単章 ぽぽぽ
温泉での休暇を終えたサエキは、山間部を抜ける旧国道を車で走っていた。
観光に思いのほか時間を使ってしまい、帰路についた頃には日が落ちていた。街灯のない山道は、ヘッドライトの照らす範囲だけが白く浮かび上がり、その先は薄霧の中へ溶け込んでいる。
急ぐ理由はあったが、無理に速度を上げるつもりはなかった。濡れた路面にタイヤを取られれば、それだけで余計な時間を失う。
そのとき、視界の端に奇妙なものが映った。
路肩からアスファルトへ、いくつもの窪みが続いている。車を安全な場所に寄せて停めたサエキは、懐中電灯を手に外へ出た。
光を路面に向け、窪みの一つを確かめる。
人の足跡に似ている。しかし、歩幅が大きすぎる。単に背の高い人間が歩いたとしても、これほど不自然な間隔にはならないだろう。しかも、窪みは路肩から外れることなく、道の先へと続いていた。
サエキはその場にしゃがみ、いくつかの跡を順に照らした。濡れたアスファルトに残された形だけでは、何者のものか断定できない。だが、少なくとも通常の人間の足跡として扱うべきではなかった。
近隣で起きている行方不明事案が頭をよぎる。
夜間、この旧道で巨大な女の影を見た者が、相次いで姿を消している。生還した者の皮膚には、透明な糸で縫い合わされたような幾何学模様が浮かび、身体の自由が失われていったという。
目撃した者の証言は、いずれも細部が曖昧だった。巨大な影。見上げるほどの高さ。そして、耳に残る奇妙な音。
それらを一つの現象として結びつけることはできる。だが、結びつけたことと、原因を突き止めたことは同じではない。
サエキは懐中電灯を下げた。
――ぽぽぽ、ぽ、ぽ。
頭上から、乾いた低音が響いた。
空洞の竹を叩いたような、どこか間の抜けた音。しかし、その音が耳に届いた瞬間、周囲の空気が重くなった。
サエキは反射的に顔を上げかけ、寸前で動きを止めた。
目撃者たちの話。巨大な女の影。視線を向けた者に起こる異変。
まだ仮説にすぎない。だが、確かめるために正面から姿を見る必要はなかった。
サエキは視線を足元へ固定した。
頭上のどこかで、枝が軋む。
続いて、音がした。
――ぽぽぽ、ぽ、ぽ。
先ほどより近い。
サエキの車を覆うように、巨大な影が路面へ伸びてきた。ヘッドライトの光が照らす範囲を、何かが上から塞いでいく。
サエキは息を殺した。
見上げれば、何がいるのかは分かるかもしれない。
だが、知ることがそのまま敗北につながる相手なら、視認は情報収集ではなく、自ら危険へ踏み込む行為になる。
サエキは懐から符を取り出した。
ここから先は、見ずに対処する。
サエキは目元に目隠し符を貼り付けた。
視界が閉ざされ、周囲の輪郭が消える。残ったのは、濡れた土の匂い、風に揺れる葉の音、そして頭上から圧し掛かってくる異様な気配だった。
視覚を捨てた分、ほかの感覚を研ぎ澄ます。
法力を通して気配の位置を探り、足裏で地面の状態を確かめる。鍛え抜いた身体の感覚を頼りに、わずかな音や空気の変化を拾っていった。
行方不明事案の記録を思い返す。
共通していたのは、夜の旧道で巨大な女の影を目撃したこと。そして、被害者の皮膚に現れた、刺繍のような模様だった。
模様は傷口のように単純なものではない。幾何学的に連なり、皮膚の下へ何かを縫い込むように広がっていく。その後、身体の自由が奪われ、被害者は姿を消す。
もし、あの模様が単なる傷ではなく、対象を何かにつなぎ留めるためのものだとすれば。
視認、皮膚の変化、身体の拘束、そして失踪。
別々の現象に見えるものが、一つの過程としてつながる。
ただし、目撃したことが原因なのか。それとも、怪異を認識した時点で何らかの条件が成立するのか。記録だけでは区別できない。
サエキは結論を急がなかった。
少なくとも、相手の姿を正面から捉えることは避けるべきだ。目隠しによって視覚からの認識を断てば、攻撃の成立を妨げられる可能性がある。
その瞬間、空気が鋭く弾けた。
――ビシッ。
腕に痛みが走る。
「……っ」
サエキは身を引いた。目隠しの向こうには何も見えない。それでも、腕の皮膚へ何かが触れ、食い込もうとした感覚は明らかだった。
糸か。
目には見えない。だが、皮膚に生じた痛みは、そこに何らかの作用が及んだことを示している。
サエキは腕を庇いながら、気配の動きを探った。
攻撃は目隠しをしただけでは止まらなかった。視覚を断っても、相手の力が完全に無効になるわけではないらしい。
それでも、身体の自由は奪われていない。皮膚に何かが縫い付けられようとしたものの、今のところはそれ以上の変化もなかった。
ここで無理に距離を詰めれば、相手の間合いに踏み込むことになる。
サエキは退くべき方向を探りながら、周囲に仕掛けた符の位置を確認した。あらかじめ用意した複数の符が、木々の間にある。
単純に逃げるだけでは、同じことが繰り返される可能性がある。
必要なのは、相手の攻撃を避け続けることではない。攻撃が成立する条件を断ち、そのうえで対処することだった。
「認識させなければ、縫合の因果は完成しない……」
口にした言葉は、確定した答えではない。
だが、今この場で取るべき行動を決めるには、十分な仮説だった。
サエキは足元の状態を確かめながら、ゆっくりと位置を変えた。
濡れた地面は滑りやすい。視界を失ったままでは、踏み出す方向を誤る危険もある。法力で捉えた気配だけに頼るのではなく、足裏に伝わる地面の傾きや、風が肌を撫でる方向も判断材料に加えた。
頭上の気配は大きい。
その大きさそのものが、相手の全てを示しているとは限らない。だが、樹木を軋ませるほどの圧力と、こちらの腕へ届いた不可視の攻撃を考えれば、正面からの力比べに勝機を見いだすのは難しかった。
目撃者の話では、怪異は見上げるほど巨大な女の影として現れる。
その姿を認識した者に、皮膚の異変が起こる。
この二つの情報が示すのは、視覚そのものが攻撃の条件なのか、それとも姿を認識することが条件なのか、という違いだった。
今のサエキには、まだ確かめようがない。
ただ、目隠しをした状態でも攻撃は届いたものの、身体を拘束されるまでには至っていない。これが視覚を遮断した効果なのか、ほかの条件によるものなのかも断定できなかった。
確実なのは、目隠しを外して確かめることが、最も危険な選択だということだ。
サエキは周囲に仕掛けた符へ意識を向けた。
複数の符を結び、空間そのものへ働きかける。相手の視線が届くことを前提に防ぐのではなく、視線がこちらへ届く経路そのものを断つ。
『八方遮眼の陣』。
サエキは符を起動させた。
空気がわずかに歪む。目隠しの内側にある暗闇は変わらないが、周囲の気配に揺らぎが生じた。
結界の内側では、空間の屈折によって互いの視線と認識が反射され、遮断される。少なくとも、サエキはその効果を利用して怪異からの認識を妨げようとしていた。
――ぽぽぽ、ぽ、ぽ。
低い音が途切れた。
次の瞬間、周囲の木々が大きく軋んだ。
枝が折れ、幹が倒れる音が立て続けに響く。強い風圧が吹きつけ、サエキの衣服を激しくはためかせた。
怪異は、苛立っているように思えた。
しかし、感情を読み取ったと断言できるわけではない。少なくとも、結界が成立した後、周囲への破壊的な動きが強まったことは確かだった。
サエキは姿勢を低くし、吹きつける風に耐えた。
この陣が攻撃そのものを消し去るわけではない。先ほどの痛みが示すように、見えない糸の作用は依然として危険だった。
それでも、相手の認識がこちらへ届きにくくなれば、縫合を成立させる条件を崩せる可能性がある。
問題は、いつまで持ちこたえられるかだ。
サエキは懐へ手を伸ばし、一振りの呪具を取り出した。
回避を続けるだけでは終わらない。
この異様な縫合を成立させているものに手を届かせなければ、ここを離れても危険が残る。
風圧の向こうで、巨大な気配が揺れた。
サエキは目隠しを外さないまま、法力を通して周囲を探った。結界の屈折によって気配の位置を正確に捉えることは難しい。それでも、不可視の糸が皮膚へ触れようとした瞬間に生じる違和感と、頭上に集まった圧力の変化を手掛かりに、攻撃の起点を探る。
皮膚に浮かぶ幾何学模様。
身体の自由を奪う糸。
それらが同じ仕組みによって生じているのなら、縫合を引き起こす何らかの結びつきがあるはずだった。
それが何であるか、サエキには分からない。
ただ、糸の一本一本を避け続けるよりも、縫合を成立させる根源へ働きかける方が、状況を変えられる可能性は高い。
サエキは呪具を握り直した。
「間合いを支配されているなら、こちらから因果の『針』を折るまでだ」
結界が保たれている今しかない。
サエキは陣術による空間の屈折を利用し、法力を呪具へ収束させた。目には見えない糸の動きと、頭上に集まる異様な気配。その二つが重なる地点を探り、そこへ向けて呪具を打ち込む。
狙いが正しいという保証はない。
しかし、ほかに確かな手掛かりもなかった。
――ギリリ。
肉を引きちぎるような異音が、夜の山道に響き渡った。
直後、皮膚へ迫っていた圧力が大きく揺らいだ。
サエキは呪具を構えたまま、気配の変化を追った。結界の内側にあった異様な密着感がほどけていく。不可視の糸が何かを縫い留めようとする感覚も、急速に弱まっていった。
そして、頭上を覆っていた巨大な気配が、潮の引くように遠ざかっていく。
樹木の軋みが止んだ。
風圧が弱まり、折れた枝が地面へ落ちる音だけが残った。
サエキはすぐには動かなかった。
気配が遠ざかったことと、危険が完全になくなったことは同じではない。反撃が成功したのか、あるいは一時的に相手の作用を断っただけなのか、今の段階では判断できなかった。
サエキは法力による探知を続けた。
やがて、あれほど強く感じられた圧力が、周囲から薄れていく。
追撃はない。
不可視の糸が再び腕へ触れる気配もなかった。
サエキは呪具を下ろしたが、警戒は解かなかった。
この場で確認できるのは、縫合の作用が途切れ、怪異の気配が遠ざかったということだけだ。
それ以上の結論は、まだ出せなかった。
サエキはしばらくその場にとどまり、気配の変化を確かめ続けた。
周囲には、なぎ倒された木々が散乱していた。つい先ほどまで吹き荒れていた風は収まり、薄霧が再び路面を覆い始めている。
腕には、かすかな痛みが残っていた。
サエキは目隠し符をゆっくりと剥がした。視界が戻る。懐中電灯の光の先には、折れた枝と、地面に散らばった木片が浮かび上がっていた。
腕を確認する。
皮膚には、あの幾何学模様は浮かんでいなかった。痛みも、時間とともに薄れていく。
だが、それだけで縫合の危険が完全に消えたとは言い切れない。
サエキは周囲を見回した。目に入る範囲に、巨大な女の影はない。法力で探っても、先ほどのような強い気配は感じられなかった。
結果だけを見れば、対処は成功したのだろう。
視線と認識を遮り、陣地を利用して攻撃の成立を妨げ、縫合の根源と思われる箇所へ呪具を打ち込む。正面からの力比べを避けた判断が、サエキの命をつないだ。
それでも、勝利を確信する気にはなれなかった。
怪異が何者で、なぜ人を縫い留めようとするのか。あの音は何を意味していたのか。呪具によって断ち切ったものは、怪異そのものだったのか、それとも怪異が人間へ及ぼす作用の一部にすぎなかったのか。
どれも、今の時点では答えがない。
サエキは落ちていた呪具を回収し、車へ戻った。
車体に目立った損傷はなかった。運転席に座り、エンジンをかける。ヘッドライトが再び旧道を照らし、薄霧の向こうに細い道筋を浮かび上がらせた。
サエキは一度だけ、バックミラーを確かめた。
そこには、闇と霧しかなかった。
車を走らせる。
折れた枝の散らばる場所を抜け、山道を下っていく。温泉で過ごした時間は、もう遠い出来事のように感じられた。
しばらく走った頃だった。
車内に、微かな音が響いた。
――ぽぽぽ、ぽ、ぽ。
サエキはアクセルを緩めた。
音は一度きりだった。
エンジンの振動か、車体のどこかが軋んだのか。それとも、まだ山の中に残る何かが発した音なのか。
確かめようとして、サエキは思いとどまった。
前方には、暗い道が続いている。
サエキはハンドルを握り直し、視線を道路から外さないまま、車を走らせた。
音は二度と聞こえなかった。
それでも、耳の奥には、あの不規則な響きが残り続けていた。
異聞始末録 記録者サエキ
山間部の旧国道にて発生した、視線侵食型縫合事案。
本件の怪異は、長身の女性像として観測され、視線による認識を契機として、対象の皮膚に不可視の糸を紡ぎ、身体の自由を奪う呪法を行使したと考えられる。
私は目隠し符によって視覚からの認識を遮断し、複数の符を用いた『八方遮眼の陣』を構築。結界によって怪異からの認識を妨げたうえで、呪具を用い、縫合の根源と思われる箇所へ干渉した。
その後、縫合の作用は途切れ、怪異の強い気配は消失した。腕に生じた痛みも引き、皮膚に幾何学模様が浮かび上がることはなかった。
ただし、怪異そのものを完全に消滅させたのか、あるいは縫合の作用を一時的に断ったにすぎないのかは、現時点では断定できない。
強大な怪異に対しては、相手の力へ正面から対抗するだけでなく、攻撃の成立条件を見極め、利用できる環境と手段を組み合わせることが重要である。本件は、その判断の必要性を示す事例として記録する。
専門機関へは報告済み、あの音が耳に残らなければ良いが。




