第一章 ウィーンの休日
久しぶりに、仕事のことを忘れて過ごせる休日だった。
クララは、見慣れたウィーンの街並みを眺めながら、ゆっくりと歩いていた。
石畳の道も、歴史を感じさせる建物も、通りを行き交う人々の声も、彼女にとっては馴染み深いものだった。観光客が足を止めて見上げるような建築物も、クララにとっては、日々の暮らしの中で何度も目にしてきた風景のひとつである。
けれど、慣れ親しんだ街だからといって、その魅力を忘れてしまったわけではない。
仕事に追われていると、普段なら気にも留めないような景色を、ゆっくり眺める余裕さえなくなってしまう。目的地へ向かうために道を歩き、必要なものを買い、次の仕事のことを考える。そんな日々を繰り返しているうちに、身近な場所を楽しむ気持ちまで、いつの間にか後回しになっていた。
今日は違う。
急いでどこかへ向かう必要もなければ、時間を気にして予定を詰め込む必要もない。
「……ああ、やっぱり落ち着くわね」
クララは小さく息をついた。
遠くへ旅行するのも楽しいが、こうして自分に馴染んだ街を、時間を気にせず歩くのも悪くない。
せっかくの休暇なのだから、普段は仕事を優先してしまうようなことにも、今日は時間を使ってみたい。
「今日は急がなくていいんだし、少しくらい寄り道してもいいわよね」
そう呟いて、クララは楽しそうに笑った。
クララは、EURO-Aの魔法構造解析部門に所属する上級分析官である。
彼女の仕事は、魔法の構造を読み解き、その性質や作用を分析すること。特に、音のパターンや波形、魔法的な振動の解析を得意としていた。複雑な術式の構造を調べ、干渉の周期や構造上の弱点を見極めることも、重要な役割のひとつである。
専門性の高い仕事には、それ相応の集中力が必要になる。
ひとつの案件が片づいたと思えば、次の案件が待っている。資料を読み込み、分析結果をまとめ、必要があれば現場からの情報をもとに検討を重ねる。気がつけば、休憩を取ることさえ忘れてしまう日もあった。
さらに、EURO-Aは欧州全土を担当しているにもかかわらず、人員が十分とはいえない。上級分析官であるクララも、机に向かって分析だけをしていれば済むわけではなかった。
必要があれば現場へ赴き、怪異やモンスターとの戦闘に巻き込まれることもある。
もちろん、仕事には誇りを持っている。魔法の構造を分析し、複雑に絡み合った仕組みを解き明かしていくことには、確かな面白さがあった。
それでも、疲労は溜まる。ストレスだって溜まる。
好きな仕事であっても、ずっと続けていれば休息が必要になるのだ。
「しばらくは仕事のことを考えない。これは大事なことよ」
自分に言い聞かせるように呟き、クララは軽く肩を回した。
今回の休暇は、そんな日々から少し離れるための貴重な時間だった。
「さて、今日は何を楽しもうかしら」
クララは街を見回した。
この街には、まだまだ楽しめるものがある。馴染みのある場所だからこそ、気負わずに過ごせるのもいい。
そして、今回の休暇で楽しみにしていたもののひとつが、音楽だった。
音は、普段の仕事でも重要な分析対象である。しかし、仕事として音を解析することと、純粋に音楽を楽しむことは別だった。
楽譜の構造を分析する必要もなければ、音の異常を疑う必要もない。ただ演奏を聴き、旋律の流れに身を委ねる。
今日は、音楽を楽しむために聴けばいいのだ。
「せっかくウィーンにいるんだもの。久しぶりに演奏会くらい、ゆっくり楽しみたいわね」
クララはそう言って、目的の場所へ向かった。
*
その日の午後、クララが足を運んだのは、歴史ある音楽堂だった。
古い時代の面影を残す建物には、長い年月を経た風格が漂っている。内部の装飾にも趣があり、クララは客席へ向かう途中、思わず足を止めて見入ってしまった。
開催されるのは、一般客を対象とした無料の演奏会だった。
演奏するのは地元のオーケストラ。今回の目玉は、近年見つかったという古い楽譜の初演である。
作曲者の名は伝わっていない。
詳しい来歴については、演奏会の案内にも簡単な説明があるだけだった。ただ、オーケストラの関係者がその楽譜を高く評価し、今回の演奏会で取り上げることになったらしい。
「無名の作曲家の作品、か……」
案内に目を通したクララは、興味深そうに呟いた。
名前が残らなかった音楽家の作品が、時を経て再び人々の前で演奏される。そう考えると、少し感慨深いものがあった。
「どんな曲なのかしら。せっかくだし、楽しませてもらいましょう」
クララは案内をしまい、客席へ向かった。
今日は解析官ではなく、ひとりの音楽好きとして演奏を聴く。
そう決めていた。
*
演奏会の開始が近づくにつれ、客席は少しずつ埋まっていった。
客層はさまざまで、音楽に詳しそうな者もいれば、気軽に立ち寄ったような者もいる。会場には堅苦しさよりも、これから始まる音楽を楽しみにする空気が満ちていた。
クララも客席の一角に腰を下ろし、舞台を眺めた。
演奏者たちが準備を進めている。楽器の調子を確かめる音が、客席のざわめきに混じって響いていた。
「さて……」
クララは背もたれに身を預け、息をついた。
ようやく、何も考えずに音楽を楽しめる。
そんな期待を胸に、舞台へ視線を向けた。
やがて、演奏会が始まった。
最初に披露された曲は、聴き慣れた形式のものだった。弦楽器の旋律が流れ、木管楽器がそれに応じる。客席は静かに耳を傾け、演奏は滞りなく進んでいった。
クララもまた、余計なことを考えずに音楽を楽しんでいた。
音の重なりを分析するのではなく、ただ旋律の移り変わりを追いかける。仕事中なら気になってしまう細かな要素も、今日は音楽の一部として受け止めればいい。
こうして聴いていると、自分が普段どれほど仕事に没頭しているのか、改めて実感する。
「……やっぱり、来てよかった」
クララは小さく微笑んだ。
演奏会は順調に進み、いよいよ最後の曲が紹介された。
今回の演奏会の目玉である、名もなき作曲家の古い楽譜。
指揮者が曲名を告げ、オーケストラの奏者たちが演奏の準備を整える。
客席のざわめきが静まり、会場に緊張感が広がった。
そして、最初の音が鳴った。
*
その旋律は、不思議な響きを持っていた。
決して耳障りな音ではない。むしろ、どこか人の心を惹きつけるような美しさがあった。複数の楽器が織りなす音は、互いに絡み合いながら、ひとつの流れを形作っていく。
クララは自然と舞台へ意識を向けていた。
音楽そのものは美しい。けれど、どこか引っかかる。
そう感じたのは、演奏がしばらく続いてからだった。
前方の席にいた女性が、突然、身体を強張らせたのだ。
隣に座る連れが声をかけたが、返事はない。女性の肩が震え、指先が座席の肘掛けを強く握りしめる。
「どうしたの?」
連れの声が、静かな客席に響いた。
女性は答えようとしたようだった。しかし、口を開いても声にならない。
その身体が、不自然に引きつった。
異変は、ひとりだけではなかった。
別の席でも、客が苦しそうに身をよじっている。顔を歪め、胸元を押さえる者。身体を動かそうとしているのに、思うように動けず、座席の上で震えている者。
会場のあちこちから、戸惑いの声が上がり始めた。
「な、何だ……?」
誰かが呟いた。
その声をかき消すように、演奏は続いていた。
そして、舞台上の奏者たちにも異変が起きていることに、クララは気づいた。
ひとりの奏者が苦しげに顔を歪めた。演奏を止めようとしたように見えたが、楽器を構えた姿勢は崩れない。身体を動かそうとしているのに、何かに拘束されているかのように、演奏を続けていた。
指揮者もまた、異常を察している様子だった。
それでも、演奏は止まらない。
いや、止められないのだ。
「……これは」
クララは立ち上がった。
客席の異常。奏者たちの異常。そして、いまだに鳴り続ける音楽。
別々の問題として考えるには、あまりにも同時に起こりすぎている。
何かが、この場に作用している。
そう判断した瞬間、クララは自分の身に迫る違和感を察知した。
身体が、わずかに重い。
頭の奥に、鈍い圧迫感が生じている。
「まさか……!」
クララは即座に自己防護の術を発動させた。
異常な作用を受けている可能性がある以上、まずは自分の安全を確保する。原因が分からない状態で、無防備に調査へ踏み込むわけにはいかなかった。
だが、自分を守るだけで事態が解決するわけではない。
クララは近くで苦しんでいる観客に目を向けた。
「大丈夫ですか? 聞こえますか?」
返事はなかった。
相手の身体は強張り、呼吸も乱れている。クララは無理に身体を動かそうとせず、周囲の人々に協力を求めながら、少しでも安全を確保できるよう対応を始めた。
「そちらの方、手を貸してください。無理に動かさず、まずは呼吸の様子を確認して」
混乱する会場で、クララは声を張った。
原因を分析する必要がある。しかし、目の前で苦しんでいる人々を放置するわけにはいかない。
まずは被害の拡大を防ぐ。それから、異変の正体を突き止める。
仕事で身につけた判断力を頼りに、クララは目の前の状況に対処していった。
だが、最初は平気だった人々も、次第に影響を受け始めていた。身体の自由が利かなくなり、助けを求めようとしても声を出せない者がいる。
混乱は、波紋のように広がろうとしていた。
そのときだった。
――チリン。
騒然とした会場に、小さなベルの音が響いた。
クララは一瞬、手を止めた。
演奏とは明らかに違う音だった。澄んだ響きが、混乱の中をすっと通り抜けてくる。
――チリン、チリン。
再びベルが鳴った。
その音を中心に、波紋が広がるような感覚があった。演奏そのものは続いている。それでも、激しい苦痛に襲われていた人々に、わずかな変化が見られた。
クララは音のした方向へ視線を移した。
そこにいたのは、ひとりの東洋人の男だった。
男は片手に小さなベルを持ち、もう片方の手で、症状のひどい観客に対応していた。苦しむ相手の様子を確かめながら、掌から緑色の光を相手に向け、再びベルを鳴らす。
その動きに、慌てた様子はなかった。
周囲の人々が混乱し、何が起きているのかも分からずにいる中で、男は状況を冷静に見極め、ベルを鳴らしながら、目の前の被害者をひとりずつ助けようとしていた。
この状況でも、落ち着いている。
クララは男の様子を注意深く観察した。
単に度胸があるというだけではないように思えた。何を優先すべきか判断し、できることから手をつけている。その姿には、こうした異常事態に慣れている者のような印象があった。
いったい、何者なのだろう。
少なくとも、ただの演奏会の客には見えなかった。
クララは近くの観客への対応をひと区切りつけると、男のもとへ向かった。
*
「すみません。少し、お話を伺ってもいいですか?」
クララが声をかけると、男はベルを鳴らす手を止めずに顔を向けた。
「はい。どうしました?」
落ち着いた声だった。
「この異変について、何か知っているのですか? それと、そのベルは……?」
「詳しい原因までは分かりません。ただ、苦しんでいる人の症状を少しでも和らげられないかと思いまして」
男は手元のベルに目を落とした。
「これで、少し楽になる人がいるようです。全員に効くわけではありませんし、根本的な解決にもなりませんが」
「症状を和らげているんですね……」
クララは、先ほど目にした光景を思い返した。
確かに、ベルの音が響いた後、苦痛が和らいだように見える人々がいた。しかし、演奏は止まっていない。会場を満たす旋律は、依然として続いている。
目の前の男も、それを理解しているようだった。
「あなたも、この異変に巻き込まれたんですよね?」
クララは確認するように尋ねた。
「ええ。ただ、私には仕事柄、こういうことに耐性があるんですよ」
男はそう答え、周囲を見回した。
「あなたも平気そうですね。私はベルを鳴らし続けますので、人をできるだけ一か所に集められますか?」
何か策があるのだろう。
クララは頷いた。
「分かりました。動ける人たちに協力を頼みます」
言葉を終えると、男は再び観客のもとへ向き直った。
クララはその姿を見つめた。
状況を理解できているわけではない。それでも、目の前で助けを必要としている人を優先している。
この男は、異常事態の中でも冷静に行動できる人物らしい。
「動ける方は、動けない方の補助をお願いします! 無理をせず、声を掛け合ってください!」
クララは周囲へ呼びかけた。
男はベルを鳴らしながら、苦しそうにしている人のもとへ向かい、介抱を続けている。クララもまた、その様子を横目で確認しながら、自分にできることを進めていった。
小規模な演奏会だったとはいえ、苦しむ人や動けない人を一か所に集めるのは容易ではなかった。
症状が和らいだ者には自力で移動してもらい、動けない者には周囲の人々が手を貸す。クララ自身も介抱と誘導を繰り返しながら、少しずつ人々を集めていった。
その間も、男はベルを鳴らし続けていた。
やがてクララは、男が集まった人々の周辺で、床に指を走らせるような動作をしていることに気づいた。
何かを描いているのだろうか。
しかし、今はその意味を確かめている余裕はなかった。
演奏は、いまだに続いている。
オーケストラの奏者たちを除き、観客たちが一か所に集まった頃、男はその場で何かを唱え始めた。
「……何語かしら?」
クララは耳を傾けたが、聞き慣れない言葉だった。
次の瞬間、クララの足元に円形の紋章が浮かび上がった。
淡い光が周囲を包み込む。
それは、クララにも分かるほど明確な魔法的な反応だった。見慣れた術式とは異なる構造が、集まった人々を囲むように広がっている。
何が起きているのか、すべてを理解できたわけではない。
だが、ただの光や装飾ではないことは分かった。
結界だ。
そう認識した直後、苦しんでいた人々の様子に変化が現れた。
身体を強張らせていた者の力が少しずつ抜け、乱れていた呼吸も、先ほどより落ち着いているように見える。苦痛が完全に消えたわけではない。それでも、先ほどまでの激しい症状は、明らかに和らいでいた。
一方、舞台では演奏が続いている。
結界の外から聞こえてくる旋律は途切れることなく、奏者たちも演奏を止められないままだった。
この術は、演奏そのものを止めるものではないらしい。
「とりあえず、時間は稼げるな」
男は一息つくように呟いた。
クララは男の隣に立ち、結界の内側と舞台の様子を交互に確認した。
「これは……魔法? それも、障壁ですか?」
クララ自身も魔法を使う。EURO-Aの同僚たちが使用する術式も数多く見てきたが、目の前に広がる術は、彼女が普段目にするものとは異なっていた。
男はクララに顔を向けた。
「そうですね。日本の呪法の結界のひとつですが、魔法だと思ってもらって大丈夫です」
「日本の呪法……」
クララにとって、日本の術は馴染み深いものではなかった。それでも、仕事柄、欧州やアメリカとは異なる技術体系が存在することは知っている。
そして今、目の前でその一端を目撃していた。
結界の中では、被害者たちが先ほどよりも落ち着きを取り戻しつつある。しかし、演奏は続いている。結界が働いている間も、異変そのものが消えたわけではないのだ。
クララは、男の素性を確認しておく必要があると考えた。
「私はクララです。EURO-Aで魔法構造の解析を専門にしています。今日は休暇で、たまたまこの演奏会に来ていました。あなたは、どこかの組織に所属しているのですか?」
「EURO-Aの方だったんですね。どうりで冷静に対応していると思いました」
男はそう言ってから、軽く頭を下げた。
「クララさんですね。私はサエキといいます。日本で怪異を専門に扱う仕事をしています。欧州でいうなら、異常現象やモンスターへの対処ですね。フリーランスで活動しています」
二人はそれぞれ身分証を取り出し、互いの所属や資格を確認した。
クララの身分証にはEURO-Aの所属が記されている。サエキの身分証には、フリーランスとして活動するための国際免許が示されていた。
少なくとも、互いの立場を確認することはできた。
身分の確認を終えると、サエキは再び周囲を見渡した。
「今は結界で、異変の影響を一時的に抑えられていると思います。でも、油断はできません。このままいつまでも、ここに留まっているわけにもいきませんから」
「そうですね。私もそう思います」
クララは頷いた。
結界は、被害者を守るための時間を稼いでいるにすぎない。演奏が続く限り、何が起こるか分からない。
サエキは再びベルを鳴らし、症状のひどい観客の様子を確かめた。クララもまた、近くにいる人々の状態を確認しながら、異変の広がり方を観察する。
しばらくして、クララはサエキに声をかけた。
「サエキさん。ひとつお願いがあるんですけど」
「はい、何でしょう?」
「そんなに丁寧に話さなくても大丈夫ですよ。今はお互いに協力して対処しなければいけない状況ですし、もう少し気楽に話してくれて構いません」
初対面の相手に、いきなり馴れ馴れしくするつもりはない。ただ、こんな状況で必要以上にかしこまることもないだろう。
サエキは一瞬、意外そうな顔をしたあと、穏やかに笑った。
「そうですか。では、お言葉に甘えて。私も、そのほうが話しやすい」
「ええ、そのほうがいいと思います」
クララも小さく笑い返した。
ほんの短いやり取りだったが、張り詰めていた空気が少しだけ和らいだ。
もちろん、目の前の状況が改善したわけではない。舞台では、奏者たちが自分の意思では演奏を止められないかのように、なおも音楽を奏で続けている。
「私は、舞台の様子も気になっています。奏者たちは、自分の意思で演奏を止められないように見えました」
クララが言うと、サエキも舞台へ視線を向けた。
「私もそう見えた。観客の症状も、演奏と無関係とは思えない」
「ええ。演奏と観客の異変、それぞれが無関係だとは思えません」
「このまま演奏が続けば、被害がどう広がるかも分からない」
「まずは、何が起きているのかを見極めないと」
クララは舞台を見据えた。
美しい旋律は、いまだに音楽堂を満たしている。
しかし、その音楽に合わせるように人々は苦しみ、奏者たちは演奏を止められずにいた。
結界によって、被害者たちの苦痛は一時的に和らいでいる。けれど、それは危険が去ったことを意味しない。ベルの音も、結界も、今のところ異変を根本から止めるには至っていなかった。
なぜ、聴いている人々が苦しむのか。
なぜ、奏者たちは演奏を続けているのか。
そして、この異変を終わらせるには、何をすればいいのか。
まだ、答えはない。
クララは魔法構造の専門家として、サエキは怪異に関わる仕事をする者として、それぞれの視点から状況を見極めようとしていた。
互いの素性を知ったばかりの二人が、同じ事件に向き合うことになったのだ。
ウィーンの休日は、突然、得体の知れない怪異に侵食された。
そして、この演奏会で起きた異変を解き明かすための調査が、今、始まろうとしていた。




