幻を重ねる
王子宮は目に見えない感情がうごめいている。それは王の住む、大王宮でも同じであった。
彼には大后と小后という后妃がいる。
後宮には后・妃子・夫人・嬪御という位階が存在する。大后は名門の余氏の出身だ。おまけに太子の生母である。
一方、小后はヘンの母だ。だが、彼女はヘンに愛情を注がなかった。というより、注げなかった。
小后は心を患った、っと言われて長く表舞台には出なかった。これは大后の策略であった。ヘンは乳母に育てられ、聡明であった。乳母から大后が母だと言われた。
それは全くの嘘である。
「王子さま、今からどこに向かいますか?」
舎人が剣の稽古を終えたばかりのヘンに問う。
「舎人のお前が決めろ」
「わたくしめはただの舎人でございます。決めるなど……」
舎人は側仕えでも最側近である。
ヘンはこの最側近、永達を困らせるこという。
そしてヨンダルは乳母の息子である。彼が最側近になるのは自然な成り行きであった。
「なら、カヒの元に向かう。あの女に伝えたいことがある」
「承知いたしました」
ヨンダルはヘンの考えが分からなかった。その分からないまま彼は返事をした。
「その前にヨンダル、手巾を」
「お稽古の後でございましたね。背中をお拭きしましょう」
「いや」
すっと、ヘンは右手をあげた。
「カヒにしてもらおう」
ヘンはヨンダルとカヒの住む館に出向いた。
館の周りには初夏に咲く花が芽吹いていた。
「ここは季節が来るのが早い。だが、季節はカヒを大事にしている」
「どういう意味でしょうか?」
「カヒは一生、美しいという意味だ」
館の前に控えていた女官がヘンを見つけると恭しく頭を下げた。
「王子さま、お妃さまはお食事中でございます」
「いれはいい。湯浴みがしたい」
女官の顔が一瞬、怯えた。
「お湯を用意いたします」
女官はその場を離れた。その代わり、ヨンダルはその場に残った。
その間にヘンは館の中に入っていった。
館には何個も部屋がある。支度部屋、湯殿、主寝室などである。その他の部屋は食事をするのに使うこともあった。
ヘンは何の迷いもなくカヒが食事をしている部屋に現れた。カヒは箸を小皿に置いて、立ち上がった。
「王子さま……」
「湯浴みの手伝いをしろ」
「お食事のあとでよろしいのでは?」
「見てわからぬか。剣の稽古をしたのだ」
「気が利かないわたくしめをお許しください」
ヘンは足音を響かせて湯殿に向かっていった。とはいえ、まだお湯は張っていない。
カヒは支度用のお湯をたらいに入れて女官に運ばせた。
カヒは薄着になり、背中をあらわにして座り込むヘンを見つめる。
憎しみと暴力の塊にカヒは殺意を抱く。
しかし、それは悟られてはいけない。
花の香りを……温もりを
「何をしている!風邪をひいてしまう!」
「大切なお体を……申し訳ございません」
カヒは体を屈めて手巾をお湯に浸した。丁寧に絞り、ヘンの背中を拭いた。
これが愛しい誰かの背中だったら良いのに、っと願いながら。
「カヒ。お前に何を与えて良いのか分からぬ。宝石も絹も羅紗も下賜した。真心も差し出した」
「……」
「そういう強欲な女が最後に欲しがるのは…」
「地位……でございますか?」
ヘンは指でカヒの輪郭をなぞった。
「お前を西の妃と呼ばせよう。東の次に尊い第二次妃だ」
カヒは思わず身を引いた。
咄嗟に、
「なりません!わたくしめは地位など!ただの少妃でいさせてくださいまさせ!」
っと、カヒは叫んだ
バシッ!
湯殿に響く鈍い音。カヒの左頬が赤くなる。
ヘンはカヒを抱きしめる。
「お願いだ!お前が欲しいのだ!」
「……はい。お好きなように……」
「どうして、お前の体は冷たい。愛してもお前の温もりは感じない。抱いても、お前は冷い。心の氷室を溶かすにはどうすれば良いのだ?!」
カヒはだらりとヘンに体を預けた。
「わたくしの心も温もりも全て王子さまに……地位もいりません。侍婢としてお側にいても構いません……」
「何を言うのか!侍婢など!」
カヒは静かに涙をこぼす。ヘンには涙の意味が分からなかった。
ただ、自分に向けられた涙ではないのは理解している。
「身支度を手伝ってくれ」
ヘンはカヒの体を抱き上げると申し訳なさそうに目を背けた。
「いや、いい……顔は痛むか?」
カヒはヘンの太い腕を掴んだ。それにはヘンも驚いた。
「王子さま、痛くはございません。それより
、わたくしめとお食事をなさいませんか?」
「いい」
ヘンはカヒの腕を振りほどいた。
この方に、あの方を重ねれば……
寂寞の中、カヒの心にひびがはいった。その音に誰も気づく者はいなかった。
ヘンが上裸で湯殿から出て行くとカヒはたらいを蹴飛ばした。
「身勝手よ!殴って、抱いて……」
カヒの叫びは誰にも聞こえていない。だが、これがヘンの耳に入っていた。
ヘンは涙を堪えた。今はカヒの存在が辛い。
「ヨンダル!」
館の前に控えていたヨンダルが微かな声を聞いて入っていった。
「いかがなさいましたか?」
「肌着を。それとカヒを第二次妃として西の妃と呼ばせよ!」
「は、はい……」
ヨンダルは女官に目配せをした。女官はふんわりとヘンに肌着を着せた。




