第一章 欧州連合機関の調査員
ワルシャワのホテル、その一室。
机の上には、聞き取り記録、現地の見取り図、関係機関から送られてきた報告書が広げられていた。
リーヴは端末の画面を見つめたまま、長いため息をついた。
「……ようやく許可が下りたと思ったら、現場に来られるのは私一人。ほんと、どうにかならないのかしら」
ぼやきながら、報告書の一枚を指で弾く。
リーヴが所属するのは、欧州諸国の連合体によって構成された怪異専門機関、European Anomaly Alliance(欧州異常事象連合。以下、EURO-A〈ユーロ・エー〉)である。
欧州各地で発生する怪異や異常事象に対応し、国境を越えて情報を共有しながら、調査から現場対応までを担う。地域や事案に応じて人員を組み合わせ、必要な専門性を持ち寄ることが、その基本的な運用方針だった。
少なくとも、組織の理念はそうなっている。
現実は、もう少し面倒だった。
怪異事件が発生した国には、その国なりの事情がある。警察や軍が管轄権を主張することもあれば、政府が自国の問題に他国の人間を関与させることを嫌う場合もある。
自分たちで解決できると考えている間は、外部の専門機関に頼ろうとしない。ところが、手に負えなくなれば、今度は一刻も早い対応を求めてくる。
リーヴ自身、そうした現場をいくつも経験してきた。
今回のワルシャワの件も、ポーランド政府から正式な許可が下りている。リーヴが独断で介入したわけではない。
問題は、その許可が下りたところで、調査員が増えるわけではないことだった。
「許可を取るまでに時間がかかって、取れたら取れたで人がいない。これじゃ、書類の上では解決していても、現場は何も解決していないじゃない」
誰に聞かせるでもなく、リーヴはつぶやいた。
EURO-Aは欧州全域を担当している。ひとつの国で事件が起きている間にも、別の国で新たな異常が報告される。経験のある調査員ほど複数の案件を抱え、余裕のある人員を見つけることは難しい。
現場の調査だけをしていればいいわけでもない。報告、関係機関との連絡、調査結果の整理、必要な対応の提案。事件が収束した後にも、仕事は残る。
リーヴは現場調査チームを率いる立場にある。調査と分析、現場での判断には慣れていたが、それは一人ですべてを片づけられるという意味ではなかった。
むしろ、経験を積むほど、自分だけでは判断できないことがあるとわかる。
だからこそ、彼女は手元の記録を何度も見直していた。
「……さて。文句を言っていても、目撃者は増えてくれないわね」
リーヴは資料をまとめ、端末を手に取った。
今回の調査対象は、ワルシャワ市内のホテルで相次いでいる不審者の目撃事件だった。
宿泊者名簿に該当する人物はいない。それにもかかわらず、宿泊客や従業員が、見知らぬ人物を見たと証言している。
ある者は、見知らぬ男だったという。
別の者は、背中に翼があり、尾のようなものが生えていたと話した。
顔立ちも服装も一致しない。証言をそのまま並べる限り、同じ人物を見たとは思えなかった。
ただし、目撃者に直接の身体被害は確認されていない。物が壊されたという報告もなく、怪異が何かを持ち去った形跡もなかった。
事件性は疑われるものの、現時点では正体も目的も不明。見間違いや記憶違いの可能性も、完全には捨てきれない。
だからといって、放置する理由にもならなかった。
リーヴはホテルの管理責任者に調査許可を示し、目撃者の記録と館内の見取り図を確認した。
「最初に目撃されたのは、いつですか?」
「三日前です。夜勤の従業員が、廊下に知らない男が立っているのを見たと報告してきました」
「その人物が、宿泊客ではないと判断した理由は?」
「顔を知らなかったことと、名簿に該当者がいなかったことです。念のため、ほかの従業員にも確認しました」
「その時点では、翼や尾についての証言はなかったんですね」
「はい。最初は、ただの不審者だと思っていました」
リーヴはうなずき、記録に目を落とした。
最初の目撃では、普通の人間に見えた。次の証言では、背中に何かがあったという。その後は、翼や尾を持つ異形を見たという話まで出ている。
証言が増えるにつれて、説明は具体的になっているようでいて、肝心の姿は一致しなくなっていた。
「目撃した場所は?」
「廊下、ロビー、エレベーターの前です。今のところ、特定の場所に集中しているわけではありません」
「目撃した人同士で、事前に話をしていた可能性は?」
「否定はできません。ただ、最初の報告は別々に受けています」
「わかりました。記録を確認させてください」
リーヴは聞き取りを続けた。
質問の順序を変え、目撃した時刻、距離、照明、人物の動き、その直前と直後の行動を一つずつ確認する。証言が曖昧な箇所は曖昧なまま記録し、目撃者が言っていないことを補ってはいけない。
長年の経験で身につけた手順だった。
しかし、丁寧に聞けば聞くほど、事件の輪郭がはっきりするとは限らない。
ある従業員は、奇妙な男を見たことだけを覚えていた。別の宿泊客は、背中に翼があったと強く主張したものの、顔についてはほとんど説明できなかった。
そして、聞き取りの途中で、リーヴは繰り返し出てくる言葉に気づいた。
夢。
目撃者の中には、事件の前後に奇妙な夢を見たと話す者がいた。
人影を見たという者。何かに追われていた気がするという者。目を覚ましたときには内容を忘れてしまったという者。
ただし、夢の内容はそれぞれ異なっていた。
リーヴは記録の端に印をつけた。
「夢、ね……」
気になる情報ではある。だが、夢を見たというだけでは、怪異との関連を判断できない。
何か共通する特徴があるのか。それとも、事件の噂を聞いたことで、目撃者が夢と現実を結びつけているだけなのか。
どちらも、まだ可能性の段階だった。
夕方になっても、決定的な手掛かりは得られなかった。
リーヴは聞き取りの記録をまとめ、いったんホテルを離れた。
カフェの窓際に座り、冷めかけたコーヒーを口にする。端末には、整理途中の証言が並んでいた。
目撃した場所はばらばら。姿の説明も一致しない。直接的な被害はなく、出現する時間にも明確な規則性は見当たらない。
そして、夢の話。
関連性があるのかどうかさえ、まだわからなかった。
「一人で調査するって、こういうところが嫌なのよね……」
リーヴは額に手を当てた。
人手があれば、証言の整理と現場確認を並行して進められる。誰かに別の角度から記録を見てもらうこともできる。
もちろん、調査員が何人いても、答えが簡単に出るとは限らない。それでも、考える材料を集める手は増える。
今は、ひとつひとつ自分で確認するしかなかった。
リーヴはコーヒーを置き、もう一度、最初の報告書を開いた。
そのとき、店の入口から入ってきた人物が目に留まった。
見覚えのある顔だった。
「……サエキ?」
声をかけられた男が振り向いた。
「リーヴ?」
サエキも、意外そうに目を見開いた。
「こんなところで会うなんて、偶然ね」
「本当に。まさかワルシャワで会うとは思わなかった」
「そっちこそ、どうしてここに?」
「休暇だよ。少し街を見て回ろうと思ってね」
「休暇……」
リーヴは、手元の端末とサエキの顔を交互に見た。
「いいわね。こっちは許可を取るところから始まって、来てみれば一人で調査よ。休暇なんて言葉、しばらく使っていない気がするわ」
「それは大変だな」
「ずいぶん他人事ね」
「他人事だからな。休暇中の人間に、仕事の愚痴を聞かせるつもりか?」
「もう聞いているじゃない」
リーヴがすまして返すと、サエキは小さく笑った。
彼女もつられて笑い、向かいの席を示した。
「座ったら? せっかく会ったんだから、少しくらい話しましょう」
「それなら、ありがたく」
サエキは向かいに腰を下ろした。
「それで、ワルシャワはどう?」
「まだ、ゆっくり見て回れていないな。到着してから、街を歩いているくらいだ」
「それでも、仕事で来た私よりは余裕がありそうね」
「そもそも、休暇だからな」
「はいはい。何かおいしいものは食べた?」
「食事はしたよ。店を決めずに歩いて、目についたところに入った」
「勇気があるわね。私は、食事を選ぶ時間さえ惜しくて、ホテルの近くで済ませたわ」
「それはそれで、もったいない気もするが」
「仕事が片づいたら考えるわ。……片づけば、だけど」
最後の言葉には、ため息が混じった。
サエキは彼女の端末に視線を落としたが、すぐには事件の話を切り出さなかった。
「街の印象は?」
「落ち着いていて、歩きやすいところだと思う。もう少し時間があれば、観光地も見て回りたいわね」
「仕事が終わったら行けばいい」
「その仕事が、いつ終わるかわからないから困っているのよ」
「それなら、終わるように頑張るしかないな」
「簡単に言ってくれるわね」
「難しいことを言っても、仕事は減らないだろう?」
「……それはそうね」
リーヴは、少しだけ表情を緩めた。
サエキとは、仕事を通じて知り合った。危険な現場で互いの判断を見てきたからこそ、必要以上に気を遣うことも、相手の実力をいちいち説明することもない。
軽口を交わせるのは、相手が何をできて、何ができないのかをある程度知っているからだった。
「そういえば、観光するなら、何を見たいの?」
「特に決めてはいないな。歩いていて気になった場所があれば、寄ってみようと思っている」
「計画性がないわね」
「休暇まで計画で埋める必要はないだろう」
「仕事の予定なら、計画どおりに進まないのにね」
「だからこそ、休暇くらいは自由にしているんじゃないか?」
「……少し、その考え方を見習いたいわ」
リーヴはカップを持ち上げた。すでにコーヒーはぬるくなっていた。
「それで、仕事の話に戻るのか?」
サエキが尋ねた。
「ええ。残念ながら、私の休憩時間はそろそろ終わりみたい」
リーヴは端末を開き、目撃事件の概要を見せた。
「ホテルで不審者の目撃が相次いでいるの。宿泊者名簿に該当する人物はいないし、証言も一致しない。ある人は普通の人間を見たと言い、別の人は翼や尾があったと話している」
「同じ存在を見たという確証はないわけか」
「そう。けれど、夢の話も出ている。事件の前後に奇妙な夢を見たという人が何人かいるのよ」
サエキは記録に目を通した。
「夢の内容は?」
「ばらばら。人影を見たという人もいれば、何かに追われたという人もいる。夢を見たことしか覚えていない人もいるわ」
「それで、夢と目撃の関係を調べているのか」
「まだ、調べ始めたところ。夢を見た人が全員、怪異を目撃しているわけではないし、関連があると決めつけるのは早いと思っている」
リーヴは端末を閉じた。
「正直、情報が足りないの。あなたなら、何か違う見方ができるかもしれないと思って」
「私の意見が役に立つかは、見てみないとわからないな」
「ええ。それはわかっているわ」
リーヴは少し考えてから、率直に言った。
「休暇中なのは承知しているけど、少しだけ調査に付き合ってくれない? もちろん、無理にとは言わないわ」
サエキは窓の外へ目を向けた。
せっかくの休暇に、仕事が舞い込んできた。予定どおりにいかないのは、どうやら彼女だけではないらしい。
「……まずは話を聞くだけだ。それでいいなら、協力するよ」
「十分よ。ありがとう」
「ただし、私が答えを出せるとは限らないからな」
「そこまで期待していたら、最初から自分で調査なんてしていないわ」
「それならいい」
リーヴはようやく、少しだけ機嫌を直した。
「じゃあ、明日の朝にホテルで合流しましょう。今夜はゆっくり休んで」
「君もな」
「私は報告書を片づけてからね」
「休暇中の人間から言うのも妙だが、無理はしないほうがいい」
「覚えておくわ。実行できるかどうかは別だけど」
二人は苦笑した。
仕事の話は始まったばかりだったが、リーヴの頭の中には、先ほどまでとは少し違う視点が生まれていた。
明日は、記録を最初から見直そう。
今度は、夢を見たかどうかだけではなく、何を覚えているのかという点も含めて。




