井戸端の約束
ソンはソイを押し倒たおそうとした。しかし、ソンはソイの体から伝わる拒否感を覚えてしまった。しかし、感情は抑えられない。彼女の纏う碧色の衣が揺れる。ついにソンはソイを押し倒した。
「おやめ下さい!」
ソイの双髻から真珠の簪が落ちる。
シャラン…
咄嗟のことでソイは簪を拾い上げることもできない。
(また抗えないの?私はいつも……いつも)
ソンは困惑した表情の彼女を奪いたいと強い感情が芽生えた。ソイの体は力が抜けてだらんとしている。それが艶めかしく、手が自然と誘われてしまう。
「父上が忘れられませんか?私を求めても良いのですよ?」
「大公さまのお話は……」
ソンは鼻で笑った。そして自分が父の「女」を奪おうとしている高揚感と罪悪感に満ち溢れている。選ばれる自信があった。
「私を……」
ソイの憂いが滲む瞳が揺れる。ソンはソイの着物の帯に手をかけた。ソイは固く瞳を閉じた。その様子を見つめてソンは興ざめしてしまう。ソイの固く閉ざされた瞳から一筋の涙がこぼれていたからだ。
(この女はつまらない。だが、いつかは手にいれたい)
「ふっ、今日はやめましょう」
ソンは体をゆっくりと起こした。色白のすらりとした体をソイから離した。彼女はソンを見上げながら居住まいを正した。 碧色の着物の襟や帯を直すと彼の顔から直ぐさま視線を背けた。ソンは簪拾いあげると、
「あなたを無理に抱くつもりはないのです。許してください」
そう言ってソイの乱れた双髻に簪を挿した。ソイはしばらく放心状態であった。
彼女の脳裏には大公との刹那の宵が浮かんでいた。あのような幻想的で穢らしい夜を思い出したくはなかった。
しかし、その息子に体を求められた。
ソイはがくっと肩を落とした。それを見つめるソンは自分が何か大きな間違いを犯しそうになったことを実感した。
(ソイは父上の妾だ)
ソンは支度部屋から一人で出て行った。一人にされたソイは嗚咽した。それは部屋の外にまで聞こえてきた。ソイの心は崩れた。
ソンの傍にウナクが近寄ってきた。ウナクはソイの嗚咽を聞いて、心配そうに彼に尋ねた。
「何があったのですか?!」
「からかっただけですよ。もう、彼女には何もしません。折を見て暇に出すことにしましょう」
「……わかりました」
ウナクは小さく頷いた。
この言葉はソンの本心ではなかった。ソイに暇は出したくなかった。ウナクにはそれを止めてもらいたかった。しかし、一度、口に出した事を引っ込めることは難しい。
ウナクはソイを哀れだと思ったことはない。流されるだけの女だと感じていた。
「彼女の身内は?」
「確か……姉がおります。姉の方は後宮の女官と聞いています……」
(公子さまには余計な言葉だった!)
「後宮!」
「公子さま、お静かに!皆に聞かれます!」
ウナクは口の前に人差し指を立ててソンの声を小さくするように促した。
「後宮なら、佳姫に会える!やはり、ソイは役に立つ……」
「まだ、カヒお嬢様をお忘れになっておられないのですか?!」
カヒはソンが永遠に求めている「愛」であり、「情熱」である。しかし、彼女は後宮の「女君」だった。
「あのように美しい令嬢は私の妻にふさわしい……!」
しかし、彼女はソンの従兄弟で王子の珩に仕える身分の妃ある。
「ウナク、直ぐにソイの姉を手懐けよう!」
「王子の妃を奪うおつもりですか?!」
「違う!会うだけだ!」
カヒを想うたび、ソンの鼓動が激しくなる。彼はこれが自分の情熱の源だ。だが、ウナクにはそう感じられなかった。身勝手な「情念」だとしか思えなかった。
それにカヒがソンを求めているかも分からないし、彼女を追いかけるソンが心の虚しさを埋めるために逢瀬を重ね続けることが自体な恐ろしいのである。ウナクは拳を握った。
すみれ色の姫君、蛍の姫君──。
カヒは左宰相の娘であった。
すみれのような可憐さを持つ少女だった。歳を重ねるごとにカヒは大輪の紫薇に変わっていった。また、才媛と誉れ高い存在になっていた。
ソンはすみれの頃から彼女を知っていた。戯れで、
「大人になったら結婚しよう」
っと、井戸端で言い合ったこともあった。
カヒを強く意識するようになったのは蛍が飛び交う夏の夜であった。。
蛍の光に映されたカヒの神秘的な美しさに心を奪われた。
「公子さま、何を見つめているの?」
「カヒ、あなたですよ」
「まあ、おやめ下さい。公子さまのお心を私に全てくださいますか?」
それなのに──。
その時にカヒがソンに見せた控えめな微笑みはこの上なく綺麗であった。まるで月の光のようだった。そして影が重なった。
あの唇の感触は──。
ソイとは別な侍女に身支度を任せたソンはウナクが用意した輿に乗り込んだ。瓶覗の着物がよく似合う。ひとたび街に出ると、それは浮いて見えた。
だが、元結に挿した銀の簪は身分の高さを表していた。ソンの簪は瑠璃で装飾さている。その深い瑠璃色は誰もが欲しがった。
国王の身内で親しい者は銀を着けることを許されていた。王子であるヘンですら銀である。太子になれば金を身につける事ができた。その他の王族は瑠璃、瑪瑙、翡翠などを身につけた。
「あれが放蕩公子……」
女が呟く。
「よく出かけられるわ」
それに応じるように女が言う。
「貴族は娘を隠さないとな」
たまたま街に来ていた男が言い放った。そのような言葉が無数にソンの耳に届く。
「公子さま、道を変えましょう」
「これくらいの中傷は慣れています。ここで道を変えたら負けたようなものですよ」
「はい」
ソンは平然としていた。この生活を始めて、自分に対して誹謗中傷を伴うことを知っていた。しかも、早い段階でだ。
どこからか仕入れてきた情報ではソイの姉、雅羅は王宮から里下がりをしているらしい。
アラは容華堂という名前の邸宅に住んでいるとも聞いていた。
容華堂は街の外れにあった。緩やかな坂道続きの中、ウナクはわずかな疲労を覚えつつも街の外れまで歩いた。
街の外れにやってくると一気に静寂に支配された。雑草も伸び切り、手入れはされていない。だが、先程までの誹謗中傷は聞こえない。
ウナクは容華堂を見つけると、正門の扉を叩いた。容華堂は閑散としているが、どこからか花の香りがした。中から出てきたのは見目麗しい女だった。遠目から、この女がアラかはソンには分からなかった。




