職場改革いたします! 6
ささっと整理した書類を種類ごとに山にしておき、予備机に座る。そして別の書類を取り出した。これは、セルヴェ公爵邸で使われている経費を纏めたもの。
「予算とずいぶん差がありますね」
「ああ、それは本来公爵夫人の仕事なのだがな。今現在、そのような者はいないため、私のところに回ってきている」
前公爵夫妻、つまりアドルフ様のご両親は、三年前に亡くなられている。視察のために乗っていた馬車での事故だったらしい。
突然の両親の死。そして急遽公爵家を継ぐことになったアドルフ様の苦労は、想像に難しくない。
当時王宮に勤めていたアドルフ様は、すぐに辞職し、領地に戻って公爵として立つことになった。もちろん満足な引き継ぎなど行われないまま、とにかくがむしゃらに仕事をしてきたのだとオリバーさんが教えてくれた。
そりゃあ跡継ぎとして、幼い頃からそれなりに教育は受けてきただろうけれど。でも、なんの心の準備もなくっていうのは、なかなかに大変だったに違いない。
ご両親の死を悼む暇もなかった可能性だってある。
当時のアドルフ様は十九歳。前世でいうなら、大学生だ。つまり、波琉と同い年ってことよね。
年齢的には大人になろうとしている頃だけれど、まだまだ両親に頼りたい年頃ともいえる。急に色んな責任が肩にのしかかってきて、不安だっただろうな。
その上、本来は公爵の仕事ではないものまでこうして課せられている。
そういえば、公爵家の後継ぎだったのに、婚約者とかいなかったのだろうか?
書類とにらめっこして難しい顔をしているアドルフ様を、じっと見つめる。
うん、顔は文句なしにイケメンだ。仕事も丁寧だし、できる男なのは間違いない。身長だって高いし、スタイルもいい。その上、剣はかなりの腕前だと聞いている。
でもねぇ……繊細な女心がわかるかといわれると、無理かもって思ってしまう。女性の感情の機微に気付けるかと聞かれても、どうだろうね?って苦笑いしちゃうかも。
根は優しいのだろうが、それが上手く表に現れていない。
ひっそりと推す分にはいいが、婚約者となると上手く付き合える人は少数派かもしれないわね。
「……おい、なにか失礼なことを考えていないか? おまえの視線がなぜか非常に癇に障るのだが?」
「そんなまさか。とんでもありませんわ」
意図せず同情的な目で見てしまっていたのだろうか、アドルフ様に今度はぎろりと睨まれてしまった。
あぶないあぶない、ついぽろりと口に出してしまうところだったわ。
さあ仕事仕事!と、手元の書類に集中する。
ちなみにこの世界の数学は、前世ほど発展していない。
四則演算、つまり足し算引き算掛け算割り算は、きちんと教育を受けている貴族や、平民の中でもそれなりに裕福な者はだいたい理解しているし、日常に取り入れて生活している。
しかし、分数や小数点までいくと、理解できている者はごく僅か、学者やかなり賢い官吏ぐらいだろうか。グラフだの方程式だのなんて、問題外だ。
しかし意外と便利なのよねこれが。
「……またおまえは、わけのわからない計算式を書いているな」
「こうすると計算がとても速く済むんです。前にもお伝えしましたが、他の方には内緒にしてくださいね? 変に目立ちたくはないですけど、お世話になっているこのお屋敷では少しでもお役に立ちたいと思っているので」
背後から覗き込んできたアドルフ様は、私の言葉に深いため息をついた。こうして面倒だという素振りを見せながらも、なんだかんだ私の気持ちを汲んで放っておいてくれているので、とてもありがたい。
「そう言うのであれば、不用意にその類稀な知識や技術を、ホイホイ披露しないでおくんだな」
「もちろんです! クラリスがもう少し大きくなって、私とふたりでも安定して生活ができるくらいにお金が貯まれば自立するつもりですから、今はとにかく平穏に毎日を懸命に生きていくんだって決めています!」
そう答えると、なぜかアドルフ様は目を見開き、一瞬動きを止めた。
「……ここを、出て行くつもりでいるのか?」
「え? あ、はい。……シャル、いえ、シャルル王太子殿下からのご紹介とはいえ、いつまでも甘えるわけにはいきませんもの。姉妹ふたり、自立して、支え合って生きていけるようになるのが目標です! あっ、ですが、そんなにすぐには無理だと思いますので、三年とか五年とか、それくらいはお世話になってしまうかもしれませんが」
黙って聞いていたアドルフ様の眉間には、深い皺が刻まれている。あれ? 私、なにかおかしなことを言っただろうか?
「あの……なにか、問題がありましたか? ええと、やっぱりちょっと長すぎたでしょうか⁉ あの、でしたら、せめて一年間だけでも置いていただけると……」
「ああ、いや。そこに不満はないし、遠慮する必要もない。三年でも五年でもここにいてくれて問題ないから、そう不安にならなくていい」
慌てる私に、アドルフ様は呆れたようにそう言ってくれたのだが、本当に大丈夫なのかしら……?
「……そんな顔をするな。私はこんな時に社交辞令など言わない。安心しろ」
不安げに見上げる私の頭を、アドルフ様が軽くぽんと撫でた。そしてそれから、その撫でた手をどうしてよいものかと、悩むように空中でさまよわせた。
その後、アドルフ様は結局しんなりと腕組をし、ふいっと顔を逸らした。
「ふっ」
「おい、笑うな」
思わず洩れてしまった声が、アドルフ様にはしっかり聞こえていたようだ。
「す、すみません。そんな風にされたことがほとんどないので、こんな気持ちになるんだなぁって思って、つい」
前世でそれをするのは、私の役目だった。弟妹たちに褒めてほしいとせがまれた時、落ち込んでいるのを元気付ける時、数え切れないくらいやってきた。
でも、やってもらうことってほとんどなかった。幼い頃は両親にやってもらっていたんだろうけど、あんまり覚えてないや。
今世は……言うまでもないわね。
「この歳で撫でてもらうのって恥ずかしいですけど、嬉しいものですね。くすぐったい気持ちになります」
くすくすと笑えば、アドルフ様が目を見開いた。そしてなんと返せばよいのだろうかと少し悩んだ様子の後に、ゆっくりと口を開いた。
「――妹には、よくやってそうだな。おまえがそう思ったように、クラリスもおまえに撫でられると嬉しく思うのだろう。これからも、たくさん撫でてやれ」
おやまあ。そんなことを言ってもらえるなんて、思ってもみなかったので、ちょっとびっくりだ。
「ふふっ」
「……今度はなんだ。なんの笑いだそれは」
再び零れてしまった笑みに、アドルフ様は不本意そうに顔を顰めた。
「いえ。いつもそうやって、言葉で表せばいいのにと思いまして。アドルフ様のお気持ちが伝わって、とても温かい気持ちになりました」
そう素直に答えると、今度はアドルフ様が驚いた顔をした。
「あまりそういうのが得意ではないのだろうなとは思いますが。使用人の中にも、もう少しアドルフ様のお気持ちを聞けるといいのになと思っている方は、少なくありませんよ?」
ノノカの零した本音を、やんわりと伝えてみる。こんな風に気持ちが聞けると、普段〝冷徹公爵〟なんて呼んでいる人たちも、きっとアドルフ様を見る目が変わってくるだろう。
「言わなくてもわかってくださる方も、もちろんいらっしゃいますけどね。でも、そうでない方も多いですから。……すみません、出過ぎたことを申しましたね。ですが、アドルフ様が優しい方だってこと、みんなに伝わるといいなと思いましたので」
余計なお世話だったよねと反省し、ぺこりと頭を下げる。もし怒られてしまったら、言い訳せずに謝ろう。
そんなことを考えながらそっと頭を上げると、アドルフ様は怒ってなどいなくて、呆気にとられていた。口をあんぐりと開け、ぽかんとしている。
「あ、あの……? 大丈夫ですか?」
「あ、ああ。いや、なんでもない。とりあえず、おまえの忠告は受け取っておく。さあ、仕事に戻るぞ」
どこか早口にそう言うと、アドルフ様はさっさと自分の席へと戻ってしまった。その時、アドルフ様の耳が赤くなっているのに気付く。
「こういうのって、ツンデレっていうんだっけ? いや、クーデレ? まあ、どっちでもいいか」
表情こそ平常心だが、少しだけ顔も赤くなっている気がして、私は今度こそ見つからないようにこっそりと微笑んだのだった。




