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異聞始末録  作者: 黒サケ缶EX
異聞始末録 湖畔の霧に沈む記憶の糸
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単章 湖畔に縛られるモノ

深い山中にひっそりと横たわる奥裾花(おくすそばな)の湖面は、まるで硬質ガラスの薄膜を張ったかのように静まり返っていた。


 刻限は午後十時を過ぎたところだ。見上げれば月は雲の裏側に遮られ、周囲を囲む鬱蒼とした針葉樹林の黒い影が、濃密な湿気を帯びた夜気の中に沈み込んでいる。


 サエキは、足元の湿った腐葉土を踏みしめながら立ち止まった。使い込まれた漆黒のナイロンジャケットの襟を立て、吐き出した吐息が白く揺れて消えるのを見届ける。


「……やはり、このあたりか」


 口の中で呟いた声は、静寂そのもののような空間に低く溶けた。


 今回の依頼は、公的な機関を通じたものではない。数週間前、この湖の周辺で立て続けに発生した「行方不明事件」に端を発している。


 元を辿れば、二十年近く前にこの湖で発生した一端の水難事故――散策に訪れていた家族連れのボートが転覆し、幼い子どもを含む数名が水底へと沈んだ痛ましい出来事に行き着く。当時は単なる悲惨な事故として処理されたが、時を経てその記憶が風化するにつれ、怪異としての「輪郭」を帯び始めていた。


 事故現場付近を訪れた旅行者や地元住民が、湖面から伸びる「何か」に引きずり込まれるようにして姿を消す。残された遺留品からは、物理的な争いの痕跡ではなく、強烈な記憶の混濁と、底知れぬ未練の残穢が検出されていた。


 サエキは腰のスマホを取り出し、事前に集めておいた情報を脳内で再度整理した。


 事故の生存者である父親は、事故後もこの土地に留まり続け、数年前に病でこの世を去っている。だが、残された執着と、水底に沈んだまま引き揚げられなかった者たちの「還りたい」という歪んだ念が、長年の歳月をかけて湖全体の霊動と結びついてしまったのだ。


 サエキは静かに息を整えた。


 怪異というものは、何も最初から悪意を持って生まれてくるわけではない。人の悲しみや未練、取り返しのつかない後悔が土地の記憶と固着し、時間の経過とともにただの「現象」から「意思を持つ歪み」へと変貌していく。


 だからといって、同情して無条件に放置するわけにはいかない。現世に実害をもたらし、無関係な人間の命を奪う存在となった以上、しかるべき処置を講じる必要がある。それが、怪異の討伐と調査を業とするフリーランスとしての、サエキの変わらぬスタンスだった。


 ざあ、と突然風が吹き抜け、湖面を覆う白い霧が生き物のように蠢き始めた。


 サエキは瞬時に目線を低くし、身体の重心を落とした。


 鍛え抜かれた彼の肉体は、周囲の空気の僅かな密度の変化や、霊素の乱れを過不足なく感知する。湖底から湧き上がるような独特の圧迫感――冷たく、湿り気を帯びた重圧が、足元からじわじわと這い上がってくる。


 霧の奥から、ずるりと「それ」が現れた。


 姿形は明確な人型を成していない。ぬらりとした黒い水塊のようでありながら、幾重にも重なる人間の腕や、声にならない叫びをあげる顔の輪郭が、絶えず表面に浮かんでは消えていく。


『……かえ……りたい……』


『……冷たい……ここから……だして……』


 鼓膜を直接揺らすのではなく、脳の奥底へじかに響いてくるような不快な声。それは事故で命を落とした者たちの残留思念であり、同時にそれらを核として集まってしまった浮遊霊や土地の情念の集合体だった。


 怪異の表面から、無数の細い「糸」のようなものが伸ばされる。


 それは物理的な糸ではなく、人の精神や記憶の隙間に滑り込み、自らの領域へと引きずり込むための「因果の絡みつき」だった。


「なるほど。ただの浮遊霊の集まりにしては、随分と根が深い」


 サエキは取り乱すことなく、冷静に観察を続けた。


 視線を怪異の足元――水面と接している境界部分へと向ける。怪異の本体は湖の中にあり、地上に現れているのはいわば「釣り糸の先」に過ぎない。生半可な物理攻撃や、単なる退魔の火力を叩き込んだところで、湖底の核が無傷である限り、何度でも再生するだろう。


 サエキはジャケットの内ポケットから、数枚の薄い木札を取り出した。


 彼の扱う術式は一種類に留まらない。西洋魔術の論理的な構造解析や、日本の伝統的な呪法、さらにはそれらを補助するための呪具の運用に至るまで、状況に応じて最適な手段を選択する。


「まずは、陸へ引きずり出すか」


 サエキは呟くと同時に、素の身体能力を遺憾なく発揮して地面を蹴った。


 ぬかるんだ腐葉土を踏み荒らすことなく、滑るような低空の跳躍。怪異から放たれた無数の「糸」が、サエキの直前を空切って地面へと突き刺さる。突き刺さった箇所の草木が、瞬時に水分を奪われたかのように黒ずんで萎縮していった。


 サエキは空中体勢のまま木札を指先で弾き、湖畔の特定の立ち木へと正確に叩き込んだ。


 カン、カン、と乾いた音が夜の空間に響く。


 打ち込まれた木札から、目に見えない霊的な障壁が瞬時に展開され、湖面と地上を繋ぐエネルギーのラインが一時的に遮断された。


『ア……ガ……ッ!?』


 怪異が不快な叫びを上げる。湖底からの補給を絶たれたことで、水塊の表面に浮き出ていた人間の顔や腕の蠢きが一瞬、硬直した。


「よし」


 サエキは着地と同時に素早く身を翻し、怪異の間合いへと飛び込んだ。


 彼は戦闘を無暗に好むわけではない。だが、一度戦闘が避けられないと判断すれば、迷うことなく目的達成のための最短ルートを選択する。


 右拳に最小限の法力を宿らせ、怪異の「中心」と思われる歪みの渦へ向けて打ち込む。


 ドオン、と重い衝撃音が湖畔に響き渡った。


 物理的な打撃と法力の波形が合わさった一撃は、怪異の水塊を大きく飛散させ、地上へ繋ぎ止めていた霊的な結び目を大きく揺さぶった。しかし、怪異もさるもの、飛散した水滴が一瞬で細い針状に変化し、サエキの全身へ向けて逆流するように襲いかかる。


 サエキは即座に脚力を活かして後方へバックステップを放ち、間一髪でその針山を回避した。ジャケットの袖口が僅かに切り裂かれ、冷たい水滴が皮膚を撫でる。


「……浅かったか」


 息を乱すことなく、サエキは鋭い視線で怪異の動きを追い続けた。


 一度の打撃で崩しきれなかったのは、湖底に潜む「核」――すなわち二十年前の事故の中心となった強い情念の基術が、未だ強固に機能しているからだ。


 怪異は散らばった水塊を再び引き寄せ、より巨大な姿へと再構成し始めていた。その表面に浮かぶ顔つきは、先ほどまでの無機質な悲哀から、あからさまな「殺意」へと変化している。


 湿った夜気が、さらに重さを増していくようだった。


 怪異の蠢きに伴い、湖畔を覆う霧が一段と濃さを増していった。


 数メートル先すら見通せない白い視界の中で、サエキは視覚だけに頼る観察を捨て、皮膚感覚と霊素の波長に意識を集中させた。


『……なぜ……助けてくれなかった……』


『……寒い……暗い……一人にしないでくれ……』


 濃霧のあちこちから、複数の重なる声が聞こえてくる。それは聴覚を揺らす音波ではなく、人間の脳の隙間に直接浸食し、恐怖や罪悪感を呼び覚まそうとする精神干渉の一種だった。


 もし普通の人間がこの場に立っていれば、自らの過去の過ちや後悔を思い起こさせられ、自暴自棄となってそのまま湖の中へと歩みを進めてしまうだろう。


 だが、サエキの眼光に揺らぎはなかった。


「生きている人間の後悔と、死んだ者の未練を混ぜ合わせるな」


 サエキは低く冷徹な声で言い捨てた。


 彼は怪異に対して不必要な蔑視も過剰な同情も抱かない。目の前にいるのは、かつて人間であったものの残滓と、それに引き寄せられた怨念の固まりに過ぎない。情に流されて判断を誤れば、自分自身が新たな犠牲者となってこの湖底に沈むだけだ。


 サエキは胸元から一枚の古びた羊皮紙を取り出した。西洋の魔術体系に用いられる触媒だ。


 法力を通された羊皮紙が青白い光を放ち、一瞬で灰となって風に舞う。


 その瞬間、サエキの視界の中で、濃霧の奥に広がる「目に見えないライン」が鮮明に浮かび上がった。


 湖底深くから伸びる一本の太い漆黒の糸。それが湖畔の空間へ網の目のように広がり、周囲の生者を引きずり込むための仕掛けを作っている。


「……見えた」


 黒い糸が集中する「結び目」――それこそが、この怪異を現世に繋ぎ止め、動かしている核だった。


 怪異がサエキの企みに気づいたかのように、濃霧の中から無数の水流の太刀を繰り出してきた。大木すら易易と切断するほどの威力を秘めた幾重もの斬撃が、空気を引き裂いて迫る。


 サエキは自身の素の身体能力を極限まで引き出し、最小限の動きでそれを回避した。


 身体を捻り、紙一重で水流の刃をかわす。同時に、短距離の身体強化の法術を脚部に集中させ、爆発的な推進力で地表を滑った。


 目指すは、湖面に張り出した古い桟橋の破片の上だ。


 木製の桟橋は朽ち果てており、体重をかければひとたまりもなく崩れ去るだろう。だが、サエキの身体操作の巧みさは、水面に浮く葉の上に足を乗せるかのような軽やかさでそれを可能にした。


 桟橋の先端に立ったサエキを見上げ、湖底から巨大な漆黒の水塊が爆発するように跳ね上がった。


『お前も……ここへ来い……!』


 天を突くような巨大な水の手が、サエキを丸呑みにしようと覆いかぶさってくる。


 サエキは逃げなかった。


 ジャケットのポケットから取り出したのは、一本の無骨な真鍮製の杭――東洋の法力と西洋の魔術理論を組み合わせて自作した、特定の因果を空間ごと固定するための専用呪具だった。


「還るべき場所へ還れ」


 サエキは短く呟くと、覆いかぶさる水の手の真っ只中へと自ら飛び込んだ。


 冷たい水と強い呪詛が全身を苛む。常人であれば一瞬で意識が塗りつぶされるほどの強烈な未練と怨嗟の波。


 だが、サエキは鋭い意志の力で自らの精神を研ぎ澄まし、羊皮紙が示した「黒い糸の結び目」へと的確に手を伸ばした。


 水塊の中心近く、冷たく固まった「何か」――二十年前の水難事故の遺留品である、小さな金属製のペンダントにサエキの指先が触れる。


 そこへ、真鍮の杭を容赦なく叩き込んだ。


 ズドン、という空間そのものが揺らぐような重低音が響いた。


 真鍮の杭から解き放たれた法術の波形が、ペンダントに集積していた長年の情念と、湖底から伸びる黒い糸を内側から粉々に粉砕していく。


『ア……アアアアアッ……!!』


 絶叫とも不快な風切り音ともつかない悲鳴が、夜の湖畔にこだました。


 サエキを包み込んでいた巨大な水塊が、核を失ったことで一気に支持力を失い、ただの大量の水となって湖面へと激しく落とし込まれる。


 バシャアアン!!


 激しい水飛沫が上がり、湖面が大きく波打った。


 サエキは崩れ落ちる水流を蹴り、空中での身体操作によって見事湖畔の湿地へと着地した。


 衣服は濡れ、息は僅かに荒れていたが、その瞳には冷酷なまでの冷静さが保たれていた。


 水飛沫が収まると、先ほどまで湖面を覆っていた重苦しい濃霧が、夜風に吹かれて急速に薄れ始めていく。


 湖面に浮いていた黒い影や幾重もの腕の蠢きは影も形もなく、ただ静まり返った月光の映り込みだけが、平穏を取り戻した水面に広がっていた。


 サエキは濡れたジャケットの袖を絞り、一息ついた。


 真鍮の杭はペンダントとともに湖底の奥深くへと沈み込み、二度と現世の因果と交わることはないだろう。これで、この湖で続いていた連続失踪事件の「原因」は完全に断たれた。


「……終わったか」


 サエキはスマホを取り出し、依頼主への完了報告の短いテキストを作成した。


 依頼人はこれでようやく、事故で失った家族の死を受け入れることができるかもしれない。あるいは、ただの怪奇現象が収まったことに胸を撫で下ろすだけかもしれない。だが、どちらにせよサエキの関知するところではなかった。


 フリーランスとしての仕事は、怪異を討伐し、因果を断ち切ることまでだ。その後に残された者たちの感情や生活にまで足を踏み入れるつもりはない。


 ふと、雲の間から満月が顔を覗かせ、静かな湖面を白銀色に照らし出した。


 サエキはその光景を静かに見つめながら、小さく首を振った。


「死んだ後まで、どこかの絶対者や過去の未練に縛られるのはゴメンだ。」


 口の中で呟いた独白は、誰に聞かせるでもなく夜風の中へ消えていった。


 サエキは背を向け、湿った腐葉土を再び踏みしめながら、暗い山道へと歩みを進めた。


 無茶はしない。無理もしすぎない。自身の限界を正しく理解し、泥臭く現世を生き抜くための一歩を踏み締めながら、彼は静かに闇の向こうへと姿を消していった。

異聞始末録   記録者サエキ


今回の事件は、長年にわたり奥裾花の湖底に澱んでいた過剰な未練と、土地の霊素が結びついたことで生じた因果の歪みである。

二十年前の水難事故を発端とする悲劇は、時の経過とともに生者の記憶を食らう怪異へと変貌していた。

怪異に罪はないとしても、現世に実害をもたらし、人を引きずり込む存在となった以上、放置することはできない。

湖底の核を断つことで因果の繋がりを解いたが、人の残す執着の深さには改めて警戒を強めざるを得ない。

死した者が還るべき場所を失い、生者を巻き込むような歪みが、未だ各地に眠っているという懸念は拭えないままだ。


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