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姫失格 〜恥の多い後宮生活を送って来ました〜  作者: 俊教授 オーバーシー大学
逃亡編
41/42

19世紀OL!ーー姫失格⑥

南への逃避行は続いていた。 生暖かく湿った風が木々を揺らす、緑深い道の只中、私たちは野営の準備をしていた。


 焚き火がパチパチと音を立て、私の特製「味噌だれ」の香ばしい匂いが漂う。しかし、私の心は曇天模様だった。 理由は明白。隣に座る「推し」こと景皇子の存在だ。


 逃亡劇という吊り橋効果も手伝って、彼への想いは募るばかり。だからこそ、私は「嫌われたくない」一心で、ここのところずっと「完璧な侍女(イエスマン)」に徹していた。


「杏花」


 景皇子が、焚き火の明かりに照らされた美しい横顔をこちらに向けた。


「少し食料に余裕ができたな。今夜は、干し肉を炙るか、それとも残りの手羽先を煮込むか……そなたは、どちらが食べたい?」


 来た。試練の質問だ。 私は即座に、営業スマイル全開で答えた。


「景皇子が召し上がりたい方で結構です! 景皇子が炙りをご所望なら、私が絶妙な焼き加減で仕上げますし、煮込みが良いなら、骨までしゃぶれるほど柔らかく煮込みます! 私の好みなど気にせず、さあ、景皇子のお好きな方を!」


 完璧だ。相手を立て、選択の負担を減らし、かつ奉仕の精神をアピールする。これぞ社畜OL・山田花子の処世術。 しかし、景皇子の反応は違った。彼は美しい眉を寄せ、不満げに私を見据えたのだ。


「……またか」「へ?」「そなたはいつもそうだ。『景皇子は?』『景様のお心のままに』と。まるで、私の顔色を映す鏡と話しているようだ」


 彼は焚き火に小枝を放り投げ、強い口調で言った。


「私はそなたの意思を聞いているのだ。もっと、自分を出したらどうだ!」


 その言葉は、雷のように私の脳天を直撃した。 自分を出せ。その言葉がトリガーとなり、私の脳裏に、封印していた「あの日の記憶」が鮮烈に蘇った。


(……そうだ。前にも、同じことがあった)


佐々木くん、君もか


 あれは日本でのこと。私が異世界に飛ばされる一週間前のことだ。 赤提灯が揺れるガード下の居酒屋で、悪友のミカと安酒を煽っていた夜。


「ねえ、花子ぉ」


 ミカは、茹で上がった枝豆のさやを指先で器用に押し出し、中の豆をぴゅっと口に飛ばしながら、少し恨めしそうな目つきで私を見た。


「この前の営業部の佐々木くんのことなんだけどさぁ。……あんた、またやったでしょ」「え? やったって、何を?」「とぼけないでよ。佐々木くん、すっごい優良物件だったじゃん! 顔はフツメンだけど清潔感あるし、遅刻しないし、ギャンブルしないし、実家は農家で米送ってくれるし!」


 ミカはテーブルをバンと叩いた。 佐々木くん。ミカの紹介で一度だけ食事に行った、営業部の同期だ。彼は絵に描いたような「いい人」だった。 だからこそ、私は私の持てる全力の「イイ女スキル」――すなわち、社畜生活で培った「接待スキル」をフル動員して、彼に接したはずだった。


「私、ちゃんとやったよ!? サラダも取り分けたし、彼のグラスが空く前に注文したし、『さしすせそ(さすが、知らなかった、すごい、センスいい、そうなんだ)』も完璧に使いこなしたよ!」「だから!! それがダメだって言ってんの!」


 ミカは呆れたように大きなため息をつき、信じられない事実を口にした。


「彼、裏で言ってたよ。『山田さんは確かに話聞いてくれるし、いい子なんだけど……なんか、俺と一緒にいると疲れるみたいだった』って」「は?」


 私の思考が停止した。疲れる? 私が? 機嫌を損ねないよう、細心の注意を払っていたのに。


「彼、こう言ってた。『なんか気を使ってるようなオーラがすごくてさ。一緒にいると、俺が上司で彼女が部下みたいな気分になるんだよね。接待されてるっていうか……なんか俺、山田さんを疲れさせちゃったかな』」


 ミカは私の目をじっと見据えた。


「『やっぱ俺じゃあだめだなぁーーー。身の丈に合わないっていうか。"ごめんね"って伝えといてくれる?』って。……あのさーー花子。確かに佐々木くんはまだ給料低いかもだけど、真面目な人だよ。そんなすぐ切っちゃわなくてもーーー」「ち、ちがう!!」


 私は悲鳴に近い声を上げた。


「切ってない! 私、切ってないよ! むしろ『次はいつ会えますか』ってLINEしようか迷ってたくらいなのに!」


 そう。私は彼を振ったのではない。私の過剰なまでの「低姿勢」と「奉仕」が、善良な彼の心を圧迫し、彼の方から「身を引かせ」てしまったのだ。


 思い出されるのは、あの日のデートの光景だ。 彼が「何食べたい?」と聞いてくれた時、私はどう答えたか。


「佐々木さんが食べたいものでいいですよ。私、なんでも好きなので! あ、でも佐々木さん、トマト苦手でしたよね? じゃあクリーム系にしましょうか」


 まるで、剛田社長の会食セッティングをする秘書のように。 彼がフォークを落とした時も、彼が「あ」と言うより早く店員を呼び止めていた。


 笑顔は完璧だったはずだ。だが、その笑顔は「恋人の笑顔」ではなく、「クレーム対応を完璧にこなす店員の笑顔」だったのだ。 ミカの言葉が、私の心臓に五寸釘のように突き刺さる。


「あんたさぁ、男に『隙』がないとダメとか言うけどさ。あんた自身が一番、隙がないんだよね。鉄壁すぎんのよ、防御が」「だって……嫌われたくないもん……」「それがダメなんだって。嫌われるのを怖がって、先に『完璧なイエスマン』になっちゃうから、相手はあんたの心が見えなくなるの。人間味がしないのよ」


 人間味がしない。その言葉は、私の胸を深く抉った。 私はいつからか、自分の感情を押し殺し、相手の求める「正解」だけを出力する機械になっていた。


 健全な人間関係において、私の過剰な奉仕は「献身」ではない。「重い」か、あるいは「不気味」なだけなのだ。 佐々木くんは感じ取ったのだろう。私が彼自身を見ているのではなく、「彼に嫌われないように振る舞う自分」を見ていることを。


 まともな男性との間に生じる「不協和音」。ダメな男性との間に生じる「悪魔的親和性(ベストマッチ)」。 私は、佐々木くんのような光属性の住人とは、生きる世界が違ってしまったのかもしれないと、あの夜、絶望的な孤独を感じていたのだ。


乙女よ、鶏皮を抱け


「……っ」


 焚き火の爆ぜる音で、私は現実に引き戻された。 目の前には、心配そうに私を覗き込む景皇子がいる。(……この人は、佐々木くんと同じだ)


 景皇子は、皇族でありながら奢り昂ることなく、私を一人の人間として対等に扱おうとしてくれている。いわば「超・光属性」の男性だ。 それなのに、私はまたやっている。「嫌われたくない」という恐怖から、彼を「上司(クライアント)」として扱い、心の壁を作っていた。


 このままでは、また繰り返す。彼もいつか言うだろう。『君と一緒にいると疲れる』と。そして、私を置いて去っていってしまう。


(嫌だ……! それだけは絶対に嫌!)


 ダメ男に貢ぐだけの人生はもうたくさんだ。おばあちゃん、私、変わるよ。「いい子」じゃなくて、「めんどくさい女」になったとしても、ちゃんと「私」を見てほしい! ――でも今なら直せる!!


 私は大きく深呼吸をした。心臓が早鐘を打つ。長年染み付いた「社畜の処世術」を脱ぎ捨てるのは、裸になるより怖い。でも、言わなきゃ。 私は、潤んだ瞳で景皇子を見つめ、震える唇を開いた。


「景皇子……。私、実は……」「なんだ? 言ってみろ」「……実は、干し肉は固くて顎が疲れるから嫌なんです!!」「……は?」


 景皇子が目を丸くした。一度口に出すと、堰を切ったように私の本音が溢れ出した。


「それに、煮込みもいいけど、本当は……本当は、カリッカリに焼いた鶏皮が食べたいんです! 身なんていらない! あの脂がジュワッとする皮の部分だけを、独り占めして食べたいんです!!」


 静寂。 焚き火の音だけが響く。後ろで控えていた沙龍が「と、鶏皮だけ……なんと偏った嗜好……」と引いている気配がする。姚明に至っては無表情のままフリーズしている。


 やってしまった。「なんでもいい」という従順な女から一転、「鶏皮だけよこせ」という偏食わがまま女へ。これは幻滅されたか? 「なんて浅ましい女だ」と捨てられるか?


 恐る恐る景皇子の顔を見る。彼はポカンと口を開けていたが――やがて、肩を震わせ、噴き出した。


「ふ、っ……くくく……!」「け、景皇子?」「ははははは! なんだそれは! 干し肉が嫌で、皮だけ食べたいだと? しかもあの脂っこい部分を?」


 彼は声を上げて笑った。あんなに楽しそうに笑う彼を、初めて見た。 ひとしきり笑った後、彼は涙を拭いながら、優しく私を見た。


「そうか。それがお前の望みか」「は、はい……。わがままですよね、すみません……」「謝るな。やっと……やっと『杏花』が見えた気がする」


 彼は焚き火のそばにあった手羽先を手に取ると、ナイフで器用に皮の部分だけを削ぎ落とし、串に刺して火にかざした。


「よし。ならば今夜は、杏花姫のために『特製・鶏皮のカリカリ焼き』を作ろう。身の方は私が責任を持って食べる。……これでいいか?」


 その言葉に、胸が熱くなった。否定されなかった。私の、くだらなくて小さな「わがまま」を、彼は笑って受け入れてくれた。


「……はい! ありがとうございます! あと、焼き加減は強めでお願いします!」「注文が多いな。承知した」


 景皇子はニヤリと笑い、串を回した。その横顔を見ながら、私は確信した。 もう「完璧な秘書」はいらない。これからは、わがままで、食い意地が張っていて、でも誰より彼を愛している「山田花子」として、彼と向き合っていこう。


「あ、沙龍! あんたも薬膳ばっか食べてないで、たまにはジャンキーなもの食べなさいよ! 肌荒れるわよ!」「なっ……! 余計なお世話です!」


 焚き火を囲む私たちの夜は、今までよりもずっと温かく、そして賑やかだった。南への旅路はまだ長い。でも、今の私なら、どんな場所でも「自分」を見失わずに生きていける気がした。


パンがなければ名古屋めしを食べればいいじゃない


 パチパチと湿った薪が爆ぜる音。南国特有のむっとするような夜気の中、景皇子が焼いてくれた鶏皮は、パリパリでジューシーで、涙が出るほど美味しかった。 その余韻に浸りながら、私は大きく息を吸い込んだ。さっき「鶏皮が好き」と告白できたことで、私の心のダムは決壊していた。今なら、もっと深い、誰にも言えなかった本音も言える気がする。


「……ねえ、みんな。ちょっと聞いてほしいことがあるの」


 私は膝を抱えたまま、頼りない焚き火の炎を見つめて切り出した。


「『自分を出すついでに』、私の昔の夢の話をしてもいい?」「夢、か?」


 景皇子が串を置き、優しくこちらを見る。沙龍と姚明も、黙って耳を傾けてくれた。


「私ね、実は昔……小さなレストランを開くのが夢だったの」「れすとらん……餐廳(サンテイ)のことか?」「餐廳(サンテイ)っていうのかはよくわからないけど……ごはん屋さん。小さくてもいい、温かいお店。そこで、私の故郷の『名古屋めし』をみんなに食べてもらって、『美味しい』って笑ってもらいたかったの。味噌カツとか、小倉トーストとか、そういうのを出すお店」


 私は、ぱちぱちと爆ぜる火を見つめながら、ぽつり、ぽつりと語り始めた。それは、誰にも話したことのなかった、心の奥底に沈殿した澱のような記憶だった。


「私、夢があったんです。昔のことですけど」「夢?」「はい。小学生の卒業文集にも書きました。『将来の夢は、定食屋さんの女将さんになることです』って」


 自分でも驚くほど、声は震えていなかった。隣にいる景皇子が、ただ静かに耳を傾けてくれている。その信頼が、私に言葉を続けさせた。


「近所に、小さな定食屋さんがあったんです。おじいさんとおばあさんが二人でやっているような、古びたお店で。私の両親は共働きでいつも忙しくて、私はよく一人で夕食を食べていました。でも、時々、そのお店に連れて行ってくれることがあって……。そこで食べた手羽先の味が、忘れられないんです」


 脳裏に、湯気の向こうで優しく笑う女将さんの顔が浮かぶ。 カウンターだけの小さな店。油の匂いと、出汁の香り。学校での出来事を楽しそうに聞いてくれる女将さんの温かさ。


「女将さんが作る料理は、どれも特別じゃなかった。でも、すごく温かくて、美味しくて……。食べると、寂しい気持ちがどこかへ飛んでいってしまうような、あったかな味がしました。だから、私もいつか、あんなふうに誰かを元気にする料理を作れる人になりたいって、そう思ったんです」


 懐かしい記憶を手繰り寄せ、私の口調は少しだけ熱を帯びた。 そう、あれが私の原点だった。誰かを笑顔にしたい。温かいもので、お腹も心も満たしてあげたい。その純粋な願いが、私の夢の核だった。


「でもね……お母さんに話したら、鼻で笑われました。『飲食店なんて、不安定で無理に決まってるでしょ。あなたはもっと堅実な道を行きなさい。公務員にでもなりなさい。ていうか、あんたが困っても出せるお金はないからね!』って」


 母の顔が脳裏に浮かぶ。世間体を何よりも重んじ、「安定」という言葉が口癖の人だった。母にとって、私のささやかな夢は、理解不能な戯言でしかなかったのだろう。


「お姉ちゃんには、もっと酷かったですね」


 私は乾いた笑いを漏らした。


「姉は、昔から綺麗で、いつも周りの中心にいるような人でした。私はいつも、そんな姉の引き立て役。姉の写真を撮る係だったんです。『あんたに料理なんて無理よ。リンゴの皮も剥けないくせに。あんたは私の写真を撮ってればいいのよ』って、よく言われました」


 リンゴの皮。その言葉が、苦い記憶の引き金を引いた。 ある日、母に言われてリンゴの皮を剥いていた時のことだ。不器用な私は、途中で手を滑らせて包丁で指を深く切ってしまった。 血を見て騒ぐ私に、隣で雑誌を読んでいた姉が吐き捨てた言葉。


『ほら、言わんこっちゃない。だからあんたには無理なのよ。何やってもどんくさいんだから』


 母は、「ああ、もう!」と苛立ったようにため息をつき、私の指に雑に絆創膏を巻いただけだった。誰も、私の痛みを気遣ってはくれなかった。ただ、「できない子」というレッテルが、また一枚、強く貼り付けられただけだった。


 家族からの「無理」という言葉の連打。それは呪いのように私を縛り付けた。 私は要領が悪い。私は不器用だ。私は誰かのサポート役でしか生きられない。そう思い込み、いつしか夢を語ることさえ恥ずかしくなって、心の奥底に封印してしまった。


「だから私、自分には何かを生み出すことなんて無理なんだって、ずっと思ってたんです。誰かの顔色を伺って、言われた通りの人生を生きるのがお似合いなんだって……。それが一番、波風を立てずに、誰にも嫌われずに済む方法だと思ってました」


 私は自分の掌を見つめた。泥と灰で汚れた手。 でも、この手は、廃墟でロケットストーブを作り、井戸水を濾過し、野良鶏を捕まえて捌き、レシピなしで故郷の味を再現した手だ。


「……でも、ここに来て、わかったの。私、やればできるじゃんって」


 顔を上げ、みんなを見渡す。


「土を捏ねてカマドも作れた。鶏も締められた。みんなが『美味しい』って言ってくれるご飯も作れた。……私、もう『無理』なんて言わない」


 胸の奥から、熱いものがこみ上げてくる。これは、ただの逃避行じゃない。私の人生のリベンジマッチだ。


「だからね、景皇子。私、思いついたんです」


 私は景皇子をまっすぐに見つめ、目を輝かせた。


「目的地である南の港町に着いたら……私たち4人で、レストランを開きませんか!?」


 一瞬の静寂。そして――


「ぶふっ!!」「ぐふっ……!!」


 盛大な噴き出し音が二つ重なった。沙龍と姚明だ。二人は肩を震わせ、必死に笑いをこらえようとしているが、無理だったようだ。


「さ、餐廳(サンテイ)ですって!?」


 沙龍はお腹を抱えている。


「あ、あり得ません……っ。高貴なる景皇子様が、厨房で鍋を振るうとでも!? しかも、この元・太監の私が皿洗いですか!? 傑作すぎます……!」


 姚明も、いつもの無表情が崩壊し、口元をヒクヒクさせている。二人の目には、完全に「世間知らずの姫様の戯言」と映ったらしい。


「うっ……や、やっぱり無理ですよね……。皇子様に接客なんてさせられないし……」


 私がシュンとして俯きかけた、その時だった。


「……ふっ。ははは!」


 景皇子が、声を上げて笑った。それは馬鹿にするような笑いではなく、愉快でたまらないといった響きだった。


「杏花。お前は本当に、私の予想の斜め上を行く女だな」


 彼は涙を拭いながら、焚き火の炎を見つめた。


餐廳(サンテイ)、か。……悪くない」「えっ?」「南の港は異国の船も多く立ち寄る場所だ。お前のその奇想天外な『名古屋めし』とやら、案外受けるかもしれん。それに……」


 彼は私を見て、ニヤリと悪戯っぽく笑った。


「宮廷での堅苦しい(まつりごと)には飽き飽きしていたところだ。市井に混じり、汗を流して働くのも、一興かもしれんぞ?」「け、景様!? 本気ですか!?」


 沙龍が目を丸くする。


「ああ。沙龍、お前は看板娘だ。その美貌で客を呼び込め。姚明、お前は計算が得意だろう? 帳簿を任せる」


 景皇子はテキパキと配役を決めていく。


「そして杏花。お前は料理長だ。思う存分、その『名古屋の味』とやらを振る舞ってみせろ」「……!!」


 料理長。その響きに、私の全身が震えた。 お母さんも、お姉ちゃんも否定した私の夢。それを、この国の皇子様が、たった一言で肯定してくれた。


「はいっ!! 私、世界一のお店にします! 行列のできる店にします!」「期待しているぞ。……ただし、私の給金は高いぞ?」「うっ……手羽先現物支給でなんとか……!」


 焚き火を囲む笑い声が、湿度の高い南の夜空に吸い込まれていく。 未来のことはわからない。追っ手も来るかもしれない。でも、今の私には、明確な「夢」ができた。 南の果ての街角に、小さなレストランを開くこと。看板メニューは、手羽先と味噌カツ。店員は、イケメン皇子と絶世の美女、そして元悪徳宦官。


「……絶対、流行るわ、これ」


 私は確信と共に、燃え上がる炎を見つめた。夜明けは、もうすぐそこまで来ていた。



 森の夜は、海の底のように深く、静かだった。パチパチと薪が爆ぜる音だけが、湿った闇に吸い込まれていく。


「……ムニャ。手羽先……もう一本……」


 杏花こと山田花子は、丸太にもたれかかり、幸せそうな寝言を漏らして眠りに落ちていた。その無防備な寝顔は、明日をも知れぬ逃亡者とはとても思えない。 そのすぐ隣で、景皇子も腕を組み、浅い眠りについている。時折、杏花の方へ体が傾くと、無意識に彼女の肩を支えるように位置を直していた。


 焚き火を挟んで反対側。そこには、二人の影が起きていた。沙龍(シャロン)と、姚明(ようめい)だ。 二人はしばらくの間、揺らめく炎をじっと見つめていた。普段は冷徹な仮面を被っている姚明の横顔が、炎の朱色に染まり、どこか儚げに見える。


「……姉上」


 沈黙を破ったのは、姚明だった。彼は視線を焚き火から動かさぬまま、ぽつりと呟いた。


「あの時のこと、ずっと覚えていますよ」


 沙龍の手が、薪をくべようとして止まった。彼女は困ったように眉を下げ、ふっと小さく息を吐いた。


「……よして、姚明。もう忘れてもいいのよ、あんなこと」「いいえ」


 姚明は首を横に振った。その瞳には、ガラス玉のような冷たさはなく、代わりに燃えるような執着と、切実な思慕が宿っていた。


「忘れません。忘れることなど、できるはずがない。……私が今、こうして人の形をして生きていられるのは、あの夜、貴女が私を見つけてくれたからです」「姚明……」「あの日、私は一度死にました。そして、貴女によって、二度目の命を与えられたのです」


 姚明は目を細めた。 揺らめく炎の向こうに、彼は遠い過去――あの、地獄のような日々の記憶を見ていた。



 姚明の生家は、貧しかった。貧しいという言葉では生ぬるいほど、絶望的な困窮の中にあった。 六人の子供がいたが、日々の食い扶持すらままならず、親たちは常に飢えていた。兄弟たちは皆、痩せこけて目がぎらつき、互いの食糧を奪い合うような環境だった。


 下から二番目だった姚明は、家族の中で最も立場が弱かった。力が弱く、畑仕事もできない。 口減らしの話が出るたびに、親の視線が自分に向けられるのを、幼い姚明は肌で感じていた。


 そして、運命の日が訪れた。五歳になった年。姚明は、父親に手を引かれ、紫禁城の裏門近くにある粗末な小屋へと連れて行かれた。そこは、宦官になるための手術を行う場所だった。


『すまんな。これでお前も、家族も助かる』


 父親はそう言い残し、銀貨数枚を受け取ると、一度も振り返らずに去っていった。 姚明は泣かなかった。泣いても無駄であることを、五歳の彼はすでに悟っていたからだ。 自分は売られたのだ。親にとって、自分は愛する子ではなく、銀貨と交換できる家畜だったのだ。


 手術は、麻酔などないに等しい、凄惨なものだった。激痛。魂が引き裂かれるような痛みの中、姚明は意識を失った。 だが、本当の地獄はそこからだった。


 術後の処置が悪かったのか、姚明の傷口は化膿し、高熱が出た。当時の医学では、傷口の感染症は「死」と同義だった。しかも、悪い気が他の去勢された子供たちに移ると考えられ、感染した子供は隔離されるのが常だった。


『こいつはもう駄目だ。始末しろ』


 無慈悲な声と共に、高熱でうなされる姚明は、小屋の外――汚物が流れる溝の近くの、粗末な(むしろ)の上に放り出された。 季節は晩秋。冷たい雨が降り始めていた。


(……ああ、死ぬんだ)


 熱で霞む視界の中、姚明は空を見上げた。身体は火のように熱いのに、芯まで凍えるほど寒い。傷口の痛みはすでに麻痺し、感覚が遠のいていく。 誰も助けてくれない。親に捨てられ、大人たちに見放され、こんな汚い場所で、ゴミのように死んでいく。世界中が、自分を拒絶している。 自分なんて、生まれてこなければよかったんだ。


 絶望が、死の恐怖よりも深く、彼の心を塗りつぶしていた。姚明は目を閉じた。このまま眠れば、もう苦しまなくて済む。 その時だった。


「……ねえ」


 雨音に混じって、小さな声が聞こえた。 幻聴かと思った。だが、声は続いた。


「死んじゃだめよ」


 温かい何かが、姚明の氷のように冷たい手に触れた。重い瞼をこじ開けると、そこに少女がいた。七歳くらいの、少しそばかすのある、意志の強そうな瞳をした少女。それが、沙龍だった。 彼女は、膿と泥と雨にまみれた姚明を、汚いものを見る目ではなく、ただ真っ直ぐな瞳で見つめていた。


「……あっち……いけ……うつる……ぞ……」


 姚明はかすれた声で拒絶した。誰もが自分を避けるのだ。この少女も、すぐに逃げ出すはずだ。 だが、沙龍は逃げなかった。それどころか、彼女は姚明の手を、両手でぎゅっと握りしめたのだ。


「うつらないわ。それに、私は逃げない」


 彼女の手の温もりが、冷え切った姚明の身体に流れ込んでくるようだった。


「元気になって。私はあなたが生きていてほしいから」「……なんで……?」「理由なんてないわ。ただ、あなたがここで一人で死ぬのが嫌なだけ」


 少女の理屈は単純で、そして強烈だった。親さえも見捨てた自分に、「生きていてほしい」と言った。世界でたった一人。この見知らぬ少女だけが、姚明という存在を肯定したのだ。


「待ってて。お母様を呼んでくるから」


 沙龍はそう言うと、走っていった。すぐに戻ってきた彼女の後ろには、一人の女性――景皇子の乳母がいた。


『まあ! なんて酷いことを!』


 乳母は姚明の惨状を見て息を呑み、すぐに彼を抱き上げた。それは、捨てられた子犬を拾うような、危険を顧みない行為だった。 彼女たちは姚明を自分たちの宿舎――本来なら入れてはならない場所――へこっそりと運び込んだ。


 温かいお湯で身体を拭き、清潔な布で傷を手当てし、薬湯を飲ませてくれた。 高熱による悪夢にうなされる三日間、姚明の記憶には、常に一つの感触があった。ずっと、誰かが手を握っていてくれた感触。


『大丈夫、大丈夫よ』『ここにいるからね』


 意識が戻った時、枕元には、疲れ果てて座ったまま眠る沙龍の姿があった。その手は、まだ姚明の手を握っていた。 姚明は、その時、涙を流した。手術の痛みでも、捨てられた絶望でも泣かなかった彼が、初めて「人の温かさ」に触れて泣いた。


 そして、心に誓ったのだ。(僕の命は、もう僕のものではない)(この命は、彼女のものだ)(何があっても、この人を守る。たとえ泥をすすっても、悪魔に魂を売っても、世界すべてを敵に回しても……僕だけは、彼女の味方であり続ける)


 それが、冷酷無比な宦官・姚明が誕生した瞬間であり、彼が唯一、人間らしい心を持つ理由でもあった。



「……あの時の手の温かさを、忘れることなどできません」


 姚明は、静かに語り終えた。炎が小さくなっている。彼の瞳は、熱っぽく潤んでいた。


「だから姉上。私は貴女がどこへ行こうと、地獄の底までお供しますよ。景皇子のため? いいえ。貴女が景皇子を守りたいと願うから、私もそれを守るだけです」


 沙龍は、焚き火の爆ぜる音を聞きながら、静かに目を伏せた。 彼女にとって、あの日の行動は、ただの「お節介」だったのかもしれない。目の前で死にかけている子供を放っておけなかった、ただそれだけの。 だが、そのお節介が、一人の少年の人生を決定づけ、強固な盾を作り上げたのだ。


「……馬鹿な子ね、姚明」


 沙龍は優しく微笑んだ。それは、昼間のヤンデレ全開の笑顔とは違う、慈愛に満ちた姉の顔だった。


「自分の人生を生きなさい。私のために生きるなんて、重たいわ」「ふふ。重たいくらいが丁度いいのです。私の愛は、あの姫の作るタレよりも粘着質ですから」「……台無しよ、その例え」


 沙龍は苦笑し、手元の枝で灰をいじった。


「でも……ありがとう。あなたがいてくれて、心強いわ」「勿体なきお言葉」


 姚明は嬉しそうに目を細めた。その表情は、後宮で恐れられた「能面の悪徳宦官」のそれではなかった。ただの、姉を慕う一人の弟の顔だった。


「さあ、そろそろ寝ましょう。明日はもっと南へ下るわよ。杏花姫様の『美味しい革命』を手伝わなきゃいけないんだから」「ええ。姉上こそ、私が見張りは務めます」


 姚明は立ち上がり、懐から一枚の毛布を取り出し体に巻いてそれを、眠っている沙龍の肩にそっと掛ける。


「おやすみなさい、姉上。良い夢を」


 夜は更けていく。森の闇は深いが、焚き火の周りだけは、確かな温もりに満ちていた。 血の繋がらない家族、身分を超えた主従、そして奇妙な友情で結ばれた逃亡者たち。彼らの絆は、どんな追っ手よりも強く、そして温かい。


 私たちは夜明けと共に野営地を立ち、さらに南へと足を進めた。 目指すは水と緑の都、江南。そこでお店を開くという野望を胸に、足取りは昨日よりもずっと軽かった。


 しかし、南へ下るにつれて、すれ違う人々の様子がどうもおかしい。 荷車に家財道具を積んで北へ逃げる難民の姿が増え、道端には焼け焦げた小屋の跡が目立つようになった。


「……妙だな。空気がきな臭い」


 景皇子が馬を引きながら、鋭い視線を前方に向けた。 姚明が道行く行商人に接触し、すぐに戻ってきた。その顔には、いつにない緊張感が走っていた。


ケーンジくーん、遊びましょー


(けい)様、姉上。杏花様……ヤバイです。状況、完全に変わっちゃってます」


 姚明(ヤオミン)が、今まで聞いたこともないような切羽詰まった声で戻ってきた。その顔色は、賞味期限を三日過ぎた牛乳を飲んでしまった時くらい青白い。


「思っていたより広範囲が反逆軍の手に落ちております。ここはすでに、(うち)の支配領域じゃありません。数年前からブイブイ言わせてる例の反乱軍……『太平天国(たいへいてんごく)』の占領区域に、ガッツリ入っちゃったみたいです」「太平天国……長髪賊(ちょうはつぞく)の土地にもう入っているだと!」


 景皇子が「チッ!」と、アイドルのような顔に似合わない舌打ちをした。


 えっ、何? タイヘイテンゴク? そういえばさっきいってたけど、私そもそもよくわかんないんだよね。 私の脳内検索には『パチンコ&スロット 太平天国』とか『激安居酒屋 天国』 みたいな看板しかヒットしないんだけど、そんなにヤバイの?


 私たちの当初のプランは、「いずれ」反逆軍の土地に潜り込んで身を隠すことだった。いわゆる「灯台下暗し作戦」だ。 でも、それはあくまで心の準備と変装が完璧にできてからの話。 なのに、今の私たちは、敵陣のど真ん中にノーガードで突っ込んでしまった状態らしい。早すぎる。心の準備どころか、変装の準備もできてない。


 景皇子と姚明はお互いの頭を見た。


「どうする、この辮髪(べんぱつ)は……」「そうですよね……どう見てもアウトですよね……」


(……あっ)


 二人の頭は、見事なまでの「辮髪(べんぱつ)」 だ。 そう、あのラーメンマンみたいなやつ。前髪から頭頂部までをツルツルに剃り上げ、後ろ髪だけを長く伸ばして三つ編みにする、清朝男子の義務教育的ヘアスタイル。 これ、満州族(今の支配者階級)の証なのだ。そして漢民族は満州族を憎んでいる。自分たちの国を奪った侵略者だと思っているからだ。


「太平天国は、漢民族のナショナリズムによって力を保っております。彼らは清への反抗の証として髪を伸ばす『長髪賊』です」


 一方で、ここを支配している「太平天国」の人たちは、清朝への反抗の証として、髪を切らずに伸ばし放題にしているから「長髪賊」と呼ばれているらしい。


「いけない……!」


 今度は隣の沙龍(シャロン)が「っ!」と息を呑み、慌てて自分の耳に手をやった。 彼女は耳についていたジャラジャラしたピアスを、プチプチッと手際よく、しかし焦りながら引き抜き始めた。


 彼女の耳には、片方につき三つのピアス穴が開いている。 これは「一耳三鉗(いちじさんかん)」といって、満州族の高貴な女性の伝統的なスタイルだ。漢民族の女性は、ピアス穴は一つだけ。 つまり、耳を見れば「私は満州族の女です」と自己紹介しているようなものなのだ。


 沙龍は素早く二つのピアスを外したが、長年つけていた穴はそう簡単に塞がらない。 松明の明かりで見ると、ポッカリと空いた穴が二つ、バッチリ残っている。


「うわぁ……穴が! 穴が主張してる!」


 私は心の中で悲鳴を上げた。 これじゃあ、不良生徒が先生の前だけピアス外して「開けてません」って言い張るのと同じレベルだ。バレる。絶対バレる。ファンデーションで埋めるとかしないと無理だ。 でもそんなコスメ、この時代にはない! 被り物で隠し通せるだろうか!? いや、風が吹いたら一発アウトだ!


 そんな絶体絶命のピンチだというのに。 歴史の偏差値がミジンコ以下の私は、一人だけ「はへ〜(°ρ°)」 としたマヌケな顔で突っ立っていた。


「あのぉ、そもそも『タイヘイテンゴク』って何? 新しいサウナの名前? それとも地下アイドル?」「はぁぁぁぁ! 『太平天国だろうがどこだろうが、お供します!』っていってたでしょ!」「あのときは、その、聞く機会を逸したというか、場の空気というかーーーー」


 私のあまりの低脳発言に、姚明が頭を抱えながら、それでも早口に解説してくれた。


「杏花姫様、いいですか! 彼らは『滅満興漢(めつまんこうかん)』……つまり『満州族の帝国である清をぶっ潰して、漢民族の国を復活させようぜ!』というスローガンを掲げる、巨大な反乱軍です!」「めつまん……メンチカツ?」「違います! 彼らは独自の宗教を信じていて、南京を占領して『天京(てんけい)』と名付け、勝手に新しい政府を作っちゃってるんですよ! 要するに、今の僕らにとっては『敵の城』 です!」


 独自の宗教。勝手な政府。カリスマ的な指導者。 姚明の必死な説明を聞いて、私のポンコツな脳みその中で、ようやく一つの点と点が線で繋がった。


「あー、なるほどね! 完全に理解したわ!」


 私はポンと手を打った。


「つまりあれでしょ? 『20世紀少年』における、あの『ともだち』 の組織の中に、なんも知らずに無防備で迷い込んじゃったってことね!?」「は? トモダチ……?」


 姚明がキョトンとしているが、私は止まらない。


「そうよ! 洗脳された信者たちがウヨウヨいて、教祖様に逆らうやつは即・絶交(処刑)される、あのヤバイ組織よ! そこに私たちが、ヒーローでも勇者でもないのに、一般人装備のまま『うっす、散歩に来ました〜レストラン作らせてね〜』って入っちゃったってことでしょ!?」


 そこまで言って、私は自分の言葉の意味を咀嚼し、顔面蒼白になった。


「――――って、やばいじゃん!!!」


 私は頭を抱えて絶叫した。


「ケーンジくーん、遊びましょー、とか言ってる場合じゃないじゃん! グータララースーダララーって歌ってる余裕もないじゃん! 秒で消されるやつじゃんこれ!!」「杏花姫様、何言ってるかさっぱり分かりませんが、その『秒で消される』という認識だけは合ってます!!」


 姚明が半泣きでツッコんだ。 まずい。非常にまずい。 『ともだち』ランドに迷い込んだ満州族(敵対勢力)。 それはもう、飛んで火に入る夏の虫どころか、溶鉱炉にダイブする雪だるまだ。


「ま、まずいですね……」


 私の顔から血の気が引いていく。 彼らは清の朝廷を、親の仇以上に憎んでいる。 もし我々の正体――「満州族の貴族(皇族含む)」だなんてバレたら、首をはねられるどころの騒ぎではない。 たぶん、市中引き回しの上、ミンチにされて小籠包の具にされるレベルだ。


「……殺気を感じます」


 沙龍が声を潜め、頭から簪を抜く。 その目つきは鋭いが、耳たぶにはうっすらと二つの空虚な穴が見えていた。その上に簪を抜いたあとの長く美しい髪が耳元を覆う。しかし、神をまくりあげられれば一巻の終わり。


景皇子は帽子を深くかぶり直したが、その後ろからは立派な三つ編みがチラ見えしている。


 終わった。 私たちは『ともだち』のマークが描かれた旗の下で、正体がバレバレの状態で震えるしかないのだ。


 私たちの服装は村人に変装しているが、景皇子の隠しきれない高貴なオーラは危険すぎる。「引き返すか? それとも迂回するか……」


 景皇子が思案していると、前方の街道にバリケードが見えてきた。


「止まれ! 何奴だ!」


 そこは太平天国の関所だった。頭に黄色い布を巻き、長髪のままの荒くれ男たちが、槍や刀を構えてこちらを睨みつけている。 引き返すには遅すぎた。


「怪しい奴らめ。清の密偵か? 荷物を改めさせてもらう!」


 門番たちがずかずかと歩み寄ってくる。姚明がとっさに愛想笑いを浮かべ、懐から銀貨の入った袋を出した。


「お役人様、滅相もございません。私たちはただの旅芸人の一座でして……」「黙れ! 我々『太平軍』は賄賂など受け取らん! ……ん? そこの男、身なりは粗末だが、妙に肌が綺麗だな。それにその顔つき……清の貴族ではないか?」


 門番の一人が、景皇子の顔を見て目を細めた。まずい。誤魔化しが効かない。 沙龍と姚明が、いつでも戦闘に入れるよう、スッと重心を落とした。ここを強行突破しても、反乱軍のド真ん中で逃げ切れるはずがない。


(どうしよう、どうしよう……!)


 冷や汗が背中を伝う。何か、ここを切り抜ける方法はないか? この人たちを納得させる「(あかし)」のようなものが……。


 私は無意識に、支給されたばかりの農民服の、やけに深くてごわついたポケットに手を突っ込んだ。 指先に、何やらゴワゴワとした、奇妙な弾力を持つ布の塊が触れた。


 この世界――清朝風の異世界に来てからというもの、私の触れるものといえば、硬い石畳か、ザラザラした麻布か、あるいは冷たい水ばかりだった。そんな中で、その感触だけは異質だった。人工的で、どこか懐かしい「化学繊維」の手触り。


「ん……? 何これ?」


 眉をひそめながら、私はその物体を外界へと引きずり出した。 薄暗い部屋に差し込むわずかな月明かりの下、その物体は、場違いなほど神々しく、そして安っぽく煌めいた。


 それは、手のひらサイズの、金色の布でできた不恰好なぬいぐるみだった。 猛々しく見開かれた目を持つ虎の頭。 それに続くのは、鱗に覆われた魚の胴体。 そして、天を衝くかのように反り返った、立派な尾ひれ。


『名古屋城限定・金のシャチホコストラップ(大)』


「あ……!」


 私は小さく声を漏らし、その場に立ち尽くした。 思い出した。 記憶の彼方から、アスファルトが溶けそうな夏の湿った熱気と共に、あの日の光景が鮮烈に蘇る。



 あれはここに来るほんの二ヶ月前。 会社の接待で、アメリカ人の大口クライアント、スミス氏を名古屋観光に連れて行った時のことだ。


 真夏の名古屋は、巨大なサウナだった。 照りつける太陽の下、私は汗だくになりながら、剛田社長とスミス氏の後ろをついて歩いていた。私の役目は、通訳兼タイムキーパー兼ご機嫌取り。胃の痛くなるようなプレッシャーがのしかかっていた。


 だが、剛田社長にはそんな私の気苦労など関係ない。彼は相手がアメリカ人だろうが何だろうが、己のスタイル――すなわち、コテコテの三河弁と名古屋弁のチャンポン――を貫き通していた。


「ええかミスター・スミス! 名古屋は日本のへそだでよ! 東京も大阪も目じゃにゃあ! これを見りん、この城の上のやつを!」


 社長が太い指で天守閣を指差す。そこには黄金に輝く二匹の獣。 スミス氏はサングラスをずらし、「Oh...?」と困惑の表情を浮かべた。当然だ。言葉が通じていない。


「出番や、花子(パーフェクト)。」


 私は焦った。えっと、シャチホコって英語でなんて言うの? 虎の頭で、体は魚で、火事除けの守り神……。 私の脳内辞書がパニックを起こす。


「Ah, Mister Smith! That is... er... Tiger head... and Fish body...」


 ダメだ、文法が出てこない。これじゃあ「虎の生首と魚の死体」みたいなニュアンスになってしまう! 私は震える手でポケットからスマホを取り出し、Google翻訳アプリを起動しようとした。現代のテクノロジーにすがるしかない。


「P, please wait a moment! Let me check...」


 しかし、私が画面をタップするより早く、一陣の風が私の横を駆け抜けた。 悪友・ミカだ。 彼女は英語など話せない。英検3級すら持っているか怪しい。 だが、彼女には言語の壁を粉砕する、謎の「コミュ力おばけ」としての才能があった。


「ワーオ! スミスさーん! ルック! あれあれ!」


 ミカはスミス氏の背中をバンと叩き(本来なら失礼極まりない行為だ)、天守閣を指差して満面の笑みで叫んだ。


「ゴールデン・フィッシュ! キラキラ〜! ソー・クール! ね!?」


 文法もへったくれもない。単語の羅列と、溢れんばかりのパッション。 しかし、奇跡が起きた。 スミス氏の顔が、パァッと輝いたのだ。


「Oh! Golden Fish! Yeah, So Cool! Sparkling!」「イエース! スパークリング! ガオーッて感じで、ビチビチーッて感じ!」


 ミカは身振り手振りで、虎の咆哮と魚の跳ねる様を表現した。


「HAHAHA! I see! It's a Monster Fish! Crazy!」


 二人はなぜか完全に意気投合し、ハイタッチを交わしている。 私はスマホを握りしめたまま、その光景を呆然と見守るしかなかった。私のGoogle翻訳も、TOEICの勉強も、ミカの「ウェーイ!」というノリの前では無力だったのだ。


 その後、売店に立ち寄った際、スミス氏はこのぬいぐるみを手に取り、子供のように目を輝かせた。


「Oh! クレイジー・フィッシュ! I love this Crazy Fish!」「イエーイ! クレイジー・フィッシュ!」


 盛り上がったスミス氏は、なんとその場で「クレイジー・フィッシュ」を三つ購入した。 そして、一つを自分の鞄につけ、残りの二つを私とミカに差し出したのだ。


「This is for you, Mika! My Soul Friend!」「サンキュー、スミスっち!」「And... Hanako-san. For you too. Souvenir!」「あ、Thank you very much...」


 私は複雑な心境で、その金色の魚を受け取った。通訳として機能しなかった私にも気を使ってくれたスミス氏の優しさが、逆に胸に刺さる。 それを見ていた剛田社長は、ニタニタと笑いながら私の背中を叩いた。


「がはは! よかったにゃあ花子! アメリカ様からの贈り物だわ。ええか、これを持ってりゃあ、おみゃあも信長公みたいに『天下布武』だわ。出世間違いなしだぞ!」


 天下布武。出世間違いなし。 その言葉を聞いた瞬間、私の顔は引きつった。 今の「パーフェクト・アドバイザー」という名の便利屋扱いだけでも、過労死ラインを反復横跳びしている状態なのだ。


 これ以上出世したら、一体どうなる? 「スーパー・ハイパー・デラックス・パーフェクト・アドバイザー」にでも任命され、24時間365日、社長の介護をさせられる未来しか見えない。(勘弁してください……) 私は愛想笑いを浮かべながら、心の中で乾いた悲鳴を上げたのだった。


(ま、名古屋城は織田信長じゃないから大丈夫だろ……)



「なぜこんなものが、私のポケットに?」


 私は金色の布塊を握りしめたまま、記憶の糸を手繰り寄せた。 先ほどのエモーショナルな回想――スミス氏との「クレイジー・フィッシュ」の思い出ではない。もっと直近の、物理的にこれがここにある理由だ。 脳裏に、あの傲慢で美しい顔がフラッシュバックする。


 あの時――私が後宮に連行され、持ち物検査を受けた時だ。 華妃様は私のスマホを取り上げると、そこについていたこのストラップを、汚い虫でも見るような目で見下ろした。


『何この安っぽい布切れ。ジャラジャラして邪魔ね! こんな貧乏くさいものを皇帝陛下の御前で見せるつもり?』


 ブチッ!! 彼女は長い爪で器用にストラップを引きちぎると、私に向かって放り投げたのだ。


『お前の薄汚いポケットにでもしまっておきなさい!』


 私はそれを拾い、悔しさと共に農民服のポケットの奥底にねじ込んだ。 以来、度重なる命の危機と逃走劇の中で、すっかりその存在を忘れていたのだ。


この金ピカが目に入らぬか


「おい、何をゴソゴソしている。武器か!」


 門番の鋭い怒号が飛び、冷たい槍の穂先が私の喉元数センチまで突きつけられた。 隣では景皇子が息を呑み、沙龍(シャロン)は手にこっそり忍ばせてもってきていた(かんざし)を握っている。最後はこれで刺し違えるつもりなのだろう。


 戦えば全滅。逃げ道はない。私の心臓は早鐘を打ち、膝は恐怖でガクガクと震えていた。 もう後がない。 私には、この乱世を生き抜く武術もなければ、高尚な歴史の知識もない。 この安っぽい金色のぬいぐるみ――かつて華妃様に「ゴミ」として投げ捨てられ、ポケットの奥で眠っていた『名古屋城限定・金のシャチホコストラップ(大)』だけが、手元にある唯一のアイテムだ。


(ダメだ……こんなもので何ができるっていうのよ……!)


 諦めかけた、その時だ。 私の脳裏に、あの暑苦しい真夏の名古屋の光景が、強烈な熱量を持ってフラッシュバックした。 汗だくの接待現場。 剛田社長は、相手がアメリカ人のスミス氏であろうとお構いなしに、その巨体を揺らして笑っていた。通訳の私が焦って言葉を探そうとするのを手で制し、彼は堂々と、コテコテの三河弁と名古屋弁の合成言語(キメラ)を高らかに放ったのだ。


『ええかミスター・スミス! わしが言いたいのはハートだわ! 言葉なんて飾りだがや! うめーもん食わしたるに!』


 あの時の社長の、圧倒的な「圧」。 言葉が通じるかどうかなんて関係ない。「俺がルールだ」と言わんばかりの、揺るぎない自信。 そう、社長は教えてくれていたのだ。ビビったら負けだ、と。相手が何人だろうが、どの時代だろうが、腹を据えて「ハート」でぶつかれば、道は開けるのだと!


(そうよ……ビビっちゃダメだ!)


 そして、もう一つ。私の背中を押す記憶がある。 あの時、私の拙い英語を軽々と飛び越え、スミス氏と「クレイジー・フィッシュ!」と叫び合ってハイタッチを交わしたミカの姿だ。 文法無視、単語の羅列、けれどパッションだけは誰にも負けないあの独自の言語体系――通称「ミカ英語(ミカリッシュ)」。 彼女は論理(ロジック)ではなく、野生(ワイルド)で会話していた。


(思い出せ……剛田社長の図太さを! ミカリッシュの突破力を!!)


 私は覚悟を決めた。 震える膝に力を込め、丹田に気を沈める。 今の私は、ただの怯える小娘ではない。剛田イズムとミカリッシュを継承した、最強の「ハッタリ・パフォーマー」だ!


 私は金色のシャチホコを高く掲げ、一歩前へ踏み出した。


「失礼な! 控えなさい!! 私たちを誰だとお思いか!」


 私は金色のシャチホコを高く掲げ、一歩前へ踏み出した。 心臓は口から飛び出しそうなほど早鐘を打っている。脳内には剛田社長の「ハートだわ!」という怒号と、ミカの「ウェーイ!」というハイテンションが鳴り響いているが、肝心の「時代劇の知識」が極度の緊張で吹き飛んでしまった。


 ビビったら負けだ。 私は腹に力を込め、なけなしの語彙力で、あの権威ある決め台詞を叫ぼうとした。 えっと、なんだっけ。水戸黄門のあれだ。紋所(もんどころ)だ。


「静まれ、静まれい!! こ、この……この『金ピカのやつ』が……いや!!」


 ダメだ、「紋所」という単語すら出てこない。小学生並みの言葉が出てしまった。 焦る。冷や汗が吹き出る。脳裏に浮かぶのは、ミカが使っていた頭の悪い言葉。そして何より社長の暴力的な三河尾張弁。


 ええい、ままよ! 勢いだ! ニュアンスで殴れ!


「失礼な! 控えなさい!! 私たちを誰だとお思いか!」


 私は金色のシャチホコを高く掲げ、一歩前へ踏み出した。 心臓は口から飛び出しそうなほど早鐘を打っている。脳内には剛田社長の「ハートだわ!」という怒号と、ミカの「ウェーイ!」というハイテンションが鳴り響いているが、肝心の「時代劇の知識」が極度の緊張で吹き飛んでしまった。


 ビビったら負けだ。 私は腹に力を込め、なけなしの語彙力と、こみ上げてくる「社長憑依」の勢いで叫んだ。


「静まれ、静まれい!! こ、この……この『黄金の魚虎(シャチホコ)』 が、目に入らーせんのか!! ええい、なんか……でら偉そうだわ! もっとこう、ぺこぺこせやあ! バイブスを下げやあ!!」


 言ってしまった。 「頭を下げろ」と言おうとして、なぜか「ぺこぺこしろ」となってしまった。 普段、社畜としてぺこぺこしてばかりで、人に頭を下げさせたことなんてないんだもーーーん! しかも「でら偉そう(すごく偉そう)」って、お前が言うなだ。 だが、止まれない。一度走り出したハッタリ列車は、止まれば脱線して死ぬだけだ!


「このお方をどなたと心得る! 恐れ多くも、ほら、あの、偉い人、そう将軍様の……その、ツレ……いや、ズッ友だがね! ここを通さんとか、デリカシーなさすぎだて!! 即刻、……その、ほら、クビだでよ! 控え……控えやあ、シャラーップ!!」


 めちゃくちゃだった。 時代劇の威厳など欠片もない。 「ズッ友」に「デリカシー」。語彙力ゼロの女子高生と、ルー大柴と、剛田社長が悪魔合体したような惨状だ。 意味なんて通じるはずがない。自分でも何を言っているのかサッパリ分からないのだから。


 しかし。 私は剛田社長憑依モードの「謎の自信」だけで、そのIQの低い言葉を、雷のような大音声で叩きつけた。


 シーン……。


 場が静まり返る。 門番たちは、槍を構えたまま凍りついていた。 終わった。流石に「シャラーップ(黙れ)」は意味不明すぎたか。こいつは頭がおかしいと思われて、串刺しにされる――。


 死を覚悟した、次の瞬間。 門番たちの顔に浮かんだのは、軽蔑ではなく、底知れぬ戦慄だった。


「こ、この言葉遣い……」「ああ、間違いない……」


 門番のリーダー格の男が、ガタガタと震えながら槍を捨て、地面に膝をついた。


「ははーっ!! も、申し訳ございませぬ! まさかご本人様の『下凡(おことば)』を直接賜ることになろうとは……!!」


 え? おことば?


 続いて、他の門番たちも次々と平伏し始めた。 地面に額を擦り付けながら、彼らは畏怖の念を込めて囁き合っている。


「聞いたか、あの常人には理解不能な言葉の羅列……!」「ああ。『バイブス』……『バイブル』……聞いたことがある。そうだ、我らの『聖經(せいけい)』は異国ではバイブルと呼ばれている!!!!」「言われてみれば……天の意思を受け取った時の、東王(とうおう)楊秀清(ようしゅうせい)様の話し方とそっくりだ……! 意味は分からぬが、心が震える!」


(――は?)


 私は心の中でツッコミを入れた。 まさか。 私の、テンパって飛び出した「語彙力不足のミカリッシュ」が、あろうことか「預言者のトランス状態」と完全に一致してしまったというのか!?


「こ、これは……『天王(てんのう)』様の側近にして、我が軍の最高幹部である『東王・楊秀清』様の龍の紋に……なんか似てる……かも!」


 リーダーが震える声で、私の掲げるシャチホコを見上げた。


「頭に歯があり、胴が長く、鱗に覆われている……間違いない! 龍の紋だ!!」


(……その特徴、ざっくりすぎません???)


 私は心の中で全力でツッコんだ。 頭に歯があって胴が長くて鱗があれば、ワニでもピラルクでも全部「龍」になっちゃうじゃないか! セキュリティ判定ガバガバかよ!


「そして何より、今のあの『シャラーップ』という響きは……“殺了吧(シャーラバ)”! すなわち『殺してしまえ!』 と言う意味でございます!!」


 勝手に高尚かつ物騒な翻訳をしてくれた。 「シャラーップ(黙れ)」が「殺了吧(殺せ)」になった。一気に世紀末な感じになってきた!


「ご無礼を! 命だけはお救いください!!」


 門番たちが一斉に地面に頭を打ち付けて慈悲を乞う。 私は内心の動揺(と笑いそうになる衝動)を必死に噛み殺し、さらに胸を張った。 剛田社長なら、ここで畳み掛けるはずだ。


「わ、わかればええんだわ! オーケーだて! ほうだて、わしらはその将軍様の秘密の……その、ミッションを帯びた偉い人だがね!」


 私はシャチホコをゆっくりと懐にしまいながら、精一杯の「上から目線」で言い放つ。


「このお方をどなたと心得る! 将軍様の、ズッ友であらせられるんだて! そのえりゃあ人に対して武器を向けるなんて、本来なら即刻アウト……いや、斬り捨てるところだがね……将軍様はハートがビッグだでよ。今回だけは許したるがね!」


「ははぁー! ありがたき幸せ! 慈悲深き将軍様に栄光あれ!!」


 彼らは完全に信じ込んでいる。 「ハートがビッグ」というアホみたいな言葉さえも、彼らには「広大無辺なる慈悲」と変換されているようだ。 意味の分からない言葉であればあるほど、それをありがたがる「権威への盲従」という心理が、語彙力のない私には最高の追い風となっていた。


「さあ、皆様、道をあけやあ! レッツ・ゴーで通さやあ!!」


 ギギギギ……と重々しい音を立てて、堅牢な関所の柵が、バーン! と左右に開かれた。 その先には、自由な荒野が広がっている。


「さ、さあ、行きましょうか、皆様」


 私は振り返り、景皇子たちに向かってバチコンとウインクしてみせた。 景皇子は、ポカンと口を開けたまま、「そなた……今の言葉は……?」と呟いている。 私のポケットの中で、クレイジー・フィッシュが「ウェーイ!」と笑っている気がした。 剛田社長、ミカ。あなたたちの教えと、私の「語彙力のなさ」が、なんやかんやで通用するなんて。 歴史の皮肉と、社畜時代の理不尽な経験に感謝しながら、私は堂々と関所を通り抜けた。


 通り過ぎる際、平伏していた門番の一人が感嘆の声を漏らすのが聞こえた。「見ろ……あの黄金の輝き。なんという輝き……」「ああ。さすがは東王様のセンスだ。俗人には理解できぬ、あのギラギラとした威光……」


(ごめん、これ名古屋駅のお土産屋さんで500円で買ったポリエステル製のやつ……)


 私は心の中で謝罪しつつ、足早にその場を後にした。


 関所を抜け、安全な距離まで離れたところで、私たちは一斉にその場に崩れ落ちた。


「……死ぬかと思った……」「杏花姫様……貴女という人は、どれだけ……」


 沙龍が呆れ果てた顔で私を見る。その目は、狂人を見る目と、英雄を見る目が半分ずつ混ざっていた。 姚明は、私の手にある金鯱ストラップをまじまじと見つめていた。


「この奇妙な魚が、我々を救うとは……。東王の紋章に似ているなど、一体どういう……」「違うわよ! これは私の故郷の名古屋の、シャチホコよ!」


 私は誇らしげに、少し綿が飛び出たぬいぐるみを撫でた。 ありがとう、名古屋城。ありがとう、信長公。 ……ってあれ? 名古屋城って誰のお城だっけ? 信長? 清正? 銅像あったよね? まーいーや。細かいことは気にしない。私たちは無事に、最も危険な反乱軍の検問を突破し、そのエリアに入ることができたのだから。


「……ふっ。はははは!」


 突然、静寂を破って景皇子が笑い出した。 今までの緊張が嘘のように、腹を抱えて大笑いしている。


「『この紋所が目に入らぬか』だと? 『ズッ友』だと? なんだその芝居がかった、わけの分からぬ台詞は! お前といると、本当に退屈しないな!」「も〜! 必死だったんですからね! 笑い事じゃありませんよ!」


 私は頬を膨らませたが、つられて吹き出してしまった。 笑い合う私たち。 南の風が吹き抜ける。ここから先は、清の支配が及ばぬ危険地帯だ。 スマホはない。Googleマップもない。歴史知識もない。 けれど、私にはこの「クレイジー・フィッシュ」と、頼もしい(そして辮髪とピアス穴が目立つ)仲間たちがいる。


「よし! この勢いで江南まで行って、シャチホコ印のレストランを開くわよ! 『天下布武』ならぬ『天下満腹』を目指すんだから!」「おー! よく分からぬが、乗ったぞ!」


 私の号令に、呆れつつも付き合ってくれる仲間たち。 こうして、名古屋のOL・山田花子の、「あわよくばレストラン開店、ついでにサバイバル」への道が、まさかの形で切り開かれたのだった。

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