女狐たち
ソンは思う。
この抱きしめている相手がカヒであれば良いと。
だが、現実は残酷である。恋焦がれた相手は今は遠くにいる。
香の名残を感じられる場所に自分はいたのに、遠ざかる運命になってしまった。
(こんな烏姫など……あまりにも酷い。大后さまは私に何の恨みがあるのだ?)
ソンはまたアヒョン公主を強く抱きしめた。
「旦那さま……」
「あ、申し訳ございません。苦しかったですね。公主さま、お願いがあります」
アヒョン公主はソンから体を離した。ソンはアヒョン公主に膝まづく。
それにはアヒョン公主も驚いたが、自分の紡ぐ物語の貴公子そのものだった。
「公主さまに嫡子を産んでもらいたく存じます。ですから、このように枝のような体では心配になってしまうのです」
アヒョン公主の体はみすぼらしい。元々、食が細いと聞いていたが体は枝のようで抱きしめたら折れてしまいそうだった。
だが、そんな妻を持ったソンを不憫がる者はいなかった。「美」を重んじる貴族たちは烏姫を妻にすることを嫌煙していたのだ。むしろ、ソンに尚公主したことを喜んでいるくらいだ。
「良いですか、南殿の方は妾に過ぎません。産まれた御子は嫡子にはなれないのです。それに庶子の世話など嫌でしょう」
「いえ、庶子でも私の子どもに変わりありませんわ」
ソンが微笑んだ。そして立ち上がると、アヒョン公主の手を取り、
「あなたを妻にしてよかった」
っと、呟いた。
その言葉にアヒョン公主は自分がようやく心からソンに認められたような気がした。
だが、言葉というものには裏がある。
そして、毒があり棘がある。
世間知らずで書物にしか興味のなかったアヒョン公主にはそれが分からなかった。
結局、ソンはアヒョン公主を妻として認めていなかったし、女としても認めていなかった。
鏡の君なら、明月の君なら直ぐに分かるだろう。
二人が見つめ合っていると雰囲気を壊すようにシン夫人が菓子を持って現れた。
シン夫人はソンを見るなり血相が変わった。
彼女は早口で勢いよくソンに言い放つ。
「鏡の君は嫌味な女ですわね!菓子を貰いに行くだけでグチグチと文句を言うのですよ?!」
困ったようにアヒョン公主がシン夫人に言う。
「そんな事を言わないでちょうだい……シン夫人、あまり私を困らせないで」
すかさずソンが優しくシン夫人に言う。
「シン夫人、鏡の君には私から伝えます。公主さまは正室なのだから、と。女官だった鏡の君より公主さまは身位も何もかもが上なのですから」
ソンの言葉にシン夫人は顔を明るくして、得意げに言った。
「そうです!そうです!公主さまに敵う方などおりませんわ」
その発言にソンとアヒョン公主は呆れた。
彼女は明らかに鏡の君を敵視している。本来であれば、彼女たち妻妾は団結して家を守る。一般的にそう思われている。そして妾は正妻に仕える奴婢でしかない。
シン夫人が鏡の君を敵視する気持ちは分かるが、彼女は弁えていない。
鏡の君はソンを求めた女だ。
受動的な女が多い中、彼女だけはソンを求めた。
そして美しい顔の裏に隠していた欲望、嫉妬、非情さを全て見せつけてきた。
それがソンには物珍しく、自分の「もの」にしたくなったのだ。
いつぞやに抱いた未亡人は欲情を捨てていた。
ソンは快楽というものが全て欲情から発生すると考えていたから、未亡人は快楽すら感じない「もの」だった。
「旦那さまはよくお分かりですね。シンは安心いたしました」
シン夫人は胸を撫で下ろした。
「シン夫人が憤る気持ちはわかりました。如何せん公主さまは高貴な身位……差配で手を煩わせたくなかったのです」
シン夫人は何度も頷く。
先程の勢いはいつの間にか消えていた。今は大人しい「乳母」であった。
だが、ソンは内心でシン夫人に苦手意識を抱いている。
秋の空のようにころころ分かる表情に加えて口うるさい性格。
女としての嗜みがまるで感じられない。
シン夫人がもう少し若く、もう少し淑やかであればソンは抱いているだろう。
(つまらない女どもだ)
ソンは作り笑いを浮かべる。その場をシン夫人に任せてアヒョン公主の部屋から出た。
すると、どこからかすすり泣く声が聞こえてきた。ソンが泣き声を頼りに軒先に出るとメヒャンが目を涙で腫らしていた。
「メヒャン、どうしたのですか?」
「旦那さま、何でもございません……」
「誰かに罰を与えられたのですか?言ってごらん」
優しくソンが言うとメヒャンは大粒の涙をぼろぼろとこぼした。そして腫れ上がった膝を裙を捲りながら見せた。
「水差しを割ってしまったのでシン夫人に膝まづくように言われて……」
(真偽は分からないが、暇つぶしだ)
「可哀想に。傷の手当をしましょう。歩けますか?」
「はい……」
メヒャンは立ち上がれなかった。それも真偽はわからない。
「少し恥ずかしい思いをさせますが……」
ソンはメヒャンを抱き上げて自分の部屋に歩いて行った。
その様子を物陰からイソが見ていた。イソは悔しそうに爪を噛んだ。
「とんだ女狐もいたものね。狐媚惑主」
だが、イソも女狐には変わりなかった。




