第二章 閉ざされた音楽堂
結界の内側では、先ほどまで苦痛にうめいていた人々が、ようやく落ち着きを取り戻しつつあった。
床に描かれた円環は、淡い光を保っている。だが、その光は決して強固な壁のようには見えなかった。音楽堂に満ちる旋律は、結界の内側にも変わらず届いている。
クララは、周囲の人々の様子を確認した。
「呼吸は落ち着いてきたみたいですね。痛みを訴える人も、さっきより減っています」
「ひとまずはな。ただ、治ったわけじゃない」
サエキは手にした鈴を見つめたあと、演奏の続く舞台へ視線を向けた。
「この結界でできるのは、呪いの影響を一時的に弱めることだ。演奏そのものを止められるわけじゃない」
「つまり、ここにいても安全が保証されるわけではない、と」
「そういうことだ。長く持ちこたえられるかどうかも、今の段階じゃ断言できない」
クララは頷いた。
結界によって苦痛が和らいだのは確かだ。しかし、異常の根本が取り除かれたわけではない。音楽が続いている以上、何かの拍子に状況が変化する可能性もある。
まずは、何が起きているのかを把握しなければならなかった。
クララは舞台へ目を向けた。
演奏者たちは、依然として楽器を奏で続けている。
その姿は、外から見れば普段の演奏会と大きく変わらない。けれども、よく観察すれば違和感は明白だった。
表情には苦悶が浮かび、身体には不自然な緊張が走っている。それでも彼らの手は止まらず、旋律を紡ぎ続けていた。
「演奏者たちも、観客と同じように身体の自由を奪われているようです」
「そう見えるな」
「それなのに、演奏を止められない。自分の意思で弾いているようには思えません」
クララは目を細めた。
魔術によって人の身体を操ること自体は、理論上あり得る。だが、今回の現象が単純な身体操作なのか、それとも別の仕組みによって演奏を継続させているのかは分からなかった。
少なくとも、現時点で断定できる材料はない。
「曲そのものが、何らかの作用を引き起こしている可能性が高いと思います」
「俺もそう考えている。ただ、曲を止めれば解決するとは限らない」
サエキの言葉に、クララは彼の方を向いた。
「演奏を止めること自体が危険だということですか?」
「危険があるかどうかも、まだ分からない。だが、原因を確かめずに無理やり止めれば、何が起きるか予測できないだろう」
サエキは舞台から目を離さなかった。
「呪いは、力ずくで抑え込めば必ず解決するものじゃない。状況によっては、余計に悪化することもある」
「……なるほど。まずは仕組みを見極めるべき、ということですね」
「そういうことだ」
クララは短く息を吐いた。
焦る気持ちはある。苦しんでいる人々を前にして、何もせずに観察を続けることは簡単ではない。
それでも、原因を知らないまま手を出すことが、必ずしも救助につながるとは限らない。
彼女は専門家として、その判断を受け入れた。
「分かりました。私が演奏と魔術構造の関係を調べます。サエキさんは、結界の維持と周囲の状況確認をお願いできますか?」
「了解した。何か変化があれば、すぐに知らせてくれ」
クララは改めて舞台を観察した。
音楽堂に響く旋律は、途切れることなく続いている。
弦楽器の音。管楽器の響き。重なり合う音の流れ。
一つひとつを聞き分けようとすると、意識が演奏全体に引き込まれそうになる。クララは慎重に集中を保ちながら、音の連なりと演奏者たちの動きに注意を向けた。
彼女が専門としているのは、魔術構造の解析だ。
術式の組み立て方や、魔力の流れ、異なる波形が干渉することで生じる変化。それらを読み解き、魔術がどのように成立しているのかを探る。
今回の現象も、何らかの規則性を持っているのなら、観察によって手掛かりを得られるかもしれない。
しかし、演奏を聞いているだけでは、明確な異常を捉えられなかった。
旋律そのものは、破綻していない。演奏者たちの動きにも、楽譜から大きく逸脱している様子は見受けられない。
それなのに、人々は苦しみ、演奏者たちは止まることができない。
「……音の構成だけで、すぐに原因を特定するのは難しそうですね」
クララは呟いた。
「楽譜は確認できるか?」
「できれば、ぜひ。今回の曲が何なのか分かれば、調べる範囲を絞れるかもしれません」
「なら、演奏が終わるのを待つしかないか」
「ええ。ただし、終わるまで状況が持つかどうかは分かりません」
二人は再び舞台を見た。
演奏は、まだ終わらない。
観客席には、結界の内側で身を寄せ合う人々がいる。負傷の程度も、苦痛の強さも、それぞれ異なっていた。誰もが不安を抱えながら、目の前の異常が終わるのを待っている。
クララはその様子を見て、今できることを整理した。
結界の外にいる演奏者たちを救うこと。観客の状態を見守ること。そして、呪いの仕組みを探ること。
どれか一つだけに集中すれば、ほかの危険を見落とすかもしれない。
「サエキさん。結界の内側にいる人たちの状態は、定期的に確認した方がよさそうです。症状が戻る兆候があれば、すぐに対応できるようにしておきたいです」
「分かった。俺が様子を見ておく。君は無理をせず、分かったことを共有してくれ」
「ありがとうございます」
クララは小さく頷き、視線を舞台へ戻した。
そのときだった。
演奏の一節が終わり、次の旋律へ移る。
ほんのわずかな間だったが、クララはその切り替わりに意識を引かれた。
音が途切れたわけではない。演奏者たちの手も止まっていない。それでも、旋律の移り変わりに合わせて、空気の質が変わったように感じられた。
彼女は眉を寄せる。
今の変化は、単なる曲調の変化なのだろうか。
それとも、異常な現象そのものに関係しているのか。
判断するには、まだ観察が足りない。
クララはその瞬間を記憶に留め、演奏の流れを追い続けた。
やがて、彼女は一つの可能性に思い至る。
もし、呪いが曲全体に均等に作用しているのではなく、特定の音の並びや旋律の変化に応じて働いているのだとしたら。
演奏をただ聞き続けるだけではなく、楽譜と照らし合わせて調べる必要がある。
「サエキさん。演奏が終わったら、楽譜を確認したいです。できれば、曲の最初から最後まで」
「分かった。だが、今は無理に近づかない方がいい」
「ええ。状況が変わらないうちは、観察を続けます」
クララは焦りを抑え、もう一度、演奏者たちの表情を見つめた。
苦痛に歪んだ顔。止められない指先。意志に反して動き続ける身体。
彼らは何かに操られているのか。
それとも、演奏そのものが、彼らを逃れられない状態へ追い込んでいるのか。
まだ答えは出ない。
けれども、確かなことが一つだけあった。
この音楽堂では、演奏が続いている限り、事件は終わっていない。
そして二人は、その旋律の正体を知らないまま、次の異変が起きないことを願うことにした。
演奏は、まだ続いていた。
クララは観客席の端に立ち、舞台から響く音に意識を集中させていた。
結界の内側では、先ほどより落ち着きを取り戻した人々が、互いに身を寄せ合っている。苦痛が完全に消えたわけではない。時折、顔をしかめたり、胸元を押さえたりする者もいた。
サエキは彼らの様子を見守りながら、手にした鈴を握っていた。
「今のところ、大きな変化はない」
「分かりました。何かあれば、すぐに教えてください」
クララはそう答え、再び舞台へ目を向けた。
彼女が知りたいのは、演奏者たちがなぜ演奏を止められないのか。そして、観客にまで同じような異常が及んでいるのはなぜなのか、ということだった。
音楽が原因に関係している可能性は高い。
しかし、音楽が鳴っているという事実だけでは、何も確定できない。
特定の音が引き金になっているのか。曲全体に何らかの仕掛けがあるのか。それとも、演奏という行為そのものが条件なのか。
どれも、現時点では仮説にすぎなかった。
クララは自分の専門分野に意識を切り替えた。
魔術構造を解析する際、最初から答えを決めつけることはしない。観測した事実を積み重ね、仮説を立て、そこから外れるものがないかを確かめていく。
今回も同じだ。
彼女は演奏の流れを追いながら、旋律の変化と観客の様子を注意深く観察した。
けれども、すぐに異常の規則性を見つけることはできなかった。
音の強弱や旋律の切り替わりに、症状が明確に連動しているようには見えない。少なくとも、目に見える範囲では判断できなかった。
「……簡単にはいきませんね」
クララが呟くと、そばにいたサエキが顔を向けた。
「何か分かったか?」
「まだ、はっきりしたことは。音の変化と症状の関係を調べていますが、今のところ明確な相関は見つかっていません」
「ということは、音を聞いているだけじゃ難しいか」
「ええ。楽譜と照らし合わせられれば、もう少し詳しく分析できると思います」
サエキは舞台を見た。
「演奏が終われば、楽譜を確認できる可能性はある。ただ、今は演奏者に近づくのも危険そうだな」
「そうですね。無理に接触するのは避けたいです」
二人は、再び舞台へ目を向けた。
演奏者たちは、苦痛を浮かべた表情のまま演奏を続けている。
その姿を見ていると、すぐにでも助け出したいという気持ちが湧いてくる。だが、原因が分からないまま演奏を中断させることが、彼らを救うことにつながるとは限らない。
クララは唇を引き結んだ。
今できることを見失ってはいけない。
まずは観察を続け、得られた情報を整理する。
そのとき、結界の内側から小さな声が上がった。
「……すみません」
クララが振り返ると、近くに座っていた女性が、不安げにこちらを見上げていた。
「どうされましたか?」
「さっきよりは楽になったんですけど……また、少し苦しくなってきた気がして」
女性は胸元に手を当て、浅く息をしていた。
クララはすぐにそばへ寄り、顔色と呼吸の様子を確認した。
「無理に立ち上がらないでください。ゆっくり呼吸して、楽な姿勢を保ってくださいね」
女性は小さく頷いた。
クララはサエキへ視線を送った。
彼もすでに異変に気づいていたらしく、鈴を手に女性のそばへ歩み寄ってくる。
「大丈夫ですか? 無理に動かなくていいですよ。少しでも楽になるようにしますからね」
サエキは女性のそばに膝をつき、穏やかな声で話しかけた。
女性が不安げに頷くのを確認すると、サエキは手にした鈴を静かに鳴らした。
「大丈夫です。焦らなくていいですからね」
澄んだ音が、周囲のざわめきの中を通り抜けた。
女性の表情から、わずかに強張りが消えていく。呼吸も、少しずつ落ち着きを取り戻した。
「……ありがとうございます」
「いえ、まだ安心はできません。苦しくなったら、すぐに教えてくださいね」
サエキはそう告げ、女性の様子を確かめてから立ち上がった。
そして、再び鈴を鳴らしたかと思うと、不意に足を踏み出した。
右へ、左へ。
どこか独特な足運びだった。
クララは思わず、その動きを目で追った。
――何をしているんだろう……?
そう思った直後、床に描かれた結界の光が、先ほどよりもわずかに強まった。
クララは目を見開く。
気のせいではない。淡く広がっていた光が、確かに少しだけ明るさを増している。
サエキは何事もなかったかのように、鈴を鳴らし続けていた。
どうやら、あの奇妙な足運びにも意味があるらしい。
クララは疑問を覚えながらも、すぐに意識を切り替えた。
今は、彼の行動の意味を考えるよりも、演奏と症状の関係を調べることが先だ。
結界が持ちこたえてくれる時間を、無駄にはできない。
クララは改めて、床に広がる光を見つめた。
結界は維持されている。それどころか、先ほどよりもわずかに強まっているように見える。
それでも、演奏は止まらない。
結界によって苦痛が和らいでも、呪いそのものが消えたわけではないのだ。
「サエキさん」
クララが声をかけると、彼は鈴を鳴らしたまま、ちらりとこちらを見た。
「症状が戻ることがあるようです。結界の効果が不安定なのか、呪いの影響が変化しているのかは分かりませんが、経過を記録しておいた方がよさそうです」
サエキは小さく頷いた。
「分かった。変化があった時刻と、どんな症状が出たかを記録しておこう」
クララは端末を取り出し、女性の症状と鈴を鳴らした後の変化を書き留めた。
まだ少ない情報だ。
これだけで呪いの仕組みが分かるわけではない。それでも、何も記録しないよりはいい。
記録を終えたクララは、再び舞台へ目を戻した。
演奏者たちの動きは、依然として止まらない。
彼らは苦痛に顔を歪めながらも、まるで何かに強制されているかのように楽器を奏で続けている。
この現象は、単純に音を聞いた者が苦しむというだけのものではないようだった。
演奏者自身も影響を受けている。それなのに、演奏を続けることだけは妨げられていない。
なぜなのか。
クララは、演奏者たちの指先をじっと見つめた。
もし、呪いが曲全体に均等に作用しているのではなく、特定の音の並びや旋律の変化に応じて働いているのだとしたら。
演奏をただ聞き続けるだけではなく、楽譜と照らし合わせて調べる必要がある。
「サエキさん。演奏が終わったら、楽譜を確認したいです。できれば、曲の最初から最後まで」
「分かった。ただ、今は無理に近づかない方がいい」
「ええ。状況が変わらないうちは、観察を続けます」
クララは焦りを抑え、もう一度、演奏者たちの表情を見つめた。
苦痛に歪んだ顔。止められない指先。意志に反して動き続ける身体。
彼らは何かに操られているのか。
それとも、演奏そのものが、彼らを逃れられない状態へ追い込んでいるのか。
まだ答えは出ない。
けれども、確かなことが一つだけあった。
この音楽堂では、演奏が続いている限り、事件は終わっていない。
クララはもう一度、音楽に意識を集中させた。
その背後では、サエキが鈴を鳴らし続けている。
結界の光は、かすかに強さを増したまま、苦しむ人々を包んでいた。
そして、音楽堂には、終わりの見えない旋律が響き続けていた。




