偽り
東のお妃は顔色の悪いカヒに気づいた。彼女は珍しくカヒに声をかけた。
「あなた、大丈夫?」
「平気です。ご心配には及びません」
「でも、真っ青よ?」
「気になさらずに」
カヒのその言葉で二人の会話は途切れた。東のお妃は難産の際にカヒが駆けつけてきたことで好意を抱くようになっていた。
ただ、王子の正室の座だけは争う気持ちでいた。それは彼女が族姫であり、使命だと思っているからだ。
一方、ヘンはあの蠱惑的な女官に目を向けた。ヘンの鼻の下が伸びている。カヒはそんなことはどうでも良かったが、見ていて気分が良くない。
「お前の名前は?」
「ただの女官でございます」
それを聞いたヘンは何かを企むような表情を浮かべて彼女のそばから離れた。
太子に案内されたのは東宮の偏殿だった。物音ひとつない偏殿は不気味であった。
ただ聞こえるのはすすり泣く声、衣擦れだけだった。
一国の太子が側室も持たず、病弱な息子に胸を痛め、母の目に怯える……
カヒはこの境遇がソンでないことに変な安堵感を覚えてしまっていた。
それは抱いてはいけない感情と分かっていながらだ。
「すまない。また、ヒョンが熱を出してしまってね」
すかさず、東のお妃が太子に尋ねる
「御医や医女にお任せしないのですか?」
太子は困り顔をして頭を掻いた。
「御医や医女も世話をしているが、太子妃が片時も離れないんだよ。それが私には怖いくらいだ」
それには東のお妃は困惑の表情を浮かべた。太子妃の気持ちはよく分かる。だが、自分自身を責めても儲君の虚弱な体は治らない。
太子妃は悲劇を演じたいだけなのでは、っと東のお妃は思った。
ただ、それを言えなかった。ぐっと、言葉を飲み込んでそれを忘れるようにした。
カヒも東のお妃と同感だった。
慈しむべき存在を利用して太子、夫から注目されたいという汚い考えを持っているのだとすら思う。
太子妃を間近に見た事はないが、きっと善人の皮を被った顔をしているはずだ。
カヒはいつの間にか黒い思考が身についてしまった。
「太子殿下、知り合いに腕利きの医者がおります。一度、診察させてみては?参内の許可をしていただけたら……」
カヒの優しい言葉に太子は心が温かくなった。そして涙で瞳を潤ませた。太子妃は子どもばかりに構っているからか温もりや優しさに触れる機会は少なかった。
しかも、東宮の女官たちは偽りの真心を向けてくる。それにもうんざりしていたし、媚びているのも腹が立って仕方なかった。
だから、女官を側室に迎える気は全くなかったのである。
「いい話を聞けた。すぐに参内の許可をおろそう。この札を使うといいだろう」
太子は一枚の札を取り出してカヒに手渡した。
「東宮之入宮允諾」
(東宮、直々の参内許可の札!)
カヒは手が震えた。「允諾」という言葉は許可という意味だが、これを太子が渡すということは自分の言葉がよっぽど信頼を得たという意味に感じた。
「太子殿下!」
「いいから、その医者に持たせなさい。宦官を遣いに出そう」
太子が手を叩くと腰を屈めた宦官が現れた。その足取りはゆったりしている。太子に仕えて長い宦官なのだろう。
カヒは医者の住む町医者が集まる坊を宦官に伝えると無言のまま頷き、部屋を後にした。その一連の流れは宦官が経験豊富な証拠だろう。
(宦官はいつも不気味だわ)
彼女に宦官への不気味さが植え付けられていった。
允雲宮
ソンが髪をウナに梳かせていた。
ウナはいつも怯えたよう指先を震わせている。彼女はカヒの身代わりであり、カヒの本来の立場を奪ったという自責の念に駆られていた。
それにウナは自分がいくらソンを愛したところで彼はカヒを愛している。自分への気持ちは幻に過ぎないのだ。
「ウナ、その手つきだと上手く髪は結い上げられませんよ?」
「申し訳ございません……」
もう、ウナは女官ではない。絹の着物に花を象った簪まで挿している。おまけに身も捧げていた。何回も夜を共にした。
そのたびに冷たい夜を過ごした。あの高揚感はまるで、すぐに溶ける雪のようだった。
「あなたは私の侍妾です。もう女官だった頃をお忘れなさい」
「旦那さま、わたくしめは一生、誰かにお仕えする身分でございます」
「西のお妃さまが懐かしいのですか?」
意地悪っぽく言うとウナは今にも泣き出しそうな顔をした。
「滅相もございません!旦那さまも西のお妃さまも優しくしてくださいます」
「そうですか。ウナは自由になりたい時はありますか?」
「わたくしめに自由など……」
そう言いかけた時だウナが急に口元を手で押さえた。ウナにはこの理由が分かっていた。でも、隠し通すつもりでいた。
何皇后の迫害から逃れる王美人のように。
「ウナ?!誰か!誰か!」
「いかがなさいましたか?!」
真っ先にやって来たのはウナクであった。ウナクは彼女の仕草で全てを理解した。
(ご懐妊?!)
「すぐに桶を用意して私の寝所に!いや、ウナは私が」
「は、はい!」
ソンは慎重にウナを抱き上げると寝所に連れて行った。
「ウナク、甄先生を呼びなさい」
「甄先生?あの尚薬をお務めになった?」
「はい。あの方なら安心です」
「早急に呼んでまいります」
ウナクは急いで町医者が集まる坊まで馬を走らせた。
しかし、そこには先客がいた。




