第ニ章 甘い休息
ジャンはオーナーへの説明を終えると、すぐに現場の確認へと戻った。
葡萄畑のあちこちで、土が踏み荒らされ、葡萄の枝が折れていた。畝の一部は崩れ、地面には獣の足跡がいくつも残されている。怪物が暴れ回った痕跡が、生々しく広がっていた。
ジャンはしゃがみ込み、地面に残された足跡や荒れた畑を注意深く観察した。
「……なるほどな」
足跡の深さや向きを確かめたあと、ジャンは少し離れた場所にいるサエキへ目を向けた。
「今回は普段どおりの対処をしたらしいな。葡萄畑がこの程度で済んで、オーナーも喜ぶだろうよ」
皮肉めいた冗談だった。
先ほど目にした、地面を深く抉るほどの一撃を思い出せば、つい口にしたくもなる。
しかし、当のサエキは水のグラスを片手に、どこか遠くを眺めていた。
「いやあ、せっかくのフランス旅行なのになあ……」
どうやら、ジャンの言葉は耳に入っていないらしい。
ジャンは小さく息を吐き、再び現場へと視線を戻した。
酔っていることを咎めるつもりはなかった。少なくとも、今のサエキは指示を理解しているし、現場を荒らすような真似もしていない。水を持たせておけば、ひとまず問題はないだろう。
それよりも、調べるべきことがあった。
ジャンは怪物が現れた地点から、葡萄畑の外縁へと歩いていく。
今回の怪物は、先ほど森で遭遇したものとよく似ていた。犬とも狼ともつかない姿に、通常の動物とは明らかに異なる異様さ。事前の報告にあった個体とも特徴が一致している。
しかし、気になることがひとつあった。
これほど短い間に、別々の場所で似た怪物が現れている。
偶然と片づけるには、少々重なりすぎていた。
「オーナー」
ジャンは少し離れた場所に立つ男を呼んだ。
「怪物が現れる前、何か変わったことはなかったか? 妙な音や臭い、動物の異常な行動でもいい」
オーナーは困惑した表情で考え込んだ。
「いえ……特には。従業員たちも、最初は野犬か何かだと思っていたようです。ただ、姿を見た者は、普通の犬ではないとすぐに気づいたそうで……」
「姿を見たのは、いつだ?」
「騒ぎになる少し前です。畑の向こうに何頭か見えた、と」
「何頭か、か」
ジャンはその言葉を端末に記録した。
「現れた場所は?」
「畑の端です。森に近いほうでした」
ジャンはそちらへ目を向けた。
葡萄畑の向こうには、木々の連なる緩やかな斜面が広がっている。森と畑の境界は、遠目にははっきりしなかった。
怪物が森から移動してきたのか。それとも、別の場所から現れたのか。
今の情報だけでは判断できない。
「わかった。従業員にも、見たことを順番に話してもらう。記憶が曖昧でも構わない。無理に思い出そうとせず、覚えていることだけでいい」
オーナーが頷くのを確認し、ジャンは再び現場へ戻った。
その途中、サエキが水のグラスを持ったまま声をかけてきた。
「なあ、ジャン」
「なんだ?」
「こいつら、森から来たのかなあ」
サエキは森のほうを向いていた。
ジャンは足を止めた。
「それを今、調べているところだ」
「そっかあ」
サエキは水を飲み、少しだけ首を傾げた。
「パリでも、こんなのが出たんだよなあ。公園とか、観光に行った先とか……。せっかくフランスまで来たのに、どうしてこうなるんだろうなあ」
「その話は、あとで詳しく聞く」
「今じゃ駄目か?」
「お前は今、酒が入っている」
「水も飲んでるぞ」
「見ればわかる」
ジャンはそれだけ答え、調査を続けた。
サエキは不満そうに口を尖らせたものの、それ以上は食い下がらなかった。グラスを片手に、葡萄畑と森を交互に眺めている。
ジャンは彼の様子を気に留めず、現場の記録を進めた。
森で遭遇した個体。ワイナリーに現れた個体。そして、サエキがパリで遭遇したという怪物。
どれも似た特徴を持っている。
だが、外見が似ていることだけで、すべてが同じ原因によって発生したとは限らない。まずは現場ごとの状況を集め、比較する必要がある。
ジャンは端末の画面を確認し、EURO-Aの担当部署へ追加報告を送信した。
調査員の到着を待つ間にも、確認できることはある。
彼は森へ続く境界付近を見渡した。怪物の足跡が残っている可能性もあるが、すでに人が行き来した場所も多い。踏み荒らされる前に、専門の調査員へ確認させたほうがいいだろう。
「ここから先は、担当者が来てからだな……」
ジャンがそうつぶやくと、背後から気の抜けた声が返ってきた。
「じゃあ、それまではワインの話でもするか?」
「しない」
「まだボルドーの話、途中だったんだが」
「今は怪物の話をしている」
「そうかあ……」
サエキは残念そうに水を飲んだ。
ジャンは振り返らなかった。
目の前には、怪物に荒らされた葡萄畑が広がっている。踏み荒らされた土、折れた枝、残された足跡。どれも怪物が暴れた痕跡であり、サエキの攻撃による破壊の跡は見当たらなかった。
この程度の被害で済んだのなら、オーナーにとっては不幸中の幸いだろう。
もっとも、先ほどの一撃を思い返せば、ジャンとしては素直にそう言い切る気にもなれなかったが。
この場所で何が起きたのか。
なぜ、似た怪物が各地に現れているのか。
まだ、答えはひとつも出ていない。
ジャンは端末をしまい、森のほうへと視線を向けた。
「……さて。次は、あっちを調べるか」
その背後で、サエキが小さくぼやいた。
「観光の予定、全部組み直しかあ……」
ジャンは聞こえなかったふりをした。
『異聞始末録』葡萄園と灰色の銃声
第四章 次はコニャック
ジャンは葡萄畑に残された足跡や、怪物が暴れた痕跡をひと通り記録すると、現場の調査員が到着するのを待った。
やがて、EURO-Aの調査員たちが現場に到着した。ジャンはこれまでに確認した状況を説明し、採取した痕跡の分析を依頼する。
怪物が残したものなのか、それとも別の要因によるものなのか。現段階では判断できない。魔女に関係する痕跡の可能性も、魔薬に関係する痕跡の可能性も、どちらも捨てるべきではなかった。
そのとき、調査員のひとりが新たな報告を持ち込んだ。
「コニャックでも、似たような事件が起きています」
「コニャックだと?」
「はい。現場の状況も、こちらとよく似ているそうです」
ジャンは少し考え込んだ。
ボルドー近郊のワイナリーと、コニャックの現場。場所は違っても、怪物の特徴や被害状況に共通点がある。
「……わかった。こちらの現場は任せる。残留物の分析を進めてくれ。何かわかったら、すぐに報告を」
「了解しました」
ジャンは必要な引き継ぎを済ませると、サエキを連れて移動することにした。
機関が手配したヘリコプターが、ワイナリーの近くで待機していた。
搭乗前、ジャンはサエキを振り返った。
「おい、行くぞ」
「んー……」
返事はあったものの、サエキは水のグラスを置き、名残惜しそうにワインのボトルを眺めていた。
「もう飲むな。行くぞ」
「はいはい……」
サエキは不満げながらも立ち上がった。
こうして二人はヘリコプターに乗り込み、コニャックへと向かった。
ところが、離陸してしばらくすると、サエキは窓の外を眺めていたかと思う間もなく、座席にもたれかかって眠り込んでしまった。
「……おい」
ジャンが声をかけても、返事はない。
先ほどまで旅行の愚痴をこぼし、ワインの話を延々と続けていた男は、今ではすっかり静かになっていた。
ジャンは額に手を当てた。
「まったく……」
やがてヘリコプターがコニャックの現場に近づいたころ、ジャンは眠り続けるサエキの肩を揺すった。
「サエキ。起きろ」
「ん……?」
「起きろと言っている。お前、パリのどこに泊まっている?」
「……ホテル?」
「それはわかっている。場所とホテル名を言え」
サエキは目をこすり、まだ半分眠ったような顔で答えた。
「パリの……というホテルだ…….」
ジャンは一瞬、聞き間違いかと思った。
「……そこに泊まっているのか?」
「そうだぞ……。いいホテルなんだ。部屋も広いし、朝食も……」
そこまで話すと、サエキはまた目を閉じかけた。
ジャンは呆れたように息を吐いた。
「お前、ずいぶん高級なところに泊まっているんだな」
「せっかくの旅行だからなあ……」
「旅行、旅行って……」
ジャンはそれ以上言うのをやめた。
怪異に遭遇するたびに騒ぎへ巻き込まれ、ワイナリーでは酔ったまま怪物を一撃で消し飛ばした男が、宿泊先には相当な金をかけているらしい。
どこから突っ込めばいいのか、もはやわからなかった。
ジャンは操縦席へ顔を向けた。
「悪いが、行き先を変更してくれ。こいつをパリの宿泊先まで送る」
操縦士が了承の合図を返す。
「コニャックの現場はどうする?」
「調査員に先に確認させる。こちらはサエキを送り届けてから合流する」
ジャンは座席に沈み込むサエキを見やった。
本人はもう返事をする気もないらしい。再び眠りに落ち、規則正しい寝息を立て始めていた。
「……次は酒のない場所で会いたいもんだ」
ジャンのぼやきは、ヘリコプターのローター音にかき消された。
機体は進路を変え、パリへ向かって飛んでいった。
パリの朝は、ボルドーの葡萄畑とは違った顔を見せていた。
ジャンは高級ホテルの正面玄関をくぐり、磨き上げられた大理石の床を横目に見た。頭上には豪奢なシャンデリアが輝き、落ち着いた制服を着た従業員たちが、宿泊客を恭しく迎えている。
こうした場所に来た経験がないわけではない。仕事柄、格式のある施設に足を踏み入れる機会もある。
それでも、怪物の調査に追われている身としては、どうにも落ち着かない場所だった。
「片や怪物の後始末、片や高級ホテルで優雅な朝食か。まったく、ずいぶんな差だな」
ジャンは小さくつぶやいた。
皮肉をひとつこぼし、フロントへ向かう。
身分を明かしてサエキへの取り次ぎを頼むと、従業員は丁寧に応対し、内線で連絡を始めた。
「サエキ様は館内のラウンジにいらっしゃいます。ご案内いたします」
「頼む」
従業員の案内に従って廊下を進み、ラウンジへと足を踏み入れたジャンは、室内をひと目見渡した。
壁には絵画が飾られ、彫刻や装飾品がさりげなく配置されている。窓から差し込む朝の光が調度品を照らし、奥に置かれたピアノからは穏やかな旋律が流れていた。
その一角に、探していた男の姿があった。
サエキはゆったりとした椅子に腰掛け、テーブルのカップを両手で包んでいた。立ち上る甘い香りからして、中身はホットチョコレートらしい。
ひと口飲み、満足そうに息をつく。
「……落ち着くな」
「ずいぶん優雅な朝だな」
ジャンが声をかけると、サエキは顔を上げた。
「ジャン。わざわざ来てくれたのか」
「仕事の話がある」
「そうか。座ってくれ」
ジャンは向かいの椅子を引いて腰を下ろした。サエキの顔色を確かめるように、しばらくその様子を眺める。
「二日酔いは?」
「大丈夫だ。昨日、ホテルに送ってもらい、法力と呪法で酔いを抜いた」
「……なに?」
ジャンは眉を寄せた。
「昨日の状態を正常に戻せるのか?」
「法力と呪法で身体の状態を整えたんだ。酒が残っていては、せっかくの旅行も楽しめないからな」
サエキは何でもないことのように答え、ホットチョコレートに口をつけた。
ジャンは納得しきれない様子で腕を組んだ。
「魔法には、似たようなものはないのか?」
「酒を抜くためだけの魔法は聞いたことがないな」
「そうなのか」
サエキは少し考え、首を傾げた。
「では、アメリカ由来の魔法かもしれないな」
「アメリカか……」
ジャンの表情がわずかに曇った。
何か言いたげな様子だったが、結局、それ以上は口にしなかった。
「まあ、使えるなら覚えておきたいところだ。任務のあとに酒を飲む機会もある」
「必要なら、使い方を教えよう」
「頼む。説明を聞いている途中で、お前が酔いつぶれなければいいが」
「昨夜のことを持ち出すのはやめてくれ」
サエキは苦笑した。
ジャンは不思議そう表情で口を開いた。
「人のことは言えないがお前は治癒の魔法は苦手だったな?」
サエキは苦笑いをしながら答える。
「あぁ……習得できていない」
「その酔いを治すものとどう違うんだ?俺は魔法自体が苦手だ」
サエキは少し考えてから答える。
「これは今だに解決していない問題だが、日本が主に使う法力と欧米発祥の魔法に違いはあまりない俺は考えている。俺は両方使用するが個人の差によるが、文化や環境で発展の仕方が変わっただけぜ同じエネルギーを使用しているんだよ。」
ジャンは黙って聞いてる。
「欧州の魔法とアメリカの魔法を一緒にすると文句を言われるが結局それはその土地に合った使い勝手に合わせているだけだ。根底は一緒だというのは俺の考え方だ。そこに個人差で得意、不得意があると思うが。」
ジャンは少し眉を顰める。
欧州発祥だとされてる魔法だが、アメリカではそれを独自に、より高火力に発展させた。
当初は批判されたらしいが、海外のようなモンスターの出現傾向が多い場合はそちらの方が手っ取り早い。
サエキも魔法を学んでおり、多数ある魔法を少しずつではあるが欧州魔法と米国魔法を会得している。
誰にも言っていないことだが、攻撃系の魔法や身体強化系は米国魔法の方が効率がよく威力や効果も高いのでそちらを会得している。
だが欧州の言い分もわかる、日本も同じで広大な土地ではなく歴史的に価値ある建物やビル等が密集してる場合に高火力の米国魔法は2次被害に繋がる。
まして日本はモンスターよりも実体を持たぬものや、呪いや瘴気を撒き散らす傾向が高いので法力などの浄化系統のものを取得している場合が多いと国交の観点からも米国魔法を使うものが多い。
あと単純にカッコいいよね、ロマン砲よ、ロマン砲(これを欧州組に言うと袋叩きにあう)。
ジャン少し不機嫌になったのを見てサエキは話を切り上げる。
「とにかく俺は治癒魔法ができないが、耐性あげることはできる。こればっかりは相性だろうな」
「腑に落ちんが、まぁいいだろう」
短い沈黙が落ちる。ラウンジにはピアノの音色が流れ、周囲の客たちはそれぞれ穏やかな朝を過ごしていた。
やがて、ジャンは表情を改めた。
「さて。仕事の話だ」
「その前に、ひとつ頼みがある」
サエキの言葉に、ジャンは目を向けた。
「なんだ?」
「今回の件だが、正式に協力を頼みたい」
ジャンはそう言って、サエキをまっすぐに見た。
「お前は事件に巻き込まれた側でもある。現場で対処してくれたことには感謝しているが、それとこれからの調査は別だ。無条件で仕事をさせるわけにはいかない」
言葉を切り、続ける。
「協力してもらう以上、報酬は機関から出す。必要な手続きもこちらで進める」
サエキは少し目を見開いたあと、穏やかに笑った。
「気にしなくていい。初めから、君に協力するつもりだった」
「……そうか」
「ただ、正式な依頼にしてくれるなら、そのほうがこちらも気兼ねなく動ける」
ジャンは口元を緩めた。
「交渉成立、というわけだな」
「そういうことだ」
二人は顔を見合わせ、どちらからともなく小さく笑った。
ジャンが右手を差し出す。
「すまないな」
「構わない」
サエキはその手を握った。
長い付き合いのある友人同士の、簡潔なやり取りだった。余計な言葉は必要なかった。
握手を交わして手を離すと、サエキはテーブルのカップを少し脇へ寄せた。
「それで、何か飲むか? ここは私にご馳走させてくれ」
「なら、ブラックコーヒーを頼む」
「わかった」
サエキは近くを通りかかった従業員を呼び止め、ジャンの注文を伝えた。
従業員が離れると、ジャンは持参した資料を取り出し、テーブルの上に広げた。サエキもホットチョコレートを脇へ置き、資料へと目を向ける。
ほどなくしてコーヒーが運ばれてきた。ジャンは礼を言い、香りを確かめるようにひと口飲んでから、資料の一枚を指で示した。
「まず、現場で採取したものについてだ」
仕事の時間だった。
ジャンは記録を確認しながら説明を始めた。
「変異した犬の爪や体表には、土や植物片が付着していた。特に気になったのは、そこに混じっていた薬草に似た臭いだ」
「薬草に似た臭いか」
「ああ。普通の野犬が畑を荒らしただけなら、土や植物片が付くこと自体は不自然じゃない。だが、今回の個体は見た目も行動も通常の犬とは違っていた。付着物も含めて調べる必要がある」
ジャンは記録の一部を指先で叩いた。
「臭いだけで何かを断定するつもりはない。採取したものは、専門の調査員に分析させている。だが、何らかの物質を意図的に与えられた可能性は考えておくべきだろう」
サエキは資料を読みながら、静かに頷いた。
「自然に変異したのではなく、何者かが手を加えた可能性があるということだな」
「そうだ。少なくとも、野犬が凶暴になっただけとは考えにくい」
ジャンは別の記録を取り出した。
「それから、現場で見つかった不自然な痕跡だ。まだ分析の途中だが、物理的な痕跡だけでは説明できない可能性もある」
「術的な作用が関わっているかもしれない、ということか」
「可能性のひとつだ。今の段階では、決めつけられない」
サエキはカップをテーブルの端へ寄せた。くつろいでいた表情が、少しずつ調査員としてのものへと変わっていく。
「採取したものは、まだ残っているか?」
「必要なものは確保してある。現地の調査員にも、残留物の保全と分析を指示してきた」
「それなら、こちらでも調べられる」
サエキは資料から目を離し、考えをまとめるように言葉を選んだ。
「物質が残した痕跡と、そこに残っている力の痕跡は、別々に調べる必要がある。両方を照らし合わせれば、何かわかるかもしれない」
「お前なら、残留した力を追えるか?」
「実際に調べてみないと、確かなことは言えない。ただ、変異に術的な作用が関わっているなら、何らかの手掛かりを見つけられる可能性はある」
「わかった。俺は物理的な証拠を追う。お前は残留した力を調べてくれ」
「承知した」
ジャンはコーヒーをひと口飲み、別の資料を開いた。
「もうひとつ。コニャックでも、ボルドーと似た状況が確認されているらしい」
「同じような変異が、別の場所でも起きているのか」
「ああ。あちらの調査結果も揃えば、比較できる情報が増える。共通する痕跡が見つかれば、偶然では片づけにくくなる」
「複数の現場をつなぐ手掛かりが必要だな」
「そういうことだ」
ジャンは資料をまとめ、サエキへ視線を向けた。
「まずは現場の情報を整理する。お前には、残留した力の調査を頼みたい。物理的な証拠と合わせて、次に何を調べるべきか判断する」
「わかった。できる限り調べてみよう」
サエキは落ち着いた声で答えた。
窓の外には、朝の光を受けたパリの街並みが広がっている。ラウンジでは変わらずピアノが奏でられ、周囲の客たちは静かな時間を楽しんでいた。
その穏やかな空間で、二人は葡萄畑で起きた異変について、手元の資料をもとに情報を整理していく。
変異した犬は、自然に生まれたものではないのかもしれない。
何らかの物質が与えられ、そこに何らかの力が作用した。
しかし、それが具体的に何なのか、誰が関与しているのかは、まだわからない。
「現場で、ほかに気になったことはあるか?」
ジャンが尋ねた。
「今のところは、実際に残留した力を調べてからだな。痕跡を確認する前に、正体を決めつけるわけにはいかない」
「もっともだ」
ジャンは短く答え、資料を閉じた。
サエキは冷めかけたホットチョコレートを手に取った。
「ところで、ジャン。このホットチョコレート、なかなか美味しいぞ」
「……仕事の話が終わったと思ったら、それか」
「君も飲んでみるといい」
「俺はコーヒーで十分だ」
「そうか。それは残念だな」
サエキはそう言って、再びカップに口をつけた。
ジャンは呆れたように息を吐いたが、その口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
事件の全貌は、まだ見えない。
それでも、二人はそれぞれの方法で、少しずつ真相へ近づこうとしていた。




