終章 廃塩田の魔女
コニャック地方へ到着した頃には、空はすっかり曇っていた。
葡萄畑の広がる丘陵地帯を抜け、ジャンの車は細い道を進んでいく。窓の外には収穫を終えた畑が続き、その向こうには森が沈んでいた。
やがて車は、森に近い農道の脇で停車した。
「ここから先だ。現場はEURO-Aの調査員が確保している」
ジャンはそう言って、エンジンを切った。
「ボルドーの事件と、どこまで似ているんだ?」
「変異した犬の外見と、周辺に残された被害の様子だな。ただ、原因についてはまだ何も」
「なら、現場を見てからだな。似ているというだけで、同じものだと決めるわけにはいかない」
「話が早くて助かる」
ジャンは口元にわずかな笑みを浮かべ、車を降りた。
現場の周囲にはEURO-Aの調査員が配置されていた。立ち入り範囲は確保され、採取された資料も整理されている。二人が到着したことを確認すると、担当者が歩み寄ってきた。
被害を受けたのは、森に隣接する一帯だった。地面には深い爪痕が残り、踏み荒らされた草木があちこちに倒れている。変異犬そのものへの対応は終わっていたが、事件を解明するための調査は続いていた。
「採取済みの資料は?」
ジャンが尋ねると、担当者は記録を開いた。
「土壌、毛、爪に付着していた植物片です。周辺の植生も記録しています。ボルドーの資料との比較は、現在進めています」
「わかった。採取地点と発見時の状態を確認したい。資料番号も照合しておいてくれ」
「了解しました」
担当者が記録を差し出す。
ジャンはそれを受け取ると、現場の地面へ目を向けた。
「まずは足跡か。ずいぶん暴れたようだな」
「爪痕も深い。体格だけじゃなく、力も相当なものだったんだろう」
「通常の犬で説明できる範囲かどうかは、別の話だがな」
ジャンはしゃがみ込み、地面に残された傷を調べた。爪痕の深さや向き、周辺の土の崩れ方を順番に確認していく。
その手つきに無駄はなかった。
怪異と交戦するだけなら、変異した個体を倒せばひとまずの危険は取り除ける。しかし、それで事件が終わるわけではない。同じものが再び現れる可能性がある以上、何が起きたのかを突き止めなければならない。
ジャンは採取資料の一つを手に取った。容器の中には、爪に付着していた植物片が保管されている。
「この辺りの植物と一致するか、もう調べたのか?」
「周辺の植生とは比較しています。ただ、付着していたものが、どの段階で付いたのかまではわかっていません」
「そうだろうな。移動した先で付いた可能性もある」
ジャンは容器を戻した。
「植物片だけで何かを決めつけるのは早い。土壌の結果も待とう」
その言葉を聞きながら、サエキは少し離れた場所に立っていた。
サエキが調べるのは、物理的な痕跡とは別のものだ。
現場には、通常の動物が残す痕跡だけでは説明しにくい異常があった。ただし、それが何に由来するのかは、まだわからない。
サエキは目を閉じ、意識を周囲へ向けた。
残された力の痕跡を探る。強く残っている場所だけでなく、周囲との違いや、痕跡が途切れる位置にも注意を払った。
しばらくして、サエキは目を開いた。
「……何かあったか?」
近づいてきたジャンが尋ねる。
「異常な力が関わった可能性はある。ただ、これだけで正体までは判断できない」
「ボルドーのときと似ているか?」
「比較しないと何とも言えないな。少なくとも、今の段階で同じ術だと決めるつもりはない」
「わかった。こっちは物理的な証拠を整理する。そちらで気づいたことがあれば教えてくれ」
「もちろん。そっちの資料も見せてくれ。別々に調べて終わりじゃ、意味がないからな」
ジャンは短くうなずいた。
二人は調査を続けた。
ジャンは現場の土壌や植物片、変異犬の毛や爪に残されたものを確認し、採取時の記録と照合していく。サエキは異常な力の痕跡を追い、どこに残り、どこで薄れているのかを慎重に見極めた。
途中、ジャンが採取資料を持って戻ってきた。
「一つ、気になるものがある」
「何だ?」
「植物片の周辺から、薬草に似た臭いがする。だが、これだけじゃ何の臭いかはわからない。土壌の成分も含めて分析が必要だ」
「薬物が使われた可能性もある、ということか」
「可能性の一つだ。まだ、それ以上のことは言えない」
「そうだな。臭いだけで種類や用途までわかるわけじゃない」
サエキは資料に目を落とした。
薬物が関係しているのか。あるいは、異常な力の痕跡と何らかの関係があるのか。
現状では、どちらも確証がない。
だが、二つの事件をつなぐ手掛かりになる可能性はあった。
サエキは自分が確認した痕跡の位置と状態を、ジャンに説明した。ジャンもまた、物理的な証拠についてわかっていることを伝える。
両者の情報を並べると、現場の一部に共通する特徴が浮かび上がった。
変異犬の行動だけでは説明しにくい痕跡があり、そこには通常の環境変化とは異なる何かが関係している可能性がある。
それでも、二つの事件が同じ原因によって引き起こされたと断定するには足りなかった。
「少なくとも、単に犬が凶暴化しただけ、という話ではなさそうだな」
ジャンが記録を閉じた。
「そう考えるだけの材料は出てきた。ただ、誰が何をしたのかは別の問題だ」
「同感だ。物証と残った力、その両方を調べる必要がある」
「ボルドーの資料との比較結果が出れば、もう少し絞れるかもしれないな」
サエキは現場を見渡した。
荒れた地面。倒れた草木。調査員たちが記録を取り、採取した資料を運んでいる。
事件の痕跡は残っている。しかし、そこから読み取れることには限りがある。焦って答えを決めれば、かえって手掛かりを見失うことになるだろう。
そのとき、ジャンの携帯端末が振動した。
画面を確認したジャンの表情が、わずかに変わる。
「EURO-Aからだ。過去の事件記録を調べてもらっていた」
「何かわかったのか?」
「まだ確認が必要だが、気になる報告が来た」
ジャンは通話をつないだ。
相手はEURO-Aで過去の事件記録と保管資料を照合していた担当者だった。ジャンは必要な点を絞って質問し、報告内容を確認していく。
数年前、ジャンが交戦した魔女に関する記録。その際に採取された資料と、今回の事件で得られた物的証拠や異常な力の痕跡について、共通する特徴が見つかったという。
ジャンは相手の説明を最後まで聞き、追加で確認すべき事項を伝えてから通話を切った。
「魔女か?」
サエキが尋ねた。
「可能性はある。過去に交戦した魔女の記録と、今回の資料に一致する特徴が見つかったそうだ」
「一致したのは、物的証拠と残った力の両方か?」
「そう聞いている。だが、詳しい照合結果はこれからだ。記録だけで本人が関わっていると決めるわけにはいかない」
「その通りだな。似た特徴があることと、同じ人物が関わっていることは別だ」
ジャンは端末をしまった。
過去の交戦について、ジャンには忘れられない記憶がある。
増援として現場に加わった際、すでに負傷した隊員がいた。ジャンは聖油を塗った手袋を用いた奇襲で魔女を追い詰めることに貢献したが、追い詰められた魔女は激情し、苦し紛れに魔法を放った。
それは魔力の暴走に近い爆発現象だった。
爆発への対処と負傷者への対応で現場が混乱する中、魔女は逃走した。
そのときのことを、ジャンは今も覚えている。
「もし、あの魔女が関わっているなら……」
サエキが言葉を切ると、ジャンは視線を向けた。
「何か気になることがあるか?」
「いや。まだ何も決めつける段階じゃない。ただ、過去の事件と今回の共通点は、慎重に調べたほうがいい」
「そうだな。俺も同じ考えだ」
ジャンは現場の記録を担当者へ返した。
「まずは資料の照合を進めてもらう。こっちは、今回の痕跡がどこへつながるのかを追う」
「それがいい。記録との一致だけで、事件の全容までわかったわけじゃないからな」
二人は調査員から追加の情報を受け取り、現場を離れる準備を始めた。
過去の魔女との交戦記録。今回の変異犬に残された物的証拠。そして、現場に残る異常な力の痕跡。
それぞれが独立した手掛かりである以上、都合よく一つの答えにまとめることはできない。だが、調査を進めるべき方向は見えてきた。
現場の記録を整理したジャンは、端末に表示された地図を確認した。
「この先に、古い塩田の跡がある」
「廃塩田か」
「森の奥だ。今回の痕跡とどうつながるかは、行ってみないとわからない」
「なら、確かめに行こう。ここで考えていても、答えは出ない」
ジャンは地図を閉じた。
「そういうことだ」
二人は車へ戻った。
森の奥に残された廃塩田が、今回の事件と関係しているのか。それとも、別の手掛かりを探す途中で立ち寄る場所にすぎないのか。
まだ、何も確定してはいない。
ただ、ボルドーから続く一連の事件が、単なる動物の異常行動では片づけられない可能性は高まっていた。
車は農道を離れ、森へ続く道へと向かっていった。
森の奥へ進むにつれ、道は次第に細くなっていった。
車が通れるのは、もう少し手前までだろう。ジャンは適当な場所に車を停め、エンジンを切った。
「ここからは歩きだな」
「そうなるな。地図だと、廃塩田はこの先だ」
サエキは地図を確認し、森の奥へ目を向けた。
二人は車を降り、それぞれの装備を確かめてから歩き始めた。
しばらく進むと、木々の向こうに古びた建造物が見えてきた。壁はところどころ崩れ、屋根も傷んでいる。周囲には草木が生い茂り、長く使われていない場所であることがうかがえた。
地図に記された廃塩田に間違いなさそうだった。
二人は建物へ近づく前に、周囲を軽く見て回った。踏み固められた地面や草木の様子に目を向けたが、事件との関係を裏付けるような痕跡は見当たらない。
「外には、これといったものはなさそうだな」
ジャンが言った。
「そうだな。外から見ただけじゃ何もわからない。中を調べよう」
「了解だ」
ジャンは銃を扱いやすい位置に整え、建物の入口へ向かった。
扉は古びて歪んでおり、片側がわずかに開いていた。ジャンが先に内部の様子をうかがい、周囲を確かめてから足を踏み入れる。サエキも警戒を怠らず、その後に続いた。
建物の中には、湿った木材と古い土の臭いがこもっていた。
壁際には使われなくなった道具が積まれ、床には細かな木片や埃が散らばっている。長い年月を経た廃墟らしい光景だったが、その奥から、かすかな異臭が漂っていた。
ジャンは足を止めた。
「……この臭いか」
「何か心当たりがあるのか?」
「コニャックの現場で感じたものに似ている。ただ、同じものだとは断定できない」
ジャンは周囲を見回した。
「臭いだけで正体を決めるつもりはない。ここで何が行われていたのかも、まだわからないからな」
「それでいい。ほかの痕跡と照らし合わせよう」
サエキは周囲へ意識を向けた。
目に見えるものだけでは、異常の有無を判断できない。サエキが探っているのは、この場所に残された異常な力の痕跡だった。
しかし、何かを感じ取れたとしても、それだけで正体や由来まで特定できるとは限らない。
サエキは焦らず、周囲を確かめながら奥へ進んだ。
ジャンは床や壁の状態に目を配り、足元に注意を払っている。二人は互いの視界を妨げないように位置を取りながら、建物の内部を調べていった。
やがて、奥の暗がりから低い唸り声が聞こえた。
二人は同時に足を止めた。
唸り声は一度途切れ、再び響いた。今度は、先ほどよりも近い。
ジャンが銃を構える。
「犬か?」
「声だけじゃ、まだ判断できない」
「まあ、歓迎されていないのは確かだな」
ジャンの口調はいつもと変わらなかったが、銃口は暗がりから逸れていなかった。
その奥で、何かが動いた。
最初に見えたのは、床すれすれまで頭を下げた獣の姿だった。続いて、暗がりから大きな胴体が現れる。
犬に似た姿をしている。
だが、その体格は明らかに尋常ではなかった。
獣は二人を認めると、喉の奥から唸り声を漏らした。
「コニャックの件と関係があると思うか?」
ジャンが小声で尋ねる。
「可能性はある。ただ、今は判断できない」
「なら、音を立てずに片付けよう。銃声を聞かれて、奥にいる相手に警戒されたくない」
「同感だ」
獣が床を蹴った。
巨体が一気に距離を詰める。
サエキは正面から受け止めず、突進をわずかにかわした。獣が体勢を崩した一瞬、ジャンが側面へ回り込む。
ジャンの手には、聖水と聖鋼を用いたナイフが握られていた。
獣が振り返るより早く、ジャンはその懐へ踏み込み、急所へ刃を突き立てた。
獣は低く唸り、巨体を揺らした。なおも動こうとする体をジャンが押さえ、サエキが警戒しながら距離を取る。
やがて、獣の動きが止まった。
ジャンはナイフを引き抜き、刃の状態を確かめてから身を引いた。
「これでよし。銃を使わずに済んだな」
「助かった。ここにいるのがこいつ一匹とは限らないからな」
サエキは倒れた獣に目を向けた。
異常な変異の原因は、まだわからない。だが、ここが単なる廃墟ではない可能性は、さらに高まった。
「先へ進もう。今の音で気づかれた可能性もある」
「そうだな。次は何が出てくるかわからない」
二人はナイフを収め、周囲への警戒を保ったまま建物の奥へ進んだ。
ここで何が行われていたのか。
そして、コニャックで起きた事件と、どこまでつながっているのか。
その答えは、まだ見つかっていなかった。
廃塩田の奥へ進むにつれ、建物の様子は少しずつ変わっていった。
入口付近には古びた道具や崩れた木箱が散らばっていたが、奥へ行くほど床の上に物が少なくなっている。人が通るための空間が、今も維持されているように見えた。
ジャンは前方を警戒しながら、先ほど倒した獣のいた場所を振り返った。
「少なくとも、あの犬が偶然迷い込んだだけとは考えにくいな」
「ここまでの痕跡を考えれば、何者かがこの場所を利用している可能性は高い。ただ、まだ断定はできない」
「そうだな。現場を見てから判断しよう」
二人は歩みを進めた。
建物の内部には、まだ異常な力の痕跡が残っていた。しかし、それが何に由来するのか、何のために使われているのかまではわからない。
やがて、奥の広い空間から物音が聞こえてきた。
何かを扱う音。続いて、獣の低い唸り声が複数響いた。
ジャンが手を上げ、サエキを制する。
二人は声を立てず、物陰から奥をうかがった。
そこにいたのは、一人の女だった。
女の足元には、数匹の犬が集まっている。どの個体も落ち着きがなく、互いに威嚇するように唸っていた。
女は手にしていたものを犬たちへ与えた。
その直後、犬たちの様子が変わった。
体が大きく揺れ、苦しむような動きを見せる。やがて、そのうちの一匹が床を引っ掻きながら、異様な姿へと変わっていった。
サエキは息を潜め、その様子を見つめた。
「……魔薬か?」
「可能性はある。ただ、何を使っているのかまではわからない」
サエキは女と犬たちを観察した。
変化の直前に与えられたものと、犬たちの異常な反応。その間に関係がある可能性は高い。
だが、それだけで変異の仕組みまで理解できたわけではなかった。
ジャンは女から目を離さないまま、声を落とした。
「サエキ。ひとつ伝えておく」
「何だ?」
「あの女、以前に交戦した魔女に似ている。数年前、俺が応援に入った作戦で追い詰めた相手だ」
「本人だと思うのか?」
「まだ断定はできない。ただ、あのときの魔女は追い詰められると魔力を暴走させようとした。今回も同じ手を使う可能性がある」
「なるほど。最後まで油断できない相手というわけか」
「ああ。俺も詳しい能力をすべて把握しているわけじゃない。警戒しておいてくれ」
「わかった」
サエキは呪具を取り出し、法力を巡らせた。
まず、自身に対する魔法的な干渉の影響を抑えるため、耐性を高める呪法を施す。続いて、防御の呪法を重ねた。
未知の魔法を完全に無効化できるわけではない。相手の能力がわからない以上、備えを過信するつもりもなかった。
ジャンもまた、武器を確かめながら身構えた。
「準備はいいか?」
「いつでも」
二人が物陰から姿を現すと、女はすぐにこちらへ顔を向けた。
犬たちの唸り声が止まる。
女はサエキとジャンを交互に見て、ゆっくりと口元を歪めた。
「わざわざ、こんなところまで来るなんて。よほど死にたいらしいわね」
「ここで何をしている?」
サエキの問いに、女は答えなかった。
代わりに、指先を軽く動かす。
犬たちが一斉に唸り声を上げた。
次の瞬間、サエキの視界が揺らいだ。
目の前にいる女の姿が、わずかにずれる。距離感が狂い、床の位置さえ曖昧になる。音の方向も定まらず、複数の足音が周囲から迫ってくるように聞こえた。
幻惑と、判断を乱すための妨害。
だが、サエキはすぐに法力を巡らせた。
あらかじめ施した呪法が、魔法的な干渉に対する備えとなる。視界の揺らぎは残ったものの、判断を奪われるほどではなかった。
「ジャン、正面だ!」
サエキの声とほぼ同時に、ジャンが動いた。
犬の一匹が横から飛びかかる。ジャンは身をひねってその突進をかわし、間合いを詰めてくる女へ向き直った。
女は一歩退き、再び指を動かす。
今度は床の感覚が歪み、ジャンの足元が崩れたかのように見えた。
しかし、ジャンは動きを止めなかった。
わずかな違和感を無視するのではなく、足元を確かめるように踏み込みを変える。そのまま女の攻撃をかいくぐり、懐へ入り込んだ。
短い打撃が女の身体を捉える。
女がよろめいた。
サエキはその様子を見ながら、冷静に状況を分析していた。
「なるほど。妨害そのものは厄介だが、魔法の威力で押し切るタイプではないな」
女の顔が、わずかに引きつった。
「何ですって?」
「獣を変異させる手段は危険だ。幻惑も、備えがなければ判断を誤らされるだろう。だが、魔法そのものは決定打になっていない。魔法に特化したタイプではないのか」
「黙りなさい!」
女が叫ぶ。
犬たちが一斉に動いた。
そのうちの一匹がジャンへ突進し、別の一匹がサエキの側面へ回り込む。異様に膨れ上がった身体が床を蹴り、獣の爪が石床を削った。
サエキは迫る犬の動きを見極め、呪具を構えた。
法力を流し込み、異常な力の働きに干渉する。犬の動きが一瞬だけ鈍った。
その隙にサエキは身をかわし、距離を取り直す。
「ジャン、そいつは普通の犬じゃない。無理に正面から受けるな!」
「わかっている!」
ジャンは犬の突進を誘い、ぎりぎりで横へ逃れた。
獣が通り過ぎる瞬間、その動きに合わせて銃を構える。しかし、別の犬が割り込んできたため、射線を確保できない。
ジャンは舌打ちし、いったん距離を取った。
魔女はその様子を見て、再び笑みを浮かべる。
「どう? 自慢の腕も、獣に囲まれれば役に立たないでしょう?」
女の周囲で、空気が不自然に揺らいだ。
幻惑が再び二人を襲う。
だが、サエキはすでに身構えていた。
視界に生じた歪みを追いかけず、法力によって自らの感覚を保つ。完全に影響を受けなくなったわけではない。それでも、敵の位置を見失うことはなかった。
「ジャン、左に一匹。奥の個体はお前を狙っている!」
「助かる!」
ジャンはサエキの指示に従って動いた。
犬の突進を避け、互いの位置を入れ替える。獣たちの動きが重なった一瞬、ジャンは魔女へ再び接近した。
女は反応が遅れた。
ジャンの攻撃が、今度は明確に身体を捉える。
魔女が後退し、壁際へ追い込まれた。
「くっ……!」
サエキは追撃を急がず、女の様子を観察していた。
魔女の攻撃は、単純な威力で相手をねじ伏せるものではない。獣を使い、感覚を狂わせ、判断を乱し、その隙を突く。そうした手段が十分に機能しない状況では、戦い方そのものが崩れていく。
「搦め手が中心ということか。だが、仕組みがわからない相手に対して、同じ手が何度も通用すると思わないことだ」
その言葉が、魔女の怒りに火をつけた。
「あなたたちごときが……私を見下すな!」
女の身体から、異様な気配が膨れ上がった。
周囲の空気が震え、床に散らばっていた小さな破片が跳ねる。
サエキは即座に身構えた。
これは、先ほどまでの幻惑や妨害とは違う。
魔女は傷ついた身体をかばうこともせず、ただ二人を睨みつけていた。その表情から、冷静な判断が失われつつあることが見て取れた。
ジャンの目が細くなる。
数年前の光景が脳裏をよぎった。
追い詰められた魔女。急激に膨れ上がる魔力。そして、仲間の負傷と混乱のなかで逃げられた、あのときの失敗。
「まだ同じ手を使うのか。芸がないな」
ジャンは魔女の動きを注視した。
魔力が暴走すれば、周囲を巻き込む危険がある。過去と同じ結果を繰り返すわけにはいかなかった。
魔女が何かを叫ぶ。
その瞬間、ジャンは懐から聖粉を取り出し、魔力の暴走を妨げるために用いた。
膨れ上がっていた異常な気配が乱れる。
魔女の顔に、初めて明確な動揺が浮かんだ。
「な……!」
ジャンは、その一瞬を逃さなかった。
銃を構え、引き金を引く。
銃声が廃塩田に響いた。
魔女の身体が崩れ落ち、膨れ上がっていた気配もまた、急速に失われていった。
しばらく、誰も動かなかった。
サエキは周囲を警戒しながら、倒れた魔女へ視線を向ける。ジャンも銃口を下げず、相手の動きを確かめていた。
やがて、ジャンは魔女から目を離さないまま、短く息を吐いた。
「……終わったか」
「少なくとも、今の攻撃は止まった。周囲も確認しよう」
サエキは慎重に周囲を見回した。
犬たちは動きを止めていた。変異がどういう仕組みで起きていたのか、魔女が使っていたものが何だったのか。それらは、現場に残された証拠を調べなければわからない。
ジャンは銃を下ろし、通信機を取り出した。
「こちらジャン。対象との交戦を終了した。現場の確保と調査が必要だ。応援を要請する」
必要な情報を伝え、通信を終える。
「これで、あとはEURO-Aの仕事だな」
「まだ現場の確認が残っている。何が見つかるかは、それからだ」
「違いない」
二人は周囲を警戒しながら、応援部隊の到着を待った。
魔女は倒れた。だが、犬たちを変異させた魔薬の正体も、異常な力がどのように作用していたのかも、まだ明らかではない。
事件の終わりと、謎の解明は必ずしも同じではなかった。
その後、到着したEURO-Aの現場部隊へ、ジャンは交戦の経緯と現場の状況を引き継いだ。サエキも調査に必要な情報を共有し、二人は現場を後にした。
夕暮れの葡萄園には、秋の冷たい風が吹いていた。
見渡す限りの畑が、沈みかけた陽光を受けて赤褐色に染まっている。
テラス席に腰を下ろしたサエキは、グラスを傾けた。
「……やれやれ、ひどい観光になったよ」
向かいに座るジャンは、煙草の煙を静かに吐き出した。
「最初から観光のつもりだったのか?」
「少なくとも、犬に追い回されたり、魔女と撃ち合ったりする予定はなかったな」
「それは残念だった」
「まったくだ」
サエキは苦笑し、グラスを置いた。
ジャンは何も言わず、サエキのグラスへワインを注ぎ足した。
夕暮れの光が、二人の間に置かれたボトルを照らしている。
事件は終わった。
しかし、現場に残された痕跡が何を意味するのか。今回の魔女が使っていたものと、これまでに追ってきた異常な事象との間に、本当に関係があるのか。
その答えは、まだ出ていなかった。
サエキは葡萄園を眺めながら、もう一度グラスを手に取った。
異聞始末録 ジャンの手記
フランスの葡萄園近くで発生した、魔薬による獣の変異と魔女の潜伏事件。サエキと協力し、廃塩田に潜んでいた魔女を討伐した。
あの魔女とは、過去にも一度交戦している。
当時、俺たちは魔女を追い詰めた。だが、最後の一歩が届かなかった。魔女は魔力を暴走させ、俺たちは負傷した仲間を守りながら、その場を切り抜けることを余儀なくされた。混乱のなかで魔女を取り逃がしたことは、今も記憶に残っている。
今回、あの女はまた同じ手を使おうとした。
だが、今度は違った。兆候を見逃さず、魔力の暴走を阻止し、最後まで追い詰めた。あのとき終わらせられなかった戦いに、ようやく決着をつけることができた。
これで過去が変わるわけではない。負傷した仲間のことも、取り逃がした事実も、なかったことにはならない。それでも、同じ相手に同じ結末を許さずに済んだ。それだけは確かだ。
サエキは、まだ欧州を巡るつもりらしい。
あいつなら、どこへ行っても何とかするのだろう。長い付き合いだからこそ、そう思える。だが、実力があることと、厄介事に遭わずに済むことは別の話だ。
次に顔を合わせるときには、せめて土産話くらいで済ませてほしいものだ。
――どうか、あいつの行く先々に銃声が響くことのないように。




