ルチアとオリヴィエは、仕事を通じて知り合った友人同士だった。怪異に関わる現場では互いの判断を尊重し、危険な状況でも背中を預けられる。仕事を離れれば、こうして気軽に冗談を言い合う間柄でもあった。
もっとも、休暇だからといって、オリヴィエの関心がすべて観光に向いているわけではない。
ジェラートを食べ終えたあと、二人は刃物を扱う職人の店が並ぶ通りへ足を延ばした。
ショーウィンドウに並ぶ古い短剣や装飾品を眺めながら、オリヴィエはとある店先で足を止めた。
「これ、あとで見てもいい?」
「短剣?」
「ええ。せっかくイタリアに来たんだもの。こちらの短剣術について、実物を見ながら話を聞いてみたいの」
「休暇中も訓練のことを考えているのね」
「訓練というより、勉強よ。知っている技術が増えれば、いざというときの選択肢も増えるでしょう?」
オリヴィエは、店先に展示された短剣の握りや刃の形を注意深く観察していた。
かつては魔法への依存が強かったが、現在はそれだけに頼らず、自分に必要だと考えた技術を身につけようとしている。近接戦闘の技術を学んでいるのも、その一環だった。
「いいんじゃない? 私はその間、近くのお店を見ているわ」
「ありがとう。あまり長くはかからないと思う」
「その台詞、仕事のときにも聞いたことがあるんだけど」
「……今日は本当に長くならないわ」
「期待しておくわね」
ルチアは笑いながら、オリヴィエの肩を軽く叩いた。
そのときだった。
ルチアの携帯端末が短く振動した。
画面に表示されたのは、所属する欧州異常事象連合――EURO-Aからの連絡だった。
ルチアは内容を確認し、先ほどまでの明るい表情を少しだけ引き締めた。
「どうしたの?」
店から出てきたオリヴィエが尋ねた。
「この近辺で、少し気になる事件が続いているみたい」
「怪異絡み?」
「まだ断定はできないわ。でも、現場の状況に説明のつかない点があるらしいの」
ルチアは端末をしまった。
休暇中に仕事の連絡が入ること自体は、珍しくない。EURO-Aは慢性的な人手不足に悩まされており、現地にいる調査員が情報を求められることもあった。
「詳しい話は?」
「これから確認するところ。まずは情報を集めましょう」
オリヴィエは少し考え、それから頷いた。
「わかった。観光は一時中断ね」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいわ。あなたが気にしているのに、私だけ観光を続けるわけにもいかないでしょう?」
そう言って、オリヴィエは歩き出した。
ルチアもその隣に並ぶ。
賑やかな街は、相変わらず平穏そのものだった。
誰もが笑い、誰もがそれぞれの目的地へ向かっている。
その中に、ひとつの絵が潜んでいることなど、まだ二人は知らなかった。
二人が向かったのは、フィレンツェの中心部にあるカフェだった。
大通りに面した店内は人で賑わい、窓際の席からは行き交う人々の姿がよく見える。待ち合わせの相手は、すでに奥のテーブルに座っていた。
現れたのは、地元警察に所属する女性警察官だった。
「急に呼び出してごめんなさい。二人とも、休暇中だったんでしょう?」
「気にしないでください。連絡をくれたということは、それだけ気になる事件なんですよね?」
ルチアが尋ねると、女性警察官は一度周囲を確かめてから頷いた。
「連続して人が襲われているの。被害者の多くは、地元の人と観光客。犯人の姿を見たという証言はあるんだけど、説明がつかないことが多くて」
「説明がつかない、というのは?」
オリヴィエが静かに問い返した。
「目撃者によって細部は違うけれど、襲撃者の姿が普通じゃないのよ。人間に見えたという証言もあれば、まるで何かが人の形を取ったようだったという証言もある」
女性警察官は、そこで言葉を切った。
「それから、銃撃を受けた襲撃者が黒い霧になって消えたという話もあるわ」
ルチアの表情から、笑みが消えた。
「銃撃を受けて、黒い霧に?」
「ええ。現場にいた警察官の中にも、そう証言している人がいる。でも、上層部は通常の犯罪捜査として扱う方針なの。超常的な現象だと認めることには、かなり慎重でね」
「実際に目撃した警察官がいるのに、ですか?」
「銃撃の際の視界や混乱で、何かを見誤った可能性もある。そういう説明になっているわ」
女性警察官の声には、納得しきれないものが滲んでいた。
彼女自身、現場で襲われた人物を救助した経験があるという。そのため、事件の異常さを軽く扱うことには抵抗があった。
「公式の捜査資料を見せてもらうことは?」
オリヴィエが尋ねる。
「それはできないわ。私の立場で、許可なく捜査資料を渡すわけにはいかないもの」
「そうですよね」
ルチアは素直に頷いた。
相手は協力してくれているが、警察官として守るべき規則がある。そこを無視させるつもりはなかった。
「だから、私が実際に現場で見たことと、個人的に聞いた証言だけを伝えるわ。二人が調べるなら、あとは自分たちで確認してほしい」
「十分です。ありがとうございます」
オリヴィエが礼を述べる。
女性警察官は、少しだけ安堵したように息をついた。
「ただし、無茶はしないで。相手が何なのか、まだわかっていないんだから」
「もちろんです」
ルチアはそう答えたものの、頭の中ではすでに情報を整理し始めていた。
複数の襲撃事件。正体の定かでない犯人。銃撃を受けたあとに現れた黒い霧。
通常の犯罪として説明できる部分がある一方で、怪異の関与を疑うだけの材料もある。
「襲撃が起きた場所に、何か共通点はありますか?」
ルチアの質問に、女性警察官は首を横に振った。
「私が把握している範囲では、はっきりした共通点はないわ。少なくとも、私が救助に向かった現場では、そこまで調べられなかった」
「わかりました。こちらでも確認してみます」
それ以上、女性警察官は情報を付け加えなかった。
話せることと、話せないこと。その境界を守りながら、できる範囲で協力してくれているのだ。
彼女が席を立ったあと、二人はしばらく黙っていた。
「黒い霧、ね」
先に口を開いたのはオリヴィエだった。
「銃撃を受けても消滅したとは限らない。姿を変えたのか、逃げたのか、それとも別の現象なのか……今の情報だけでは判断できないわ」
「ええ。まずは生存者の証言を集めましょう。現場を見た人がいれば、何か手掛かりが見つかるかもしれない」
「それと、襲撃が起きた場所もね。被害者だけじゃなく、周囲の状況も確認したい」
二人は互いの顔を見て頷いた。
休日は、もう終わったようなものだった。
窓の外では、観光客が笑顔で写真を撮っている。
この街に潜む異常を知る者は、まだ少ない。
そして、事件の中心にあるものが何なのか、二人はまだ知らなかった。
翌日から、二人は事件について独自の調査を始めた。
警察の捜査資料を閲覧することはできない。そこで、公開されている情報を確認しながら、協力を得られる範囲で目撃者や生存者に話を聞くことにした。
証言を集めるうえで、ルチアが気をつけていたのは、最初から怪異の存在を前提にしないことだった。
「襲撃者は、どのような姿をしていましたか?」
そう尋ねると、地元に住む女性は、しばらく考えてから答えた。
「人のようでした。でも……人というには、何かが違ったんです」
「何か、というのは?」
「顔、でしょうか。うまく説明できません。見た瞬間は人間だと思ったのに、あとから思い返すと、普通の人間を見た気がしなくて」
女性は、膝の上で両手を握った。
オリヴィエは急かさず、相手が言葉を探すのを待っていた。
「それと、笑っていたんです」
「笑っていた?」
「はい。襲いかかってくるときの顔が……笑顔だったんです。楽しそうというより、穏やかな笑顔。でも、だからこそ怖かった」
ルチアは、その言葉を記録した。
別の目撃者からは、襲撃者がどこからともなく現れたという証言が得られた。さらに別の人物は、襲撃者の姿が人間離れしていたと語った。
証言には食い違いがある。しかし、いくつかの点は共通していた。
襲撃者は人の形をしていたこと。そして、その顔には不自然な笑みが浮かんでいたこと。
調査を続けるうちに、二人は被害者や目撃者の中に、事件の前に同じ美術館を訪れていた人々がいることにも気づいた。
美術館そのものが事件に関係しているのか。それとも、単なる偶然なのか。
その段階では、まだ断定できなかった。
さらに、証言の中に、奇妙な話がひとつあった。
「そういえば、あの人……襲われる少し前に、絵の話をしていたんです」
ある生存者は、事件の前に知人と交わした会話を思い出した。
「美術館に、聖人の絵があったらしくて。とても優しそうな顔をしているのに、見るたびに笑い方が違う気がする、と」
「見るたびに?」
ルチアは、思わず聞き返した。
「ええ。でも、その人も自信がなさそうでした。照明や見る角度のせいじゃないかって」
オリヴィエとルチアは顔を見合わせた。
まだ、絵と襲撃者を直接結びつける根拠はない。
しかし、聖人の肖像、変化する笑み、そして人の姿をした襲撃者。
無関係と決めつけるには、気になる要素が重なり始めていた。
「もう少し、慎重に調べましょう」
オリヴィエが言った。
「ええ。証言した人が見たものと、実際に起きたことは分けて考えないと」
ルチアも頷いた。
証言は手掛かりになる。しかし、証言だけで怪異の正体が決まるわけではない。
二人は調査を続け、事件の前に美術館を訪れていたという情報を、個別の証言と照らし合わせていった。
その結果、聖人の肖像が展示されている美術館が、次に調べるべき場所として浮かび上がった。
絵の笑顔が変わる。
その話が、ただの見間違いならいい。
だが、もしそうでなかったなら。
その微笑みは、何を意味しているのだろうか。
第四章 変わる微笑み
美術館は、街の中心部から少し離れた場所にあった。
歴史ある建物の中には、宗教画や彫刻、古い装飾品が整然と展示されている。館内には観光客の足音と、係員が小声で交わす会話が響いていた。
ルチアとオリヴィエは、あくまで一般の来館者として入館した。
受付で案内を受け、展示室を順番に回る。怪異の調査に来たことを周囲に悟らせる必要はない。
「問題の絵は、この先ね」
ルチアが案内図を確認する。
「ええ。まずは普通に見ましょう。こちらの思い込みで何かを見誤らないように」
オリヴィエの言葉に、ルチアは頷いた。
展示室の奥に、その絵はあった。
聖人を描いた肖像画。
額縁は古びているが、絵そのものは丁寧に保存されている。聖人の衣服は落ち着いた色合いで、背景にも目立った異常はない。
そして、顔に浮かんでいるのは、穏やかな微笑みだった。
「あら……」
ルチアは思わず声を漏らした。
「もっと不気味な絵を想像していた?」
「正直に言うと、そうね。証言の印象から、もっと異様なものを想像していたわ」
絵の聖人は、どこか親しみやすい顔立ちをしていた。恐ろしさを感じさせるような特徴はない。むしろ、見る者を安心させるような微笑みだった。
オリヴィエも、しばらく絵を観察した。
「見た目だけなら、ごく普通の宗教画ね」
「でも、証言が気になるのよ。見るたびに笑みが違って見えるって」
二人は少し距離を変え、絵を眺めた。
ルチアには、最初に見たときよりも聖人の口元がわずかに緩んだように感じられた。
いや、気のせいかもしれない。
視線を外し、もう一度見る。
今度は、先ほどよりも口元が固くなったように見えた。
「オリヴィエ。今の、見た?」
「何が?」
「絵の笑顔……変わったように見えなかった?」
オリヴィエは、絵を見たまま答えた。
「変わったように感じる。でも、今の段階では、そう見えたというだけね」
「そうよね……」
ルチアは頷いたものの、胸の奥に小さな不安が残っていた。
照明の加減か。見る角度か。それとも、絵を意識しすぎたことによる錯覚か。
ただ、証言と自分たちの感覚が重なった以上、無視することもできなかった。
「長く見続けるのはやめておきましょう」
オリヴィエが提案した。
「もし精神に影響する何かがあるなら、必要以上に見続ける理由はないわ」
ルチアはすぐに同意した。
二人は絵から視線を外し、展示室の別の作品へと移った。
それから何度か、距離や角度を変えて確認したが、明確な変化を証明することはできなかった。
それでも、絵に対する違和感は消えなかった。
微笑みが変わるという証言。
そして、事件の前にこの美術館を訪れた人々が襲われているという共通点。
「仮説だけど……あの笑顔が変わることには、何か意味があるのかもしれない」
ルチアが小声で言った。
「たとえば?」
「次に狙われる人を示している、とか」
口にした瞬間、ルチア自身もその仮説の危うさを感じた。
笑顔が変わることと、襲撃の発生。その二つがどう結びついているのかはわからない。
誰が選ばれるのか。いつ襲撃が起きるのか。そもそも、絵が本当に事件に関係しているのか。
何ひとつ、確定していなかった。
「可能性の一つとして覚えておきましょう」
オリヴィエはそう言った。
「今は、確かめられることから進めるしかないわ」
二人は展示室を離れた。
背後では、聖人が穏やかな笑みを浮かべたまま、額縁の中に収まっていた。
その顔が、二人を見送っているように感じられたのは、気のせいだったのだろうか。
第五章 囮
調査を進めるほど、二人は時間をかけて証拠を集める必要性を感じていた。
しかし、次の襲撃を待つだけでは、被害が増える可能性がある。
警察の捜査は通常の犯罪として進んでおり、怪異への対応を専門とする機関から、十分な人員を送り込むことも難しかった。
そこで二人は、危険を承知で囮を使うことにした。




