第二章 還魂の儀
サエキは、まず当主を画廊から遠ざけた。
屋敷の者にも、作業が終わるまで部屋へ近づかないよう伝えてもらう。人の出入りが増えれば、それだけ余計な危険が生じる。何より、当主自身を絵画の近くに置いておく理由がなかった。
「これから、絵画に対処します。大きな音や異常な現象が起きても、こちらから呼ぶまでは入ってこないでください」
「分かりました。ですが……本当に、私の命は助かるのでしょうか」
当主の問いには、切実な響きがあった。
サエキは、すぐには答えなかった。
助けられると断言することはできない。絵画が何をしているのか、その全貌はまだ分かっていないのだ。
「できる限りのことはします。ただし、結果を約束することはできません」
当主は目を伏せた。
「……それでも、お願いいたします」
サエキは頷き、扉を閉めた。
画廊の中は静まり返っていた。
壁に飾られた絵画は、どれも昨日と同じ場所にある。薄暗い室内に、古い額縁と絵の具の匂いが漂っていた。
その奥に、問題の肖像画がある。
サエキは必要な道具を取り出し、絵画の周囲に銀の燭台を配置した。続いて聖水を用意し、魔術結界を築く。
これらは、絵画を単純に破壊するためのものではない。
異常な作用が周囲へ広がることを抑え、対処のための空間を確保する。そのうえで、絵画と当主を結びつけているものに働きかける必要があった。
西洋魔術による結界を整えながら、サエキは絵画の様子を観察した。
額縁の中の顔は、すでに当主と見分けがつきにくいほど似ていた。
目元の皺、鼻筋、口の形。
絵画の人物は、百年前の先祖の衣服をまとったまま、現代の当主の顔をしている。
その組み合わせは、見る者に奇妙な違和感を与えた。
時代も、身分も、身体も異なるはずの二人が、一枚の絵の中で無理やり重ねられている。
サエキは結界の状態を確認した。
異常な気配は、絵画の内部に集中している。周囲へ広がる作用を抑えることはできているが、絵そのものに何が起きているのかは、まだ明確ではなかった。
次に必要なのは、呪術の繋がりを断つための手順だった。
サエキは法力の符を手に取った。
符に法力を込める。
紙の表面に力が満ち、サエキの指先で微かな変化が生じた。
絵画の中の顔が、わずかに歪んだ。
その瞬間、画廊の空気が重くなった。
燭台の炎が揺れる。
閉じた窓の向こうから風が吹き込んだわけではない。にもかかわらず、室内の空気が一斉に絵画へ引き寄せられるような感覚があった。
サエキは符を燃やした。
生じた灰を、キャンバスへ向けて吹きかける。
灰が絵画の表面に触れた瞬間、肖像画の顔が大きく歪んだ。
目元が崩れ、鼻筋が波打つ。
口が、あり得ないほど大きく開いた。
次の瞬間、キャンバスの裏側から悲鳴が響いた。
人間の声に似ていた。
しかし、ひとりの人間が発した声とは思えなかった。複数の声が重なり、互いに引き裂き合いながら、狭い画廊の中に響き渡る。
サエキは足を止めなかった。
絵画の表面から、血のような油絵の具が噴き出した。
赤黒い液体は重力に逆らうように広がり、キャンバスの縁から垂れ落ちることなく、サエキの展開した結界へ向かって伸びてくる。
結界に触れた絵の具が、表面を侵食し始めた。
サエキは距離を取った。
飛び散った液体が床へ落ちる前に、身体を捻って回避する。続いて、横から伸びてきた別の飛沫をかわした。
絵画からの攻撃には、一定の規則性が見られなかった。
液体は直線的に飛び出すこともあれば、空中で軌道を変えることもある。狙いがあるのか、それとも呪術の作用が無秩序に広がっているのか。今の時点では判断できない。
サエキは攻撃を避けながら、絵画の状態を観察した。
法力の符に反応している。
つまり、少なくとも、絵画に働きかけること自体は可能だ。
だが、表面の変化を止めただけでは不十分だった。
絵画と当主を結びつけている何かを断ち切らなければ、呪術の作用は続く可能性がある。
サエキは呪具を取り出した。
絵画から伸びる液体が、再び結界を侵食する。
サエキは身体を沈め、飛沫をかわしながら前へ踏み込んだ。
そのまま絵画の胸元へと接近する。
キャンバスの中の顔が、こちらを見た。
その表情は、苦悶とも、怒りとも、喜びともつかないものだった。
サエキは呪具を振り上げた。
そして、絵画の胸元へ深く突き刺した。
硬いものを貫いた感触はなかった。
刃先は絵の具を裂き、その奥へと沈み込んでいく。
同時に、絵画の内部から凄まじい抵抗が返ってきた。
サエキは呪具を通じて法力を叩き込んだ。
狙いは、血縁を媒介として形成されている呪術の回路だ。
その仕組みを完全に理解できているわけではない。だが、絵画と当主の間に異常な繋がりがある以上、その作用を断ち切ることができれば、少なくとも現在の危険を止められる可能性はある。
法力が絵画の内部へ流れ込む。
その瞬間、悲鳴が一段と大きくなった。
絵の具が激しく波打ち、肖像画の顔が何度も変形する。百年前の先祖の顔と、現代の当主の顔が、交互に浮かび上がっては崩れていった。
まるで、一つの顔をめぐって、二つの存在が争っているかのようだった。
サエキは呪具を押し込んだ。
法力を緩めれば、再び作用が広がるかもしれない。
だからといって、無制限に力を注ぎ込めばいいわけでもない。何が起きているのかを見失えば、対処そのものが新たな危険を招く。
サエキは、絵画の変化を見極めながら、法力を集中させた。
キャンバスの表面に、亀裂が走った。
最初は細い一本の線だった。
それが、瞬く間に広がっていく。
額縁の内側から、乾いた音が響いた。
ビシッ。
大きな亀裂が、肖像画の顔を横切った。
絵の具が剥がれ落ちる。
その下から現れたのは、古い先祖の顔ではなかった。
当主の顔でもなかった。
何かの形を成す直前に、無理やり潰されたような、歪んだ顔の痕跡だった。
サエキは一瞬だけ目を細めた。
だが、考え込む時間はない。
絵画から噴き出していた液体が、急速に勢いを失っていく。結界を侵食していた絵の具も、動きを止め始めた。
サエキは最後まで法力を注ぎ込んだ。
そして、絵画の内部から、何かが断ち切られるような感触が伝わってきた。
直後、画廊を満たしていた異常な気配が薄れた。
悲鳴が止んだ。
空気の圧迫感も消えていく。
残されたのは、亀裂の走ったキャンバスと、床に散らばった絵の具の痕跡だけだった。
サエキは、すぐには呪具を引き抜かなかった。
絵画の状態を確認し、周囲の気配を慎重に探る。
先ほどまで感じられた血と呪詛の気配は、ほとんど消えていた。少なくとも、対処を始める前のような強い作用は残っていない。
サエキは呪具を引き抜いた。
絵画は、動かなかった。
顔の大部分は亀裂によって分断され、剥がれ落ちた絵の具の下には、古いキャンバスの地が露出している。
それは、ただの破損した絵画のように見えた。
しかし、サエキは安堵しなかった。
異常な気配が消えたことと、当主が完全に救われたことは同じではない。
呪術が無力化されたとしても、すでに生じた影響まで元に戻るとは限らない。
サエキは結界を維持したまま、絵画の周囲を調べた。
しばらく観察を続けても、目立った変化は起きなかった。
絵の具は動かず、キャンバスから新たな液体が噴き出すこともない。
少なくとも、今すぐに再び暴れ出す気配はなかった。
サエキは結界を解き、扉の外にいる当主を呼んだ。
当主は、恐る恐る画廊へ入ってきた。
破損した肖像画を見た瞬間、表情が強張る。
「これは……」
「絵画の呪術は、ひとまず無力化できたと考えています」
「では、私は……」
「体調に変化がないか、確認してください。胸の苦しさは残っていますか」
当主は胸元に手を当てた。
しばらく呼吸を繰り返し、それから、驚いたように顔を上げた。
「……消えています」
「胸の圧迫感が?」
「はい。ずっと、何かに押さえつけられているような感覚がありました。それが、今はありません」
当主の目に涙が浮かんだ。
「ありがとうございます、サエキ様。本当に……ありがとうございます」
サエキは静かに頷いた。
「まだ、経過を見る必要はあります。今日は無理をせず、休んでください」
「分かりました」
当主は何度も頭を下げた。
その様子からは、死の恐怖から解放された安堵が伝わってきた。
サエキは、もう一度だけ肖像画を振り返った。
呪術の作用は弱まっている。
結界を解いた後も、異常な気配は戻ってこない。
ここまでの結果だけを見れば、対処は成功したと考えてよさそうだった。
だが、胸の奥には、小さな引っかかりが残っていた。
絵画の表面に浮かんだ、あの歪んだ顔。
百年前の先祖でも、現代の当主でもない、何かの痕跡。
あれは、単に呪術の作用によって生じた形だったのだろうか。
それとも、二つの顔の下に、別の何かが存在していたのだろうか。
サエキは、破損したキャンバスを見つめた。
答えは出ない。
今は、当主の状態を確かめることが先だった。
翌朝、サエキは屋敷のサロンにいた。
窓から朝の光が差し込み、室内の調度品を明るく照らしている。昨夜までの緊張が嘘のように、屋敷は静かだった。
当主はサエキの前に座っていた。
顔色は昨日よりも良く、目の下の隈も少し薄くなっている。胸の圧迫感は戻っていないという。呼吸も落ち着いており、目立った異常は見られなかった。
「おかげさまで、昨夜は久しぶりに眠れました」
「それは何よりです。ただ、しばらくは体調の変化に注意してください」
「はい。もちろんです」
当主は、深々と頭を下げた。
「サエキ様にお願いして、本当によかった。あのままでは、私は……」
言葉が途切れた。
当主は目を閉じ、息を整えた。
「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
サエキは、その手を軽く握り返した。
「無事で何よりです」
その言葉を口にした直後、サエキは違和感を覚えた。
当主の顔を見ていたからだ。
目元。
鼻筋。
口元。
昨夜まで見慣れていたはずの顔に、どこか説明しがたいずれがあった。
サエキは、当主の顔を改めて見つめた。
皺の位置が違う。
鼻の形が違う。
耳の輪郭も、記憶にあるものとは異なっている。
そして何より、その顔には、百年前の肖像画に描かれていた先祖の面影があった。
サエキは手を離した。
当主は、何も気づいていない。
穏やかな表情で笑い、助かったことへの感謝を口にしている。
その顔が、昨夜までの当主の顔ではないことに、本人だけが気づいていなかった。
サエキは、言葉を失った。
肖像画の呪術は無力化した。
胸の圧迫感も消えた。
当主の命も、少なくとも表面上は救われたように見える。
それなのに、当主の容貌は、絵画の中にあった先祖の顔へと変わっていた。
サエキは、静かに問いかけた。
「……ご自身の顔に、何か違和感はありませんか」
「顔、ですか?」
当主は不思議そうに首を傾げた。
「特に何もありませんが……。どうかしましたか」
「いえ。念のためです」
当主は納得したように頷き、再び笑った。
その笑顔を見た瞬間、サエキは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
昨夜、肖像画の中にあった笑みと、あまりにもよく似ていたからだ。
サエキは、当主に鏡を持ってくるよう頼んだ。
当主は不思議そうにしながらも、近くの鏡を手に取った。
鏡の中には、ひとりの男性が映っている。
当主は、その顔を見て微笑んだ。
「……何も変わっていないようですが」
そう言って、鏡を置いた。
本人には、本当に何の異常も認識できていないらしい。
サエキは鏡を覗き込まなかった。
鏡に映るものを確認する必要はない。
すでに、目の前にある顔が答えを示している。
絵画に描かれていた百年前の先祖。
その顔と、今の当主の顔は一致していた。
サエキは、昨夜の対処を思い返した。
絵画の呪術は、魂を吸い上げるものだと考えていた。
だからこそ、絵に囚われかけた魂を肉体へ引き戻し、呪術の回路を断ち切ることを目指した。
しかし、もし最初から違っていたのなら。
あの絵は、魂を吸い上げていたのではない。
百年前の先祖と現代の当主、その二人の存在を結びつけ、肉体の器を入れ替えるためのものだったのではないか。
顔が変わるのは、死の予告ではなく、入れ替わりが完了する前触れだったのではないか。
そして、昨夜サエキが断ち切ったものは、入れ替わりそのものではなく、その過程で生じていた呪術の一部にすぎなかったのではないか。
確かめる術はない。
破損した肖像画は、もう何も語らない。
絵画の内部から感じられた異常な気配も、今はほとんど消えている。
それでも、目の前の当主は、百年前の先祖の顔をしていた。
サエキは当主の表情を観察した。
声は同じに聞こえる。
話し方にも、目立った変化はない。
胸の苦しさから解放されたことを喜び、助けられたことに感謝している。
しかし、それが本人の意思によるものなのか。
それとも、先祖の存在が当主の肉体を得た結果なのか。
サエキには判断できなかった。
「サエキ様?」
当主が不思議そうに呼びかけた。
「何か、問題がありましたか」
「……いいえ」
サエキは答えた。
「少し、考え事をしていました」
当主は安心したように笑った。
「そうでしたか。どうか、お疲れの出ませんように」
その声に、昨日までの当主と違うところがあるのかどうか。
サエキには、もう分からなくなっていた。
屋敷を出る前、サエキは一度だけ画廊へ戻った。
肖像画は、壁から外されていた。
破損したキャンバスは、布をかけられ、別の部屋へ移される準備が進められている。額縁は傷つき、表面には亀裂が走っていた。
絵画からは、あの血と呪詛の気配は感じられない。
サエキは布を少しだけめくり、キャンバスを確認した。
顔の部分は大きく損なわれている。
それでも、剥がれ残った絵の具の一部には、先祖の顔の輪郭が残っていた。
目元の皺。
鼻筋。
耳の形。
それらは、今朝、サロンで見た当主の顔と同じだった。
サエキは布を戻した。
これ以上、絵画を調べても答えは得られないかもしれない。
呪術の作用は止まっている。
当主の体調も改善している。
依頼そのものは、完了したと判断するほかない。
しかし、サエキは、救出が成功したと心から言い切ることができなかった。
救ったのは、本当に依頼主だったのだろうか。
それとも、百年前の先祖だったのだろうか。
あるいは、どちらとも異なる何かが、当主の身体を得たのだろうか。
どの可能性にも、確かな答えはなかった。
サエキは洋館をあとにした。
朝の光が、古い庭園を照らしている。
玄関の扉が閉まる直前、サエキはふと振り返った。
二階の窓辺に、ひとりの男性が立っていた。
当主だろう。
男性は、こちらを見ていた。
距離があるため、表情までははっきりと分からない。
それでも、男性が微笑んでいるように見えた。
サエキは、しばらくその窓を見つめた。
やがて、視線を外した。
確認できたことはある。
肖像画の呪術は無力化された。
当主の胸の圧迫感は消えた。
そして、当主の顔は、百年前の先祖のものに変わっていた。
それ以上のことは、分からない。
サエキは静かに歩き出した。
背後で、洋館の扉が閉じる音がした。
その音を聞きながら、サエキは考えていた。
もし、あの顔が本当に先祖のものなら。
百年前に亡くなったはずの人物は、いったいどこから戻ってきたのだろう。
そして、元の当主は、どこへ行ったのだろう。
答えは、もう絵画の中には残されていなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
サエキが無力化したのは、肖像画の呪術だった。
当主の中にいるものが何者なのかまでは、確かめられなかった。
その事実だけが、最後まで消えずに残っていた。
異聞始末録 記録者 サエキ
古い肖像画にまつわる血縁の呪いを確認。絵画は子孫の魂と存在を侵し、描かれた祖先の顔へと肉体を変貌させる性質を持つ可能性がある。
呪いの回路を断ち、絵画の異常は消失。依頼人の生命にも危険はないと判断した。
しかし、依頼人の顔は、絵画から剥がれ落ちたはずの祖先の顔へと変わっていた。本人に自覚はなく、記憶や人格に明確な異常も認められない。
私は本当に、彼を救ったのだろうか。
あるいは――救うべき人間は、すでにどこにも残っていなかったのだろうか。
とある絵描きの手記
あの顔を描き終えた日から、私は夜が怖くなった。
絵の中の男は、少しずつこちらを見なくなった。正確には、私を見ているはずなのに、その視線が私の背後にいる誰かを追うようになったのだ。
最初は疲労のせいだと思った。何日も絵筆を握り、蝋燭の明かりで細部を整えていたのだから、目がおかしくなっても不思議ではない。
だが、ある朝、私は気づいた。
男の口元が、前日よりわずかに緩んでいる。
笑っているのだ。
私はそんな表情を描いていない。あの男は生涯、家族にも心を許さぬ人だったと聞いている。肖像画に笑みを与える理由など、どこにもなかった。
それから私は、絵を布で覆うようになった。
それでも夜になると、布の向こうから筆先を引きずるような音がする。誰かが、私の知らない絵を描き足している。
ある晩、とうとう布を剥いだ。
男の顔は、私が描いたものとは違っていた。
いや、違うのではない。
そこには、私自身の顔があった。
目の下の皺も、頬の痣も、最近になって増えた白髪の影さえも。鏡を見て描き写したわけではないのに、私が老いるたび、絵の中の男もまた私に近づいていたのだ。
私は絵を破ろうとした。刃を立て、胸元を裂こうとした。
その瞬間、布の奥から声がした。
――まだ、お前ではない。
私は手を止めた。
声は、私の喉から聞こえた。
それから何年も経った。私はもう、あの絵を描いた日のことを誰にも話していない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
絵の中の男は、私の顔を欲しがっているのではない。
私がいなくなったあと、その顔を誰に渡すかを、ずっと選んでいるのだ。
今夜、遠い子孫が生まれたと知らせが届いた。
私は絵を見た。
男は、満足そうに笑っていた。




