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異聞始末録  作者: 黒サケ缶EX
異聞始末録 欧州道中 異聞あり②
43/53

第三章 終演



 演奏は、終わる気配を見せなかった。


 音楽堂に満ちる旋律を聞きながら、クララは何度目か分からない記録の確認を終えた。


 観客の症状には個人差がある。サエキの鈴によって苦痛が和らぐことはあっても、時間が経てば再び不調を訴える者もいた。結界の光は保たれており、サエキが鈴を鳴らしながら独特な足運びを続けるたび、わずかに強さを増している。


 それでも、状況そのものは変わらなかった。


 演奏者たちは苦しみながらも演奏を続け、観客たちは終わりの見えない旋律に苦しめられている。


 このまま観察を続けるだけでは、いずれ限界が来る。


 クララは端末をしまい、舞台を見つめた。


 音の強弱、旋律の変化、演奏者たちの動き。これまで注目してきたものを、もう一度、順序立てて考え直す。


 そもそも、彼女が調べているのは音楽そのものだけではない。


 音によって引き起こされている異常の背後に、どのような魔術構造が存在するのか。


 それを見極めることが、クララの仕事だった。


 ――本当に、演奏そのものが原因なのだろうか。


 ふと、そんな疑問が浮かんだ。


 音楽が鳴っている間に異常が起きている。それは確かだ。しかし、だからといって、音そのものが呪いの発生源だとは限らない。


 演奏は、何かを作動させるための条件にすぎないのかもしれない。


 あるいは、音楽を奏でることによって、別の場所にある何かが作用している可能性もある。


 クララは舞台の上を、ゆっくりと見渡した。


 演奏者たち。楽器。譜面台。


 その視線が、ふと一つの場所で止まった。


 楽譜だった。


 今回演奏されているのは、最近になって見つかった古い楽譜だという。作曲者も分かっていない、由来の定かでない曲。


 クララは、これまでに聞いた説明を思い返した。


 楽譜は、単に演奏のための記録にすぎないのだろうか。


 それとも、この楽譜そのものに、何かが仕込まれているのではないか。


 彼女は意識を集中させた。


 音の流れを追うだけではなく、演奏の中心にあるものへと注意を向ける。


 魔術構造を解析する際、目の前の現象だけに囚われてはいけない。現象を成立させている構造を見つけなければ、表面的な変化を追い続けることになる。


 クララは、楽譜と演奏、そして人々に現れている異常を結びつけて考えた。


 すると、これまで別々に見えていた現象が、一つの仮説へとまとまり始めた。


 演奏者たちは苦しんでいる。それでも演奏を止められない。


 観客たちもまた、演奏を聞き続けることで身体に異常をきたしている。


 そして、演奏が続いている限り、現象は終わらない。


 もし、その一連の作用が楽譜を起点としているのなら。


 クララは息を呑んだ。


「……見つけた」


 小さな呟きだった。


 だが、その声に気づいたサエキが、こちらへ視線を向けた。


「何か分かったのか?」


「はい。まだ詳しい構造までは解析できていません。でも、原因は演奏そのものではなく、楽譜にある可能性が高いです」


「楽譜?」


「ええ。演奏によって何かが起きているのは間違いありません。ただ、音を止めることだけを考えていても、根本的な解決にはならないかもしれません」


 クララは舞台の譜面台を指し示した。


「呪いの発生源が、あの楽譜にあると考えれば、これまでの現象を説明できます」


 サエキはしばらく楽譜を見つめていた。


「なるほど。なら、あれに対処できれば状況を変えられるかもしれないな」


「はい。ただ、近づくのは危険です。今も演奏は続いていますし、どういう仕組みで作用しているのか、完全には分かっていません」


「分かった。無理に止めることはしない。君は、ほかに気づいたことがないか確認してくれ」


 サエキは落ち着いた声でそう言った。


 クララは頷き、再び楽譜へ意識を向けた。


 今の判断が正しいのなら、ここから先は時間との勝負になる。


 彼女は自分が観察できる範囲で、楽譜と演奏の関係を慎重に見極めた。確信を得るために、根拠のない推測を事実として扱うわけにはいかない。


 やがて、クララは顔を上げた。


「サエキさん。やはり、楽譜を発生源として考えるのが妥当だと思います」


「分かった」


 サエキは短く答えた。


「じゃあ、こっちは任せてくれ」


 そう言って、彼は鈴を鳴らし続けた。


 独特な足運びが、再び始まる。


 結界の光がわずかに強まり、苦しんでいた人々の周囲を淡く照らした。


 クララは、その様子を見つめた。


 彼が何をしているのか、詳しいことは分からない。


 けれども、今この場で人々を守るために、自分にできることを続けているのは確かだった。


 ならば、自分も役割を果たさなければならない。


 クララは舞台を見据えた。


 呪いの発生源は、楽譜にある。


 あとは、それに対処するだけだった。


     


 サエキは、鈴を鳴らしながら舞台へと視線を向けていた。


 クララの推測が正しいのなら、楽譜に何らかの対処を施すことで、状況を変えられる可能性がある。


 ただし、今までと同じように結界を強め続けるだけでは足りない。


 ここで必要なのは、呪いそのものへの働きかけだった。


 サエキは結界の光を一度確認し、それからクララへ目を向けた。


「君の判断を信じる。楽譜が発生源なら、そこに対処する」


 クララは頷いた。


「お願いします。私も、演奏と人々の状態を確認し続けます」


「分かった」


 サエキは鈴を鳴らしながら、独特な足運びを続けていた。


 その歩みが止まると、結界を補助していた働きも失われることになる。


 だが、すでに展開された結界そのものが消えるわけではない。


 サエキはその点を踏まえ、動きを切り替えるタイミングを見定めた。


 そして、鈴を一度、静かに鳴らした。


 それまで続けていた足運びが止まる。


 床に描かれた結界は、そのまま淡い光を保っていた。


 クララは思わずそちらを見た。


 光は消えていない。


 禹歩による追加の働きは失われたとしても、結界は維持されている。


 サエキは鈴を手にしたまま、楽譜へ向き直った。


 それから、呪いの発生源である楽譜に法力を向けた。


 クララには、そのとき何が起きたのか、すべてを理解することはできなかった。


 ただ、サエキが楽譜に対処した直後、演奏に変化が現れた。


 それまで途切れることなく続いていた旋律が、乱れた。


 演奏者たちの手が止まり、楽器から音が消えていく。


 最後の音が、音楽堂の天井へと静かに吸い込まれていった。


 長い間、途切れることのなかった演奏が、ようやく終わったのだ。


 クララは息を止めたまま、舞台を見つめていた。


 演奏者たちは、呆然とした様子で自分の手を見つめている。


 先ほどまで身体を強張らせていた者が、ゆっくりと顔を上げた。別の演奏者は、手にしていた楽器を支えきれず、慌てて抱え直している。


 そして、観客席からも、驚きと安堵の声が上がった。


「……止まった」


 クララは呟いた。


 サエキは結界の内側を見渡し、苦しんでいた人々の様子を確認していた。


「どうやら、ひとまず収まったようだな」


 彼の声は、いつもと変わらず落ち着いていた。


 クララはすぐに観客のもとへ向かった。


「皆さん、大丈夫ですか? まだ苦しさが残っている方はいませんか?」


 何人かが頷き、別の者たちは戸惑いながらも自分の身体を確かめていた。


 先ほどまでのように、身体の自由を奪われている様子は見られない。


 演奏者たちも、少しずつ落ち着きを取り戻していた。


 クララはサエキへ目を向けた。


「サエキさん……」


「どうした?」


「本当に、助かりました。皆さんも、演奏者の方々も……」


 サエキは軽く首を振った。


「君が発生源を見つけてくれたからだ。俺だけじゃ、あのまま結界を維持することしかできなかったかもしれない」


 クララは小さく息を吐いた。


 自分の解析が役に立ったのだ。


 それを実感した途端、張り詰めていた緊張が少しずつほどけていった。


 もっとも、これですべてが終わったわけではない。


 なぜ楽譜が呪いの発生源となっていたのか。どのような経緯で、このような異常が生まれたのか。


 それらは、まだ別の問題として残されている。


 しかし、今はまず、目の前の人々の安全を確保しなければならなかった。


 クララは周囲の様子を確認し、負傷や不調を訴える者がいないか、改めて声をかけて回った。


 サエキもまた、結界を維持しながら状況を確認していた。


 やがて、二人は舞台へと目を向けた。


 そこには、問題の楽譜が残されていた。


 クララは慎重に距離を保ちながら、その様子を確認した。


 呪いが収まったからといって、楽譜をそのまま放置するわけにはいかない。


 今後の調査のためにも、専門機関で詳しく解析する必要がある。


「サエキさん。この楽譜は、私の所属機関に回収を依頼します。詳しく調べる必要がありますから」


「それがいいだろうな。現場で分かったことだけじゃ、まだ足りないだろうし」


「はい。今回の記録も整理して、報告するつもりです」


 クララは端末を取り出し、所属機関へ連絡するための準備を始めた。


 演奏会は、もう元の形では続けられないだろう。


 けれども、苦しんでいた人々は解放された。


 それだけでも、今は十分だった。


 クララは最後にもう一度、楽譜を見つめた。


 古びた紙の上に、音符が整然と並んでいる。


 それは、先ほどまで人々を苦しめていたものと同じ楽譜だった。


 クララは目を伏せ、端末へ向き直った。


 事件は収束した。


 しかし、この楽譜が何だったのかを知るための調査は、これから始まるのだった。


終章 ウィーンの休日


 事件の後始末が一段落した頃には、外はすっかり夕暮れになっていた。


 音楽堂では、関係者による確認や連絡が続いていた。クララも所属機関への報告と楽譜の回収依頼を済ませ、ようやく一息つくことができた。


 結局、楽しみにしていた休日は、思いがけない事件によって大きく変わってしまった。


 それでも、苦しんでいた人々が無事に解放されたことを思えば、後悔はなかった。


 クララは、建物の外で待っていたサエキの姿を見つけた。


「サエキさん!」


 声をかけると、彼は振り返った。


「お疲れさま。そっちはもう大丈夫か?」


「はい。必要な連絡は済ませました。あとは機関の対応に任せることになります」


「そうか。なら、ひとまずは安心だな」


 サエキは穏やかに笑った。


 その様子を見て、クララは少しだけ迷った。


 何か、言わなければならないことがある。


 事件の最中には、そんな余裕などなかった。けれども、こうして一段落してみると、どうしても伝えておきたいことがあった。


「あの……サエキさん」


「ん?」


「今日は、本当にありがとうございました」


 クララは、深く頭を下げた。


「あなたがいなかったら、私も、あそこにいた人たちも、どうなっていたか分かりません。結界で守ってくれたことも、最後に呪いを祓ってくれたことも……本当に感謝しています」


 サエキは少し困ったように笑った。


「いや、俺も君も、たまたま巻き込まれただけだろ。別に気にしなくていいよ」


「でも、それでは私の気が済みません!」


 思わず声が大きくなった。


 サエキが目を瞬かせる。


 クララは自分の声に気づき、慌てて口元を押さえた。


「す、すみません。でも、本当に何かお礼をしないと……」


「うーん……」


 サエキは少し考えるように顎に手を当てた。


「じゃあ、せっかくだし、ウィーンの名物を教えてくれないかな。せっかく休暇で来たんだし、現地のものを食べてみたい」


「名物、ですか?」


「そう。君のおすすめでいいよ」


 クララはきょとんとしたあと、ようやく表情を明るくした。


「それなら、ぜひご馳走させてください!」


「いいのか?」


「もちろんです。お礼をしたいと言ったのは私ですから!」


 そうして二人は、近くの店へ向かうことになった。


     


 落ち着いた雰囲気の店内で、クララはサエキの前に飲み物と料理を並べた。


「こちらがメランジェです。ウィーンでよく飲まれているコーヒーなんですよ。それから、こちらがベレークテス・ブロットです」


「へえ。これがウィーン名物か」


 サエキは興味深そうに、テーブルの上を見渡した。


 メランジェを一口飲み、続いてベレークテス・ブロットを味わう。


 その表情が、みるみるうちにほころんでいった。


「おいしいな、これ」


「気に入ってもらえましたか?」


「うん。これはいいな。こっちもおいしい」


 サエキは、すっかり満足した様子だった。


 その率直な反応を見て、クララは思わず笑みをこぼした。


 事件の最中は、互いに緊張を強いられていた。こうして何でもない話をしながら食事をしていると、ようやく普通の時間が戻ってきたように感じられる。


「よかったです。ウィーンにはほかにもいろいろありますから、時間があればぜひ楽しんでください」


「そうするよ。まだ、もう少し滞在する予定だからね」


「そうなんですね。では、明日もどこかへ行くんですか?」


「明日の晩は演奏会に行く予定なんだ」


「演奏会?」


 クララは、思わず身を乗り出した。


「どこの演奏会ですか?」


「ええと……」


 サエキは上着の内側から、チケットを取り出した。


「ここだよ」


 クララは、それを受け取って目を落とした。


 そして、数秒間、動きを止めた。


 そこに記されていたのは、ウィーンでも伝統ある宮殿で開催される演奏会だった。


 しかも、単に音楽を楽しむだけの催しではない。


 ドレスコードが設けられた、高級ディナー付きの特別な演奏会。座席も上位席で、誰もが気軽に参加できるようなものではなかった。


 クララは、ゆっくりと顔を上げた。


「……これ、明日の演奏会ですよね?」


「うん」


「この宮殿で?」


「そうだよ」


「ディナー付きで、上位席……?」


「そうみたいだね」


 サエキは、何が問題なのか分からないといった様子で頷いた。


 クララは、遠い目をした。


 行きたい。


 それはもう、行きたいに決まっている。


 ウィーンで働く者にとって、そうした演奏会は特別な魅力を持っていた。伝統ある宮殿で音楽を楽しみ、格式ある食事を味わう。憧れないはずがない。


 しかし、問題は山ほどあった。


 まず、仕事の都合がつくか分からない。予定を立てても、急な案件が入れば参加できなくなる可能性がある。


 それに、参加費だって安くはない。


 払えない金額ではない。けれども、気軽に「行ってみよう」と決められるような出費でもなかった。


 ドレスコードがある以上、衣装のことも考えなければならない。


 つまり、クララにとっては、行きたくても簡単には行けない場所なのだ。


 それなのに。


「……サエキさん」


「はい?」


「フリーランスって、そんなに稼げるんですか?」


 気づけば、クララは身を乗り出していた。


「ちょ、ちょっと待ってください。これ、かなり高いですよね? しかも上位席ですよ? どうしてそんなに気軽に……!」


「えっ。いや、気軽というか……」


 サエキはチケットとクララの顔を交互に見た。


「せっかく来たんだし、たまにはいいかなって」


「たまには、ですか……」


 クララの声が、わずかに低くなった。


 サエキは苦笑した。


「まあ、仕事の仕方にもよるんじゃないかな」


「それはそうでしょうけど……」


「ただ、欧州でフリーランスをするのは、あまりおすすめしないかな」


「え?」


 クララは顔を上げた。


「どういう意味ですか?」


「いや、その……いろいろあるからね」


 サエキは、曖昧な笑みを浮かべた。


「仕事の質もそうだし、契約の問題もあるし。ちゃんと見極めないと、面倒なことになる場合もあるから」


「それは、まあ……そうですけど」


「だから、俺の場合は、たまたま運がよかっただけかもしれないよ」


 明らかに、話をはぐらかしている。


 クララはそう感じたが、これ以上問い詰めても、まともな答えが返ってくる気はしなかった。


 彼女は深々と溜息をついた。


「……世の中、不公平ですね」


「そうかな?」


「そうですよ」


 クララは、チケットをサエキへ返した。


 サエキはそれを受け取り、少し考えてから口を開いた。


「そんなに気になるなら、何か奢ろうか?」


「え?」


「今日のお礼も兼ねてさ。せっかくなら、もう少し何か食べてもいいし」


「いえ、今日は私がご馳走すると決めたんですから!」


「そう? じゃあ、また今度ということで」


 サエキは笑った。


 クララは、もう一度溜息をついた。


 この人は、本当に何を考えているのだろう。


 事件の最中は頼りになり、判断も的確で、こちらが気づかないことにも目を向けていた。


 それなのに、こうして話していると、どこか掴みどころがない。


 クララは、そんなサエキのことを、少しだけ不思議に思った。



 店を出る頃には、すっかり夜になっていた。


 街には柔らかな灯りがともり、ウィーンの石畳を行き交う人々の姿が見える。


 二人は、しばらく歩いたところで足を止めた。


「じゃあ、俺はこの辺で」


 サエキが言った。


「はい。今日は本当にありがとうございました」


「いや、こちらこそ。おいしいものを教えてもらえてよかったよ」


 サエキは、満足そうに笑った。


 その表情を見て、クララも自然と笑顔になった。


「ウィーンには、まだまだおいしいものも、きれいな場所もたくさんありますから。残りの休暇も楽しんでくださいね」


「ありがとう。そうするよ」


 サエキは少し考え、それから付け加えた。


「もし日本に来ることがあれば、そのときは俺が案内するよ」


「本当ですか?」


「もちろん。日本にも、いいところはたくさんあるからね」


「それは楽しみです」


 クララは笑った。


 それから、二人は握手を交わした。


「それでは、サエキさん。ウィーン旅行を楽しんでください!」


「うん。クララも、仕事を頑張って」


「……できれば、もう少し休暇も楽しみたかったですけどね」


 クララがぼそりと呟くと、サエキは小さく笑った。


「それは、また次の機会に」


「そうですね」


 クララも笑い返した。


 こうして、二人は別々の道を歩き始めた。


 クララは何度か振り返りそうになりながらも、やがて前を向いた。


 思いがけない事件に巻き込まれた休日だった。


 それでも、得られたものは少なくない。


 魔術構造解析の専門家として、新たな経験を積むことができた。そして何より、遠い日本から来た調査員と、忘れがたい出会いを果たしたのだ。


 クララは、夜のウィーンの街を歩きながら、小さく息を吐いた。


 明日からは、また仕事が待っている。


 けれども、今夜だけは。


 ほんの少しだけ、今日の出来事を思い返してもいいだろう。


 そう思いながら、彼女は帰路についた。

後日談 東洋から来た調査員   クララの手記


 数日後。


 クララは、いつものように職場へ戻っていた。


 机の上には、処理を待つ資料が積み上がっている。休暇中に発生した案件の報告も済ませたが、日常の仕事がなくなるわけではない。


 むしろ、休んだ分だけ仕事が増えているような気さえした。


「……休暇って、何だったんでしょうね」


 クララが小さく呟くと、近くから声がした。


「何か言った?」


 顔を上げると、そこには親しい同僚のリーヴがいた。


「いえ、何でもありません。ちょっと、休暇のことを思い出していただけです」


「そういえば、ウィーンに行っていたんだっけ。どうだった?」


「それが……」


 クララは、少しだけ遠い目をした。


「大変なことに巻き込まれまして」


「えっ?」


 リーヴが目を丸くする。


 クララは、ウィーンで起きた演奏会の異常について、順を追って説明した。


 観客や演奏者たちが突然苦しみ始めたこと。演奏が止まらなくなったこと。そして、結界によって人々を守りながら、呪いの発生源を調べたこと。


 最後に、楽譜に呪いが宿っていると突き止め、事件を収束させたことを話した。


「……そんなことがあったの?」


 リーヴは、驚きを隠せない様子だった。


「はい。私も、まさか休暇中にあんな事件に遭遇するとは思いませんでした」


「それで、どうやって解決したの?」


「私が楽譜を調べて、発生源を特定しました。そのあと、現場にいた日本のフリーランスの方が、法力という日本の魔法で呪いを祓ってくれたんです」


「……..日本のフリーランス?」


「ええ。サエキさんという方です」


 クララは、その名前を口にした。


「とても頼りになる方でした。現場の状況を冷静に見ていて、私が調査に集中できるように結界で守ってくれたんです」



「えぇ!?サエキに会ったの!?」


「ええ!?リーヴ知ってるのですか!?」


 お互いに驚き、声が大きくなる。


「サエキとは何度も仕事をしたことがあるの、つい最近も調査をしていたポーランドのワルシャワで偶然出会ったわ。その時は私から協力要請したのだけど」


「そうだったんですね、まさか職場に知り合いがいるとは思いませんでした」


「この組織にもサエキのこと親しい人がいるわよ?もちろん個人的にだけど」


「有名人なのですか?」


「仕事が仕事だから有名ってほどではないわね、例えば日本人だとカミシロやセンゴクって聞いたことはあるでしょう?」


「そのお二人は知ってます。」


「でもほらこの組織って慢性的な人材不足じゃない?だから大体アメリカが多いけど仕事を他所と合同で行うことがあるのよ、そこで偶然サエキとは現場で居合わせてそこから仲が良くなったのよ」


「なるほど、それにしても世界は意外と狭いものですね」


「これに関してはEuro-A問題がありすぎなのよ、連合組織なのに各国の事情に引っ掻き回されてるわ、アメリカに人材を引き抜かれるわ、そのくせプライドだけは高いんだから」


 リーヴは深い溜息と共に愚痴を溢した。


 クララもこれには苦笑いをするが全て事実なので何も言えない。


 クララはこのままリーヴの愚痴が止まらないと予想して話題を強引に戻すことにした。


「リーヴがたまに外部の協力者に依頼してたのは知ってましたけど、それがサエキさんだったんですね」


「そうよ、上層部は良い顔しないけどね。そこはアーサーが上手くやってくれてるわ。」


「それって私でも依頼できるんですか?」


 クララは、事件の最中のことを思い返した。


 人々が苦しむ中で、サエキは落ち着いて状況を見極め、必要な行動を続けていた。


 鈴を鳴らしながら、独特な足運びを始めたときは、何をしているのか分からず驚いたものだ。


 だが、その直後に結界の光が強まった。


 そして、最後には楽譜へ法力を向け、呪いを祓った。


 ただ力が強いだけではない。


 周囲をよく観察し、状況に応じて行動を切り替える判断力がある。


 クララにとって、それは大きな印象を残すものだった。


 クララも現場にの対処をすることがある、手に余る事件も多く経験した。

もし外部のそれにサエキならば協力要請ができるならしたい。

 

「できなくはないと思うけど、結構高いわよ?」


 リーヴがお金のサインを手で作る。


「そ、そんな高いんですか?」


「私もサエキ個人にどれだけ支払ってるかわからないけど単純に費用もかかるのよ、彼は基本日本にいるのよ?それに急を要する場合が多いから普通の旅客機ではなくて、軍事用か戦闘機で来ることが多いわね。アメリカの場合は大概そうだから日本の場合やサエキの場合もそうじゃない?」


 クララも知らなかったわけではないが事実を改めて並べられると驚きが隠せない。


「リーヴはよく依頼できますね」


「そこはアーサーの手腕よ、他の上層部は駄目ね」


「納得できます」


 リーヴとクララはお互いに溜息をつく。


「それでサエキは役にたったの?」


 今度はリーヴから話題を変える。


「はい、あの人が居なかったら危なかったと思います。」


「それに、観察眼も鋭いんです。私が気づかなかったことにも、きちんと注意を向けていましたし」


「なるほどね……。サエキらしいわね」


 リーヴは感心したように頷いた。



 クララは、そふと思い出したように付け加えた。


「そういえば、サエキさん、演奏会へ行く予定だと言っていたんですよ」


「演奏会?」


「ええ。ウィーンでも伝統ある宮殿で開かれる、高級ディナー付きの演奏会です。しかも、上位席のチケットを持っていて……」


 リーヴの表情が変わった。


「……上位席?」


「はい」


「高級ディナー付き?」


「はい」


「伝統ある宮殿で?」


「そうです」


「あいつ私と会った時もワルシャワの高級ホテルに泊まってたのよ?バトラー付きのそれもスイートに」


「す、スイートですか?長期旅行で各国巡って上に高級ホテルですか!!」


 二人の間に、短い沈黙が落ちた。


 クララは、ゆっくりと遠くを見つめた。


「私も、行きたいな……」


「……行きたくなるよね」


 リーヴも、複雑そうな顔をした。


「でも、仕事の都合で予定が立てられるか分からないし、費用だって気軽に出せるものじゃないんです。衣装も必要ですし……」


「そうだね……海外旅行という費用も考えたら確かにね。」


「それなのに、サエキさんは別に無理をしてない感じだったんですよ」


「……それは、ちょっと複雑だね」


「でしょう?」


 クララは、深々と溜息をついた。


 事件の解決に大きく貢献した実力者。現場での判断も、観察眼も申し分ない。


 そのうえ、休暇中に高級ディナー付きの演奏会へ行く余裕まであるらしい。


 いったい、どんな仕事をしているのだろう。


 クララは、改めて疑問に思った。


「フリーランスって、そんなに稼げるんでしょうか……」


「さあ……。でも、サエキの場合は、かなり特殊だと思う。フリーランス自体珍しいし。」


「そうなんでしょうか」


 二人は顔を見合わせた。


 しばらくして、どちらからともなく小さな溜息が漏れた。


 サエキの実力には感心する。


 仕事ぶりも、人物としての印象も、申し分ない。


 それでも、あの演奏会のチケットだけは、どうしても素直に受け止められなかった。


「……まあ、いいです」


 クララは、ようやく端末へ目を戻した。


「今は仕事をしましょう。休暇の話をしていても、仕事は減りませんから」


「それもそうだね」


 リーヴも頷き、自分の仕事へ戻っていった。


 クララは端末を操作しながら、ふと窓の外へ目を向けた。


 ウィーンの街は、今日も変わらず穏やかだろう。


 あの音楽堂で起きた異常も、今では遠い出来事のように感じられる。


 それでも、クララは覚えている。


 苦しむ人々を守り、呪いの発生源を突き止め、最後まで冷静に対処した日本のフリーランス。


 サエキ。


 いつか日本へ行くことがあれば、案内してくれると言っていた。


 その機会が本当に訪れるかどうかは分からない。


 ただ、そのときは。


 今度こそ、事件に巻き込まれず、ゆっくりと観光を楽しみたいものだ。


 クララは小さく笑い、仕事へ意識を戻した。


 そして、ふと思い出す。


 あの演奏会のチケットを見たときの、何とも言えない気持ちを。


「……やっぱり、羨ましいですね」


 誰に聞かせるでもなく呟いて、クララは再び溜息をついた。


 隣の席から、リーヴの苦笑が聞こえた。


 こうして、ウィーンでの事件は、二人の記憶の中に残る出来事となった。


 そして、遠い日本から来た調査員との出会いもまた、クララにとって忘れがたいものになったのだった。


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