単章 蒼穹
死体が発見されたのは、海からも川からも遠く離れた山間の村だった。
廃棄された採石場の底で、近くに住む老人がそれを見つけた。最初は、白い布をまとった誰かが倒れているのだと思ったらしい。だが、近づいてみると、布に見えたものは羽毛だった。その下には、人間によく似た身体が横たわっていた。
背中からは、左右一対の白い翼が生えていた。
老人は悲鳴を上げ、村へ戻って警察に通報した。
警察が現場に到着したとき、死体はすでに冷えきっていた。衣服らしきものは身につけておらず、肌にも目立った外傷はない。翼は、汚れていてもおかしくない場所に倒れていたにもかかわらず、驚くほど白かった。
そして、死体の肺からは水が見つかった。
医師は、溺死の可能性が高いと判断した。
しかし、採石場に水場はなかった。雨が降った形跡もなく、死体が水に浸かったと考えられる痕跡もない。
それでも、死体は溺れていた。
三日後、サエキが村を訪れた。
「調査を担当するサエキです。発見時の状況を、最初から聞かせてください」
名乗ったサエキは、警察官の案内に従って診療所の奥へ向かった。名刺を差し出すことも、握手を求めることもなかった。
村の警察官は、サエキの来訪を歓迎しているようには見えなかった。歓迎する必要がないのだろう。目の前の出来事に説明がつかず、外部から来た男に頼るしかない。その不本意さは、彼らの表情に十分表れていた。
「こちらです」
案内された部屋には、簡易的な保管設備が設けられていた。
白いシーツをかけられた死体が、その下に収まっている。
サエキはシーツをめくり、しばらく黙って観察した。
顔立ちは人間に似ていた。目を閉じ、口をわずかに開いている。苦悶の表情というより、眠りに落ちた者のようだった。
翼は大きく、羽根の一枚一枚が整然と重なっている。汚れも破損もほとんど見当たらなかった。
「死因については、溺死の可能性が高いと聞きました」
「はい。肺に水がありました。ですが、現場には水がありません」
「発見時と比べて、状態に変化は?」
「ありません。傷も増えていませんし、腐敗も進んでいないようです」
サエキは死体の手首に触れた。
冷たい。
それだけだった。
「保管場所から消えたことがあるそうですね」
警察官の顔がこわばった。
「……二度です。最初は診療所の保管室から消え、翌朝、村の共同墓地で見つかりました。二度目は、そこから移した後です。今度は公民館の裏手にありました」
「誰かが運び出した可能性は?」
「監視もつけました。扉も施錠していました。それでも、いなくなったんです」
「発見されたときの状態は?」
「まったく同じでした。向きまで変わっていなかったと聞いています」
サエキは死体を見下ろした。
どこへ移されたところで、死体そのものに変化はない。誰かが運んでいるのなら、もう少し乱雑な痕跡が残ってもよさそうなものだった。少なくとも、運んだ者の都合が介在した形跡があるはずだ。
だが、そこには何もなかった。
まるで、置かれた場所だけが入れ替わっているようだった。
「村の外へ運び出そうとしたことは?」
「まだありません。何が起こるかわかりませんから」
「賢明です」
サエキはシーツを戻した。
警察官は、その短い言葉に安堵したようだった。けれど、サエキの表情は変わらなかった。
彼はまだ、何ひとつ解決していない。
村人たちの証言は、死体についてのものよりも、空についてのものが多かった。
最初に話を聞いたのは、採石場の近くに住む中年の男だった。
「白いものが飛んでいたんです」
男はそう言って、窓の外を指さした。
「鳥ではありません。もっと大きい。人間みたいな形をしていて、背中に羽根があった」
「いつ見ましたか」
「死体が見つかる前の日です。昼間でした。空はよく晴れていて、雲ひとつなかった」
「それで?」
「踊っているように見えました。くるくると回って……いや、違うな」
男は眉間を押さえた。自分の見たものを思い出そうとするほど、言葉が遠ざかっていくようだった。
「沈んでいたんです」
サエキは続きを促さなかった。
男は自分の言葉を確かめるように、ゆっくりと話した。
「空を飛んでいるのに、水の中にいるようでした。手足を動かして、何かから逃れようとしているような……でも、苦しそうなのに、どこか綺麗だった」
「ほかに気づいたことは?」
「空が揺れていました」
男は両手を広げた。
「夏の道路の上で、景色がゆらゆらすることがあるでしょう。あんな感じです。でも、あの日は暑くもなかった。空全体が、水面みたいに揺れていたんです」
サエキは記録を取った。
「それを見て、身体に何か変化は?」
「ありません。たぶん」
男は少し考えてから、声を落とした。
「その夜、夢を見ました。水の中にいる夢です。上に光があるのに、どうしても届かない。息ができなくて、苦しくて……目が覚めたとき、喉が痛かった」
サエキは顔を上げた。
「夢は一度だけですか」
「ええ。今のところは」
「今のところ、というのは?」
男は答えなかった。
代わりに、窓の外へ視線を向けた。
その先には、青空が広がっていた。
サエキは男の視線を追わなかった。
「わかりました。ほかに何か思い出したら、警察に伝えてください」
次に話を聞いたのは、村の診療所で働く若い看護師だった。
彼女は白い影を見たことがないという。ただ、死体が発見された日の夕方、診療所の窓から外を見ていると、不思議な気持ちになったらしい。
「誰かを待っていたような気がしたんです」
「誰か、というのは?」
「わかりません。ずっと昔に別れた人とか、もう会えない人とか……そういう人を」
彼女は困ったように笑った。
「変ですよね。会ったこともない相手なのに」
「そのとき、何かを見ましたか」
「いいえ。何も」
「では、その気持ちはいつから?」
「窓の外を見たときからです。空が、すごく青くて……それだけなのに、嬉しくなってしまって」
彼女は膝の上で指を組んだ。
「どうして嬉しかったのか、今でもわかりません」
サエキはその証言も記録した。
恐怖だけではない。
空を見た者たちは、溺れる夢を見たり、説明のつかない懐かしさを覚えたりしている。
共通しているのは、空が青かったということ。そして、彼らの誰ひとりとして、自分が何を見たのか正確には説明できないということだった。
サエキは診療所を出た。
村の通りには、普段と変わらない生活があった。洗濯物が干され、老人が軒先で椅子に座り、子供たちが道端で遊んでいる。
誰もが、あの死体のことを知っている。
誰もが、空の話を聞いている。
それでも、空はいつもどおり青かった。
サエキは足元の砂利を踏み、村の警察官に次の調査場所を尋ねた。
空には、一度も目を向けなかった。
昼過ぎ、サエキは再び採石場を訪れた。
死体が最初に発見された場所だった。
警察官が現場の状況を説明しているあいだ、サエキは地面を調べた。乾いた土、崩れた岩、草の間にたまった砂。水が流れた跡も、池があった痕跡もない。
「ここで間違いありませんか」
「はい。通報した老人も、ここだと言っています」
「死体を発見したとき、周囲に人影は?」
「なかったそうです」
サエキはしゃがみ込み、土に触れた。
乾いている。
指先についた砂を払って立ち上がると、彼は採石場の壁を見た。岩肌には古い削岩の跡が残り、長い年月を経て角が丸くなっていた。
「この村で、ほかに変わったことは?」
警察官はすぐには答えなかった。
「……空のこと以外では、ありません」
「空のことは、もう十分です」
サエキは淡々と言った。
「必要なのは、実際に確認できた事実です。見たものの正体を決めつけるのは、その後でいい」
警察官はうなずいた。
そのときだった。
周囲の音が、ほんのわずかに遠のいた。
風が止んだわけではない。鳥の声も、草の擦れる音も聞こえている。ただ、音と音のあいだに、薄い膜が一枚挟まったような感覚があった。
サエキは動きを止めた。
岩肌に落ちていた影が、揺れた。
風に揺れたのではない。影の輪郭だけが、水の中に沈められた布のように歪んだ。
警察官が息を呑んだ。
「今のは……」
「何も言わなくて結構です」
サエキは視線を地面に落としたまま言った。
「見たものを、急いで言葉にしないでください」
「ですが、確かに――」
「ええ。確かに、何かがありました」
サエキはそれ以上、言葉を重ねなかった。
顔を上げれば、何かが見えるのかもしれない。
あるいは、見てはいけないものが見えるのかもしれない。
彼は確かめなかった。
しばらくすると、風が戻った。鳥の声も、草の擦れる音も、先ほどと同じ距離に戻ってきた。
警察官は、何度か唾を飲み込んだ。
「……あれは、何だったんでしょう」
「わかりません」
サエキは答えた。
少なくとも、この場で口にできる言葉としては、それがもっとも安全だった。
夕方、診療所には警察官と村の関係者が集まっていた。
死体は、再び保管室に置かれている。
二度も所在を変えたものを、いつまでも村の施設に置いておくわけにはいかなかった。
サエキは死体を確認してから、集まった人々を見渡した。
「先に、結論を伝えます」
声は静かだった。
「これは天使ではありません」
室内の空気が固まった。
誰かが小さく息を漏らした。警察官のひとりが眉をひそめる。
「……どうして、そう言い切れるんです?」
「そう判断したからです」
「しかし、翼があって、人間のような姿をしていて……」
「外見だけで分類できるものではありません」
サエキはそれ以上、説明しなかった。
問いを重ねようとした警察官も、彼の表情を見て口を閉じた。そこには、曖昧な推測を述べる者の迷いがなかった。
しかし、確信の理由も語られなかった。
「この死体は、国の怪異対策課へ移送してください」
サエキは、責任者らしい年配の警察官に向き直った。
「正式な手続きを通し、専門の管理下に置くべきです。ここで保管を続けるのは適切ではありません」
「怪異対策課に、ですか」
「はい。移送までのあいだは、現在の保管場所から動かさないでください。可能な限り、出入りする人間も限定してください」
「ですが、また消えたら……」
「そのために、これから処置をします」
警察官は不安そうに死体を見た。
「処置というのは?」
「簡単な浄めです。根本的な解決にはなりません。ただ、移送までのあいだ、所在が変わるのを抑えるためのものです」
「それで、本当に止まるのでしょうか」
「確実だとは申し上げません」
サエキは正直に答えた。
「ですが、何もせずに移送を待つよりはましです」
警察官は数秒考えたあと、うなずいた。
「わかりました。こちらで怪異対策課に連絡し、移送の手続きを進めます」
「お願いします」
サエキは小さな鞄を手に取った。
中には、簡単な道具しか入っていなかった。特別な祭具でも、由緒ある聖具でもない。必要なものを必要なだけ用意した、仕事道具だった。
彼は保管室の扉を閉じた。
それから、廊下の窓を一瞥した。
窓の向こうには、夕暮れ前の光が差し込んでいた。
サエキは窓から視線を外し、鞄を開けた。
これから行うのは、封印ではない。
退魔でもない。
まして、何かを救済するための儀式でもない。
ただ、ここに置かれたものが、移送の時までここに留まるようにする。
それだけのことだった。
浄めは、診療所の裏手から始められた。
サエキは村の地図を広げ、死体が発見された採石場と、これまで死体が現れた場所を順に確かめた。地図の上に印をつけ、いくつかの場所を結び、それから必要なものを取り出した。
手順は簡素だった。
特別な祝詞を長々と唱えることも、周囲の人間を遠ざけることもしなかった。決められた場所に必要なものを置き、地面に指先を触れさせ、短い言葉をいくつか口にする。
それだけだった。
もっとも、簡単に見えることと、簡単にできることは同じではない。
サエキは途中で何度か手を止め、地面の感触を確かめた。場所によって、わずかに手応えが異なる。何かが染み込んでいるように感じられる場所もあれば、何も感じられない場所もあった。
彼はその違いを記録し、必要な処置だけを施した。
村人たちは、少し離れたところから作業を見守っていた。
空を見上げる者もいた。
雲ひとつない青空を見て、何かを探すように目を細める者もいた。
サエキは、誰の視線も追わなかった。
地面を見て、手元を見て、次に行うべき作業を確認する。顔を上げる必要があるときも、目を向ける先は人の顔か、建物の壁だった。
空だけは見なかった。
見ないようにしていることを、誰にも悟られないようにする必要もなかった。悟られたところで、説明するつもりはなかったからだ。
最後の処置を終えたとき、太陽は山の向こうへ傾き始めていた。
サエキは手を洗い、道具を片づけた。
「これで終わりですか」
警察官が尋ねた。
「ひとまずは」
「死体は、もう移動しないと?」
「そうなることを期待しています」
サエキは言葉を選んだ。
「ただし、これは一時的な措置です。いつまで効果が続くかはわかりません。移送の準備が整い次第、速やかに運び出してください」
「わかりました」
警察官は手帳に何かを書き込んだ。
「怪異対策課には、今夜中に連絡を入れます。受け入れ先と輸送手段についても、向こうと調整します」
「お願いします。移送の際も、保管場所と同じ扱いを続けてください。途中で余計な確認をする必要はありません」
「余計な確認?」
「死体の状態を確かめることと、正体を確かめようとすることは別です」
警察官は、サエキの言葉を理解しきれない様子だった。
それでも、これ以上は尋ねなかった。
サエキは診療所の保管室へ戻った。
死体は、先ほどと同じ場所にあった。
白い翼も、閉じた目も、わずかに開いた口も、何ひとつ変わっていない。
移動した形跡はなかった。
「……よし」
サエキはそれだけ言って、扉を閉じた。
処置は成功したらしい。
少なくとも、今のところは。
診療所を出ると、村の人々は少しだけ安堵した様子を見せていた。何が解決したのか、彼ら自身にもわかっていない。それでも、死体が目の前からいなくなり、専門の機関が引き取ることになれば、ひとまずは安心できるのだろう。
サエキは、その気持ちを否定しなかった。
ただ、これで終わったとは考えていなかった。
「サエキさん」
呼び止めたのは、最初に案内をしてくれた警察官だった。
「ひとつだけ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「あなたは、あれが何なのか知っているんですか」
サエキはすぐには答えなかった。
診療所の壁に夕日が当たっていた。窓ガラスには赤い光が反射し、向かいの家の屋根が長い影を落としている。
「知っていることもあります」
やがて、彼は言った。
「知らないこともあります」
「では、今回のことは?」
「必要なことは、しました」
警察官は、納得したような、していないような顔をした。
サエキは軽く会釈し、歩き出した。
村を出る道は、採石場へ向かう道と同じく、緩やかな坂になっていた。
道端には枯れかけた草が生え、古い電柱が一定の間隔で並んでいる。夕方の風は冷たく、遠くから犬の鳴き声が聞こえた。
サエキは歩きながら、今日見聞きしたことを頭の中で整理した。
水のない場所で溺れた死体。
保管場所を変える死体。
空を泳ぐように見える白い影。
そして、それを見た者たちが語った、奇妙な夢と懐かしさ。
どれも、ひとつの説明にまとめるには不確かな情報だった。
無理に結びつけるべきではない。
彼はそう判断した。
そのとき、背後から誰かに見られているような感覚があった。
足音はない。
声もない。
振り返る理由もなかった。
サエキは歩みを止めず、村を離れた。
仕事を終えたサエキが向かったのは、駅前にある馴染みの喫茶店だった。
扉を開けると、コーヒーの香りがした。
カウンターの奥で店主が顔を上げる。
「いらっしゃい。いつもの?」
「お願いします」
「今日は遅かったね」
「少し遠出をしていました」
「そうかい。お疲れさま」
店主はそれ以上尋ねず、カップを用意した。
サエキは窓際の席に腰を下ろした。テーブルの木目には細かな傷があり、窓辺には小さな鉢植えが並んでいる。壁に掛けられた時計は、いつもどおりの音を立てていた。
ここでは、誰も彼に仕事の話を聞かない。
それが気に入っていた。
運ばれてきたコーヒーをひと口飲む。
苦味のあとに、ほのかな甘さが残った。
サエキは息をついた。
窓の外を歩く人々は、帰宅を急いでいるようだった。自転車が通り過ぎ、信号が変わり、店の前を親子連れが歩いていく。
平凡な夕方だった。
少なくとも、そう見えた。
店内には、ほかの客もいた。
新聞を読む老人。向かい合って話をする若い男女。奥の席で本を開いている女性。
そして、その隅に、ひとりの客が座っていた。
その者は、サエキを見ていた。
長いあいだ、ずっと。
視線には敵意がなかった。怒りも、疑念も、好奇心さえも感じられなかった。
ただ、深い慈しみがあった。
長い旅を終えた子供が、ようやく帰ってきたのを見つけた母親のように。
何度も失われ、何度も探し、ようやく再び巡り会えた相手を見つめるように。
その者は微笑んでいた。
とても優しく。
とても幸せそうに。
ほかの客は、その存在を気にしていなかった。
誰も視線を向けず、誰も席を空けようとしない。店主も、そこに客がいることを特別なことだとは思っていないようだった。
その者は、サエキがコーヒーを飲む様子を眺めていた。
彼がカップを置くと微笑み、窓の外へ目を向けると、同じ方向へ視線を動かした。
そして、彼がもう一度カップを手に取ると、まるでそれだけで満たされたかのように、目を細めた。
「……おいしい」
サエキが小さくつぶやいた。
その言葉が誰に向けられたものなのか、店内の誰にもわからなかった。
彼はコーヒーを飲み終えると、代金を支払い、店を出た。
隅の席にいた者は、最後まで彼を見送った。
微笑みを絶やすことなく。
まるで、これからもずっと見守り続けるつもりであるかのように。
扉が閉じたあとも、その者はしばらく席に座っていた。
やがて、両手をそっと重ねる。
祈るように。
あるいは、大切なものを抱きしめるように。
「よかった」
誰にも聞こえないほどの声で、その者は言った。
「今日も、無事でいてくれたのね」
その声は、春の日差しのように柔らかかった。
「えらい子。ちゃんと帰ってこられたのね」
誰を褒めているのか。
誰を案じているのか。
その者は説明しなかった。
ただ、嬉しそうに微笑んでいた。
窓の外では、夕暮れの空が青から紫へと変わり始めていた。
その者は、最後にもう一度、サエキが去っていった扉を見つめた。
「また明日も、会えるといいわね」
その言葉には、疑いがなかった。
会えることを願うのではなく。
会えることが、初めから決まっているかのように。
サエキが自宅に戻ったのは、夜も更けてからだった。
靴を脱ぎ、上着を掛け、手を洗う。
いつもと変わらない帰宅の手順だった。
仕事場にいたときの、あの薄い膜のような違和感は、もう感じられなかった。
身体にまとわりついていたものが、いつの間にか消えていた。
しかし、サエキはその変化を意識しなかった。
自宅では、いつもこうだった。
部屋は静かだった。
窓の外からは、遠くを走る車の音が聞こえる。
サエキは明日の予定を確認し、机の灯りを消した。
その夜、彼は夢を見なかった。
少なくとも、目覚めたときには何も覚えいなかった。
異聞始末録 記録者サエキ
記録なし。
??????
ああ、今日もあの子は、よく頑張りました。
慣れない土地で、怖いものを見て、わからないことに囲まれて。それでも逃げずに、ひとつひとつ確かめていたのですもの。
あの子は昔から、そういうところがありました。
本当は、もっと誰かに頼ってもいいのに。
疲れたときには、立ち止まってもいいのに。
怖いときには、怖いと言ってもいいのに。
どうして、あんなにひとりで抱え込んでしまうのでしょう。
わたしは、ずっと見ていました。
あの子が村に着いたときから。
死んだものの顔を覗き込んでいたときも、困っている人たちの話を聞いていたときも、誰にもわからないことを、わからないまま胸の奥へしまい込んでいたときも。
ずっと、そばにいました。
あの子は気づかなかったでしょうね。
でも、それでいいのです。
気づかなくても、わたしはあの子を見守れますもの。
あの子が手を伸ばさなくても、わたしはあの子を愛せますもの。
あの子がわたしを知らなくても、わたしはあの子を知っていますもの。
ねえ、どうか心配しないで。
あなたがどこへ行っても、何を見ても、どんなに遠くへ歩いていっても。
わたしは、あなたを見失ったりしません。
あなたが苦しんでいるときには、そっと涙を拭いてあげましょう。
あなたが傷ついたときには、痛みを取り除いてあげましょう。
あなたが道に迷ったときには、正しい場所へ導いてあげましょう。
たとえ、あなた自身が、それを望んでいなかったとしても。
だって、あなたのためですもの。
あなたがまだ知らないことも、あなたが知りたくないことも、あなたがいつか忘れてしまうことも。
わたしは、ちゃんと覚えていてあげます。
だから、そんなに怖がらなくてもいいのですよ。
わたしは怒っていません。
あなたが今日、わたしを見てくれなかったことも。
わたしに声をかけてくれなかったことも。
わたしのことを思い出してくれなかったことも。
少しも、怒ってなんかいません。
あなたはまだ、知らないだけなのですから。
いつか、わかる日が来るでしょう。
そのときは、たくさんお話ししましょうね。
あなたが生まれるよりもずっと前のこと。
あなたが知らない空のこと。
あなたが見つけた、あのかわいそうなもののこと。
そして、あなたがこれまでどれほど愛されてきたのかということを。
ゆっくり、ゆっくり教えてあげます。
だから今夜は、安心しておやすみなさい。
いい子ね。
よく帰ってきましたね。
明日も、明後日も、その先も。
あなたが目を覚ますたび、わたしはあなたを見つけるでしょう。
青い空の下でも。
深い水の底でも。
あなたがどこにいても。
わたしは、あなたを見つけます。
だって、わたしはあなたを、ひとりにしたことなど一度もないのですから。




