ダイヤモンドは砕けない
みんなが夢中で手羽先に齧り付いている。
「美味い」「止まらない」という賛辞の言葉と、パリパリと皮を噛み砕く音が、私にとっては何よりのファンファーレだった。
その音を聞いているうちに、私の中でくすぶっていた「名古屋人の血」が沸騰し、さらに調子に乗り出した!
「ふふふ……皆さん、まだ甘いですね。手羽先の真髄は『味』だけじゃないんです」
私はわざとらしく咳払いをし、注目を集めた。
「見ててくださいよ、景皇子。これからお見せするのが、名古屋で3歳児から英才教育される奥義……手羽先の正しい『骨抜き』の儀式です!」
私は自信満々に宣言すると、甘辛いタレでテカテカに輝く手羽先を、指先で優雅に摘まみ上げた。
まずは先端の関節部分を、歯で軽く噛んで固定し、両手で持って「パキッ」と折る。
次に、身の部分をパクりと口に含み、歯で肉をホールドしたまま、二本の骨を指で軽くひねりながら……引き抜く!
スッ!
何の抵抗もなく、スルリと骨が抜ける感触。この快感。
「ほら! ご覧ください! 骨だけ綺麗に取れました!」
私は戦利品を掲げた。
皿の上に、身が一欠片もついていない、標本のようにツルツルの骨が二本、カランと並べられる。
口の中には、邪魔な骨のない、ジューシーな肉の塊だけが残る。
これぞ、名古屋人が生まれながらに習得している特殊スキル『手羽先・骨抜き(別名:名古屋式ツルリ)』だ。
景皇子は目を丸くし、まじまじと私の口元と皿の上の骨を見比べた。
「ほう……。見事な手際だ。まるで宮廷の手品師を見るようだな、杏花。骨と肉を一瞬で分離させるとは、どんな妖術だ?」
「えへへ、これくらいお茶の子さいさいですよ! 慣れれば目隠しでもできます!」
推しに褒められた!
しかも「妖術」ではなく「芸当」として認められた!
私は有頂天になり、鼻の穴を膨らませてドヤ顔で視線を横に向けた。
そこには、普段は隙のない完璧超人の侍女・沙龍が座っていた。
「……」
「……」
沙龍は、眉間に深いシワを寄せ、まるで親の仇を見るような目で手羽先と格闘していた。
普段は針の穴を通すような繊細な刺繍をこなし、暗殺者のように音もなく標的を仕留める彼女だが、この豪快かつ構造が複雑なB級グルメには、大苦戦を強いられているらしい。
「ぬぐぐ……」
上品に少しずつ齧り取ろうとするあまり、口の周りはタレで茶色くベトベト。
美しい指先も油まみれだ。
彼女は骨の構造を理解しようと、解剖学的な視点で肉を凝視しているが、タレの粘着力に阻まれている。
「くっ……なぜ……なぜ骨が抜けないのです……! 関節の構造は把握しているはずなのに……肉が……肉が離れません!」
彼女が悔しそうに唸る。
その口元には、黒胡椒の粒と、甘味噌のタレが、まるで泥棒猫のようにコミカルについている。
いつもの「氷の美女」としての威厳はどこへやら。今はただの「手羽先に翻弄される食いしん坊」だ。
(勝った……! 家事も武術も勝てないけど、料理と食い意地で、ついにあの沙龍に勝ったわ!)
私は心の中でガッツポーズをした。
「完璧な女」の人間味あふれる崩れた姿。これはこれで、絶景である。
すると、その様子を横で見ていたシスコン弟・姚明が、顔を真っ赤にして慌てふためき、ガタッと立ち上がった。
「あ、姉上! お、落ち着いてください! そ、それは姉上が不器用なのではなく、この鶏の構造に先天的な欠陥があるのです!」
姚明はハンカチを取り出し、おろおろと手を泳がせている。
「鶏の骨格がおかしいのです! 決して、姉上がタレまみれで……その、いつもの冷徹さとは裏腹に、リスのように頬張って、わんぱくなお顔になっているのが死ぬほど可愛いとか、そのギャップに萌え死にそうだとか、そういうわけでは断じて……ッ!」
「……黙りなさい、姚明。あとで舌を抜きますよ」
姚明の必死すぎる(そしてダダ漏れな)フォローを、低い声で一喝すると、沙龍は「はぁ……」と深いため息をついた。
彼女は諦めたように手羽先を皿に戻し、汚れた指先を見つめた。
「負けました……。杏花姫様、貴女の勝ちです」
「えっ?」
「その品のない……いえ、豪快な食べ方こそが、この料理の正解なのですね。合理的です。骨を一本ずつ外す手間よりも、口内での分離を選ぶとは」
沙龍は手ぬぐいで口元のタレを拭い、私を見て、ほんの少しだけ悔しそうに、でも柔らかく微笑んだ。
「貴女のその奇妙な食文化には、独自の『美学』があるようですわね。……教えていただけますか? その『骨抜き』のコツを」
「もちろんですとも! 特訓しましょう、沙龍教官!」
こうして、シルクロードの片隅で、謎の「手羽先骨抜き講座」が開講されたのだった。
景皇子と姚明の温かい(そして少し呆れた)視線を浴びながら。
◇
彼女は懐から手拭いを取り出すと、脂とタレで茶色く汚れた口元を、躊躇なくゴシゴシと拭った。
かなり力を入れて拭いたのだろう。粗末な手拭いには、手羽先の濃厚な茶色いタレと共に、何やらボロボロとした『肌色の粉』のようなものまで、べっとりと付着していた。
「ふぅ、失礼いたしました。あまりの美味しさに、つい化粧まで食べてしまうところでした」
そう言って、彼女が顔を上げた、その瞬間。
私の時間は、物理的に停止した。
呼吸も、瞬きも、心臓の鼓動さえも、その光景の前にフリーズした。
「……え?」
そこにいたのは、さっきまでの「そばかすだらけで、肌がくすみ、目の下に不健康なクマのある地味な侍女」ではなかった。
雪山に差す朝日のように白く、陶器のように透き通る肌。
長い睫毛の下に現れたのは、夜空の星をすべて集めて溶かし込んだような、涼やかで深い双眸。
神秘の定規で引いたような完璧な鼻筋に、何も塗っていないはずなのに桜の花弁のように瑞々しい唇。
そこにいたのは、私が今まで見たことがないレベルの生き物だった。
もしも横に並べるなら、自尊心増々の姉も、私の自尊心をへし折り続けてきた美人の姉も、私がアプリで加工しまくった「奇跡の一枚(詐欺写真)」すらも、ただのジャガイモに見えてしまうほどの……。
上の上、いや、SSSクラス。正真正銘、国が一つや二つ滅びかねない「真性の超絶美女」だったのだ。
「ええええええええっ!?!?」
私は素っ頓狂な声を上げて、椅子から転げ落ちそうになった。いや、実際に尻餅をついた。
「そ、それ何!? 誰!? なんでそばかすが消えるの!? あの濃いクマは!? あなた一体……特殊メイクアップアーティストなの!?」
沙龍は不思議そうに小首を傾げた。
そのたった一つの仕草だけで、周囲に花が咲き乱れ、背景にキラキラとした効果音が見えるほどの美しさだ。
さっきまでと同じ服、同じ髪型のはずなのに、中身が入れ替わったとしか思えない。
「ああ、これですか? ただの化粧ですよ。水や油には強いのですが、こすれには弱くて。手羽先の脂で落ちてしまいましたね」
「た、ただの化粧って……」
彼女は手拭いについた肌色の汚れ(ファンデーション的な泥と粉)を淡々と見つめた。
「な、なんでそんな……普通は逆でしょ!? 女の子はみんな、綺麗になるためにメイクするんでしょ!? なんでわざわざブサイクにするメイクなんて……!」
私が叫ぶと、沙龍はきょとんとして、それから当然のことのように答えた。
「杏花姫様。お言葉ですが、化粧というのは何も美しくするためだけのものではありません。呼んで字のごとく『化かす』ためのものです」
「化かす?」
「ええ。忍びが木や石に擬態するように、私は『風景』に擬態していただけです。私の素顔が知られれば、宮中で色々と面倒なことになりますから」
彼女はため息をつき、遠くを見るような目をした。
「特に、あのエロ皇帝……いえ、失礼。常に周りにお花が咲いておられることで有名な、英雄色を好む皇帝陛下に見初められでもしたら、景様にお仕えできなくなります。どこかのお方のように……」
「……んぐぐ……」
痛いところを突いてくる。
(あ、さっき完全に「エロ皇帝」って言ったよねーーーーー!? 彼女、サラリと皇帝陛下をディスったわ!)
「それに、このような危険な旅路では、女の美貌などリスクでしかありません。村では人攫いに遭う危険も高まりますし、無駄な虫も寄ってきます。
ですから、普段は化粧で『目立たない、疲れた、少し薄汚れた女』を装っているのです。その方が、影として動くには都合が良いでしょう?」
(なんてこと……!)
私は愕然として、口を開けたまま塞がらなかった。
私は現代でも、そしてこの宮廷でも、生き残るために必死で「厚化粧」や「加工アプリ」を使って、自分を少しでも美しく、価値あるものに見せようとしていた。
足し算の美学。それが女の戦い方だと思っていた。
なのに、この子は逆だ。
あまりにも美しすぎるがゆえに、その輝きを隠すために泥を塗る。
ダイヤモンドが石ころのふりをしていたようなものだ。
引き算の美学。
それは、圧倒的な「素材の勝利」がないと成立しない戦術だ。
「……ははっ。なるほどな」
景皇子が、面白そうに、そしてどこか誇らしげに笑った。
彼もまた、その真の姿を見るのは久しぶりなのだろう。
「灯台下暗しとはこのことか。幼い頃から共にいたが、まさか沙龍、そなたがこれほどの美女に育っていたとは。普段の変装があまりに巧妙すぎて、私ですら見落としていたぞ」
「お褒めにあずかり光栄です。ですが景様が見ておられるのは、私の能力と忠誠心という中身ですから。外見など、しょせんは皮一枚の飾りに過ぎません」
沙龍は再び涼しい顔に戻り、手羽先の残骸を片付け始めた。
その横顔は、美女バージョンになったことで、もはや「侍女」というより「亡国の王女」か「冷酷な女将軍」のような迫力を放っている。
「杏花姫様」
「は、はいっ!」
「私の素顔を見たことは、他言無用に願いますよ? ……もしバラしたら」
彼女は、この世のものとは思えない聖母のような微笑みを浮かべた。
そして、その美しい顔のまま、手刀で自身の首を「スッ」と掻っ切るジェスチャーをした。
「……わかっておいでですね?」
「ヒィッ! りょ、了解です! 墓場まで持っていきます! 焼いても喋りません!」
私は全力で頷いた。首がもげるほど頷いた。
美人になっても、中身のヤンデレ・キリングマシーンっぷりは1ミリも変わっていない。
むしろ、この神々しい美貌でナイフとか振り回されたら、誰も勝てない。ギャップ萌えとかいうレベルを超えて、ただの恐怖だ。
(勝てない……。料理では一矢報いたと思ったけど、素材のレベルが違いすぎる……!)
私は、隣で密かに沙龍に見惚れて石化している姚明(こいつは知っていたはずなのに見惚れている)を尻目に、敗北感を噛み締めた。
皿に残った、すっかり冷めてしまった手羽先をかじる。
パリッという音はしたが、先ほどまでの勝利の味はしなかった。
赤味噌の濃厚な味が、心なしか私の涙の成分で、しょっぱく感じたのだった。




