第一章 葡萄園と銃声
最初の連絡が入ったのは、フランスの森で異常な獣が目撃されたという報告からだった。
犬に似ている。だが、普通の犬ではない。
目撃者の証言には、そんな曖昧な言葉が並んでいた。獰猛で、異様に力が強く、通常の野生動物とは思えない動きを見せるという。
さらに調査を進めた結果、怪異の身体には魔術的な変質の痕跡が見られた。
かつてこの地方を恐怖に陥れた、ジェヴォーダンの獣。
その劣化版とも呼べる存在が、森の中に現れているらしい。
報告を受けたジャン=リュックは、愛用の十二ゲージ・ショットガンを手に現場へ向かった。
森の入口に車を止め、銃の状態を確かめる。装填するのはスラッグ弾。相手が通常の獣ではない以上、最初から確実に仕留められる装備を選ぶ必要があった。
木々の間へ足を踏み入れると、湿った土と腐葉土の匂いが鼻をついた。
その奥から、低い唸り声が聞こえた。
ジャンは歩みを止めた。
茂みが揺れる。
飛び出してきたのは、狼に似た姿の獣だった。
ただし、その身体つきは自然なものではない。筋肉の盛り上がり方も、口元から覗く牙も、どこか歪んでいた。
獣はためらわずに飛びかかってきた。
ジャンは横へ身をずらし、銃口を向ける。
銃声が森を震わせた。
一頭が地面へ崩れ落ちる。だが、銃声に反応した別の個体が、間を置かずに襲いかかってきた。
ジャンは後退せず、踏み込んだ。
接近してきた獣の動きを見切り、身をかわしながら銃を構え直す。至近距離で放たれた一発が、獣の突進を止めた。
続いて現れた個体も、同じように仕留めていく。
やがて、森に響いていた唸り声は途絶えた。
ジャンは周囲を警戒しながら、倒れた獣を確認した。
普通の犬や狼とは明らかに異なる身体。魔術によって何かを変えられたような痕跡。
単なる野生動物の異常行動では説明がつかない。
「……面倒な話になってきたな」
ジャンは煙草を取り出しかけ、ふと思い直した。
まだ調べるべきことが残っている。休憩は後だ。
そのとき、携帯端末が鳴った。
EURO-Aからの連絡だった。
ジャンは欧州対怪異機構(EURO-A)に所属する治安・特殊聖導介入官で、元GIGN隊員兼バチカン公認エクソシスト。
髭と深い皺が特徴の渋い大人の男だか、それを言われると不機嫌になる。
ジャンは通話を受け、報告に耳を傾ける。
森での一件とは別に、近隣のワイナリーからも異常事態の報告が入ったという。
現地で、正体不明の怪物が出現したらしい。
「……今度はワイナリーか」
ジャンは森を振り返った。
片づけなければならない問題が、ひとつ増えた。
第二章 葡萄園の酔客
ワイナリーへ向かう道は、穏やかな景色に満ちていた。
整然と並ぶ葡萄畑。遠くに見える丘。秋の気配を含んだ風が、車窓を流れていく。
観光で訪れるなら、申し分のない場所だろう。
仕事でなければ、という条件さえなければ。
「……煙草一本分くらい、平穏な時間があっても罰は当たらんだろうに」
ジャンは小さくこぼした。
休暇を楽しんでいる人間たちが、少しばかり羨ましかった。
だが、そんな感傷に浸っている暇はない。先ほどの森で起きたことと、今回のワイナリーの一件。どちらも魔術的な異常が関わっている可能性がある。
偶然と片づけるには、気になる点が多すぎた。
やがて車はワイナリーへ到着した。
入口で待っていた経営者らしき男が、ジャンの姿を認めて駆け寄ってくる。
「EURO-Aの方ですね。お待ちしていました」
「報告にあった怪物について聞きたい。何が起きた?」
男は少し困ったように笑った。
「それが……日本から来ていた観光客が、全部片づけてしまいまして」
「日本の観光客?」
「はい。こちらとしても驚いたのですが、彼らが怪物を退治してくれたんです。」
ジャンは眉を寄せた。
怪物を退治したというだけなら、さほど珍しい話ではない。
だがそれを観光客、しかも日本から来た者というのだ。
「その日本人は、今どこにいる?」
「それが……ワインを飲んでいらっしゃいます」
「……ワインを?」
ジャンは聞き返した。
怪物が現れた現場で、事件を片づけた観光客がワインを楽しんでいる。
平和なのは結構だが、状況との落差が大きすぎる。
「ご案内します」
経営者の後について、ジャンは葡萄畑に面したテラスへ向かった。
そこで、ひとりの男がグラスを手にしていた。
テーブルには空になったワインボトルが一本。男の手元には、これから開けようとしている別のボトルがある。
椅子に深く腰掛け、いかにも満足そうな様子で、葡萄畑を眺めていた。
ジャンはその姿を見た瞬間、足を止めた。
「……やっぱり、お前か」
男が顔を上げる。
「こんなところで何をしている?」
「おー、ジャンか? 久しぶりだな」
サエキは、旧知の友人に出会ったことを喜ぶように片手を上げた。声には、はっきりと酒が回っている様子があった。
「ここはワイナリーだぞ? ワインを楽しんでいるんだ」
「見ればわかる」
ジャンはテーブルの上に目を落とした。
空のボトルが一本。
そして、サエキの手には二本目。
「……飲みすぎだ」
「何を言う。せっかくの旅行なんだぞ」
サエキは新しいボトルを手元へ引き寄せながら、ひどく不満そうに眉を寄せた。
「休暇を取って欧州まで来たんだ。のんびり観光して、美味いものを食べて、ワインを飲んで……そういう旅行のはずだったんだ」
「観光に来たのはわかった。だが、さっきの怪物は何だ?」
その問いをきっかけに、サエキの愚痴が始まった。
「だから、それだよ。せっかくの旅行が台無しなんだ。いいか、ジャン。ボルドーのワインっていうのはな、赤ならカベルネ・ソーヴィニヨンやメルローが有名なんだ」
サエキはグラスを持ち上げ、液面を眺めた。
「同じ赤でも、土地や作り手によって香りも渋みも違う。飲み比べると、それぞれの個性がわかって面白いんだよ。わかるか?」
「……ああ」
「わかってないな、その返事は。ワインっていうのは、ただ飲めばいいってもんじゃない。何と合わせるかも大事なんだ。チーズもいいが、地元の生ハムやリエット、それにパン。こういうものを一緒に楽しむとな、これが実にいい」
サエキは熱弁を振るいながら、グラスを口へ運んだ。
「土地のものを、その土地のワインで楽しむ。これこそ旅行の醍醐味というものだろう?」
「ワインの講釈はもういい。俺はフランス人だぞ?」
「だからこそ、フランス人の意見も聞いておきたいんじゃないか」
「酔っ払いの理屈だな」
「旅人の情熱と言ってくれ」
サエキは愉快そうに笑った。
それから、空になったボトルを一瞥し、手元の新しい一本へ目を向ける。
「……いや、待てよ。ここのワイン、もう一杯くらい飲んでから評価するべきかもしれん」
「評価は後にしろ。怪物の話をしているんだ」
「わかってる、わかってる。話を戻せばいいんだろう?」
そう言いながらも、サエキの手は新しいボトルへ伸びていた。
ジャンはその手を見て、深々と息を吐いた。
「それで、何があった?」
「何があったも何も……」
サエキは今度こそ不満を隠さず、椅子の背にもたれた。
「俺は休暇を楽しみに来たんだぞ。ところが、フランスに着いてからというもの、行く先々で狼みたいな化け物に襲われる。パリの宿でも、観光に出かけた先でもだ」
グラスを置く音が、テーブルに小さく響いた。
「せっかく楽しみにしていた旅行が、これじゃ台無しだよ。どこへ行っても怪物、怪物……いい加減にしてほしいね」
「待て」
ジャンの声が変わった。
サエキが顔を上げる。
「パリでも、同じような怪物に遭遇したのか?」
さっきまでの気だるげな態度が、ジャンの顔から消えていた。
森で出現した怪物。そして、このワイナリーで騒ぎを起こした獣。
それらは、単独で発生した異常ではないのかもしれない。
もしパリでも同じような怪物が現れていたのなら、話は変わってくる。
ジャンはサエキを見据えた。
「詳しく聞かせろ。どこで遭遇した? どんな姿をしていた?」
「……おいおい。急に仕事の顔になるなよ」
サエキは苦笑したが、ジャンの表情が冗談を許すものではないと気づいたのか、グラスをテーブルに置いた。
葡萄畑を渡る風が、二人の間を吹き抜けた。
サエキの休暇を台無しにしている怪物たち。
そして、ジャンが追っている一連の事件。
その二つが、同じ根から生じたものだとすれば――。
ジャンは、サエキの話を聞き逃すまいと身を乗り出す。
ワイナリーへ向かう道は、穏やかな景色に満ちていた。
整然と並ぶ葡萄畑。遠くに見える丘。秋の気配を含んだ風が、車窓を流れていく。
観光で訪れるなら、申し分のない場所だろう。
仕事でなければ、という条件さえなければ。
「……煙草一本分くらい、平穏な時間があっても罰は当たらんだろうに」
ジャンは小さくこぼした。
休暇を楽しんでいる人間たちが、少しばかり羨ましかった。
だが、そんな感傷に浸っている暇はない。先ほどの森で起きたことと、今回のワイナリーの一件。どちらにも魔術的な異常が関わっている可能性がある。
偶然と片づけるには、気になる点が多すぎた。
やがて車はワイナリーへ到着した。
入口で待っていた経営者らしき男が、ジャンの姿を認めて駆け寄ってくる。
「EURO-Aの方ですね。お待ちしていました」
「報告にあった怪物について聞きたい。何が起きた?」
男は少し困ったように笑った。
「それが……日本から来ていた観光客の方が、全部片づけてしまいまして」
「観光客?」
「はい。こちらとしても驚いたのですが、怪物を退治してくださったんです。今はもう、普通の犬に戻っているようでして」
ジャンは眉を寄せた。
怪物を退治したというだけなら、さほど珍しい話ではない。だが、変質した獣を元の犬に戻したというのは気になる。
「その日本人は、今どこにいる?」
「それが……ワインを飲んでいらっしゃいます」
「……ワインを?」
ジャンは聞き返した。
怪物が現れた現場で、事件を片づけた観光客がワインを楽しんでいる。
平和なのは結構だが、状況との落差が大きすぎる。
「ご案内します」
経営者の後について、ジャンは葡萄畑に面したテラスへ向かった。
そこにいた男の姿を見た瞬間、ジャンは足を止めた。
テーブルには空になったワインボトルが一本。男の手元には、これから開けようとしている別のボトルがある。
椅子に深く腰掛け、いかにも満足そうな様子で葡萄畑を眺めていた。
「……やっぱり、お前か」
ジャンは呆れたように声をかけた。
「こんなところで何をしている、サエキ?」
男が顔を上げる。
「おー、ジャンか? 久しぶりだな」
サエキは旧知の友人に出会ったことを喜ぶように片手を上げた。声には、はっきりと酒が回っている様子があった。
「ここはワイナリーだぞ? ワインを楽しんでいるんだ」
「見ればわかる」
ジャンはテーブルの上に目を落とした。
空のボトルが一本。
そして、サエキの手には二本目。
「……飲みすぎだ」
「何を言う。せっかくの旅行なんだぞ」
サエキは新しいボトルを手元へ引き寄せながら、ひどく不満そうに眉を寄せた。
「休暇を取って欧州まで来たんだ。のんびり観光して、美味いものを食べて、ワインを飲んで……そういう旅行のはずだったんだ」
「観光に来たのはわかった。だが、さっきの怪物は何だ?」
その問いをきっかけに、サエキの愚痴が始まった。
「だから、それだよ。せっかくの旅行が台無しなんだ。いいか、ジャン。ボルドーのワインっていうのはな、赤ならカベルネ・ソーヴィニヨンやメルローが有名なんだ」
サエキはグラスを持ち上げ、液面を眺めた。
「同じ赤でも、土地や作り手によって香りも渋みも違う。飲み比べると、それぞれの個性がわかって面白いんだよ。わかるか?」
「……ああ」
「わかってないな、その返事は。ワインっていうのは、ただ飲めばいいってもんじゃない。何と合わせるかも大事なんだ。チーズもいいが、地元の生ハムやリエット、それにパン。こういうものを一緒に楽しむとな、これが実にいい」
サエキは熱弁を振るいながら、グラスを口へ運んだ。
「土地のものを、その土地のワインで楽しむ。これこそ旅行の醍醐味というものだろう?」
「ワインの講釈はもういい。俺はフランス人だぞ?」
「だからこそ、フランス人の意見も聞いておきたいんじゃないか」
「酔っ払いの理屈だな」
「旅人の情熱と言ってくれ」
サエキは愉快そうに笑った。
それから、空になったボトルを一瞥し、手元の新しい一本へ目を向ける。
「……いや、待てよ。ここのワイン、もう一杯くらい飲んでから評価するべきかもしれん」
「評価は後にしろ。怪物の話をしているんだ」
「わかってる、わかってる。話を戻せばいいんだろう?」
そう言いながらも、サエキの手は新しいボトルへ伸びていた。
ジャンはその手を見て、深々と息を吐いた。
「それで、何があった?」
「何があったも何も……」
サエキは今度こそ不満を隠さず、椅子の背にもたれた。
「俺は休暇を楽しみに来たんだぞ。ところが、フランスに着いてからというもの、行く先々で狼みたいな化け物に襲われる。パリの公園でも、観光に出かけた先でもだ」
グラスを置く音が、テーブルに小さく響いた。
「こっちは三日も観光しているんだ。高級ホテルに泊まって、名所を巡って、美味いものを食べて、夜はゆっくり休む。そういう旅行の予定だったんだよ。それが、外へ出るたびに怪物だ。おかげで予定はめちゃくちゃだ」
「ホテルまで襲われたのか?」
「いや、ホテルは無事だよ。宿の外で騒ぎがあったことはあるが、少なくとも部屋で寝ているときまで邪魔されたわけじゃない」
サエキはそう答えると、ワインを一口飲んだ。
「……まあ、せっかくの旅行なのに、外へ出るたびに怪物と遭遇する時点で十分ひどい話だけどな」
ジャンはサエキの話を頭の中で整理した。
森で発見された、魔術的な変質を受けた獣。
ワイナリーで暴れていた、犬に似た怪物。
そして、パリの公園や観光地でサエキが遭遇したという、狼のような怪物。
今のところ、すべてが同じ原因によるものだと断定することはできない。しかし、複数の場所で似たような怪物が出現しているのなら、関連性を調べる価値はある。
「その怪物たちは、どうやって片づけた?」
「どうって……いつも通りだよ。危険があるなら対処する。それだけだ」
サエキは、何でもないことのように答えた。
そのときだった。
葡萄畑の向こうから、獣の唸り声が響いた。
ジャンは即座に顔を向けた。
葡萄の蔓が激しく揺れ、畑の間から異様な獣が姿を現す。犬とも狼ともつかない姿。歪に膨れ上がった身体と、剥き出しの牙。
森で遭遇したものとよく似ていた。
「またか……!」
ジャンは椅子を蹴るように立ち上がり、腰のショットガンへ手を伸ばした。
だが、銃を構えるよりも早く、サエキが動いた。
「――いい加減にしろよ、お前ら!」
酔いの残る声に、今まで抑え込まれていた怒りが混じった。
サエキの手元に、法力が集束する。
それは防御のための術ではなかった。
圧縮された力が、眩い光を伴って一気に放たれる。波動弾とも光線ともつかない一撃が、獣を真正面から呑み込んだ。
轟音が響いた。
衝撃が葡萄畑を吹き抜け、周囲の空気が震える。
次の瞬間、怪物の姿は消えていた。
跡形もない。
攻撃が通り過ぎた先の地面は深く抉れ、土塊が周囲に散乱していた。葡萄畑の一角に、場違いなほど大きな傷跡が刻まれている。
ジャンは構えかけた銃を下ろした。
そして、何とも言えない顔でサエキを見た。
高威力の攻撃そのものなら、見慣れていないわけではない。EURO-Aにも強力な術者はいるし、アメリカの連中には、周囲への被害などお構いなしに火力で押し切ることを得意とする者も少なくない。
ジャンは、そうしたやり方を好まなかった。怪異を制圧することと、周囲を巻き込んで破壊することは別の話だ。歴史ある建造物や土地を数多く抱える欧州では、なおさらだった。
だが、今の一撃は、それらとは別の意味で意外だった。
ジャンがこれまで見てきたサエキの術は、防御や封印、浄化、相手の動きを封じるものが中心だった。ほかの同僚から聞いた話も、おおむね同じ傾向だったはずだ。少なくとも、目の前の地面をこれほど深く抉るような攻撃を、ジャンは見たことがなかった。
サエキが日本独自の法力や呪法だけでなく、海外の魔法も扱えることは知っていた。フリーランスとして活動する彼が、ひとつの体系に頼らない術を身につけていても不思議ではない。
それでも、実際に目にするのは初めてだった。
詠唱らしい詠唱もなく、あれほどの威力を一瞬で放つ。しかも、見慣れた魔法とはどこか様相が違っていた。法力を用いた攻撃なのか、それとも別の術式を組み合わせたものなのか。今の一撃だけでは、ジャンにも判断がつかなかった。
そして、何より気になったのは、その発動の速さだった。
サエキは酔っていた。先ほどまでワインの味や旅の愚痴を語り、まともに仕事へ戻る気もなさそうだった。それなのに、怪物が姿を現した瞬間、ジャンが銃を構えるよりも早く攻撃を放っていた。
反応だけではない。判断から発動まで、ほとんど間がなかった。
ジャンは、サエキの実力を疑ったことなどない。幾度も仕事を共にし、その腕を認めているからこそ、今さら強さに感心するつもりもなかった。
だが、自分が知っているのは、サエキの実力のすべてではなかったらしい。
ジャンは、抉れた地面からサエキへと視線を移した。
当の本人は、消え去った怪物にまだ何か文句を言っている。まるで、ワインの邪魔をされたことのほうが重大だとでもいうように。
「この忙しいときに、まだ出てくるのか! 観光くらい、まともにさせろ!」
サエキは、すでに消滅した怪物へ向かって盛大に言い放った。
「まったく、どいつもこいつも……!」
それから何事もなかったかのようにグラスを持ち上げ、ワインを煽った。
ジャンは何とも言えない顔で息を吐いた。
――こいつ、いったいどこまで手の内を隠しているんだ。
もちろん、サエキが意図的に実力を隠していたと決まったわけではない。ただ、ジャンの知っている彼の姿と、今目の前で見た攻撃が、あまりにも違っていた。
「……オーナー!」
ジャンは近くにいたワイナリーの経営者を呼んだ。
「水を持ってきてくれ。できるだけ早く」
「は、はい!」
経営者は、抉れた地面とサエキを交互に見ながら、慌ててその場を離れた。
ほどなくして、水の入ったグラスが運ばれてきた。
ジャンはそれを受け取り、サエキの前に置いた。
「ワインはもういい。これを飲め」
「なんだ、水か?」
「水だ」
「ワイナリーに来て水とは、もったいない話だな……」
「いいから飲め」
ジャンに促され、サエキは不満そうにしながらも水を口にした。
ジャンは、もう一度抉れた地面を見た。
あの威力を出せる人間が、先ほどまで酔いながらワインの講釈をしていたのだ。しかも、怪物が現れた瞬間には、ジャンが銃を構えるより早く対処してみせた。
旧知の相手とはいえ、何度見ても慣れるものではない。
「……それで?」
ジャンはサエキへ視線を戻した。
「パリで遭遇した怪物も、今のと同じようなものだったのか?」
サエキは水を飲み終え、グラスを置いた。
「そうだな。似ていたと思うぞ。もっとも、いちいち細かく比べていたわけじゃないが」
「身体の特徴や、動きに違いはなかったか?」
「さあな……。少なくとも、普通の犬や狼じゃなかった。それは確かだ」
ジャンは頷いた。
森での事件。ワイナリーでの事件。そして、サエキがパリで遭遇した怪物たち。
同じような存在が、別々の場所で繰り返し現れている。
自然発生した怪異が偶然重なった可能性も、まだ否定はできない。だが、何者かが意図的に怪物を生み出し、各地へ放っているのだとすれば、放置できる話ではなかった。
「現場を調べる必要があるな」
「……今からか?」
サエキはテーブルの上のワインボトルに視線を落とした。
「せめて、もう少し休ませてくれないか。せっかくいいワインを飲んでいたところなんだ」
「その前に、怪物の痕跡を確認する」
「休暇というものを、何だと思っているんだ……」
サエキは大きく息を吐いた。
ジャンは答えず、抉れた地面へと歩き出した。
ジャンは抉れた地面からワイナリーのオーナーへと視線を移し、土埃を払うようにコートの裾を軽く叩いた。
「さて、まずは安心してくれ。EURO-Aから監査担当が来る。今回の被害については、機関が補償することになるはずだ。建物や葡萄畑の損害も含めて、必要な確認は連中に任せればいい」
そこでジャンは、サエキのいる方へ顎をしゃくった。
「ただし、ひとつ覚えておいてほしい。こいつがいなければ、あんたたちは今頃、あの獣どもの腹の中だったかもしれん」
軽い口調だったが、その目は笑っていなかった。
「命が助かったことを、まずは幸運だと思うことだ。畑の修復なら金でどうにかなる。だが、失った命はそうはいかない」
オーナーは、抉れた地面を見つめたまま、ぎこちなく頷いた。
ジャンは一度息をつき、声を少し低くした。
「それから、今日ここで見たことは、機関の人間以外には話さないでもらいたい。怪物のことも、あの妙な力のこともだ。余計な厄介事に首を突っ込みたいわけじゃないだろう?」
返事を待たず、ジャンは周囲にいる従業員たちにも目を向けた。
「携帯電話や端末も確認させてもらう。写真、動画、録音――今回の件に関係する記録が残っていないか、ひと通り調べる。隠せと言っているわけじゃない。後で面倒なことにならないよう、こちらで管理するためだ」
有無を言わせぬ口調ではあったが、声を荒らげることはなかった。慣れた仕事を片づけるように、淡々と指示を続ける。
「機関の担当者がすぐに来る。それまでは、ここで待機していてくれ。勝手に現場を片づけたり、外へ連絡したりするのは控えてもらいたい」
ジャンは最後に、オーナーの肩を軽く叩いた。
「協力してくれれば、こちらもできる限り穏便に済ませる。……なにしろ、せっかくの葡萄畑だ。これ以上、ひどい目に遭わせたくはないんでね」
そう言うと、ジャンは再び抉れた地面へと目を向けた。
その背後では、サエキが水のグラスを手に、まだ不満そうにワインボトルを眺めていた。




