常磐緑
「ソイ、あなたしかできないのです」
ソイは固唾を呑む。
なぜだか自分が大罪の片棒を担ぐような気持ちがしていたからだ。
「わたくしめには……できません」
「何故です?!」
「姉を利用するようで」
それは嘘である。ソイは罪など被りたくないのだ。そしてソンに罪を被らせたくないのだ。
そもそも、後宮の女に心を奪われている時点で「罪」なのである。
ソイはそれを知っていた。だから、守り抜いた彼を止めなければならない。
「公子さま、もう目を覚ましてくださいませ!カヒお嬢様は後宮の方です!十分な愛を与えられております!」
ソイは強い口調でソンに言い放った。それに若干の哀れみと嫉妬を含めてだ。
それはソンに対してでもあるし、自分に対してでもだ。
「執着はおやめ下さい。手放してください」
ソイは優しくソンの手を握った。
「幻の恋心に人生を棒に振らないでくださいませ。公子さまは王族なのですから……」
その刹那、ソイの影とソンの影が重なった。
いつの間にかソイはソンの体に収まっていた。
「私の唇は甘かったですか?」
「……」
「ソイ、罪を私と被りましょう」
「……」
私の人生はいつも男に汚されるのね──。
ソイはソンから体を離した。そして唇を袖で拭った。自分はやはり汚いと感じた。
ソイは自分を汚い思い込んでいた。だが、それに向き合うことはしなかった。
自分の前から立ち去ったソイにソンは愕然とした。あれだけ拒められているのにソイを一瞬だけでも彼女を求めた。
それは彼女を利用するためだったかもしれない。だが、彼女の唇は甘かった。
「ウナク!」
いささか荒々しくソンがウナクを呼んだ。
「いかがなさいましたか」
ウナクがソイと入れ違いに入ってきた。ウナクはちらりとソイの背中に目を向けた。
「アラの周辺を探ってください」
「まさか……」
周辺を探るということは「逢瀬」を意味する。ウナクはこれを淡々とこなすが、今回は乗り気ではなかった。
アラの恋人、ウクは王子の次妃と関係があると噂が立ちはじめていたからだ。王子の次妃とは東のお妃さまのことだ。
ウクも危険なことをしている。
ウナクはソンとウクから同じ匂いを感じた。
(面倒はやめてくれ……)
常磐緑の房が着いた剣をウナクは握りしめた 。ウナクは反論したかったが、したとろでソンが変わる訳ではない。
無駄なことはしない。
「公子さま、お一つだけ……よろしいでしょうか?」
「何です?」
「どうして、カヒお嬢様を……」
ソンは椅子にゆっくりと腰をおろした。その姿は王族特有の優雅さを含んでいる。
「カヒは私の魂なのです」
「魂?」
「誰も愛したことがないあなたには分かりませんよ」
ウナクは黙り込んだ。
「公子さまと逢瀬を重ねた女たちは……」
その言葉にソンは反応した。そして不機嫌に人差し指を卓の上でとんとん、っと鳴らした。
「その話は嫌いですよ。さあ、行きなさい」
「……わかりました」
ウナクはソンに頭を下げると部屋を後にした。
(なんと無情な方だ。女は抗えないだけだ!)
ウナクはなんだかやるせない気持ちになった。
後宮
東の館。絢爛な館を与えられた東のお妃と言えば正妃に値する地位だ。
東のお妃は自分こそが正妃だと思っている。しかし、彼女は正妃ではなかった。
彼女は正妃の下位の次妃だったからだ。今のところ次妃は一人であるが、寵愛著しいカヒが次妃になるのも時間の問題だろう。
東のお妃は内心で焦っていた。
「東のお妃さま」
爽やかな声が耳に入ってきた。目をそちらに向けるとウクが立っている。
東のお妃は立ち上がると彼の首に手を回した。
「ウク……会いたかったわ」
「人目がありますよ」
「たまに会えた時くらいは甘い言葉を尽くしてください」
「そんなにお妃さまをお待たせしましたか?」
東のお妃は手をゆるめてウクの瞳を見つめた。
「待ったわ……いつ、来るのだろうと……」
「あなたは妃です。高貴な身分、私はただの御曹司です。それに妻を迎える身です」
「え……」
東のお妃の手が力なくウクから落ちる。だが、東のお妃は平気そうにしている。
「私のことはお忘れください」
優しく残酷な言葉をウクは東のお妃に告げた。自分の名前すら知らない男に恋焦がれたのが間違いだった、っと自身に言い聞かせた。
「ウク……!」
ウクは何も答えない。
「ウク、私の名前を最後に呼んで!梨花と……」
東のお妃の瞳から大粒の涙がこぼれる。
「……高貴な方のお名前は呼べません」
ウクは部屋から音もなく出て行った。東のお妃は自分がいかに愚かであったか思い知った。そして彼が迎えるという「妻」に強い憎悪を覚える。
私のウク──!
項垂れる東のお妃は手元に転がっていた金の指輪を投げつけた。それはウクから贈られたものであった。
彼女の脳裏に花びらが舞う。
その中でウクが自分の知らない女と愛し合っている。
ウクの背中越しから女の鋭いが自分を射抜く。
ウクさまは私の方──。
「やめて!やめて!」
気が狂いそうだった。




