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異聞始末録  作者: 黒サケ缶EX
異聞始末録 蒼穹で踊る天使は今日も溺れる
32/54

単章 蒼穹



 死体が発見されたのは、海からも川からも遠く離れた山間の村だった。


 廃棄された採石場の底で、近くに住む老人がそれを見つけた。最初は、白い布をまとった誰かが倒れているのだと思ったらしい。だが、近づいてみると、布に見えたものは羽毛だった。その下には、人間によく似た身体が横たわっていた。


 背中からは、左右一対の白い翼が生えていた。


 老人は悲鳴を上げ、村へ戻って警察に通報した。


 警察が現場に到着したとき、死体はすでに冷えきっていた。衣服らしきものは身につけておらず、肌にも目立った外傷はない。翼は、汚れていてもおかしくない場所に倒れていたにもかかわらず、驚くほど白かった。


 そして、死体の肺からは水が見つかった。


 医師は、溺死の可能性が高いと判断した。


 しかし、採石場に水場はなかった。雨が降った形跡もなく、死体が水に浸かったと考えられる痕跡もない。


 それでも、死体は溺れていた。


 三日後、サエキが村を訪れた。


「調査を担当するサエキです。発見時の状況を、最初から聞かせてください」


 名乗ったサエキは、警察官の案内に従って診療所の奥へ向かった。名刺を差し出すことも、握手を求めることもなかった。


 村の警察官は、サエキの来訪を歓迎しているようには見えなかった。歓迎する必要がないのだろう。目の前の出来事に説明がつかず、外部から来た男に頼るしかない。その不本意さは、彼らの表情に十分表れていた。


「こちらです」


 案内された部屋には、簡易的な保管設備が設けられていた。


 白いシーツをかけられた死体が、その下に収まっている。


 サエキはシーツをめくり、しばらく黙って観察した。


 顔立ちは人間に似ていた。目を閉じ、口をわずかに開いている。苦悶の表情というより、眠りに落ちた者のようだった。


 翼は大きく、羽根の一枚一枚が整然と重なっている。汚れも破損もほとんど見当たらなかった。


「死因については、溺死の可能性が高いと聞きました」


「はい。肺に水がありました。ですが、現場には水がありません」


「発見時と比べて、状態に変化は?」


「ありません。傷も増えていませんし、腐敗も進んでいないようです」


 サエキは死体の手首に触れた。


 冷たい。


 それだけだった。


「保管場所から消えたことがあるそうですね」


 警察官の顔がこわばった。


「……二度です。最初は診療所の保管室から消え、翌朝、村の共同墓地で見つかりました。二度目は、そこから移した後です。今度は公民館の裏手にありました」


「誰かが運び出した可能性は?」


「監視もつけました。扉も施錠していました。それでも、いなくなったんです」


「発見されたときの状態は?」


「まったく同じでした。向きまで変わっていなかったと聞いています」


 サエキは死体を見下ろした。


 どこへ移されたところで、死体そのものに変化はない。誰かが運んでいるのなら、もう少し乱雑な痕跡が残ってもよさそうなものだった。少なくとも、運んだ者の都合が介在した形跡があるはずだ。


 だが、そこには何もなかった。


 まるで、置かれた場所だけが入れ替わっているようだった。


「村の外へ運び出そうとしたことは?」


「まだありません。何が起こるかわかりませんから」


「賢明です」


 サエキはシーツを戻した。


 警察官は、その短い言葉に安堵したようだった。けれど、サエキの表情は変わらなかった。


 彼はまだ、何ひとつ解決していない。



 村人たちの証言は、死体についてのものよりも、空についてのものが多かった。


 最初に話を聞いたのは、採石場の近くに住む中年の男だった。


「白いものが飛んでいたんです」


 男はそう言って、窓の外を指さした。


「鳥ではありません。もっと大きい。人間みたいな形をしていて、背中に羽根があった」


「いつ見ましたか」


「死体が見つかる前の日です。昼間でした。空はよく晴れていて、雲ひとつなかった」


「それで?」


「踊っているように見えました。くるくると回って……いや、違うな」


 男は眉間を押さえた。自分の見たものを思い出そうとするほど、言葉が遠ざかっていくようだった。


「沈んでいたんです」


 サエキは続きを促さなかった。


 男は自分の言葉を確かめるように、ゆっくりと話した。


「空を飛んでいるのに、水の中にいるようでした。手足を動かして、何かから逃れようとしているような……でも、苦しそうなのに、どこか綺麗だった」


「ほかに気づいたことは?」


「空が揺れていました」


 男は両手を広げた。


「夏の道路の上で、景色がゆらゆらすることがあるでしょう。あんな感じです。でも、あの日は暑くもなかった。空全体が、水面みたいに揺れていたんです」


 サエキは記録を取った。


「それを見て、身体に何か変化は?」


「ありません。たぶん」


 男は少し考えてから、声を落とした。


「その夜、夢を見ました。水の中にいる夢です。上に光があるのに、どうしても届かない。息ができなくて、苦しくて……目が覚めたとき、喉が痛かった」


 サエキは顔を上げた。


「夢は一度だけですか」


「ええ。今のところは」


「今のところ、というのは?」


 男は答えなかった。


 代わりに、窓の外へ視線を向けた。


 その先には、青空が広がっていた。


 サエキは男の視線を追わなかった。


「わかりました。ほかに何か思い出したら、警察に伝えてください」


 次に話を聞いたのは、村の診療所で働く若い看護師だった。


 彼女は白い影を見たことがないという。ただ、死体が発見された日の夕方、診療所の窓から外を見ていると、不思議な気持ちになったらしい。


「誰かを待っていたような気がしたんです」


「誰か、というのは?」


「わかりません。ずっと昔に別れた人とか、もう会えない人とか……そういう人を」


 彼女は困ったように笑った。


「変ですよね。会ったこともない相手なのに」


「そのとき、何かを見ましたか」


「いいえ。何も」


「では、その気持ちはいつから?」


「窓の外を見たときからです。空が、すごく青くて……それだけなのに、嬉しくなってしまって」


 彼女は膝の上で指を組んだ。


「どうして嬉しかったのか、今でもわかりません」


 サエキはその証言も記録した。


 恐怖だけではない。


 空を見た者たちは、溺れる夢を見たり、説明のつかない懐かしさを覚えたりしている。


 共通しているのは、空が青かったということ。そして、彼らの誰ひとりとして、自分が何を見たのか正確には説明できないということだった。


 サエキは診療所を出た。


 村の通りには、普段と変わらない生活があった。洗濯物が干され、老人が軒先で椅子に座り、子供たちが道端で遊んでいる。


 誰もが、あの死体のことを知っている。


 誰もが、空の話を聞いている。


 それでも、空はいつもどおり青かった。


 サエキは足元の砂利を踏み、村の警察官に次の調査場所を尋ねた。


 空には、一度も目を向けなかった。




 昼過ぎ、サエキは再び採石場を訪れた。


 死体が最初に発見された場所だった。


 警察官が現場の状況を説明しているあいだ、サエキは地面を調べた。乾いた土、崩れた岩、草の間にたまった砂。水が流れた跡も、池があった痕跡もない。


「ここで間違いありませんか」


「はい。通報した老人も、ここだと言っています」


「死体を発見したとき、周囲に人影は?」


「なかったそうです」


 サエキはしゃがみ込み、土に触れた。


 乾いている。


 指先についた砂を払って立ち上がると、彼は採石場の壁を見た。岩肌には古い削岩の跡が残り、長い年月を経て角が丸くなっていた。


「この村で、ほかに変わったことは?」


 警察官はすぐには答えなかった。


「……空のこと以外では、ありません」


「空のことは、もう十分です」


 サエキは淡々と言った。


「必要なのは、実際に確認できた事実です。見たものの正体を決めつけるのは、その後でいい」


 警察官はうなずいた。


 そのときだった。


 周囲の音が、ほんのわずかに遠のいた。


 風が止んだわけではない。鳥の声も、草の擦れる音も聞こえている。ただ、音と音のあいだに、薄い膜が一枚挟まったような感覚があった。


 サエキは動きを止めた。


 岩肌に落ちていた影が、揺れた。


 風に揺れたのではない。影の輪郭だけが、水の中に沈められた布のように歪んだ。


 警察官が息を呑んだ。


「今のは……」


「何も言わなくて結構です」


 サエキは視線を地面に落としたまま言った。


「見たものを、急いで言葉にしないでください」


「ですが、確かに――」


「ええ。確かに、何かがありました」


 サエキはそれ以上、言葉を重ねなかった。


 顔を上げれば、何かが見えるのかもしれない。


 あるいは、見てはいけないものが見えるのかもしれない。


 彼は確かめなかった。


 しばらくすると、風が戻った。鳥の声も、草の擦れる音も、先ほどと同じ距離に戻ってきた。


 警察官は、何度か唾を飲み込んだ。


「……あれは、何だったんでしょう」


「わかりません」


 サエキは答えた。


 少なくとも、この場で口にできる言葉としては、それがもっとも安全だった。




 夕方、診療所には警察官と村の関係者が集まっていた。


 死体は、再び保管室に置かれている。


 二度も所在を変えたものを、いつまでも村の施設に置いておくわけにはいかなかった。


 サエキは死体を確認してから、集まった人々を見渡した。


「先に、結論を伝えます」


 声は静かだった。


「これは天使ではありません」


 室内の空気が固まった。


 誰かが小さく息を漏らした。警察官のひとりが眉をひそめる。


「……どうして、そう言い切れるんです?」


「そう判断したからです」


「しかし、翼があって、人間のような姿をしていて……」


「外見だけで分類できるものではありません」


 サエキはそれ以上、説明しなかった。


 問いを重ねようとした警察官も、彼の表情を見て口を閉じた。そこには、曖昧な推測を述べる者の迷いがなかった。


 しかし、確信の理由も語られなかった。


「この死体は、国の怪異対策課へ移送してください」


 サエキは、責任者らしい年配の警察官に向き直った。


「正式な手続きを通し、専門の管理下に置くべきです。ここで保管を続けるのは適切ではありません」


「怪異対策課に、ですか」


「はい。移送までのあいだは、現在の保管場所から動かさないでください。可能な限り、出入りする人間も限定してください」


「ですが、また消えたら……」


「そのために、これから処置をします」


 警察官は不安そうに死体を見た。


「処置というのは?」


「簡単な浄めです。根本的な解決にはなりません。ただ、移送までのあいだ、所在が変わるのを抑えるためのものです」


「それで、本当に止まるのでしょうか」


「確実だとは申し上げません」


 サエキは正直に答えた。


「ですが、何もせずに移送を待つよりはましです」


 警察官は数秒考えたあと、うなずいた。


「わかりました。こちらで怪異対策課に連絡し、移送の手続きを進めます」


「お願いします」


 サエキは小さな鞄を手に取った。


 中には、簡単な道具しか入っていなかった。特別な祭具でも、由緒ある聖具でもない。必要なものを必要なだけ用意した、仕事道具だった。


 彼は保管室の扉を閉じた。


 それから、廊下の窓を一瞥した。


 窓の向こうには、夕暮れ前の光が差し込んでいた。


 サエキは窓から視線を外し、鞄を開けた。


 これから行うのは、封印ではない。


 退魔でもない。


 まして、何かを救済するための儀式でもない。


 ただ、ここに置かれたものが、移送の時までここに留まるようにする。


 それだけのことだった。




 浄めは、診療所の裏手から始められた。


 サエキは村の地図を広げ、死体が発見された採石場と、これまで死体が現れた場所を順に確かめた。地図の上に印をつけ、いくつかの場所を結び、それから必要なものを取り出した。


 手順は簡素だった。


 特別な祝詞を長々と唱えることも、周囲の人間を遠ざけることもしなかった。決められた場所に必要なものを置き、地面に指先を触れさせ、短い言葉をいくつか口にする。


 それだけだった。


 もっとも、簡単に見えることと、簡単にできることは同じではない。


 サエキは途中で何度か手を止め、地面の感触を確かめた。場所によって、わずかに手応えが異なる。何かが染み込んでいるように感じられる場所もあれば、何も感じられない場所もあった。


 彼はその違いを記録し、必要な処置だけを施した。


 村人たちは、少し離れたところから作業を見守っていた。


 空を見上げる者もいた。


 雲ひとつない青空を見て、何かを探すように目を細める者もいた。


 サエキは、誰の視線も追わなかった。


 地面を見て、手元を見て、次に行うべき作業を確認する。顔を上げる必要があるときも、目を向ける先は人の顔か、建物の壁だった。


 空だけは見なかった。


 見ないようにしていることを、誰にも悟られないようにする必要もなかった。悟られたところで、説明するつもりはなかったからだ。


 最後の処置を終えたとき、太陽は山の向こうへ傾き始めていた。


 サエキは手を洗い、道具を片づけた。


「これで終わりですか」


 警察官が尋ねた。


「ひとまずは」


「死体は、もう移動しないと?」


「そうなることを期待しています」


 サエキは言葉を選んだ。


「ただし、これは一時的な措置です。いつまで効果が続くかはわかりません。移送の準備が整い次第、速やかに運び出してください」


「わかりました」


 警察官は手帳に何かを書き込んだ。


「怪異対策課には、今夜中に連絡を入れます。受け入れ先と輸送手段についても、向こうと調整します」


「お願いします。移送の際も、保管場所と同じ扱いを続けてください。途中で余計な確認をする必要はありません」


「余計な確認?」


「死体の状態を確かめることと、正体を確かめようとすることは別です」


 警察官は、サエキの言葉を理解しきれない様子だった。


 それでも、これ以上は尋ねなかった。


 サエキは診療所の保管室へ戻った。


 死体は、先ほどと同じ場所にあった。


 白い翼も、閉じた目も、わずかに開いた口も、何ひとつ変わっていない。


 移動した形跡はなかった。


「……よし」


 サエキはそれだけ言って、扉を閉じた。


 処置は成功したらしい。


 少なくとも、今のところは。


 診療所を出ると、村の人々は少しだけ安堵した様子を見せていた。何が解決したのか、彼ら自身にもわかっていない。それでも、死体が目の前からいなくなり、専門の機関が引き取ることになれば、ひとまずは安心できるのだろう。


 サエキは、その気持ちを否定しなかった。


 ただ、これで終わったとは考えていなかった。


「サエキさん」


 呼び止めたのは、最初に案内をしてくれた警察官だった。


「ひとつだけ、聞いてもいいですか」


「どうぞ」


「あなたは、あれが何なのか知っているんですか」


 サエキはすぐには答えなかった。


 診療所の壁に夕日が当たっていた。窓ガラスには赤い光が反射し、向かいの家の屋根が長い影を落としている。


「知っていることもあります」


 やがて、彼は言った。


「知らないこともあります」


「では、今回のことは?」


「必要なことは、しました」


 警察官は、納得したような、していないような顔をした。


 サエキは軽く会釈し、歩き出した。


 村を出る道は、採石場へ向かう道と同じく、緩やかな坂になっていた。


 道端には枯れかけた草が生え、古い電柱が一定の間隔で並んでいる。夕方の風は冷たく、遠くから犬の鳴き声が聞こえた。


 サエキは歩きながら、今日見聞きしたことを頭の中で整理した。


 水のない場所で溺れた死体。


 保管場所を変える死体。


 空を泳ぐように見える白い影。


 そして、それを見た者たちが語った、奇妙な夢と懐かしさ。


 どれも、ひとつの説明にまとめるには不確かな情報だった。


 無理に結びつけるべきではない。


 彼はそう判断した。


 そのとき、背後から誰かに見られているような感覚があった。


 足音はない。


 声もない。


 振り返る理由もなかった。


 サエキは歩みを止めず、村を離れた。




 仕事を終えたサエキが向かったのは、駅前にある馴染みの喫茶店だった。


 扉を開けると、コーヒーの香りがした。


 カウンターの奥で店主が顔を上げる。


「いらっしゃい。いつもの?」


「お願いします」


「今日は遅かったね」


「少し遠出をしていました」


「そうかい。お疲れさま」


 店主はそれ以上尋ねず、カップを用意した。


 サエキは窓際の席に腰を下ろした。テーブルの木目には細かな傷があり、窓辺には小さな鉢植えが並んでいる。壁に掛けられた時計は、いつもどおりの音を立てていた。


 ここでは、誰も彼に仕事の話を聞かない。


 それが気に入っていた。


 運ばれてきたコーヒーをひと口飲む。


 苦味のあとに、ほのかな甘さが残った。


 サエキは息をついた。


 窓の外を歩く人々は、帰宅を急いでいるようだった。自転車が通り過ぎ、信号が変わり、店の前を親子連れが歩いていく。


 平凡な夕方だった。


 少なくとも、そう見えた。


 店内には、ほかの客もいた。


 新聞を読む老人。向かい合って話をする若い男女。奥の席で本を開いている女性。


 そして、その隅に、ひとりの客が座っていた。


 その者は、サエキを見ていた。


 長いあいだ、ずっと。


 視線には敵意がなかった。怒りも、疑念も、好奇心さえも感じられなかった。


 ただ、深い慈しみがあった。


 長い旅を終えた子供が、ようやく帰ってきたのを見つけた母親のように。


 何度も失われ、何度も探し、ようやく再び巡り会えた相手を見つめるように。


 その者は微笑んでいた。


 とても優しく。


 とても幸せそうに。


 ほかの客は、その存在を気にしていなかった。


 誰も視線を向けず、誰も席を空けようとしない。店主も、そこに客がいることを特別なことだとは思っていないようだった。


 その者は、サエキがコーヒーを飲む様子を眺めていた。


 彼がカップを置くと微笑み、窓の外へ目を向けると、同じ方向へ視線を動かした。


 そして、彼がもう一度カップを手に取ると、まるでそれだけで満たされたかのように、目を細めた。


「……おいしい」


 サエキが小さくつぶやいた。


 その言葉が誰に向けられたものなのか、店内の誰にもわからなかった。


 彼はコーヒーを飲み終えると、代金を支払い、店を出た。


 隅の席にいた者は、最後まで彼を見送った。


 微笑みを絶やすことなく。


 まるで、これからもずっと見守り続けるつもりであるかのように。


 扉が閉じたあとも、その者はしばらく席に座っていた。


 やがて、両手をそっと重ねる。


 祈るように。


 あるいは、大切なものを抱きしめるように。


「よかった」


 誰にも聞こえないほどの声で、その者は言った。


「今日も、無事でいてくれたのね」


 その声は、春の日差しのように柔らかかった。


「えらい子。ちゃんと帰ってこられたのね」


 誰を褒めているのか。


 誰を案じているのか。


 その者は説明しなかった。


 ただ、嬉しそうに微笑んでいた。


 窓の外では、夕暮れの空が青から紫へと変わり始めていた。


 その者は、最後にもう一度、サエキが去っていった扉を見つめた。


「また明日も、会えるといいわね」


 その言葉には、疑いがなかった。


 会えることを願うのではなく。


 会えることが、初めから決まっているかのように。




 サエキが自宅に戻ったのは、夜も更けてからだった。


 靴を脱ぎ、上着を掛け、手を洗う。


 いつもと変わらない帰宅の手順だった。


 仕事場にいたときの、あの薄い膜のような違和感は、もう感じられなかった。


 身体にまとわりついていたものが、いつの間にか消えていた。


 しかし、サエキはその変化を意識しなかった。


 自宅では、いつもこうだった。



 部屋は静かだった。


 窓の外からは、遠くを走る車の音が聞こえる。


 サエキは明日の予定を確認し、机の灯りを消した。


 その夜、彼は夢を見なかった。


 少なくとも、目覚めたときには何も覚えいなかった。



異聞始末録  記録者サエキ


記録なし。







??????


ああ、今日もあの子は、よく頑張りました。


 慣れない土地で、怖いものを見て、わからないことに囲まれて。それでも逃げずに、ひとつひとつ確かめていたのですもの。


 あの子は昔から、そういうところがありました。


 本当は、もっと誰かに頼ってもいいのに。


 疲れたときには、立ち止まってもいいのに。


 怖いときには、怖いと言ってもいいのに。


 どうして、あんなにひとりで抱え込んでしまうのでしょう。


 わたしは、ずっと見ていました。


 あの子が村に着いたときから。


 死んだものの顔を覗き込んでいたときも、困っている人たちの話を聞いていたときも、誰にもわからないことを、わからないまま胸の奥へしまい込んでいたときも。


 ずっと、そばにいました。


 あの子は気づかなかったでしょうね。


 でも、それでいいのです。


 気づかなくても、わたしはあの子を見守れますもの。


 あの子が手を伸ばさなくても、わたしはあの子を愛せますもの。


 あの子がわたしを知らなくても、わたしはあの子を知っていますもの。


 ねえ、どうか心配しないで。


 あなたがどこへ行っても、何を見ても、どんなに遠くへ歩いていっても。


 わたしは、あなたを見失ったりしません。


 あなたが苦しんでいるときには、そっと涙を拭いてあげましょう。


 あなたが傷ついたときには、痛みを取り除いてあげましょう。


 あなたが道に迷ったときには、正しい場所へ導いてあげましょう。


 たとえ、あなた自身が、それを望んでいなかったとしても。


 だって、あなたのためですもの。


 あなたがまだ知らないことも、あなたが知りたくないことも、あなたがいつか忘れてしまうことも。


 わたしは、ちゃんと覚えていてあげます。


 だから、そんなに怖がらなくてもいいのですよ。


 わたしは怒っていません。


 あなたが今日、わたしを見てくれなかったことも。


 わたしに声をかけてくれなかったことも。


 わたしのことを思い出してくれなかったことも。


 少しも、怒ってなんかいません。


 あなたはまだ、知らないだけなのですから。


 いつか、わかる日が来るでしょう。


 そのときは、たくさんお話ししましょうね。


 あなたが生まれるよりもずっと前のこと。


 あなたが知らない空のこと。


 あなたが見つけた、あのかわいそうなもののこと。


 そして、あなたがこれまでどれほど愛されてきたのかということを。


 ゆっくり、ゆっくり教えてあげます。


 だから今夜は、安心しておやすみなさい。


 いい子ね。


 よく帰ってきましたね。


 明日も、明後日も、その先も。


 あなたが目を覚ますたび、わたしはあなたを見つけるでしょう。


 青い空の下でも。


 深い水の底でも。


 あなたがどこにいても。


 わたしは、あなたを見つけます。


 だって、わたしはあなたを、ひとりにしたことなど一度もないのですから。

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