香りの名残り
後宮の夜は長い。
妃たちはたった一人の男を待つ。綺羅星が光るのを止めるまで待つのだ。薄化粧で彩った顏は涙で醜くなる。
しかし、カヒはその男に怯えていた。だが、周りの妃からは羨望の眼差しを向けられる。そして真っ黒な嫉妬で苦しめられるのだ。
カヒは白い絹の寝間着の袖を握った。
(来ないで!来ないで!)
そこに女官が現れた。
「お妃さま、王子さまは東のお妃さまのもとでお休みになられます」
「わかりました」
カヒはようやく安堵した。女官はカヒの背後に回って元結を解いた。
王子のヘンはカヒを虐げながら、なぶりながら抱いていた。カヒの体には愛の痕ではなく、加虐の痕が残っている。
「王子さまはなぜ、お妃さまに惨いことを……」
女官の目に涙が浮かぶ。
「王子さまは私の心の全てをご存知なのよ」
カヒの心には傷があった。その傷はふさがらなかった。
昔の花の香りを私は忘れていない……。
ソンの髪に残る女の香り。花のような香り。カヒは絶望した。
それから息を潜めながら、人形のように生きることを強いられた人生にカヒは悲しみ、哀れみを自分に向けた。
そうでもしなければ、自我というものが保てないような気がしたからだ。
(いつまでも微笑んでいようだなんて……私には無理よ)
カヒは女官の手を借りて化粧を落とすと寝台に横たわった。
いや!おやめ下さい──!
まだ、お前の心にはあいつがいるんだろ──!
殴らないで──!
「はっ!」
カヒは額に玉のような汗を袖で拭った。この夢を彼女は毎日のように見た。夢か現か分からない時もあった。
自然と透き通った瞳から涙が溢れ出す。
「どうして私ばかり…結局、王子さまは私を飼い慣らしたいだけなよ。都合いい存在なのよ。東のお妃さまのように慈しんではくださらない」
今にも壊れそうな心を楽にしたいと思うが、それは大罪である。そうしたら一族が巻き込まれる。カヒは一族のために差し出された女だから余計だ。
カヒが一族のために身を差し出したのには理由があった。愛していたソンが別な女を抱いたのである。
自身を燃え上がらせるような嫉妬、そして深淵に落とされた沈痛な叫び。
その日からカヒは笑うことを自ら禁じた。着せ替え人形のように生きることを強いた。
そんな中で一族のために身を差し出した。
犠牲者がまた犠牲者となる。
皮肉すぎた。
「王子さま!お妃さまはお休み中でございます!」
扉を蹴破る音がした。ヘンである。
カヒは血の気が引いていくのが分かった。ヘンはカヒを見るなり、不気味に笑うと彼女を平手打ちした。
カヒは寝台に勢いよく体を打ち付けてしまった。
「王子さま、わたくしめが気に障るのですか?!」
「お前の心にいる男が気に障るのだ!」
そう言い放ったあとにヘンは一瞬だけ微笑む。
「わたくしめの心には王子さましかおりません」
「なら、見せてみろ!」
ヘンはがっちりとカヒの体を掴んだ。そして有無を言わさず押し倒した。
「何だ!その顔は!悲劇の女ぶりやがって!」
ヘンはカヒの寝間着を荒々しい手つきで破り捨てた。
「まだ、お前の心にはあいつがいる……!」
バシッ!
「おやめ下さい!殴らないで!」
「王子の俺に指図するのか!」
再び乾いた音が何度も響く。
ヘンはカヒを殴りながら無理やり抱いた。
そのあとには必ず優しい言葉をかけるのだった。
この地獄は未明まで続いた。
地獄の後、ヘンはいつも満足そうにして帰る。
その足で東のお妃の館に向かうのだった。
彼が唯一、慈愛を向ける女のもとだ。カヒは両手で顔を覆い、ヘンが慈愛の表情を浮かべる様子を想像した。しかし、想像はできなかった。
「公子さま、どうして私を裏切ったの?」
カヒは裸体を起こして女官に着替えを持ってこさせた。
カヒの惨い姿に女官は大粒の涙をこぼした。
「ねぇ、筆と紙を……」
「はい」
女官は長衣を羽織らせるとカヒに紙と筆を差し出した。
昔の香りをお忘れですか?
お忘れでなければ、
わたくしにお心を貸してください
「こんな文を?!王子さまに見つかったら!」
女官は大慌てで言った。
「殺されるわ……それでもいいの。どっちにしろ地獄よ。」
カヒはまだ痛む右頬を優しく撫でた。




