翡翠
東のお妃の懐妊で人手がいるようになった。久しぶり出仕したアラは自分だけが取り残されたような気分だった。
アラは東のお妃の出産が終わったら、ウクと結婚する。そして、ソイを出仕させようと考えていた。
あのウナクという侍従が言っていた、
「暇を……」
っと、言う言葉が信用出来なかった。
「ソイを簡単に手放すはずがない」
そう内心で呟きつつ御膳を東の館に運ぶ。その途中で、どこか自信げに歩く女官を見つけた。その女官はアラに気づくと会釈だけして歩いていった。
女官で言えば自分の方が品階は高い。何故、あの女官はふてぶてしいのだろうか。
「放蕩公子の手がついたみたいね」
「名前もいただいたとか」
「私たちに名前をくだされば、その方の物なのにね」
風に乗って女官たちの声が聞こえてきた。アラは後宮に仕え始めたころを思い出す。
下級の女官な名前を捨てる。功績をあげたり貴人のお手つきなったりすれば名前を与えらる。
「昔のことよ。思い出すだけで無駄だわ」
アラはそう呟くと御膳を足早に運んで行った。
東の妃はつわりが酷いと大騒ぎしている。
子を産んだことのない若い女官たちはどうして良いのか分からない。
明らかに動揺している。
「アラさん!」
声をかけてきたのは産婆だった。産婆はアラが持ってきた御膳を見ていささか安堵した。
「つわりには生姜汁が良いのよ」
「左様でございましたか」
「でも……」
「どうなさったのです?」
「あれほどつわりが酷いお妃さまは見たことがございません。もしや……鬼に憑かれて……」
「そのようなこと気安く……」
そこに大后が現れた。金の鳳冠が気位の高さを思わせる。大后にアラと産婆は頭を下げた。大后はアラが手にしている生姜汁を横目に冷たい口調で女官たちに告げた。
「王族たちを呼んで祈祷を」
アラは目を丸くした。大后は鬼の類など信じないと思っていたからである。
むしろ、彼女自身が「鬼」だと思う時がある。
寵愛を受けていた嬪御を追い出したあげく、子どもを海に投げ込んだ。
自分を中傷した夫人を裸刑にしたあげく、髪を切り、それでは飽き足らず剃刀で剃ってしまった。
懐妊した妃子を雪の中に放置して、毛皮を着て暖を取りながら死ぬまで見つめていた。
大后には血が通っていない。余氏の栄華しか考えていなかった。彼女にはそれが当たり前だと思っていた。そして正義であった。
アラは自分の手が震えているのが分かった。ここで何か粗相をすれば、余計なことは発言すれば、自分の命はないと思い込んだ。
「アラ、といったな?」
「左様でございます」
「産婆と共に世話を頼むぞ」
そう言って大后はゆっくりとその場を後にした。
このお方に西のお妃さまの文が露見したら……
実はアラはソイから預かった文を携えてきたのである。
しかし、大后や王子に見つからずカヒのいる館に近ずくか悩みあぐねいていた。
翡翠の羽をまとってください
夜に翡翠は飛びません。
しかし、その羽で夜空を飛びましょう
翡翠……ソイが言っていた。昔、公子さまが西のお妃さまに渡した外套だと。
きっと、あのころの色ではないけれど、二人は駆け落ちをしたいのね。
アラはそう考えた。
「アラさま、産婆さま、来てください!」
別な女官に名前を呼ばれてアラは我に返った。産婆と共に東のお妃の部屋に入った。
髪を乱し、真っ青な顔をした東のお妃は見ているだけで不憫であった。
アラは寝所で見慣れた玉佩を見つけた。
ウクの玉佩──!
アラは見ないふりをした。
あの夜、自分を愛撫した手は他の女にも触れていたのかと思うとやるせない。
だが、アラは単にウクが誰かと遊びに来て忘れていったのだ、っと考えた。いや、考えるしかなかった。
「気分が悪くておかしくなりそうだわ」
「お妃さま、少しずつ生姜汁を」
産婆は少しづつ匙で東のお妃に生姜汁を飲ませている。
アラな黙ってその様子を伏し目がちに見ていた。
「アラ、と言ったな?」
「左様でございます」
「以前、どこに仕えていた?」
「延嬪さまの館です。内司を務めておりました。」
内司とは、その館の女官長のような地位である。すると東のお妃は真っ青な顔をアラに向ける。
「アラ、今日からお前が館の内司よ。この館は若い女官ばかりだから……」
また、東のお妃は吐いた。
「お妃さま、今はお休み下さい」
アラは淡々と彼女を寝かせた。そして、ちらりと玉佩を見る。
旭の刻印──。
自分はウクにとって都合のいい相手だったのか、それとも自分が本命だったのか。
その感情の揺れにアラは戸惑う。
ウクが東のお妃と逢瀬を重ねていたことにも戸惑った。
「東のお妃さまのお腹の御子は?」
考えなくても良いことをアラは考えてしまう。その答えは産んでから分かるだろうと忘れることにした。
東のお妃を寝かせた後、ひらりと一枚の紙が落ちた。
それはソンからカヒへの文であった。
アラは文を落としたことに気づかなかった。ウク、東のお妃、自分のことで頭がいっぱいだった。
羅紗の帳で二人重なる影
夜の静けさ
絡み合う指
アラの頭は嫉妬と悲しみに溢れかえっていた。




