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野心が舞う

「ソイ殿?」

 ウナクは馬から降りた。

 ソイは鏡の君の妹で、今は宮中勤めをしている。ウナクに気づいたソイは彼に向かって驚いたような表情を浮かべた。しかし、すぐに頭を下げた。

「ウナク殿も甄先生に用があるのですか?」

「旦那さまの侍妾が懐妊したようで……」

「そうですか」

 ソイは複雑な気持ちになったが、彼は自分を弄ぶだけである。そんな複雑な気持ちを抱くような相手ではない。その「侍妾」が自分と同じ立場であったら……ソイは一抹の哀れみを覚えた。

「ソイ殿はどうしたのですか?」

「実は西のお妃さまの用事で。なんでも儲君さまの診察に甄先生を遣わしたいとのことでした。それと……」

 ソイは人混みにかき消されそうな声でウナクに言う。

「大公さまの体調が悪いのです」

 大公はずっと牢につながれている。劣悪な環境で、食事の大半は腐った物だった。

 ソイは侍衛獄司の牢卒に金を渡して食事を取り替えていた。だが、ここ数日の間で感冒に罹り体調を崩していたのだ。

「ソイ殿、この話は旦那さまにしましょう。きっと、正夫人がなんとかしてくださいます」

「旦那さま……公子さまはそう呼ばれているのですね。王族ではない旦那さまが何とかできる話ではありませんわ。旦那さまは不安定なお立場です。それに大公さまの診察はわたくしの独断です」

 ウナクは黙り込んだ。

 確かに今のソンの立場は不安定である。アヒョン公主を正妻にしたことでソンの地位が首の皮一枚でつながっている状態だ。

 アヒョン公主が尚公主(降嫁)したのは政治絡みだ。この先、大后がどう動くかは謎である。おまけに烏姫(アヒョン)が悪知恵を働かすかもしれない。

 だからこそ怖いのだ。

「ソイ殿の考えは分かりますが……手ぶらで帰るわけにもいきません。せめて、甄先生は……」

「こちらにも事情がございます。できれば、儲君さまの診察の後にできませんか?」

 困り顔でお互いを見つめた。

 これが「誰かに仕える」ということの苦労である。

 二人は言葉を選びつつ「甄先生」を奪い合うことになっていた。それは二人にとっては不本意である。

 すると隣の薬房から歳若の女が怪訝そうに現れた。

 目が大きく、艶のある肌をしていた。

「何かお困りですか?」

 女は穏やかな口調であったが、気の強い雰囲気がする。ウナクは彼女が清らかには感じられなかった。直感ではあるが、この女は悪どい。

(旦那さまに近づくなよ……めんどうはごめんだ!)

 真っ先に口を開いたのはソイだった。

「私は宮中の女官でございます。どうしても甄先生に儲君さまの診察をお願いしたく参りました」

 次に女はウナクの顔に視線を送る。

「わたくしめは允雲宮に仕える侍従です。旦那さまの侍妾が懐妊したようで甄先生に診察をお願いしに参りました」

 すると女はきょとんとしたが微笑を浮かべた。

「甄先生は王族や貴族はお嫌いです。尚薬をお勤めになった時からお嫌いです。代わりの医者を紹介いたします」

 ソイは動揺したが、ウナクと同じく手ぶらで帰ってはカヒの面子が立たない。それに町医者には王族や貴族を嫌う御医出身者が多かった。

 女はソイに(リム)という医者を、ウナクには自分を連れて行くように言った。

 なんでも女は婦人の病や出産に詳しい医女らしい。

 ウナクは悪い予感を抱きつつも、ソイと別れて女を馬に乗せて屋敷に帰ってきた。

 正門には鏡の君が彼の帰りを待っていた。

「ウナク、甄先生は?」

「王族、貴族を嫌う方でしたので代わりに医女を連れて参りました」

「甄先生のことは残念ですが、医女なら同性ですし話しやすいでしょう。早速、ウナの診察を……」

 すると、そこに多数の侍女を引き連れた正夫人・アヒョン公主が現れた。

「鏡の君、正夫人のわたくしを差し置いて侍従に指示するなんて……正室気取りも甚だしい」

 アヒョン公主の顔も言葉も険しい。だが、鏡の君は引き下がることはしない。

「ウナの診察は旦那さまのご希望ですし、早めにと仰せでした」

「それでもわたくしに一言声をかけるべきです」

「はい。ですが、正夫人さまはいつもお部屋にこもっているではありませんか。差配はわたくしめが任されております」

 アヒョン公主の顔がみるみると赤みを帯びていく。彼女は明らかに怒っている。そしてアヒョン公主は隣にいたメヒャンに鏡の君を殴るように言いつけた。

「公主さまのお手を汚さぬよう……」


 バシッ!


 乾いた音が大きく響いた。


「っつ……!」


 メヒャンは尻もちをついた。

 鏡の君が彼女よりも先に手を出していたのである。柔和な表情しか知らないアヒョン公主の背筋が凍った。

 彼女の瞳は鋭利な刃物のようだったからである。

「アラ!わたくしの侍女に!」

「お許しくださいませ。正室は言葉で妻妾を諭すべきです。メヒャンは正夫人さまの愚行の犠牲になりました」

 鏡の君はそう冷たく言うとウナクと女を連れて奥院に向かった。

 アヒョン公主はあまりの悔しさに鏡の君の背中を睨みつけた。だが、それしかできない自分にも悔しさが滲む。

 他の侍女がメヒャンを起こすとアヒョン公主は彼女に目もくれず、自分の部屋に帰って行った。

(なんて冷たい醜女なの?!機嫌がいい時だけ可愛がるくせに……烏姫!)

 メヒャンの桃色の裙が風になびく。彼女の内心で野心が風に舞う。

 殴られた右頬に手を当てながら、メヒャンはソンを奪うことを考えるのだった。




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