貴公子
東のお妃の産んだ姫御子は通称「東の姫君」と呼ばれるようになった。
しばらくの静養後、東のお妃の元には出産祝いが山のように届いた。
特にヘンの姉、明花公主は絹やら翡翠の腕輪やら、惜しみなく東のお妃や姫君に下賜した。
彼女は子どもが好きで心優しい性格であった。しかし、気が弱く臆病であった。
ミョンファ公主が東のお妃の館から帰る途中にヘンと出くわした。
「また、遊びに来ていたのですか?」
「ええ。とても可愛い姫君ね。色白で目元はあなたにそっくりだわ」
ミョンファ公主は控えめに笑った。ヘンはどこか嬉しい気持ちになった。
そして、内心でカヒとの子どもをもうけたいと希望を強く抱いた。
(カヒには男子を産んでもらいたい)
「ヘン、阿玄お姉様はまた縁談を断られたの?」
ヘンは辺りを見渡してミョンファ公主に声を潜めて告げた。
「言ってはいけませんよ!アヒョンお姉様のことは父王《お父様》もお困りなのですよ?」
「失言だったわ……誰も聞いていないわよね。でも、事実だわ」
ミョンファ公主は急に不安げな表情を浮かべた。彼女は不安になると、それにずっと囚われてしまう。安心できる要素がない限り、不安は消えなかった。
「アヒョンお姉様は大后《お母様》に嫌われているし、関わってはいけないですよ」
「わかっているわ……アヒョンお姉様も気の毒だわ」
アヒョン公主。
産まれた時から色黒で醜女であった。どうも可愛いくない姫君だった。陰では烏姫とも呼ばれていた。
彼女を産んだのは一介の嬪である。
その嬪はさほど高い身分ではなかった。むしろ、庶室として嫁いで、お情けで嬪になった女である。今は宮嬪と呼ばれていた。嬪は子どもを産むと「宮」を冠して呼ばれるのが通例だ。それはアヒョン公主の母も変わらない。
さて、阿玄の玄は「黒い」を意味する。
アヒョン、アヒョン、っと聞く度に母子は苦い気持ちになるしかなかった。
ただ、アヒョン公主は誠実な性格で賢い女だった。美貌を得られなかった分、彼女は知恵を得たのである。
「アヒョン、また蔵書閣に出入りしていたの?」
母親の宮嬪が書物を携えたアヒョンに苦々しい口調で尋ねる。アヒョンは少し申し訳なさそうに俯いた。
「女が知識を得ても無駄です!まずは嫁ぐことを考えなくては!」
「申し訳ございません。ただ、お母様は孔子や孫子に興味はございませんの?」
宮嬪は深いため息をついた。宮嬪には孔子も孫子も分からなかったし、興味の対象でもなかった。むしろ、女は嫁いで夫に仕え、子を産むことが役目だと思い込んでいた。
「孔子だの、孫子だの……無意味よ。もう学ぶのはおやめなさい」
「……」
アヒョンは静かに部屋を後にした。
一人になったアヒョンは机で頬杖をついて思いに耽った。目を閉じる。
浮かぶのは貴公子。
(私の中の貴公子を書き留めておきたい)
アヒョンは紙を筆を取り出して「貴公子」を言葉にした。踏み込んだ言葉も書き加えた。
「誰も見ないし、私だけの貴公子……」
アヒョンはそっと文箱にしまった。
その頃、大后は髪を結い上げていた。首筋に残る愛の印。
大后はそれを人差し指でなぞる。
(ホンジョンは私の体も心も溶かす……心はもう、あの男にはないのだから)
鏡を見つめて額に女官が花鈿を描く。花鈿は化粧の一人である。額に模様を描くのだ。もう一人の女官は簪を挿そうと手を動かす。
そっと大后はそれを制した。瞳に力を宿る。
「この簪は好みではないわ。お前、新入りね?」
「申し訳ございません!」
女官は膝まづいて許しを乞う。大后は髪から簪を抜いて床に投げつけた。
「この女の教育係は?」
おずおずと背後で控えていた女官が前に出てきた。
「わ、わ、わたくしめでございます」
「この女を死ぬまで杖刑に」
同じく控えていた宦官が教育係を羽交い締めにして部屋の外に引きずり出した。
「お許しを!お許しを!」
その様子を見ていた新入りの女官は怯えてしまい、大后の女官になったことを激しく後悔した。
「新入りがなってないのは教育係の不手際。罰するのは当たり前」
きっぱりと大后は言い放った。女官たちは膝まづき、
「かしこまりました。粗相はいたしません」
っと一人ずつ言った。
「大后さま」
女官長の声が部屋の外から聞こえてくる。
「取次を」
手短に言うと女官の一人が扉を開けた。女官長は大后に一礼をすると袖口から文を取り出した。
「女官長、これは?」
「翡翠の文でございます。これが東のお妃さまのお部屋に……」
「その噂は聞き飽きた。あの女は密通したのよ。難産で棺桶入りになれば良かったのに!」
「落ち着いてくださいませ。大后さま、実はこの文の出処が分からないのです。東のお妃さまの女官や宦官を痛めつけても分からないの一点張りで……」
「では、誰が持ってきたと?」
「ソン公子さまではないでしょうか?」
(ソン……あの放蕩公子が?さすがに妃に手は出すまい)
「この件は追求しないわ」
だが、大后の胸にはつかえるものがあった。なぜだか、その文を書いた者と待っていた者は東のお妃でもウクでもないような気がしていた。ただ、これは彼女の勘の範囲でしかない。
「女官長、女官、宦官らの文を調べるのよ」
その頃、アヒョン公主は貴公子で物語を書き始めていた。




