第二章 丘の森
丘は、どこまでも穏やかだった。
なだらかな起伏が地平の近くまで続き、短く刈り揃えられた草地には、風が渡るたびに淡い波が生まれる。空は広く、雲は薄い。遠くに連なる丘陵も、陽光の下で柔らかな輪郭を保っていた。
人の手が入っているのだろう。
草の丈にむらはなく、斜面に目立った荒れもない。ところどころに立つ古い石標も、長い年月を経ているわりには不思議なほど整っていた。
だが、ここには公道がない。
丘一帯は老紳士の私有地であり、許可を得た者以外の立ち入りは禁じられている。一般向けの案内板も、散策路も設けられていなかった。
それなのに、荒れた土地には見えない。
むしろ、誰かが毎日見回り、目につく乱れをひとつずつ取り除いているかのようだった。
その静けさが、かえって不自然だった。
丘の中央から少し外れた窪地に、森があった。
周囲の草地とは明らかに異なる一角だった。
木々は密集している。外縁は妙に整った輪郭を描き、枝葉の重なりは深い。丘のほかの場所では風が草を揺らしているのに、森の木々だけはほとんど動かない。
自然に生まれた森というより、そこだけ別の土地を切り取って置いたようだった。
サエキは森の手前で足を止めた。
案内された座標に間違いはない。
地図上では、ここに古い管理道が記されていた。だが、現地には道らしい道が見当たらない。草地から森へと続く境界は曖昧で、踏み跡すら残っていなかった。
彼は周囲を一度見渡し、森へ入った。
数歩進んだところで、地面の様子が変わった。
草地の柔らかな土は、乾いた落ち葉と硬い土に置き換わる。木々の間から差し込む光は急に細くなり、頭上を覆う枝葉が、空を細長い断片に切り分けていた。
森の中は、ひどく静かだった。
鳥の声がない。
虫の羽音もない。
風が止んでいるわけではないはずなのに、葉擦れの音すら聞こえなかった。
それでも、地面は荒れていなかった。
枯れ枝は少なく、下草は道を塞ぐほど伸びていない。倒木も、朽ちた幹も見当たらない。自然の森ならあって当然の雑然とした痕跡が、ここでは奇妙なほど乏しかった。
誰かが手入れをしている。
そう考えるのが自然だった。
だが、これほど広い私有地の奥にある森を、何のために、誰が維持しているのか。
サエキは足元を確かめながら進んだ。
やがて、木々の間に道が現れた。
舗装はとうに失われ、路面には土と落ち葉が積もっている。縁石は苔に覆われ、道の脇に立っていた標識は、文字を読み取れないほど風化していた。
廃道だった。
それでも、道筋は明瞭だった。
森の中をまっすぐに貫き、緩やかな下り坂となって奥へ続いている。両側の木々は道を覆うように枝を伸ばしていたが、通行を妨げるほどではない。
廃道のはずなのに、通れる。
使われていないはずなのに、塞がれていない。
そして、道の先には光が見えなかった。
サエキは装備の位置を確かめ、歩みを進めた。
道の脇に古い石柱が現れた。表面には、文字とも紋様ともつかない刻印がある。風化した石肌の中で、刻印の周囲だけ苔が生えていなかった。
彼は手を触れずに記録し、さらに奥へ進んだ。
やがて森の終わりに建物が見えた。
丘の上からは、木々に隠れて見えなかった建物だった。
窓の少ない、無骨な構造。周囲の古い森とは不釣り合いなほど堅牢な外壁。入口には監視装置があり、その脇には古い石材を組み込んだ壁が続いている。
現代の施設と、古い封印の遺構。
それらが、同じ場所に無理やり押し込まれていた。
サエキは入口の前で足を止めた。
扉の周囲には複数の術式が刻まれている。ひとつひとつは整然としているが、全体の流れは乱れていた。
外から見える範囲だけでも、状態の悪さが分かる。
彼は手袋の上から扉に触れ、わずかな振動を確かめた。
地下から、低い脈動が伝わってくる。
封印に異常が起きている。
ただし、今すぐ崩壊するほどではないようだった。
サエキは鍵を取り出し、扉を開いた。
冷たい空気が流れ出す。
その奥には、地上の穏やかな丘とはまるで別の世界が広がっていた。




