終章 最後に見たもの
山を下りたサエキは、まず古い文献の記録を洗い直した。
怪物について記した資料は、ひとつではなかった。
江戸時代の地誌には、山々が鳴動し、川が逆巻き、村々が一夜にして姿を消したという記述がある。別の記録には、山の稜線を越えて移動する巨大な影を見たという証言が残されていた。
いずれも、怪物の姿を明確に描いたものではない。
ただ、山を泳ぐように移動し、大地を揺るがし、目に入るものを片端から呑み込んだという点では一致していた。
人間も、獣も、怪異も関係なかった。
その存在にとって、あらゆるものは呑み込む対象だったのだろう。
サエキは記録を読み進めた。
怪物が出現した地域では、当時の幕府が術士たちを集め、被害を食い止めようとしたらしい。だが、通常の術では動きを止めることすら難しく、追い込む過程で多くの犠牲が出たと記されていた。
最後に現れたのが、ひとりの巫女だった。
巫女は術士たちが築いた境界の内側へ入り、怪物と対峙した。そして、怪物の姿が消えた後、巫女もまた姿を消し、二度と戻らなかったという。
その後、怪物による被害は記録されなくなった。
ただし、封印の場所を示す記録はどこにもなかった。巫女がどのような術を用いたのか、その術が何を代償として成立したのかについても、記述は断片的だった。
サエキは複数の資料を並べ、記述の重なる部分を確認した。
山を泳ぐもの。
大地を揺るがすもの。
あらゆる命を呑み込むもの。
その特徴は、今回の獣が語った存在とよく一致していた。
だが、それだけで同一の怪物だと断定することはできない。古い伝承では、異なる怪異の特徴がひとつの物語にまとめられることもある。
現場で確認した封印の痕跡が、文献に記された怪物を封じるためのものだったとすれば、説明できる部分は多い。
しかし、封印が今も機能しているのかどうかは、別の問題だった。
サエキは資料をめくり、封印について触れた記述を探した。
その中に、気になる一節があった。
巫女が怪物とともに姿を消したことを記す箇所とは別に、封印を成す術には術者自身の命が必要だったと読み取れる記録が残されていたのだ。
ただし、それが今回の山で見つかった封印と同じ術を指しているのかは分からない。記述だけで仕組みのすべてを理解することも難しかった。
サエキは、封印の伝承に詳しい研究者へ連絡を取り、手元の文献と現地で確認した状況について説明した。
ひと通り話を聞いた研究者は、慎重に言葉を選びながら答えた。
「その記述が示しているのは、単に怪物を閉じ込めるための術ではない可能性があります」
「閉じ込めるだけではない、ということですか」
「ええ。伝承にある巫女の封印は、怪物を封じたまま、長い年月をかけて死に至らしめる術だったと考えられます。怪物をその場に留め、脅威を外へ出さないまま、終わりを迎えさせる。そのための封印です」
サエキは手元の文献に目を落とした。
「巫女が姿を消したことにも、関係があるのでしょうか」
「封印の代償として、術者自身の命を使うという伝承はあります。今回の記録もその類いだとすれば、巫女は自身の命を使って封印を完成させたのでしょう。怪物が封じられた後、巫女が戻らなかったこととも符合します」
サエキは、山中で獣が語った言葉を思い出した。
巫女があのものと共に消えた。
獣は、その場を見ていたという。
少なくとも、巫女が姿を消したこと自体は、獣の誤認ではない。問題は、獣がその出来事をどう理解したかだった。
「封印は、怪物が死んだ後も残るのでしょうか」
「考えられます。怪物を死に至らしめるまでが術の役目なら、怪物が死んだ後も、封印の力がすぐに消えるとは限りません。残された力が長い年月をかけて徐々に散っていくこともあり得ます」
「では、封印の力が弱まっているからといって、怪物が生きているとは限らないのですね」
「そのとおりです。ただし、逆も同じです。封印が弱まっているからといって、危険がなくなった証拠にもなりません」
研究者の声は、そこで少しだけ強くなった。
「現地の封印が文献にある術と同じものか、まだ確かめられていないのでしょう。調査する際は、むやみに術式を崩さないでください。内部に何が残っているのか分からない以上、解除を前提に調べるべきではありません」
「分かりました。現状を保ったまま、確認できる範囲を調べます」
「それがよいでしょう。文献は手掛かりになりますが、現地の事実に代わるものではありません。記録と一致する点があっても、それだけで同じ術だと決めつけないことです」
サエキは礼を述べ、通話を終えた。
机の上には、古い文献と現地で記録した調査結果が並んでいた。
巫女は、自身の命を使って怪物を封じた。
封印は怪物を閉じ込めるだけでなく、長い年月をかけて死に至らしめるためのものだった可能性がある。そして、怪物が死した後には、封印の力が少しずつ散っていく。
これが今回の封印にも当てはまるのなら、獣が感じてきた力の変化にも別の説明がつく。
獣は、封印が弱まるたびに怪物が戻ってくると考えていた。
だが、実際には、封印がその役目を終えようとしていただけなのかもしれない。
もちろん、まだ推測にすぎなかった。
現地の封印が本当に文献の術と同じなのか。怪物は今も生きているのか。それらを確かめるには、もう一度、あの場所を調べる必要があった。
サエキは資料をまとめ、再び山へ向かった。
*
獣は、前と同じ場所で待っていた。
「来たか」
「もう一度、封印を調べたい」
「何を知った」
「文献を調べ、封印の伝承に詳しい研究者にも話を聞いた。君が話した怪物と、記録に残る存在には共通点が多い。ただ、封印の場所が記されていない以上、文献だけでは断定できない」
「それで、何が分かった」
「ひとつ、可能性がある。巫女の封印は、怪物を閉じ込めるだけの術ではなかったのかもしれない」
獣は、サエキを見た。
「どういうことだ」
「怪物を封じ、そのまま長い年月をかけて死に至らしめる。そういう術だった可能性がある。そして、怪物が死んだ後には、封印の力も徐々に散っていく」
獣はすぐには答えなかった。
長い沈黙の後、低い声で尋ねた。
「ならば、封印が弱まっていたのは……」
「怪物が再び動き始めたからとは限らない。封印が役目を終え、その力が失われつつあった可能性もある」
「そのようなことが、あり得ると考えるのか」
「可能性の話だ。確かめるまでは、私にも断言できない」
獣は岩盤の方へ視線を向けた。
サエキは、その横顔を見ながら問いかけた。
「君は、封印の後に怪物そのものを見たのか」
「……見ていない」
「声を聞いたことは」
「ない」
「それでも、怪物が生きていると考えてきたのか」
獣は、すぐには答えなかった。
やがて、低い声で言った。
「封印が弱まるたび、あの時の力が戻ってくるように感じた。山が揺れることもあった。だから、あれが再び動き始めたのだと考えた」
「山が揺れたのは、いつ頃だ」
「人間の数え方では、よく分からぬ。だが、何度もあった」
サエキは頷いた。
地震そのものは、怪物がいなくても起こり得る。山の地盤が動くこともあれば、地形の変化によって音が響くこともある。
獣は、それらの現象を、すべて封印の内側にいる怪物と結びつけていたのかもしれない。
「もうひとつ、確認しておきたい。君は、封印を保つために人間を埋めてきたと言ったな」
「そうだ」
「それによって封印の力が強まったと、確かめたことはあるのか」
「……ない。ただ、しばらくすれば力は落ち着いた。だから、必要なことなのだと考えてきた」
「それが人間を埋めたことによる変化だったのか、それとも別の理由によるものだったのか。君にも分からないのだな」
獣は答えなかった。
サエキは、山中で聞いた話を改めて整理した。
獣は巫女が姿を消す場面を見ていた。しかし、巫女が何を代償に封印を完成させたのかは知らなかった。自分の理解できる範囲で出来事を結びつけ、人間を土に埋めて祈ることが封印を保つ方法だと思い込んだのだ。
そして、長い年月の中で、その考えを疑うことはなかった。
「君が守ってきたものが、今も存在するのかどうか。それを確かめる必要がある」
「封印を壊すつもりか」
「違う。研究者からも、むやみに術式を崩さないように言われた。封印を壊さず、確認できる範囲を調べる。内部に危険が残っているなら、それを無視するつもりもない」
獣はしばらくサエキを見つめていた。
やがて、ゆっくりと身を翻した。
「好きにするがいい」
サエキはその後を追った。
*
岩盤の前に立ち、サエキは改めて術式を確認した。
封印の痕跡は確かに残っている。だが、その働きは弱まっていた。
それは、何かが外側から破ろうとしている状態とは違う。封印を維持するための力そのものが、既に役目を終えつつあるように感じられた。
サエキは、研究者の言葉を思い返した。
封印の力が弱まっているからといって、怪物が生きているとは限らない。しかし、危険がなくなった証拠にもならない。現地の封印が伝承と同じものかも、まだ確かめられていない。
何より、封印の内側に何が残っているのかが分からない以上、安易な判断はできなかった。
サエキは地面に手をかざし、慎重に調べた。
そこに、怪物の生きた気配は感じられなかった。
もちろん、気配を感じないからといって、何も存在しないと断言することはできない。認識を妨げる結界もある。通常の感知では捉えられないものが残っている可能性もある。
だからこそ、サエキは封印の内側を確認する必要があった。
「君は、ここで待っていてくれ」
獣がこちらを見た。
「何をする」
「封印の内側を確認する。念のためだ。何もなければ、それで終わる」
「私も行く」
「封印の内側に何があるか分からない以上、無用な危険を増やすべきではない。君はここにいてくれ」
獣は不満そうに見えたが、やがて頷いた。
「……分かった」
サエキは封印の内側へ進んだ。
そこには、古い岩盤と、長い年月を経て崩れた土砂があった。術式の残滓は残っていたが、強い反応はない。周囲を慎重に確認しても、生きた怪物の痕跡は見つからなかった。
さらに奥へ進むと、地面の一部が大きく陥没していた。
その底には、何かが長い時間をかけて埋もれていたような痕跡が残されていた。しかし、そこにあるのは骨とも岩ともつかない、崩れた塊だけだった。
サエキは周囲を調べた。
怪物のものだと断定できる骨も、肉も、その他の形ある痕跡も見当たらない。かつて何がそこにあったのかを、今となっては確かめる術がなかった。
それでも、封印が今なお何かを押さえ込んでいるようには見えなかった。
残っている力は、何かを閉じ込め続けるためのものというより、長い役目を終えた術式の残滓に近い。
サエキは、最初に考えた可能性をもう一度思い返した。
怪物は、既に死んでいるのではないか。
その死後も、封印だけが長い年月にわたって残り、少しずつ効力を失っていたのではないか。
そして獣は、その変化を怪物が再び動き始めた兆候だと考え、犠牲を重ねてきたのではないか。
確証はない。
だが、ここまで調べても、怪物が生きていることを示すものは何ひとつ見つからなかった。
サエキは調査を切り上げ、封印の内側を出た。
*
獣は、先ほどと同じ場所にいた。
サエキの姿を見ると、静かに顔を上げた。
「どうだった」
「生きた怪物の痕跡はなかった。封印の内側も調べたが、怪物のものと断定できる遺骸は見つからなかった」
獣は黙っていた。
「長い年月の間に、すべて失われたのかもしれない。少なくとも、今も怪物が生きていると考えられる証拠はない」
「……死んだというのか」
「その可能性が高いと考えている。あの記録に残る怪物と、ここに封じられていたものが同一なら、とうの昔に果てていたのかもしれない」
獣は、岩盤へと目を向けた。
その目は、何かを探しているようにも、ただ遠くを見つめているようにも見えた。
「では、あの力は……」
「封印そのものに残っていた力だったのかもしれない。山の揺れや、あの音も、怪物が動いていた証拠とは限らない」
獣の言葉が途切れた。
長い沈黙が落ちた。
やがて獣は、ゆっくりと口を開いた。
「人間を埋めた。何も知らぬ者を選び、命を奪った。そうすれば、あれを押さえ込めると信じていた」
サエキは何も言わなかった。
「だが、初めから必要なかったのかもしれぬのだな」
「・・・そうだな。」
獣はサエキではない誰かに語るように口を開く。
「人間を憎んでいたわけではない。だが、恐れていた。あの時のことを、忘れたことはなかった」
その声に、言い訳めいた響きはなかった。
ただ、長い年月の間、同じ恐怖を抱き続けてきたものの疲れが滲んでいた。
「君が恐れていたものは、確かに存在したのだろう」
サエキは言った。
「だが、君がしてきたことを正当化する理由にはならない」
「……ああ」
獣はそれ以上、反論しなかった。
やがて、岩盤の方へ視線を向けたまま、ぽつりと呟いた。
「巫女が消えた時、私は、あのものも共に消えたのだと思った。だが、封印は残った。力が薄れるたび、あれが戻ってくるのだと考えた」
獣は、ゆっくりと目を伏せた。
「何百年も、同じことを繰り返してきた。」
サエキは答えなかった。
獣が何を思い、何を悔いているのか。そのすべてを理解することはできない。まして、その心情を理由に、犠牲者たちの死を軽く扱うこともできなかった。
しばらくして、獣は岩盤へと目を向けたまま、低い声で言った。
「……では、我が守ってきたものは、何だったのだ」
サエキは、すぐには答えなかった。
獣が守ろうとしてきたものは、怪物そのものだったのか。それとも、かつて目の当たりにした脅威が再び訪れることのない世界だったのか。
今となっては、そのどちらであったのかを確かめることもできない。
「もう一度だけ、内部を確認する。調査はそれで終えるつもりだ」
サエキは言った。
獣は顔を上げた。
「また行くのか」
「念のためだ。確認できたことと、まだ分からないことを分けておきたい」
獣はしばらくサエキを見ていた。
やがて、短く答えた。
「……そうか」
サエキは獣をその場に残し、再び封印の内側へと足を踏み入れた。
*
内部の確認をしているサエキは悩んでいた、内部の確認を終えた後に獣をどうすれば良いのか。
それでもサエキは内部の確認を終えると、心の揺れを収め今回の依頼を、事件を終息させるために獣のいる外に出た。
最初は、何が起きたのか分からなかった。
先ほどまで、確かにそこに立っていたはずだった。
サエキが封印の内側へ向かう時も、獣は静かにこちらを見送っていた。
「おい……!」
サエキは駆け寄った。
獣の身体は動かなかった。その傍らには血が広がっている。鋭い爪によって、自ら首を切ったのだと分かった。
サエキは膝をつき、獣の様子を確かめた。
もう、助からない。
その顔を見た瞬間、サエキは息を呑んだ。
獣の両目は、自ら潰されていた。
なぜ、そんなことをしたのか。
サエキには分からなかった。最後に何を思ったのかも、何を見たくなかったのかも、確かめる術はなかった。
サエキは、しばらく獣の亡骸を見つめていた。
先ほどの言葉が、脳裏によみがえった。
――では、我が守ってきたものは、何だったのだ。
サエキは答えなかった。
もう、答える相手はいなかった。
獣がしてきたことは、許されるものではない。
何も知らずに山へ入った者たちを選び、土の中へ埋め、命を奪った。守るためだったという理由があっても、その事実は変わらない。
それでも、獣が何も恐れていなかったとは思えなかった。
かつて山を揺るがし、あらゆるものを呑み込んだ怪物。その脅威を目の当たりにし、巫女が消える瞬間まで見届けた獣は、本当に恐れていたのだろう。
そして、その恐れを拭い去ることができなかった。
サエキは、獣の亡骸から視線を外した。
傷ついた両目が、最後に何を見ようとしたのか。
その答えを知る者は、もういない。
*
サエキは記録を取り、関係機関へ報告する準備を始めた。
封印の場所は引き続き管理し、周辺への立ち入りについても慎重に判断する必要がある。怪物が死んでいたとしても、この場所に何の問題も残っていないと断言できるわけではない。
確認できたことと、まだ分からないことを分けて報告する。それが、サエキの仕事だった。
最後に、サエキは獣の亡骸を振り返った。
守るべきものを失った獣は、最後に何を思ったのだろう。
その答えを知る者は、もういない。
サエキは山を下りた。
背後には、役目を終えた封印と、守るべきものなき獣の亡骸だけが残されていた。
異聞始末録 記録者 サエキ
山中で発生した連続失踪事件を調査した結果、犠牲者たちを埋めていたのは、封印を守るために行動していた一頭の獣だった。
獣は、かつて山を揺るがし、あらゆる命を呑み込んだ怪物を恐れ、巫女が姿を消した光景を独自に解釈していた。
封印を維持する術を知らぬまま、犠牲者を埋めて祈りを捧げる行為を、何百年もの間繰り返していたらしい。
調査の結果、封印の内側から怪物の生存を示す証拠は見つからず、怪物は既に死んでいた可能性が高いと判断した。
獣が感じていた力の変化も、怪物の復活ではなく、封印そのものの変化だったのかもしれない。
しかし、獣が何を信じていたとしても、犠牲となった人々の命が戻ることはない。
調査の後、獣は自ら命を絶った。その最期に何を思い、なぜ両目を潰したのか、私には分からない。
封印の場所は引き続き管理し、確認できた事実と未解明の事項を分けて関係機関へ報告する。
怪物が死んでいたとしても、この山に残された問題がすべて解決したと断言することはできない。
某神社にて保管さている巫女の手記
江戸某年、山々を揺るがす怪物、ついに境界の内へ追い詰められる。
されど、これを討ち果たす術はなく、残された道は封じることのみ。
我が命を代償とし、長き年月をかけて彼のものを死へ導く封印を施す。
この身が尽きようとも、彼のものを世に放つわけにはいかぬ。
術士たちが築いた境界の内にて、我は最後の祈りを捧ぐ。
山の下にて眠るものよ、二度と地上を脅かすことなかれ。
封印は一朝にして成るものにあらず。幾百年を経て、ようやく終わりへ至るものなり。
我が命が失われた後も、術の力は残り、彼のものを押さえ続けるであろう。
いつの日か、その力もまた散る時が来よう。されど、その頃には彼のものも命を終えているはず。
願わくは、我が後に残る者たちが、この封印を恐れ、みだりに触れることのなからんよう。




