第一章 塗られた顔
古都の郊外には、時代の流れから取り残されたような洋館があった。
大正時代に建てられたというその建物は、白かったはずの外壁が灰色にくすみ、蔦に覆われた壁面には長年の風雨が刻んだ染みが広がっていた。左右対称に設計された窓は整然と並んでいるものの、その多くは内側から厚いカーテンで閉ざされている。庭園もまた、かつての美しさを失って久しいようだった。
それでも、建物には古い時代の財力と格式が残っていた。
玄関に敷かれた石畳は丁寧に手入れされ、重厚な扉には磨き込まれた真鍮の金具が取り付けられている。廊下には由緒ありげな調度品が並び、壁には先祖代々の肖像画が飾られていた。
没落した旧家。
その言葉が似つかわしい屋敷だった。
サエキが依頼を受けたのは、数日前のことだった。
依頼主は、この屋敷の現当主である。
電話口の声は落ち着きを装っていたが、要件を説明するにつれて、その調子には隠しきれない焦燥が滲んでいった。
屋敷の一室に飾られた肖像画がおかしい。
夜が明けるたび、描かれた人物の顔が変化している。
最初は、長年の保管による絵の具の変色かと思ったらしい。だが、変わっているのは色合いだけではなかった。眉の形、目元、鼻筋、口元。人物の顔立ちそのものが、少しずつ別の誰かに近づいているのだ。
そして、その別の誰かとは、現当主自身だった。
依頼主は、サエキに一つの言葉を告げた。
「先代の遺言に、あの絵の顔が私自身のものになった時、私は死ぬと記されていたのです」
その声を聞いた時点で、サエキは単なる美術品の異常ではないと判断していた。
絵画の変化が自然現象である可能性を完全に否定することはできない。しかし、特定の人物の顔へ変化し、それが死の予告と結びついているとなれば、調査すべき対象は明確だった。
血縁に関わる呪術。
あるいは、絵画を媒介とした何らかの怪異。
どちらであるにせよ、実物を確認するまでは結論を出せない。
サエキは依頼を引き受け、屋敷を訪れた。
出迎えた当主は、電話で受けた印象よりもずっと疲弊していた。
年齢相応の皺が刻まれた顔は青白く、目の下には濃い隈がある。身なりは整っていたが、上着の袖口には何度も指で擦ったような皺が寄っていた。眠れていないのだろう。
「お越しいただき、ありがとうございます。どうか、あの絵を調べていただきたい」
「まずは現物を確認します。絵画のある部屋へ案内していただけますか」
「ええ。こちらです」
当主は廊下の奥へ歩き始めた。
その足取りは慎重だった。階段を下りる際にも、廊下の角を曲がる際にも、何かを気にするように背後を振り返る。
誰かがついてきているわけではない。
少なくとも、サエキの目にはそう見えた。
「絵画の変化に気づいたのは、いつ頃ですか」
「ひと月ほど前です。最初は、目元が似ているように思っただけでした。ですが、日が経つにつれて、明らかに私の顔になっていったのです」
「毎晩、確認しているのですか」
「確認せずにはいられません。朝になれば、また変わっているのではないかと……」
当主は言葉を切った。
「いえ、正確には、変わっていることを確かめるのが怖いのです」
廊下の先に、重厚な扉があった。
扉の両脇には古い燭台が置かれている。電灯はあるものの、部屋の奥まで光が届きにくい構造らしい。扉の表面には、長い年月を経た木材特有の細かな傷が刻まれていた。
「この先が画廊です。問題の絵は、一番奥の壁にあります」
当主は扉の取っ手に手をかけたが、すぐには開けなかった。
「サエキ様。先にお伝えしておきたいことがあります」
「何でしょう」
「この絵は、百年前に亡くなった私の先祖を描いたものです。名前も、当時の記録も残っています。ですが……」
当主の指が、取っ手の上で震えた。
「最近、絵の人物がこちらを見ているように感じるのです」
サエキは当主の顔を見た。
恐怖によって生じた錯覚かもしれない。睡眠不足と精神的な圧迫が続けば、普段なら気にも留めない物音や影を、異常なものとして認識することもある。
だが、それだけで片づけるのも早計だった。
「私が先に確認します。あなたは、ここで待っていてください」
「しかし……」
「異常があれば、こちらからお呼びします。無理に近づく必要はありません」
当主は迷った末、頷いた。
サエキは扉を開けた。
室内には、冷えた空気が淀んでいた。
画廊という名前にふさわしく、壁面には大小さまざまな絵画が飾られている。風景画、静物画、そして、歴代の当主やその家族を描いた肖像画。どれも古いものだったが、保存状態は悪くない。
しかし、室内を満たしているのは、単なる古びた建物の匂いではなかった。
油絵の具の匂いに混じって、濃厚な血の気配がある。
その奥に、湿った土のような、腐りかけたもののような不快な気配が重なっていた。
サエキは足を止めた。
視線を壁沿いに移し、絵画の配置と室内の様子を確かめる。窓は閉じられており、床に目立った汚れはない。家具も少なく、人が隠れられるような場所は限られていた。
異常の中心は、部屋の一番奥にある。
そこに、一枚の大きな肖像画が飾られていた。
重厚な額縁の中に、黒い礼服をまとった男性が立っている。背景は暗く、人物の輪郭を際立たせるように描かれていた。古い肖像画にありがちな威厳を備えた構図だったが、人物の顔だけが、周囲の陰影から浮き上がるように見えた。
目鼻立ちは整っている。
しかし、見つめていると、何かが不自然だった。
顔の左右で陰影の落ち方が微妙に違う。頬の線は古い絵画らしい筆致を残しているのに、目元だけは妙に生々しい。まるで、別々の時代に描かれた顔の一部を、無理やり一つの画面に押し込めたかのようだった。
サエキは絵画の前まで歩み寄った。
キャンバスには、明らかに異常な気配が宿っていた。
血と呪詛。
その二つが、絵の具の奥深くに染み込んでいる。
単なる呪物ではない。長い時間をかけて何かを蓄積し、今もなお作用し続けているような感触があった。
サエキは絵画の表面を観察した。
額縁に破損はない。キャンバスにも、外部から刃物などで傷をつけた形跡は見当たらない。絵の具の剥離やひび割れは年代相応だが、顔の部分だけは奇妙なほど滑らかだった。
古い絵画であれば、顔料の劣化や修復の痕跡があってもおかしくない。
だが、この顔は違う。
古い部分の上に、新しいものが塗り重ねられている。
しかも、その境界は自然な修復の跡とは思えなかった。
サエキは少し離れ、全体を見渡した。
百年前の先祖を描いた絵。
そこに、現在の当主の顔が少しずつ現れている。
依頼主の話と目の前の描写は一致していた。
サエキは当主を呼び、絵画から十分に距離を取った場所に立たせた。
「この絵の人物が、あなたの先祖で間違いありませんか」
「はい。古い記録に残っている肖像画と同じものです」
「あなた自身に似ていると気づいたのは、どの部分からですか」
「目元です。最初は、目の形が似ていると思いました。それから鼻が、口元が……。今では、顔全体が私に近づいています」
当主は絵を見つめた。
その顔が、すぐに強張った。
「……今日も、変わっています」
サエキは視線を戻した。
先ほど確認した時には気づかなかったが、人物の口元には、わずかな違和感があった。
口角の線が、ほんの少しだけ上がっている。
笑みと呼ぶには不自然で、偶然の筆致と考えるには、妙に意図的な変化だった。
「昨日までは、こんな顔ではありませんでした」
当主は後ずさった。
「私が見ていない間に、変わるのです。誰も手を加えていないのに……」
「絵の管理を担当している方はいますか」
「現在は私が管理しています。使用人にも、勝手に触れないよう伝えてあります」
「最近、絵を移動させたり、修復したりしたことは?」
「ありません。少なくとも、私が知る限りでは」
サエキは、その答えを頭の片隅に留めた。
当主自身が何らかの事情を隠している可能性はある。だが、現時点でそれを疑う根拠はない。重要なのは、誰が絵に触れたかということだけではなかった。
この異常が、いつ、どのように始まったのか。
そして、なぜ当主の顔へ変化しているのか。
「先代の遺言について、詳しく聞かせてください」
当主は唇を引き結んだ。
「父が亡くなる前、私に伝えたのです。あの肖像画については、決して手を加えてはならないと。顔が自分のものになった時は、死が訪れるのだとも」
「その時、遺言の理由は説明されましたか」
「いいえ。ただ、先祖代々、あの絵は特別なものとして扱われてきたそうです。私も詳しい由来までは知りません」
「遺言は、書面にも残っていますか」
「残っています。後ほど、お見せできます」
サエキは頷いた。
当主の話だけで、すべてを決めることはできない。遺言の記述を確認し、家系の記録と照らし合わせる必要がある。
ただ、今は別の問題があった。
絵画から漂う気配が、徐々に濃くなっている。
室内の温度が下がったわけではない。それでも、絵の前に立っていると、皮膚の内側に冷たいものを流し込まれるような感覚があった。
サエキは当主に尋ねた。
「この絵を見ていると、体調に変化はありますか」
「胸が苦しくなります。夜になると、特に……。最近は、眠ろうとしても、誰かに呼ばれているような気がするのです」
「声が聞こえるのですか」
「はっきりした声ではありません。ただ、名前を呼ばれているような……」
当主は自分の胸元を押さえた。
「朝になると、ひどく疲れているのです。まるで、一晩中、誰かに何かを吸い取られていたかのように」
サエキは絵画へ視線を向けた。
魂を吸い上げる。
そう考えるのは自然だった。
しかし、まだ確定はできない。
血縁に関わる呪術が、特定の人物を標的として作用している。絵画がその媒介になっている可能性は高いが、作用の仕組みまでは分からなかった。
顔の変化が、魂の侵食に伴うものなのか。
それとも、顔の変化そのものが、何か別の現象の前触れなのか。
現段階では、どちらもあり得る。
「今夜からは、この部屋に近づかないでください。寝室も、できるだけ絵画から離れた場所を使ってください」
「それで、助かるのでしょうか」
「安全になると断言はできません。ただ、原因を調べる間、余計な危険を避ける必要があります」
サエキは、当主を画廊から退避させた。
その後、絵画の周辺を調べ、室内に残された記録や古い資料を確認した。家系図には百年前の先祖の名が記されており、肖像画の制作時期とも大きな食い違いはない。
しかし、問題の絵に関する記録は乏しかった。
代々の当主が所有してきたこと。特定の時期に修復されたこと。そして、先代が死の間際に遺言を残したこと。
確認できたのは、それだけだった。
絵画の由来を説明する資料は見つからない。
サエキは資料を閉じた。
情報が足りないこと自体は珍しくない。古い家系には、記録が失われた時代もあれば、都合の悪い事実が書き残されなかった可能性もある。
だが、分からないことを理由に、目の前の危険を放置するわけにはいかなかった。
夜になれば、絵画は再び変化するかもしれない。
当主の話が正しければ、変化は一晩ごとに進んでいる。完全に顔が一致するまでの時間は、もう長くない。
サエキは翌日の対処に向けて準備を進めた。
必要なのは、絵画を壊すことではない。
少なくとも、何が起きているのか分からないまま、単純に破壊するのは危険だった。
絵画と当主の間に、魂を吸い上げるような繋がりが存在するのなら、絵を焼き払うことが当主の死に直結する可能性もある。
先に、繋がりの性質を見極めなければならない。
そして、可能であれば、当主に及んでいる作用を断ち切る。
それが現時点で考えられる方針だった。
翌朝。
サエキは画廊へ向かった。
扉を開ける前から、異常の気配が昨日よりも濃くなっていることが分かった。
室内に足を踏み入れた瞬間、サエキは絵画へ視線を向けた。
人物の顔は、さらに変化していた。
目元も、鼻筋も、口元も。
昨夜まで古い先祖の面影を残していた顔が、現代の当主に近づいている。
そして、口元には、昨日よりも明瞭な笑みが浮かんでいた。
サエキは立ち止まった。
絵の中の人物は、昨日と同じ姿勢で立っている。
同じ衣服をまとい、同じ暗い背景を背負っている。
ただ、その顔だけが、今も変わり続けている。
絵の中の目が、こちらを見ているように感じられた。
サエキは、すぐには近づかなかった。
視線をそらし、室内の様子を確認する。扉は閉じられていた。窓も開いていない。床や壁に新たな傷はなく、絵画が動かされた形跡も見当たらない。
異常は、絵そのものに起きている。
そして、その変化は止まっていない。
サエキは当主を呼んだ。
当主は画廊へ入るなり、絵を見て顔を覆った。
「もう、ここまで……」
声が震えていた。
「あと、どれほど残されているのでしょうか」
サエキは答えなかった。
残り時間を正確に測る方法はない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
このまま何もしなければ、次の朝には、さらに変化している可能性が高い。
そして、先代の遺言が告げた死が訪れるというのなら、猶予はわずかしか残されていない。
サエキは絵画を見つめた。
顔を塗り替えているものは何なのか。
この絵は、本当に当主の魂を吸い上げているのか。
それとも、もっと別のことをしているのか。
今の段階で断定できることは少ない。
だが、絵画を媒介とした呪術が当主に作用していることだけは、疑いようがなかった。
「対処を始めます」
サエキは当主に告げた。
「これから先、何が起きても、私の指示があるまでは部屋に入らないでください」
「分かりました。どうか、よろしくお願いいたします」
当主は深く頭を下げた。
サエキは再び絵画へ向き直った。
古い額縁の中で、当主によく似た顔が微笑んでいる。
その笑みには、百年前の肖像画にふさわしい威厳も、現代の人間が浮かべる自然な表情もなかった。
ただ、これから起きることを、ずっと前から知っていたかのような静けさがあった。
サエキは、その顔から目を離さずに考えた。
もし、この絵が当主の魂を吸い上げているのなら、救うべきものは絵の外にある。
しかし、もし絵画が別の何かを目的としているのなら。
自分がこれから行う対処は、本当に当主を救うことになるのだろうか。
答えは、まだなかった。
それでも、動かなければならない。
サエキは必要な道具を確認し、呪術への対処を始める準備を整えた。
肖像画の顔は、静かに笑っていた。
その目元には、もう百年前の人物の面影がほとんど残っていなかった。
残されているのは、当主が毎朝、鏡の中で見てきたはずの顔だった。
ただし、その顔が本当に当主自身のものなのか。
その問いに答えられる者は、まだ誰もいなかった。




