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空虚

 医女は怡瑞(イソ)と言った。

 彼女の脈診でウナは懐妊していると正式に判明した。

 ソンはウナに南殿を与えて南殿(みなみどの)の方と呼ばせることにした。

 それに不快感を覚えたのはアヒョン公主だった。

 鏡の君といい、ウナといい、この允雲宮には敵ばかりだと被害妄想を膨らませていた。

 鏡の君はシウの妹、キョンビの指導をしながら南殿の方の世話はできないと侍女頭のヘインに人事を一任することにした。

 ヘインは鏡の君の指示通りにしようとしたが、まったをかけたのはアヒョン公主だった。

 賢い女は時に厄介である。

「ヘイン、ウナの世話係は私が決めるわ」

「正夫人さま、南殿の方とお呼びください。そこは敬意を払うべきです」

 抑揚のない口調がアヒョン公主の気に障る。アヒョン公主は允雲宮における自分の地位があまりにも不安定だと危機を感じていた。

 ソンには重視されているし、妻としては愛されているのに中身は空っぽで、これとして満たされなかった。

 ただの着飾った人形である。


 私は人形ではない──。


「どう呼ぼうが勝手でしょう?ウナには変わりないのだから。それに御子の嫡母は私です」

「そうでございますね。なら、南殿の方の世話係は嫡母である正夫人さまがお決めください。鏡の君さまにはわたくしめから申し伝えておきます」

 ヘインはそう言うとそそくさにアヒョン公主の部屋から出て行った。隣で控えていたメヒャンはちらりとアヒョン公主に視線を送る。

「公主さま、書庫から詩経を持ってまいりますか?」

 今度は公主がメヒャンに視線を送る。

女則(じょそく)を持ってきて」

「え?」

「今日は詩経の気分ではないの」

「かしこまりました」

 メヒャンは訝しげに部屋を後にした。

 一人になったアヒョン公主は自ら硯を刷って筆を走らせた。あの「貴公子」の物語である。


 貴公子は三日月の夜に太子妃のもとに……


 ふと、アヒョン公主は自分が夢の中に没入していると感じた。どこか、ふわふわした夢の世界。

 空想が紙の上で事実のように動き出す世界。

「私は賢い女よ。きっと文才もある……ただ、それが自分を抑えつけているだけなら?なぜ、そんなに気後れしたような気持ちになるの?私が醜いから?」

 アヒョン公主は筆を置くと鏡台に向かった。

 そこには醜い女がいるだけだった。おまけに心も醜くなっている。

 後宮にいた時には感じなかった嫉妬を允雲宮で初めて覚えた。そして自分が「賢い正夫人」という「理想」に踊らされていることに気づいた。

「ねぇ、どうしたら清らかなアヒョンに戻れるの?」

 そっと、アヒョン公主は鏡を人差し指でなぞった。


 鏡……


「あの鏡の君も同じ思いを?賢いのは鏡の君だわ。私は大后さまのように何かを奪うことを考えていた」

 アヒョン公主は涙を流した。

 あの恐怖の対象である「大后」のように自らがなりそうになっていた。生母の宮嬪を苦しめた大后。自分も誰かを苦しめようとしている。

 それは鏡の君、明月の君、そしてウナ……。

 もしかしたら侍女たちもだし、ヘインも然りだ。

「ただ、旦那さまのお心は誰にも向けられていない。それは誰も思っているはずだわ」

 アヒョン公主は深いため息をついた。

 その時だ。

「公主さま、ご機嫌はいかがですか?」

 ソンの涼しく澄んだ声が背後からした。アヒョン公主が振り向くと微笑を浮かべて、こちらを見つめている。

「旦那さま、出迎えもせず申し訳ございません」

「良いのです。あなたは公主です。私が礼を尽くす立場です」

「ですが……」

 アヒョン公主の顔が曇る。

「嫌な気持ちにさせたなら謝ります。お顔を曇らせている理由を聞かせてくださいますか?」

 アヒョン公主は鏡の君が差配をしていることが不満だと素直に伝えた。

 ソンはしばらく考えたのか口を噤んだ。

(公主は世間知らずだ。だが、試しに任せるのも良いが……だが、屋敷を上手く回せるのは鏡の君とヘインくらいだ)

「なら、ヘインに教えを乞う形で差配の一部を任せましょう」

「良いのですか!」

 アヒョン公主の表情が一気に明るくなった。ソンは鏡の君に自分が及ばないと知ってもらうために考えた方法だった。

「鏡の君はキョンビの世話や手解きがありますからね。そうだ、公主さま。西院(ソウォン)にいるキョンビが挨拶をしたいと言っていましたよ。感冒で顔合わせに出れなかったのです」

「キョンビ?」

 アヒョン公主は首を傾げた。時折、出てくる「キョンビ」が誰なのか分からなかったからだ。

「ヘミョン城の城主の妹です。キョンビの弟は私の異母弟と別荘で暮らしています。いつかは呼び寄せるつもりです」

(ヘミョン城……あの辺境の?キョンビは旦那さまの愛妾になるために学んでいるの?)

 ソンはいきなりアヒョン公主を抱きしめた。

「アヒョン公主、顔が強ばっていますよ……キョンビのことが不安ですか?」

 図星であった。確かにアヒョン公主は不安だった。

 だが、その不安の正体を言うことは出来なかった。

 また、アヒョン公主は「賢い妻」を演じてしまう。

「大丈夫。キョンビは私の妾などにはしません。あなたが私を癒してくれる。そして寂しさも……分かってくれるね?」

 アヒョン公主はソンの胸に顔を埋めて何回も頷いた。


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