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姫失格 〜恥の多い後宮生活を送って来ました〜  作者: 俊教授 オーバーシー大学
逃亡編
42/42

出猫のすゝめ ~手の上にスマホを持たず、手の袖にスマホをもつといいけり~

「現状、我々の外見的特徴は致命的だ」

 景皇子は、関所を越えた先の林の中で、深刻な表情で切り出した。

 確かにその通りだ。頭はツルツルの辮髪、耳には三つのピアス穴。これらはすべて、ここ太平天国の支配下では「私は敵です」とスピーカーで宣伝して歩くようなものだ。

「今のままだと、すぐに『しんの人間(満州族)』だということで捕まり、即刻処刑されてしまう。そこでだ。我々はこれより、漢民族にカモフラージュして行動する」

「カモフラージュ……つまり、コスプレして別人になりきるってことね!」

 私が頷くと、景皇子は懐から紙を取り出し、サラサラと筆を走らせた。

「ああ。まずは名前を変える。満州族特有の名前は捨て、漢民族風の新しい名前を名乗ることにしよう」

 景皇子の提案による、新しい配役キャストは以下の通りだ。

 まず、私、杏花こと山田花子は――

 『 善祥ぜんしょう』。

 続いて、景皇子は――

 『 承武しょうぶ』。

 そして、沙龍シャロンは――

 『ちん 素心そしん』。

 なんともそれっぽい、強そうで賢そうな名前だ。

 私は感心して頷いた。なるほど、これなら怪しまれないかもしれない。

 そして、最後に姚明ようみんの方を向く。

「で、姚明は?」

 景皇子は真顔で言った。

「『姚明ようみん』だ」

「変えんのかーーい!!」

 私は思わず、お笑い芸人のようなツッコミを入れてしまった。

「なんでよ! 一人だけそのまま!? 雑じゃない!?」

「いや、姚明という名は漢民族にもよくある名前だ。それにこやつは顔が薄いから、そのままでも村人に紛れ込めるだろう」

「顔が薄いって……」

 姚明が「否定できない……」と微妙な顔をしているが、まあいい。問題はそこじゃない。重要なのは設定だ。

「で、関係性はどうするの? 赤の他人ってわけにもいかないでしょ?」

 私が尋ねると、景皇子はポンと手を打った。

「うむ。そこでだ。私と沙龍……いや、『承武』と『素心』は夫婦ということにする。そして杏花、お前はその妹だ。兄夫婦に育てられた、少し頭の切れる妹、という設定で行く」

「ちなみに姚明は、使用人だ。今まで通りこき使って構わん」

「承知……」



姚明はそんなもんだよねという感じで役割を受け入れているけど……

 私は景皇子の言葉を脳内で反芻し、そして爆発した。

「ええっ!? ちょっと待ってくださいよ!!」

 私は景皇子に詰め寄った。

「なんで私と夫婦役じゃないんですか!!! そこは私でしょ!? 私と景様が、愛の逃避行をするラブラブ夫婦役であるべきでしょ!?」

 冗談じゃない。

 イケメン皇子との偽装夫婦生活。それこそが、この過酷なサバイバルにおける唯一の福利厚生ではないか。「あなた、あーんして♡」「人前だからやめろよ、こいつぅ」みたいなイベントを期待していたのに!

 しかし、景皇子は冷静に、私の抗議を一蹴した。

「馬鹿を言え。お前はさっき、関所で何をしたか忘れたのか?」

「え? シャチホコ出して、適当なことを叫びましたが……」

「そうだ。お前はあの門番たちの前で、あの訳の分からぬ言葉を操ってみせた。奴らは今やお前を幹部の使いだと思っている」

 景皇子は真剣な眼差しで続ける。

「いいか。お前はその特異な立場(言動のおかしさ)を活かして、幹部に取り入る必要があるかもしれん。もしも『従順な妻』という立場だと、夫に従うばかりで、あのような奔放な発言できなくなる。それではレストランなんて夢のまた夢だろ?」

「ううう……」

 ぐうの音も出ない。

 確かに、さっきの「バイブスを下げろ!」だの「シャラーップ!」だのといった狂気の発言は、良妻賢母の枠には到底収まらない。

 私の「イタい」行動のせいで、ヒロインの座が遠のくなんて……ヒロイン失格、自業自得すぎて泣けてくる。

「というわけで、妻役は素心(沙龍)だ。よいな」

 決定事項として告げられ、私は肩を落とした。

 ふと、横を見ると。

 そこには、沙龍――いや『素心』が立っていた。

 彼女はいつものクールな表情を保とうと必死に口元を引き締めている。

 しかし、その肩は小刻みに震え、頬は朱に染まり、目元は潤んでいた。

「……演技とはいえ……景様と……夫婦……!」

 蚊の鳴くような声で呟いているのが聞こえる。


「……景様、もしかして……その……」

 沙龍――いや、素心が、もじもじと景皇子の袖を掴んだ。

 彼女は普段は絶対に見せないような、顔を完熟トマトのように真っ赤に染め、恥ずかしさのあまり体をクネクネとよじらせている。その奇妙な動きは、恋する乙女というよりは、もはやイモムシそのものだ。

「景様のことを……老公ラオゴンとよんでいいと……ッ!!!!!!」

  消え入りそうな声で、しかし必死に懇願する彼女に対し、景皇子――いや、承武しょうぶは、さも当然といった涼しい顔で頷いた。

「当たり前だ。夫婦という設定なのだからな。私もお前を『老婆ラオポー』と呼ぶことにしよう」

 私は思った。

(……は? 『老婆ろうば』……?)

 私の脳内辞書が、けたたましい警告音を鳴らす。

 老婆。それは日本語において、腰の曲がったお婆さんを指す言葉だ。

 いくらなんでも、まだ十代のピチピチ(死語)の美女である沙龍に向かって「老婆」だなんて……。 「お前はもうお婆さんだ」ってこと? 景皇子、いくら顔が良くてもデリカシーなさすぎでしょ!


 「お前はもうババアだ」と面と向かって言っているようなものだ。

 うん、ひどい、ひどすぎるわ景皇子! いくら亡命中で気が立っているからって、乙女心を踏みにじるにも程がある!

「ちょっと景様、それはいくらなんでも……ちょっと沙龍! 怒っていいわよ、こんな暴言――」

 私が抗議しようとして、シャロンの方を向くと……。

 シャロンは顔を真っ赤にして、頭からプシューッと漫画みたいな湯気を出して、あまりの喜びにフリーズしていた。

(……へ?)

ちなみに後でわかったことだけど……

 日本語で「老婆」はお婆さんのことだが、中国語で「老婆ラオポー」は「奥さん」とか「ハニー」という意味の、超絶スイートな呼び方なのだ。

 つまり今、彼女は最愛の推しから「マイ・ハニー」と呼ばれ、脳内処理落ちして再起動中なのだ。

 私は、幸せの過剰摂取で石像のように固まったイモムシ沙龍と、何も気づかず涼しい顔の景皇子を交互に見やり、深く深いため息をついた。

(……幸せって、多すぎるものからだに良くないのね……)

 そしてふと、もう一人の男、姚明ヤオミンに視線を移すと――。

 彼もまた、別の意味で限界を迎えていた。

 彼は、蕩けきった顔で固まる姉・沙龍を凝視している。

(あ、姉上が……あんなに幸せそうな顔をして……よかった……本当に……)

 という「弟としての祝福」の涙を片目から流しつつ。

(でも……景様の「老婆ハニー」って……僕の大事な姉上が……取られた……!!)

 という「シスコンとしての絶望」の炎をもう片方の目に宿している。

「あ……うう……姉上……おめで……いや、だめだ……許せな……いや、でも……」

 相反する二つの感情が脳内で正面衝突事故を起こし、彼は引きつった笑顔のまま白目を剥いてガクガクと震えていた。

 こっちはこっちで、完全に脳がショートしていた。

フリーズした沙龍の口元が、ピクピクと痙攣している。

 そして、壊れたオルゴールのような、あるいは儀式のような、奇妙な節回しの歌が、無意識のうちに漏れ出し始めたのだ。

「……♪らおごん……らおごん……けいさま……♪ らおぽー……らおぽー……わたしぃ……♪ えへへ……夫婦……夫婦ぅ……♪ 墓場まで一緒……♪ らおごん……らおぽー……♪」

 怖っ!!

 無意識なのだろう。焦点の合わない目で虚空を見つめながら、彼女は熱に冒された時の小学生のような、それでいて最高にハッピーな「即興・老公の歌」を口ずさんでいた。

 普段のクールビューティーな沙龍はどこへ行った。そこにいるのは、推しとの結婚が決まって理性が蒸発した、ただの限界オタクだ。

「♪景様と……わたし……らおらお……ぽーぽー……えへへへへ……」

(……怖い! なんか怖いよ沙龍ちゃん! 脳みそ溶けてるよ!)

 私は背筋が凍る思いでその狂気じみた喜びの舞を見守った。

 幸せでフリーズし謎の歌を奏でる姉。。

 嫉妬と祝福の板挟みでバグる弟。

 何も気づかない天然タラシの皇子。

 そして、シャチホコを握りしめた私。

 ……前途多難すぎる。

 こうして、あまりにもカオスな偽装家族の逃避行が幕を開けたのだった。

「……作戦を話す。その前に、これを見ろ」

 景皇子が、重々しく懐に手を差し入れた。

 私は身構えた。短剣か? それとも皇族の証である玉璽か?

 しかし、彼が取り出したのは、薄暗い森の中で異質な青白い光を放つ、長方形の板だった。

「……えっ」

 私の目が点になる。

 その滑らかなフォルム。ひび割れ一つない液晶画面。そして背面にある、かじりかけの林檎のマーク。

「ス、スマホォォォッ!?」

 私は思わず叫んでいた。

 さらに、彼の手のひらには、見慣れた白い豆のような物体――ワイヤレスイヤホン『エアポッズ』が鎮座しているではないか。

「え! 嘘! 景皇子、まだ持ってたの!? なんで今までの逃避行で出してくれなかったのよ! Googleマップがあれば、あんなに道に迷うこともなかったのに!」

 私は彼に詰め寄った。これがあれば、文明の利器があれば、私のサバイバルはもっとイージーモードだったはずだ。

 しかし、景皇子は沈痛な面持ちで首を振った。

「馬鹿を言うな。画面右上を見ろ」

 言われて画面を覗き込む。

 そこには無慈悲な数字が表示されていた。

 『残量 50%』

能量バッテリーが、あと百分之五十(50パーセント)しか残っていないのだ」

「ご、50パーセント……」

「命綱である『安克移動電池アンカーモバイルバッテリー』は、あの混乱の中、華妃殿に渡してしまった。ここには充電するための電源など存在しない。つまり、これが尽きれば終わりなのだ。だから、ここぞという時まで温存していた」

 アンカー……! あの頼れる黒い塊は、今頃華妃様の元にあるのか。彼女のことだ、きっと「何この重い文鎮」と言って捨ててしまったかもしれない。

 私は絶望と希望の入り混じった目でスマホを見つめた。

 あと半分。たった半分。けれど、この異世界において、それは核兵器にも匹敵する情報端末だ。

(これがあれば……あのイモムシ娘に完全勝利できるのに……)

 私はチラリと横目で沙龍(素心)を見た。彼女はまだ幸せの余韻に浸ってフリーズしている。

 いや、今はそんなくだらないマウントを取っている場合ではない。

 景皇子は「作戦」と言った。この虎の子のバッテリーを使ってまで成し遂げようとする作戦とは一体?

「で、作戦って?」

 私が尋ねると、景皇子は真剣な眼差しで、衝撃の一言を放った。

「『出猫チュマオ』作戦だ!」

「……は? 猫?」

 心臓がドクンと跳ねた。

 猫。その単語は、私のトラウマスイッチをダイレクトに押した。

 幼い頃、母に愛されたいがために四つん這いになり、「にゃ〜ん」と鳴いたあの屈辱と安堵の記憶。

 まさか。

 まさか景皇子は、私にまたあの「道化」になれと言うのか?

 この乱世で、敵を欺くために、私は人間としての尊厳を捨てて「猫」になりきらなければならないの!?

「な、何!? 景皇子まで、うちのママみたいなことを言い出すの!? 何、私にまた猫になれと!? 四つん這いで『にゃーん』って媚びを売って、敵を油断させろってこと!?」」

 私が悲痛な声で叫ぶと、景皇子はキョトンとした顔をした。

「何を言っている? 『出猫』とは広東の方言で『試験のときに答えをずるしてみること』のことだ」

「……あ、カンニング?」

 紛らわしい! 中国語のスラングなんて知らないわよ!

 私は赤面しつつ、コホンと咳払いをして誤魔化した。

「そ、そうよね。カンニングよね……ってカンニングって何よ!!!!!」

 景皇子は私たちを手招きし、より近くに集まらせて声を潜めた。

「いいか。ここ太平天国では、『天朝田畝制度』に基づき、理想の平等を達成するために新しい科挙制度を作った。特筆すべきは、『男女平等』を旨とし、女性がこの科挙に参加できるようにした点だ。そうだな、姚明」

「左様です。こちらがそのお触れ書きです」

 姚明が懐から皺くちゃになった紙を取り出す。

 そこには確かに、女性も試験を受けられる旨が記されていた。歴史上、女性に科挙の門戸を開いたのはこの太平天国が初めてだという。

「杏花、いや『傅善祥』。お前はこの科挙に応募し、合格するのだ」

「はあ!?」

 私は素っ頓狂な声を上げた。

「無理無理無理! 絶対無理! 私、歴史の知識ゼロよ!? さっきだって『滅満興漢めつまんこうかん』のことを、空耳で『メンチカツ交換』だと思ってたくらいなのよ!? 科挙って、あの超難関試験でしょ? なんかロンゴとか一字一句暗記してなきゃいけないんでしょ?」

「そう、まともにやれば不可能だ。だからこそ対策をしてある! おい、シャロン!」

 景皇子は背後のイモムシ娘を呼んだ。

「……」

 反応がない。彼女はまだ顔を赤くして空を見上げている。

「おい、シャロン! 聞いているのか!」

「〜〜〜老公(あなた〜)〜〜〜あたしぃ〜〜シャロンじゃなくてぇ〜〜ほらほら〜〜♥️」

 うねうね。くねくね。

 彼女は軟体動物のような動きで、景皇子にすり寄ろうとしている。

 気持ち悪い。純粋に気持ち悪い。最強の女戦士の面影はどこにもない。

 景皇子は眉間を押さえ、深くため息をついた後、意を決したように甘い声を出した。

「……頼むよ、老婆ハニー……」

「は〜〜〜〜〜いっ♥️♥️♥️♥️♥️♥️」

 ビシッ!!

 効果は絶大だった。彼女は瞬時に背筋を伸ばし、キリッとした(しかし頬は緩みきった)表情で、包みを持ってきた。

「イモムシ娘! クネクネやめろ!! キャラ崩壊も甚だしい!」

 面倒くさい……ここだけは景皇子の景算けいさんミスだわ。この「新婚設定」、絶対に後で足を引っ張る気がする。

沙龍――いや、素心そしんは、とろけた顔を引き締めようと努力しつつ(無理だが)、一着の着物を差し出した。

「杏花姫様、いえ、善祥様。こちらをお召しください。試験会場でも怪しまれぬよう、庶民が着るような、しかし機能的に仕立てております」

 渡されたのは、地味な色合いの漢服だった。

 私はそれを羽織ってみた。

 すると、驚くべきことに、身体に吸い付くようにフィットするではないか。帯の締め付けも苦しくない。

「あら、着やすい……すごい……! これ、中学生の頃、弟が卒業式の時だけ着る『ゴムで調節するタイプのなんちゃってネクタイ』並みに着やすいわ!!」

 見た目は本格的なのに、構造は極めて簡易的。沙龍の裁縫スキル、恐るべし。

「善祥様、袖をご覧ください」

「え? 袖?」

素心(ラブモード解除中)に言われ、私は袖を裏返した。

 一見ただの袖だが、内側に巧みな隠しポケットが縫い付けられていた。

「こ、これは!」

「はい。そこに、先ほどの『スマホ』を仕込むことができます。外からは絶対に見えません」

 沙龍は淡々と、しかし誇らしげに説明する。

「ここにスマホを固定し、カメラのレンズだけが布の隙間から覗くように調整しました。そして、耳には髪に隠して『耳機エアポッズ』をおつけください」

 私はゴクリと唾を飲み込んだ。

 スパイ映画の小道具みたいだ。

 景皇子は私の肩を掴み、作戦の全貌を明かした。

「試験が始まったあと、お前は自然な動作で袖を動かし、答案用紙を盗撮するのだ。その画像は人工知能(AI)により解析させる。解析された解答は、音声読み上げ機能を使って、お前の耳に直接届く」

「それって……」

 私は震える声で言った。

「……ハイテク・カンニングじゃないですか!!!」

 この19世紀の中国で、21世紀のAI(チャットGPTとか)を使って科挙を解く。

 時空を超えた不正行為。バレたら即、打ち首獄門だ。

 景皇子は私の手をギュッと握りしめた。

 その手は熱く、力強い。

「そうだ。名付けて『出猫大作戦(カンニング大作戦)』だ」

 彼は私の瞳を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、私の姿と、残り50%のバッテリーへの希望が映っている。

「いいか、杏花。我々がこの太平天国の中枢に入り込み、生き延びる道はこれしかない。お前が『女状元(女性のトップ合格者)』となれば、幹部への道が開ける。そうなればレストランの一つや2つ営業し放題だ! すべてはそなたにかかっているのだ! 抜かりなく行え!」

 イケメンの顔が近い。

 手が温かい。

 そして何より、この「頼られている」という感覚。

 ああ、私の悪い癖だ。ダメ男ではないけれど、この皇子もまた、私に無茶な要求をしてくる「困った男」なのだ。

 でも、断れない。

 バッテリー残量50%のスマホと、私の社畜根性が、奇妙な化学反応を起こして「やる気」に火をつけてしまう。

 私は大きく息を吸い込み、覚悟を決めた。

「は、はい! わかりました!! やってやりますよ! 私の『土壇場力』と『AI』の最強タッグで、この科挙、満点で突破してみせます!!!」

 夜の森に、私の決意の叫びが響き渡った。

 懐の金鯱シャチホコも、心なしか「ウェーイ!」と応援してくれている気がした。

「……はぁ、はぁ。わかりました。やりますよ」

 私が鼻息荒く決意表明をすると、景皇子はふっと表情を緩め、どこか申し訳なさそうに、けれど真剣な眼差しで言った。

「すまないな、杏花。……実は、本当のことを言うとな」

 彼はちらりと、未だにクネクネしている素心シャロンの方を見た。

「当初の計画では、このカンニング作戦……シャロンにやらせるつもりだったのだ」

「えっ? シャロンに?」

「ああ。彼女は武芸だけでなく、頭の回転も速い。たぶんスマホなど使わなくとも合格点を取ることはできるだろう。」

 まあ、それはそうだろう。

 私みたいに「メンチカツ」とか言っちゃう奴より、クールな彼女の方が適任だ。

「だが……あの関所での一件で、考えが変わった」

 景皇子は私のポケット、つまり金色のシャチホコが入っているあたりを指差した。

「あの土壇場でのハッタリ。意味不明な言動で相手を煙に巻き、度胸と演技力。……あれは、シャロンには真似できん」

 褒められているのか、変人扱いされているのか微妙なラインだが、彼は続けた。

「太平天国は謎の宗教組織だ。ただ賢いだけではダメだ。お前のような『何をしでかすか分からない意外性』と『カリスマ(っぽい詐欺師的なオーラ)』こそが、内部に入り込むために必要なのだと判断した」

 なるほど。

 私の「イタい」過去と経験が、ここで評価されたわけだ。

 ……でも、ちょっと待って。

 私の脳内で、ある重大な疑問が浮かび上がった。

「あの、景皇子。質問いいですか」

「なんだ?」

「もしも……予定通りシャロンが試験を受けていたとしたら、その時の『配役』はどうなっていたんですか? シャロンが受験者になるとしたら……私は?」

 私が恐る恐る尋ねると、景皇子はキョトンとして、さも当たり前のように即答した。

「ん? ああ、その場合は当然、お前が私の『妻』役になる予定だったぞ」

 ――――時が、止まった。

「つま……?」

「ああ。シャロンが試験勉強に集中する間、私と夫婦として生活し、身の回りの世話をしてもらうつもりだった。お前なら気が利くし、料理もできるからな」

 ドガァァァァン!!

 私の脳天に雷が落ちた。

 嘘でしょ?

 もしも。

 もしも私が、あの時シャチホコを出さずに、大人しく震えていただけだったら?

 あるいは、もう少し普通に「通してください」と言っていたら?

 私は今頃、このイケメン皇子の「奥様ラオポー」として、腕を組んで歩いたり、あーん♡したり、新婚ごっこを楽しむ未来が待っていたというの!?

「う……うわああああああああん!!!」

 私はその場に崩れ落ち、大地を叩いて号泣した。



「私のバカバカバカ! なんであそこで張り切っちゃったのよぉぉ! 余計な才能発揮しちゃったぁぁぁ! シャチホコの呪いだわ! 仕事ができる女は婚期を逃すって本当だったのねぇぇぇ!!」

 目から滝のような涙が溢れ出る。これは悔し涙だ。一生分の後悔が詰まった、血の涙だ。

 そして、その横では。

「うっ……ううっ……ありがとう……!!」

 シャロンが、こちらもまた膝をつき、顔を覆って号泣していた。

 ただし、こっちは歓喜の涙だ。

「杏花殿が……杏花殿がシャチホコを出してくれたおかげで……私が妻に……! 棚からボタ餅……いや、棚から老公ラオゴン……!! うわぁぁぁん!! 嬉しいぃぃぃ!!」

 地獄絵図だった。

 チャンスを自ら粉砕して泣き叫ぶ私と、漁夫の利を得て泣き崩れるイモムシ娘。

 対照的すぎる二人の女の泣き声が、夜の森にこだまする。

 景皇子は「なぜ二人して泣くのだ? 情緒不安定なのか?」と困惑している。この男、本当に女心が分かっていない。

 そんなカオスな状況を、冷静に(というか呆れ顔で)見ていた姚明が、スッと手を挙げた。

「あのー……盛り上がっているところ恐縮ですが」

 彼は懐から一枚の書類を取り出した。

「お二人が泣いている間に、僕の方ですでに願書は提出しておきました。偽造身分証もバッチリです」

「は?」

「えっ、早っ!」

 私とシャロンが顔を上げると、姚明は無慈悲に告げた。

「試験は、3日後です」

「み、3日後ぉおおお!?」

  私の涙は一瞬で引っ込んだ。

 感傷に浸っている場合じゃなかった。

 あと72時間で、私はこの時代の常識と、最新のAI操作と、カンニング技術をマスターし、さらに「神の使い」としてのキャラ作りまで完成させなければならないのだ。

「……死ぬ気でやります」

 私はガクリと項垂れた。

 失った「妻の座」はもう戻らない。ならばせめて、この試験に受かって「スーパーキャリアウーマン・傅善祥」として、歴史に名を(そして景皇子の心に爪痕を)残してやるしかない。

その瞬間から、地獄の特訓が始まった。

 期間はたったの3日間。

 この短期間で、私は「漢民族の娘・傅善祥」としての所作、最新機器を使った「スパイ技術」、そして面接官を煙に巻く「構文」の全てをマスターしなければならないのだ。

「遅い! 袖口からレンズを出す動きが不自然だ!」

 バシッ!

 景皇子(承武)の持った木の枝が、私の二の腕を叩く。

「痛っ!」

「試験官は常に目を光らせているのだぞ。あくびをするフリをして、左手で口元を隠し、その隙に右袖のカメラを答案に向ける……この一連の動作を、呼吸をするように行え!」

「は、はい!」

 私は涙目で着物の袖をまくり上げる。

 袖の中に仕込んだスマホの位置を調整し、カメラアプリを起動。

 不自然にならないように、かつ画角はバッチリと答案用紙を捉える。

 

「次! 聴解訓練だ!」

 私は耳にエアポッズをねじ込む。

 景皇子が読み上げる難解な古典の文章を、スマホのマイクが拾い、AIが要約して読み上げる。その機械音声を、表情に出さずに聞き取り、筆で書き写すのだ。

『……回答。天朝田畝制度の本質は、土地の均等分配にあり……』

「えっと、土地の……均等……」

「顔に出ているぞ! 『ふむふむ』と頷くな! 眉間に皺を寄せて、自らの頭脳でひねり出している演技をしろ!」

 スパルタだ。

 ビリーズブートキャンプも裸足で逃げ出すほどの厳しさだ。

 昼は盗撮と書き取りの反復練習。

 夜は、二次試験である「面接」のシミュレーションだ。

「では次、面接練習を行う。私が試験官役だ。……そこの者、なぜこの科挙を受けた?」

 焚き火の前で、景皇子が威圧的な試験官になりきる。

 私はフラフラになりながらも、背筋を伸ばし、スイッチを入れる。

「はっ……それは、私の使命であるからでございます……。バイブスが高まり、アジェンダがフィックスした瞬間、私はここに来る運命を感じたのでございます……」

「……うむ。意味は分からんが、迫力だけはある。その調子だ。ただし、目が泳いでいるぞ。もっと相手を射殺すような目で見ろ」

「はひぃ……」

 ◇

 3日目の深夜。

 私は疲労のあまり、森の湿った土の上に大の字になっていた。

 指は筆の持ちすぎで痙攣し、耳はAIの合成音声の幻聴が聞こえ、目はスマホのブルーライトでショボショボだ。

「……死ぬ……」

 泥のように重い体を横たえていると、ふと、強烈な既視感デジャヴが襲ってきた。

 この感覚。この、胃の腑がねじ切れるようなプレッシャーと、終わりの見えない作業。

 覚えがある。ありすぎる。

 ――あれは、入社3年目の冬だった。

『ええか花子! 急な話だが、今度の新商品のプレゼン、おみゃあに任せるでよ!』

 剛田社長は、金曜日の夕方、帰ろうとしていた私を呼び止めてニカッと笑った。

『えっ、新商品って……まだ企画段階の……』

『おうよ! クライアントへの発表会は月曜の朝イチだ! つまり、あと3日ある! おみゃあならできるだら? 期待しとるぞ!』

 3日。

 通常ならチームで一ヶ月かける仕事を、たった一人で。

 しかし、本当の地獄はそこじゃなかった。

 その直後、詳細を確認するために技術開発部へ走った私は、チーフエンジニアの言葉に絶句することになる。

『は? 試作品? まだ影も形もねえよ。設計図がやっと引けたとこだ』

『はあぁぁ!? だ、だって月曜に発表会ですよ!?』

『知らねえよ! 社長が勝手に決めたんだろ! 間に合うわけねえだろ!』

 そこで私は知ってしまったのだ。

 私が任されたのは、ただの資料作成ではない。

 「3日で商品をゼロから完成させ、同時にそのプレゼン資料も完璧に仕上げる」という、悪夢のようなデスマーチ・プロジェクトの総責任者(生贄)にされたのだと。

 あの3日間は、記憶が飛び飛びだ。

 私は会社に泊まり込み、コンビニで買い込んだ「カロリーメイト(フルーツ味)」とエナジードリンクだけを燃料に戦った。

 右手でパワーポイントのキーボードを叩きながら、左手にはコンビニの唐揚げやおにぎりを持ち、死んだ魚のような目をした技術屋たちの口にねじ込んで回った。

『食べてください! 糖分をとって脳を動かすんです!』

『もう無理だ……家に帰してくれ……』

『ダメです! ここが家です! あと30時間で奇跡を起こすんです! 社長が「おみゃあならできる」って言ってましたよ!(嘘だけど)』

 私は励まし、脅し、おだて、差し入れを配り歩き、技術屋たちの尻を叩き続けた。

 自分自身のプレゼン資料を作りながら、彼らの進捗管理も行う。

 2日目の夜には、モニターの中から剛田社長が「もっと輝け!」と応援してくる幻覚まで見た。

 そして、運命の月曜の朝。

 クライアントが会議室に入り、社長が挨拶を始めたその時。

 私のスマホがブブッと震えた。

 プレゼン開始、3分前。

『できた。今、会議室に持っていく』

 技術屋からの、魂の通知だった。

 ボロボロになりながらも、滑り込みセーフで完成した試作品と、完璧な資料。

 それを涼しい顔で受け取り、何食わぬ顔でプレゼンを成功させた私に、社長は一言だけこう言ったのだ。

『ん、悪くないがや。まあ、当然だわな。わしが選んだんだから』

 ……あの時の、疲労感と、達成感と、そして「こいついつか刺してやる」という殺意がないまぜになった感覚。

 それが今、この異国の森で完全に再現されている。

 私は薄目を開けて、少し離れたところで姚明と地図を確認している景皇子を見つめた。

 月明かりに照らされたその横顔は、彫刻のように美しく、神々しいほどだ。

 元・皇子という高貴な身分。圧倒的なカリスマ性。

 でも。

(……やってること、剛田社長と一緒じゃない?)

 私はハッとした。

 「3日で仕上げろ」という無茶な期限設定。

 こちらの都合も能力も無視した、無理難題の押し付け。

 そして「お前ならできる(期待している)」という甘い言葉での囲い込み。

 景皇子は、顔こそ国宝級のイケメンだけれど。

 その中身は、あの理不尽でワンマンな剛田社長と同じ……いや、顔が良い分、見惚れてしまって逃げ場がないだけタチが悪い、「ハイパー・イケメン・パワハラ上司」なんじゃないの!?

「……詐欺だわ」

 私は虚空に向かって呟いた。

 口の中に残る、エア・カロリーメイトのパサパサした食感を思い出しながら。

 どうやら私は、異国に来てまで、社畜の星の下からは逃れられない運命にあるらしい。

「おい、善祥! 休憩は終わりだ! 最後にもう一度、模擬面接を行うぞ! まだ目が死んでいる、もっと『輝き』を出せ!」

 鬼教官の美しい声が響く。

 剛田社長の「もっと輝け!」という幻聴と重なる。

 私は「はいはい、ただいま!」と、染み付いた社畜根性で反射的に飛び起きた。

 体は悲鳴を上げていても、「はい」と言ってしまう。

 これが、プレゼン3分前の奇跡を演出してしまった女の、悲しきさがなのだった。

いよいよ、決戦の朝が来た。

 試験会場となる「女館じょかん」の大広間は、異様な熱気に包まれていた。

 数百人の女性受験者たちが、長机に向かって正座し、一斉に筆を研いでいる。空気には墨の匂いと、獣のような殺気が充満していた。

 みんな、目が血走っている。

 それもそうだ。ここで合格すれば、農民や使用人の身分から一発逆転、政府の役人になれるのだ。「女状元(女性トップ合格者)」の称号は、シンデレラのガラスの靴以上の輝きを放っている。

(……うっぷ。吐きそう)

 私は指定された席――運良く、監視役の死角になりやすい柱の影――に着くと、震える手で筆を置いた。

 着物の袖口には、最新鋭のスマートフォン。

 耳には、長い髪で隠したエアポッズ。

 私の心臓は、EDMのバスドラムのようにドコドコと鳴り響いている。

「これより、科挙を開始する! 天父(神)のご加護があらんことを!」

 銅鑼ドラがジャーン! と鳴り響いた。

 周囲から一斉に、サッサッという衣擦れの音と、カリカリという筆記音が響き出す。

 私は深呼吸を一つ。

 さあ、ショータイムだ。

 私は問題用紙を広げた。

 第一問。

『問一:妖魔(清朝)を滅ぼすために定めた「天朝田畝でんぽ制度」における、土地分配の原則を詳述せよ』

(……はい、意味不明!)

 漢字の羅列がゲシュタルト崩壊を起こしている。私の脳みそは開始3秒で白旗を上げた。

 だが、今の私には「知の巨人(AI)」がついている。

 私はわざとらしく、「ゴホッ、ゴホッ!」と咳き込んだ。

 左手で口元を覆い、その陰で右手の袖口を少し捲る。

 スマホのカメラレンズが、獲物を狙うスナイパーのように問題文を捉えた。

(パシャッ)

 無音カメラアプリ、起動。

 画像認識、解析開始。

 数秒のラグの後、耳元のエアポッズから、合成音声の女神が囁いた。

『……回答ヲ生成シマス。土地ハ全テ天父ノモノデアリ、耕作者ノ数ニ応ジて平等ニ分配サレル……』

 キタアァァァァ!!

 文明の利器、万歳! スティーブ・ジョブズ、ありがとう!

あ、でもこのAIってGoogleか、てことは、あれ、Googleの人って誰? ジェフ・ベゾス? 孫正義? まーいっか

 私は締め切り直前の漫画家のように、猛烈な勢いで筆を走らせた。

 意味なんて分かっていない。ただ、耳から聞こえる音声を右手に流すだけの変換装置になるのだ。

『問二:我らの教義における、偶像崇拝の禁止について論ぜよ』

(パシャッ)

『……回答。金銀泥木ノ像ハ悪魔ノ所業デアリ……』

 はいはい、悪魔ね、書きます書きます!

 私の筆は止まらない。周囲の受験者たちが「うーん」と筆を噛んでいる横で、私だけが神懸かった速度で解答用紙を埋めていく。

 監視官が怪訝な顔で近づいてきたが、私は眉間にシワを寄せ、天を仰いでブツブツと呟く演技(ただAIの音声を聞き取っているだけ)をしてやり過ごした。

 そして。

 いよいよ、最後の難関。小論文だ。

『最終問:太平天国が目指す「男女平等」と「女性の社会進出」について、汝の考えを述べよ』

(……おおっ)

 私は少し感心した。

 19世紀の中国で、こんなフェミニズム全開のテーマが出るとは。さすが革命軍。

 私はいつものようにカメラを向け、AIに問いかけた。

(プロンプト:太平天国の教義に基づき、女性の権利向上について、感動的かつ模範的な回答を作成して)

 すぐに、AI様から流暢な回答が返ってきた。

『……天ノ御元デハ、男モ女モ皆兄弟姉妹デアル。女ハ家ノ奴隷デハナク、共ニ戦イ、共ニ国ヲ治メル力ヲ持ツ。因習ヲ打破シ、女性ガ官僚トシテ輝クコトコソガ、太平天国ヲ実現スル道デアル……』

 完璧だ。

 非の打ち所がない、教科書通りの優等生な回答。

 これを書けば、間違いなく合格点はもらえるだろう。

 私は筆を墨に浸し、回答欄に向かった。

 「天の御元では……」

 しかし。

 最初の一行を書いたところで、私の筆がピタリと止まった。

(……輝く、か)

 脳裏に、あの男の顔が浮かんだ。

 剛田社長だ。

『ええか花子、おみゃあは今日から「パーフェクト・アドバイザー」だ! 女が輝く社会だでよ、期待しとるぞ!』

 彼はそう言って、私に立派な肩書きを与えた。

 会社のパンフレットには「女性活躍推進企業」なんてスローガンを掲げ、私の写真を載せてアピールしていた。

 世間から見れば、私は「社会進出した、輝ける女性キャリアウーマン」だったかもしれない。

 でも、実態はどうだった?

 お茶汲み、コピー取り、社長の八つ当たりへの謝罪、クレーム処理、休日返上の接待。

 「パーフェクト・アドバイザー」という名の、「高機能サンドバッグ」。

 給料は上がらず、責任だけが増え、心はすり減っていく日々。

 AIが読み上げる「女性が官僚として輝く」という言葉が、剛田社長の「期待しとるぞ」という言葉と重なって、胸焼けがした。

(……違う)

 私はスマホの画面を伏せた。

 耳元のエアポッズが『続キヲ読ミ上ゲマスカ?』と問いかけてくるが、無視した。

 太平天国がやろうとしていることも、結局は同じなんじゃないの?

 「女性も兵士になれる」「女性も官僚になれる」。

 それは、「女性も男性と同じように、お国のために死ぬまで働け」と言っているのと同じじゃないの?

 

 立派な肩書きや、制度上の平等なんて、ただの飾りだ。

 そんなものがいくらあっても、そこに「心」がなければ、地獄の種類が変わるだけだ。

 私の手の中で、筆が怒りで震えた。

 社畜・山田花子としての、積年の怨念が指先に宿る。

(AIさん、悪いけど、ここはアドリブでいかせてもらうわ!)

 私はAIの模範解答を途中でぶった切り、墨をたっぷりとつけた筆を、解答用紙に叩きつけた。

 ――『しかし!』

 私は書き殴った。美文字ではない。心の文字だ。

『いかに制度を整えようと、いかに美辞麗句を並べようと、それだけでは真の平等とは言えぬ!』

 そうだ。私が本当に欲しかったのは、肩書きじゃない。

 「女性活躍」なんていう、お題目じゃない。

『男が女を利用するための方便として「平等」を掲げるならば、それは形を変えた新たな隷属に過ぎぬ!

 剛田……いや、権力者が、下々の者を軽視するではなく、一人の「人間」として見る目を持たぬ限り、天国など来ない!』

 筆が走る。止まらない。

 周囲の受験者が「えっ、あいつすごい勢いで書いてるけど、なんか筆圧すごくない?」「鬼気迫ってない?」と引いている気配がするが、構わない。

『力には力の、心には心の役割がある。

 重要なのは、男が女を従えることでも、女が男に取って代わることでもない。

 互いが互いの「違い」を認め合い、足りないところを補い合うこと。男が女を、女が男を、あるいは上が下を、互いに敬い、その痛みを知ることである!

 そう、必要なのは「進出」ではない! 「尊重リスペクト」である!!

 互いへの尊重なき平等など、画餅に等しい!」

ここで私は考えた。結局こんなこと、100年後の現代でもできていない。そもそも人間にはできないのではないか。

「これは人間にはできないかもしれない。いつの時代にも強き者と弱きものが生じる。仮に女性の地位が上がっても次には頂き女子に搾取される叔父が出現する。人間には平等は不可能だ。でも一人ひとりが隣の人を愛し、慈しみ、経緯を示すことによって、私たちは自分の分を果たすことができるのではないか。」

 以上!』

 バァァァン!!

 私は最後の句点を、紙が破れんばかりの勢いで打ち込んだ。

 ハァ、ハァ、ハァ……。

 息が切れている。

 やってしまった。

 教義を問う試験で、教祖の理想に「リスペクトが足りねぇよ」と説教をぶちかましてしまった。

(あ、落ちたなこれ)

 冷静になると、血の気が引いてきた。

 AIの模範解答を書いておけば合格確実だったのに。

 私の「社畜魂」が暴走して、答案用紙を「社長への抗議文」に変えてしまった。

 しかし。

 不思議と後悔はなかった。

 胸の中にあるのは、長年の便秘が解消したかのような、突き抜けるような爽快感。

 私は筆を置き、燃え尽きた明日のジョーのように天井を見上げた。

 答案用紙には、墨痕鮮やかに「尊重リスペクト」の二文字が、黒々と輝いていた。

ゴォォォォン……

 終了の銅鑼が鳴る。

 私は清々しい顔で筆を置き、答案用紙を裏返した。

試験会場から戻った私は、一種の「ランナーズ・ハイ」のような高揚感に包まれていた。

 森の隠れ家で待っていた景皇子(承武)たちの元へ、私は意気揚々と帰還した。

「ただいま戻りました! 完璧です! ミッション・コンプリート!」

 私はVサインを作って見せた。

 景皇子は焚き火の前で立ち上がり、安堵の表情を浮かべた。

「おお! 遅かったな。どうだ、AIの指示通りに全て記述できたか?」

「ええ、もうバッチリですよ。前半の知識問題は全問正解間違いなしです。」

「うむ、よくやった。で、最後の小論文はどうだった? 『女性の社会進出』についてだったそうだが」

 景皇子が期待のこもった眼差しで問う。

 私は胸を張り、鼻息荒く答えた。

「はい! そこなんですけどね、AIの回答がちょっと『優等生すぎて人間味がない』というか、『社畜精神を肯定しすぎ』だったんで……私、アレンジしちゃいました!」

「……は?」

 景皇子の笑顔が凍りついた。

「ア、アレンジ……だと?」

「ええ。AIは『男と同じように働け』とか書いてたんですけど、それって結局は労働力の搾取じゃないですか。だから私、書いたんです」

 私は自信満々に、あの渾身のラスト一文を暗唱してみせた。

「『真の平等とは、男の真似事をすることにあらず。互いの違いを認め合い、一人の人間として敬う*尊重リスペクト”の心を持つことである』……ってね! どうです? これぞ現代OLがブラック企業で培った、魂の叫びですよ!」

 私は「ドヤァ」という効果音がつきそうな顔で言い放った。

 きっと景皇子も、「ほう、見直したぞ」と褒めてくれるはずだ。

 しかし。

 数秒の沈黙の後。

 私の目の前にいた景皇子の顔色は、みるみるうちに青ざめ、やがて土気色へと変貌していった。

「き、貴様……正気か……?」

 景皇子の声が震えている。

「あ、相手は道理が通用しない狂信的なカルト集団だぞ!? 彼らの教義は絶対であり、男女は厳格に別れて暮らすことこそが『天の掟』なのだ! そこに『男女が互いを認め合う』だの『リスペクト』だの……そんな、教義を真っ向から否定するような異端思想を叩きつけたのか!?」

「えっ……?」

 私のドヤ顔が崩れる。

 いや、でも、いいこと書いたし……感動してくれるんじゃ……?

「感動などするものか!! それは彼らにとって、『冒涜』以外の何物でもない!!」

 景皇子は頭を抱え、絶望のあまりよろめいた。

 その横で、焚き火に当たっていた沙龍(素心)が、ぼそっと呟いた。

「……洗い……」

「え?」

 私は自分の服の匂いを嗅いだ。

「は、え、あ、なんか私の服、臭かった?? ごめん、試験の緊張で汗かいたから、洗濯しなきゃダメかな……」

 私が脇の匂いを確認していると、景皇子が、地獄の底から響くような低い声で言った。

「違う……。洗濯のことではない」

「え?」

「やつらの用語で、教義に反する者、裏切り者、異端者を処刑し、街からその存在を消し去ることを……『あらい』というのだ」

「――――ッ!!!」

 その言葉を聞いた瞬間。

 私の足の小指の先から、とてつもなく冷たく、そして強烈な戦慄(寒気)が、電流のように背骨を駆け上がってきた。

 『洗い』。

 つまり、粛清。処刑!!!!

 汚れを落とすように、人間を殺すということ。

 私は、感動的な小論文を書いたつもりだった。

 しかし実際には、この国で最も危険な狂信者たちに向かって、

「お前らの教えは間違ってるよ☆ リスペクトが大事だよ!」

 という、特大の「処刑リクエスト(遺書)」を送りつけてしまったのだ。

「ひ……ひぃぃぃぃぃ……ッ!!」

 私の膝がガクガクと笑い出し、その場に崩れ落ちた。

 終わった。

 試験に落ちるどころの話じゃない。

 私は、自らの手で、自分の人生を「洗濯」されに行っていたのだ。

「景様……わ、私……どうすれば……」

「知らん! もう知らんぞ! お前という奴は……なぜ余計なことを……!」

 森の奥で、私の絶望の悲鳴と、景皇子の嘆きが虚しく響き渡った。

 私の「社畜の塊」は、時と場所をあまりにも選び間違えてしまったようだった。

「このままでは善祥(お前)だけでなく、設定が家族だから、我々『兄夫婦』も『使用人』もまとめて皆殺フルコースだぞ!!」

 景皇子(承武)の怒号が響き渡った。

 ごもっともだ。連座制は中国史の十八番である。

 私たちは慌てて荷物をまとめ、とりあえず逃げるぞということで、試験会場のある街から離れ、人気のない山中へと身を隠すことになった。

 ジメジメした洞窟の中。

 焚き火を囲みながら、お通夜のような空気が流れていた。

「……私の人生が、まさかお前の書いた『リスペクト』などという横文字のせいで終わるとはな……」

「す、すみません……ほんと、出来心で……」

「出来心で国を揺るがすな! このバカ者!」

 隠れている間も、景皇子は止まらない恨み節。私はひたすら地面に額を擦り付ける土下座スタイルで謝り通し。沙龍(素心)は無言でナイフを研いでいる。怖い。

 その時だ。

 ふもとへ偵察に行っていた姚明ヤオミンが、息を切らして帰ってきた。

「ハァ……ハァ……戻りました」

「姚明! どうだった? 街にはもう私の手配書が……『指名手配:リスペクト女』とか貼られてた!?」

 私が泣きつくと、姚明は奇妙な顔つきで首を横に振った。

「いえ、手配書はありませんでした。ですが……」

「ですが?」

「杏花姫様……結果発表を見てきました」

 姚明はゴクリと唾を飲み込み、信じられない事実を口にした。

「……合格です」

「……はい?」

「合格していました。それも、ただの合格ではありません。成績優秀者として、明日の『伝臚でんろ』の儀に参列するよう命じられております」

 時が止まった。

 え? 合格?

 あの、カルト教団の教義を真っ向から否定した、あの小論文で?

「……やったぁぁぁぁぁ!!!」

 私は洞窟の中で飛び上がった。

 すごい! 私の「社畜魂」が、狂信者たちの心を動かしたんだわ! リスペクトが通じたのよ! やっぱりAIより人間味よね!

「見直しましたか景様! 私、やりましたよ!」

 私は満面の笑みで振り返った。

 しかし。

 あとの三人の表情は、私の予想とは全く違っていた。

 景皇子、沙龍、そして姚明。

 三人は冷ややかな目で視線を交わし、高速で脳内会議を行っていたのだ。

(……ありえない)

(教義違反の論文で合格? 絶対に裏がある)

(これは……罠だ)

 彼らの思考回路は完全に一致していた。

 これは「合格」という餌で、異端者をおびき出すための罠だ。

 ノコノコと式典に行けば、そこで待っているのは栄光の官職ではなく、公開処刑という名の「洗い」に決まっている。

 そして、もし我々が一緒に行けば、一網打尽だ。

 さあ、どうする!

 三人の結論が出るのに、一秒もかからなかった。

(((……コイツだけ行かせよう)))

 切り捨て御免。

 問題の元凶である彼女だけをとりあえず刑場(式典)に送り込み、彼女が捕まっている隙に、自分たちは反対方向へ全力で逃げよう。

 それが、最も合理的かつ生存率の高い選択肢だ。

 そうとは知らない私は、不安げに尋ねた。

「あの、でも……これって本当に大丈夫なんでしょうか? わたし、どうしたらいいでしょうか???」

 すると。

 さっきまで恨み節を吐いていた景皇子が、急に母親のような穏やかな顔になった。

「……ふっ。善祥よ。行ったらいいんじゃないか?」

「えっ、いいんですか?」

「ああ。せっかく合格したのだ。お前の才能が認められたのだろう。自信を持って行ってこい」

 続いて、ナイフを研いでいた沙龍も、キラキラした瞳を私に向けた。

「そうですよ、姫様! きっと行けばいいことありますよ✨️ 美味しいご飯とか出るかもしれませんし、素敵な衣装がもらえるかもしれませんよ✨️(死装束かもしれないけど)」

 最後に、姚明も真面目な顔で頷いた。

「杏花様、行ってもいいと思います。せっかくの機会です。我々は……そう、ここで荷物をまとめて(逃げる準備をして)待っておりますから」

 3人とも、すごく平和な顔でこう言うのだ。

 「せっかく合格したんだから行っておいでよ〜〜」「快挙だよ〜〜」と。

 まるで、初めてのお使いに行く子供を見守る親戚のように。

 その裏にある「生贄」というニュアンスを、完璧なポーカーフェイスで隠して。

 私は、感動で胸がいっぱいになった。

(みんな……! さっきまで怒ってたけど、本当は私の合格をこんなに喜んでくれてるんだ……! 疑ってごめんね!)

 私は彼らの「応援」を真に受けて、ガッツポーズをした。

「わかりました! 皆さんの期待に応えて、立派に務めてきます!」

 私は農民服の埃を払い、髪を整え、意気揚々と洞窟の出口へ向かった。

 振り返り、手を振る。

「じゃあ……傅善祥ふ ぜんしょう、張り切っていってまいりまーーす!!」

 私は死地とも知らず、希望に満ちた足取りで山を駆け下りていった。

 背後で、三人が静かに荷物をまとめ、反対側の獣道へ消えていったことも知らずに。


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