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姫失格 〜恥の多い後宮生活を送って来ました〜  作者: 俊教授 オーバーシー大学
逃亡編
39/42

来た、揚げた、勝った

北京を脱出し、遥か南の南京ナンキンを目指す私たち一行は、全行程の四分の一ほどを消化したあたり――山東省へと入る手前の、とある運河沿いの宿場町に立ち寄っていた。

北からの乾いた風が砂埃を巻き上げ、運河を行き交う船の喧騒と、商人の活気ある声が響き渡る。

ここは南北の物流が交差する要衝。飛び交うのは粗野だが力強い北方の言葉。店先には小麦文化圏らしく多種多様な饅頭マントウや麺類が並ぶが、南から運ばれてきた物資も溢れ、まさに「物流の大動脈」を感じさせる光景だ。

旅の疲れも忘れ、私はキョロキョロと市場を冷やかしていたのだが、とあるジャンを売る店の前で、足が釘付けになった。

「……こ、これは……!!」

店先に無造作に置かれた、黒光りする巨大なかめ

その中には、ドロリとした黒褐色のペーストがなみなみと満たされていた。

発酵した大豆特有の、むせ返るような濃厚な香り。

私は震える指で店主に硬貨を渡し、少しだけすくって舐めてみた。

舌に乗せた瞬間、稲妻が走った。

ガツンとくる塩気。

後から追いかけてくる、深く、重く、そしてどこまでも芳醇なコク。

鼻に抜ける大豆の力強い香り。

「**赤味噌(八丁味噌)**だわ!!」

いや、正確には中国北方が誇る「黄醤ホワンジャン」や、それが熟成して黒くなった味噌の原形なのだろう。

だが、この味は紛れもなく、私のDNAに刻まれた故郷・名古屋のソウルフード、あの赤味噌のソウルを持っている!

この瞬間、私の脳内で「名古屋めしスイッチ」がバチンと音を立てて入った。

アドレナリンが噴出する。

(これよ! これなのよ! 毎日、北方の淡白な饅頭や薄味の汁物ばかりで、私の舌は死にかけていたのよ!)

私は拳を強く握りしめた。

景皇子は上品な宮廷料理育ち。きっと繊細な薄味がお好みだろう。

だが、埃っぽい街道を旅して疲れが溜まっている今こそ、必要なのは「優しさ」ではない。「暴力的なまでの旨味パンチ」なのだ!

(完璧超人の沙龍は、きっと旅の疲れを癒やす養生スープなんかを出してくる。でも、時にはジャンクで味の濃いものが食べたくなるのが男心ってものよ! ここで「家庭の味(名古屋ver.)」を叩き込んで、あの胃袋に強烈なインパクトを残してやる!)

「おじさん! この味噌、壺ごとちょうだい! あと鶏肉! 手羽先の部分をあるだけ全部!」

私は意気揚々と食材を買い込み、宿の厨房を借りる交渉をまとめた。

今夜のメニューは決まりだ。名古屋が世界に誇る最強のB級グルメ、ビールの親友にして白米の恋人、『手羽先』だ!

甘辛いタレと、ピリリと効いた胡椒、そして赤味噌の隠し味。想像するだけで口の中に唾液が溢れる。

「ふふふ、見てなさい景皇子。あんたを味噌の虜にしてやるわ……」


厨房に入り、腕まくりをする。

さあ、まずはタレの黄金比を確認だ。砂糖と醤油、酒、そして味噌の配合は……。

私は習慣のように、ポケットに手を伸ばした。

「検索、検索っと……あ」

指先が空を切った。

そこにあるはずの、硬質で滑らかな板の感触がない。

ポケットの布地ごしに触れるのは、自分の太ももの体温だけ。

「……あ……」

サーッと、血の気が引いていく。

そうだ。

北京の宮廷を脱出する際、私はあのスマホを華妃かひ様の元に置いてきたんだった。

『私が戻るまで、この魔法の鏡で美しさを保っていてくださいね。』

そう言い含めて、彼女をその場に釘付けにするための「生贄」として捧げてきたのだ。

そうでもしなければ、華妃様がすぐに騒ぎ出し、私たちの逃避行は始まって数分で終わっていただろう。

(くっ……私の命綱が! 景皇子との唯一のツーショット写真が入ったアルバムであり、現代知識の結晶であり、全知全能のレシピ本である「Google先生」が!!)

「ど、どうしよう……! 分量は? スパイスの配合は!? 胡椒とニンニクのバランスは!?」

パニックになり、その場に崩れ落ちそうになる。

現代っ子の悲しいさが

「クックパッド」がなければ、味噌汁の出汁の量さえ不安になる私が、記憶だけで「あのお店の味」を再現できるのか?

失敗したら?

「しょっぱいだけだ」と景皇子に呆れられたら?

隣では、沙龍が涼しい顔で「景様のために、特製薬膳粥を作りますわ。山芋とナツメを使い、気力を補うのです」と、完璧な準備を進めている。

(負ける……。薬膳なんかに、健康食なんかに負けてたまるか! 男は結局、茶色い揚げ物が好きなのよ!)

私は厨房の壁に頭を打ち付けそうになるのをこらえ、深呼吸をした。

焦るな。落ち着け。

スマホはない。検索はできない。

頼れるのは、自分の舌と、記憶だけ。

(思い出せ……思い出すのよ、山田花子! ネットのレシピじゃない。おばあちゃんが教えてくれた、あの味を!)


私は目を閉じ、記憶の彼方へダイブした。

喧騒の宿場町が消え、懐かしい風景が浮かび上がる。

実家から三十分の距離にある、古びた一軒家。

夕暮れ時の、オレンジ色の光が差し込む台所。

換気扇が回る音。テレビから流れる相撲中継の音。

そして、味噌と砂糖が焦げる、あのたまらなく甘辛く、香ばしい匂い。

『花子、よう見ときゃあ。タレはな、泡がブクブクと大きくなるまで煮詰めるんだわ』

割烹着を着たおばあちゃんの、小さくて丸い背中。

皺だらけだけど、魔法のように美味しいものを生み出す手。

『隠し味にな、ニンニクと生姜をちーっと入れるんだ。これがミソだでね』

蘇る。

分量なんて計っていなかった。おばあちゃんはいつも目分量だった。

「これくらい」の色。「これくらい」のトロみ。そして、味見をした時の「ん、うみゃあ」という笑顔。

私の目から、一筋の涙がこぼれた。

そうだ、データなんていらない。

あの時、隣でずっと見ていた。何度も何度も、一緒に食べた。

私の舌が、私の細胞が、あの味を覚えているはずだ。

「……できる」

私はカッと目を見開いた。

迷いは消えた。

私は赤味噌風のジャンが入ったかめに、力強く木杓子を突き立てた。

「待ってて、おばあちゃん。私、この異国の地で再現してみせるよ。世界一美味しい、あんたの手羽先を!」

鍋に火をつける。

油がパチパチと音を立てる。

スマホという「文明の利器」を捨てた私は今、一人の「料理人」として、中華風の厨房キッチンに立っていた。


【脳内回想:おばあちゃんの名古屋クッキング・ブートキャンプ】

厨房の喧騒が遠のき、私の意識は一瞬にして、あの懐かしい実家の台所へとタイムスリップした。

換気扇がフル回転しても追いつかないほどの、立ち込める白い湯気。

壁に染み付いた油の匂いと、甘辛い醤油の香り。

その霧の向こうで、割烹着姿の「師匠」――おばあちゃんは、菜箸を指揮棒のように振り回しながら叫んでいた。

「ええか花子。耳の穴かっぽじってよう聞きやぁ! 名古屋のめしっちゅうのはな、上品に澄ましとったらあかん! 『ガツン!』とこないかんのだわ! 食べた瞬間に脳みそが痺れるくらいのパンチがな!」

コンロの上では、巨大な中華鍋が鎮座し、たっぷりの油が黄金色に輝いている。

その海の中で、鶏の手羽先たちがパチパチ、ジュワジュワと心地よい音を奏でていた。

「手羽先はな、一回揚げて終わりじゃにゃあよ! 『二度揚げ』が命だがね!」

おばあちゃんは、まだ少し色の薄い手羽先を一度バットに引き上げた。

「ここで焦ったらあかん。肉を休ませるんだわ。予熱で骨の髄まで火を通す。じっくり、じっくりだ。

……そして!」

おばあちゃんがコンロの火力を最大にする。

ボウッ! と青い炎が音を立てて燃え上がる。

「油の温度を上げたら、地獄の釜茹でみたいに、もう一回ブチ込む!

そうせんと、外の皮がパリッとならんのだわ!

中身はジューシー、外はパリパリ。このギャップに、人間はイチコロなんだわ!」

ジュワーーーッ!!

高温の油に戻された手羽先が、さっきとは違う、高く鋭い音を立てる。

きつね色が、見る見るうちに食欲をそそる飴色へと変わっていく。

それは魔法のような光景だった。

そして、仕上げのタレ。

赤味噌、醤油、酒、みりん、そして大量の砂糖を煮詰めた、黒く艶めく特製ダレ。

揚げたての手羽先をそこへダイブさせ、一瞬で引き上げる。

「タレは甘辛く! 照りっ照りに輝かせやぁ!

そしてここが肝心だで! 胡椒だ! 胡椒を『親のかたき』かってくらい振りかけるんだわ!」

バサッ、バサッ。

おばあちゃんの手首のスナップが効く。

白い胡椒が雪のように降り注ぎ、むせ返るようなスパイシーな香りが台所を支配する。さらに炒り胡麻をたっぷりと。

「最後はな、箸なんか使って食ったらあかん! 手だ! 指先をベタベタにして、骨までしゃぶり尽くす!

これこそが一番うみゃあ(美味しい)食べ方だがね!

お上品ぶって小指立てとるようなやつに、本物の味はわからんのだわ!」

おばあちゃんは、熱々の手羽先を一つ摘み、ハフハフと言いながら私の口に放り込んだ。

カリッとした皮、溢れる肉汁、濃厚な味噌のコク、そしてピリリと舌を刺す胡椒の刺激。

「う、うみゃあ!」と叫ぶ私を見て、おばあちゃんはニカッと笑い、ウインクした。

「ええか花子、覚えときゃあ。

男の胃袋掴みたかったらな、気取ったフランス料理や、味の薄い京料理なんか作っとる場合じゃないで!

ふとした瞬間に『あー、あれ食いてぇ……』って禁断症状が出るような、こういう中毒性のあるもんを作らなかんて!

胃袋に直接『くさび』を打ち込むんだわ! わかったかん?」

――ああ、おばあちゃん。

わかったよ。今なら痛いほどわかる。

綺麗で健康的な料理もいい。

でも、明日も生き抜こうとする男の背中を押すのは、こういう「生きる力」の塊みたいな味なんだよね。

私は目を開けた。

手には、どこからともなく力が湧いてきていた。



「……わかったよ、おばあちゃん!」

私はカッと目を見開いた。

迷いは、中華鍋の熱気と共に蒸発した。

レシピ? 分量? そんなデータごとき、今の私には不要だ。

私の舌が、私の脳髄が、そして全身の血肉に刻まれた「名古屋人のDNA」が、黄金比を完璧に記憶している!

私は厨房にズカズカと踏み込んだ。

「沙龍! 悪いけど厨房のメインコンロ、借りるわよ! 今夜は私が『将軍(景皇子)のための最強スタミナ料理』を作るんだから!」

薬膳粥の支度をしていた沙龍が、目を丸くして振り返る。

「はぁ? スタミナ? 景様は長旅でお疲れなのですよ? 今必要なのは、消化の良い、体に優しい淡白なもの……」

「うるさい! それが『女の理屈』なのよ!」

私はビシッと言い放った。

「男っていう生き物はね、疲れている時こそ、ガッツリした肉と、脂と、炭水化物を求めてるの!

『お腹に優しいお粥』なんて、風邪ひいた時だけでいいの! 今必要なのは、明日への活力! 暴力的なまでのカロリーよ!」

「か、カロリー……?」

呆気にとられる沙龍を尻目に、私は鍋に油を注いだ。

貴重な油だが、ここはケチってはいけない。手羽先が泳げるくらいの海が必要なのだ。

(いくよ、おばあちゃん。見ててね!)

火をつける。油の温度が上がるのを待つ間に、下味をつけた手羽先に片栗粉を薄くまぶす。

温度は低め。まずは160度。

手羽先を投入する。

ジュワァァァ……。

静かで、優しい音が厨房に広がる。

おばあちゃんの教えその一。「二度揚げ」の鉄則。

まずは低温でじっくりと、骨の髄まで火を通す。ここで焦っては肉が硬くなる。私は手羽先たちと対話するように、じっと泡の大きさを見つめる。

一度引き上げ、肉を休ませる。

この数分間が、肉汁を閉じ込める魔法の時間だ。

そして、クライマックス。火力を全開にする。

油から煙が立つほどの高温。190度超え。

そこへ、休ませていた手羽先を一気に戻す!

バチバチバチッ!!

音が変わった。

先ほどの優しい雨音のような音ではない。爆竹のような、攻撃的な音だ。

衣に含まれた水分が飛び、表面が劇的に硬化していく。

色が白っぽいクリーム色から、食欲をそそる黄金色きつねいろ、そして香ばしい飴色へと変わる瞬間を見逃さない。

「今だ!」

網で掬い上げると、カラン、コロン、と乾いた高い音がした。

完璧だ。皮はパリパリ、中はジューシー。勝利の音がする。

次はタレだ。

鍋に醤油、酒、たっぷりの砂糖。

そして、この宿場町で運命的に出会った、あの黒褐色のペースト――「赤味噌」の魂を持つ北方の豆味噌を投入する。

グツグツと煮立つタレから、甘く、濃厚で、少し焦げたような香ばしい匂いが立ち上る。

この匂いだけで、白飯が三杯いける。

揚げたての手羽先を、この熱々のタレの海へダイブさせる。

ジュッ! という音と共に、タレが衣に絡みつき、艶やかな黒光りを纏う。

「仕上げは……これでもかぁっ!!」

私は壺から鷲掴みにした黒胡椒と白胡椒を、親のかたきのように振りかけた。

さらに、炒りたての白胡麻をパラパラと散らす。

スパイシーな刺激臭が鼻を突き、甘辛い味噌の香りと混ざり合う。

それは、中国の大地で生まれた、奇跡のフュージョン。

「できた……!」

大皿に山のように積み上げられた、茶色く輝く手羽先の塔。

繊細さのかけらもない。彩りなんて無視。

あるのは、「旨い」という事実のみ。

「名古屋定食・南下ルート風! 完成よ!」

私は額の汗を拭い、ニヤリと笑った。

その皿からは、空腹の男なら抗えない魅力が漂っていた。



バンッ!

私が足で扉を開けて大皿を運び込むと、宿の部屋の空気は一変した。

それまでの旅の埃っぽい匂いや、お香の静かな香りを瞬時に駆逐し、暴力的なまでに食欲を刺激する「茶色い香り」が充満したのだ。

「な、なんだこの匂いは……!? 鼻腔を直接殴られるような、むせ返るような香辛料の香り……」

姚明ようめいが慌てて袖で鼻を押さえた。

彼のような宮廷育ちの人間には、このスパイシーさは「異臭騒ぎ」に近い衝撃なのだろう。

沙龍シャロンは、テーブルに置かれた大皿――黒光りするタレが絡まり、山のように積まれた手羽先の塔――を見て、あからさまに眉をひそめた。

「杏花姫様……これは何です? 焦げているのですか? それとも……毒?」

「失礼ね! 人聞きが悪い! これは毒なんかじゃないわ、私の故郷・名古屋のソウル、『手羽先』よ!」

「ナゴヤ……?」

沙龍は怪訝な顔で、その黒っぽい物体を凝視している。彼女の美しい薬膳料理の美学とは対極にある、野性味あふれるルックスだ。

しかし、けい皇子だけは違った。

彼は興味深そうに身を乗り出し、その皿を覗き込んだ。

砂糖と醤油、そして北方のジャンが焦げた香ばしい匂い。そこに混じる強烈な胡椒の刺激。

それは、彼の本能の奥底で眠っていた「獣」を揺り起こすような香りだった。

「……見た目は奇抜だが、妙に腹が鳴る香りだ」

彼は迷わず箸を取り、一番上の手羽先を掴んだ。

とろりとしたタレが糸を引き、照明を受けて琥珀色に輝く。

「あっ、景様! お待ちください、骨があります。手などを汚されては大変……私が身をほぐして……」

沙龍が慌ててナイフを取り出そうとしたが、私はそれをビシッと手で制した。

「だめ! ストップ!」

「な、なんです!?」

「そんなお上品に身をほぐしたら、美味しさが半減しちゃうわ!

手羽先はね、箸なんか捨てて、手で持って、ガブリといくのが作法なの! こうやって!」

私は見本を見せるべく、自分の皿の手羽先を鷲掴みにした。

そして、大きく口を開け、豪快にかぶりつく。

バキッ! チュルッ!

関節を歯でへし折り、骨と肉の間の旨味を吸い出す。

口の周りにタレがつくことなんてお構いなしだ。

「こうやって、骨までしゃぶり尽くすの! 恥じらいなんて捨てて!」

景皇子は一瞬、目を丸くして私を見た。

皇族が手づかみで食事をするなど、宮廷では万死に値するマナー違反だ。

だが、彼は私の汚れ切った口元と、幸せそうな顔を見て――ニヤリと、悪戯っぽく笑った。

「なるほど。『郷に入っては郷に従え』か。面白そうだ」

彼は箸を置いた。

そして、その白く美しい貴人の指で、ベタベタの揚げ物を直接掴んだ。

「け、景様!?」

沙龍の悲鳴を無視し、彼は手羽先を口へと運んだ。

パリッ。

静かな部屋に、皮が弾ける小気味よい音が響いた。

瞬間、景皇子の目がカッと見開かれる。

(来た……!)

私は心の中でガッツポーズをした。

甘辛い濃厚なタレのファーストインパクト。

その直後に襲いかかる、揚げたての鶏肉から溢れ出す熱い肉汁。

そして最後に、舌を蹂躙する大量の黒胡椒のピリピリとした刺激。

甘い、辛い、旨い、痛い。

味覚のジェットコースターだ。

「……!!」

景皇子の動きが止まった。

言葉はなかった。

ただ、喉がゴクリと鳴った。

そして、彼は無言のまま、骨だけになった手羽先を皿に置き――即座にもう一本、さらにもう一本へと手を伸ばした。

「景様……?」

「……美味い。なんだこれは。止まらん」

あの上品で、食に淡白だった皇子が。

口の周りをタレだらけにし、指先をテカテカに光らせながら、まるで何かに取り憑かれたように夢中で食らいついている。

その姿は、もう「皇子」ではない。ただの一人の「腹を空かせた男」だった。

「でしょ!? これが名古屋マジックよ! 中毒性が違うのよ!」

私は勝利の雄叫びを上げた。

これが「B級グルメ」の底力だ。洗練された料理にはない、脳髄に直接訴えかける麻薬的な旨さなのだ。

ふと横を見ると、異変が起きていた。

「う……うまい……」

なんと、あの潔癖症で冷徹な姚明までもが、両手に手羽先を持ち、リスのように頬を膨らませていた。

無表情な仮面はそのままに、しかしその瞳孔は開ききり、高速で咀嚼を繰り返している。

「あねうえ、いや、沙龍殿……これは危険です。食べ始めると……理性が飛びます。指についたタレさえも愛おしい……」

彼は言いながら、あろうことか自分の指についたタレをペロリと舐めた。

あの姚明が! 指を舐めた!

「姚明!? あなた何て下品な……!」

沙龍は絶句した。

しかし、部屋に充満する匂いと、男二人の狂乱ぶりを見て、彼女もまた生唾を飲み込んだ。

恐る恐る、手羽先に手を伸ばす。

「……そ、そこまで言うなら、毒見として……一口だけ……」

パクッ。

彼女が小さな口でかじりついた瞬間、彼女の背筋に電撃が走ったのが見えた。

目が見開かれ、頬が紅潮する。

「……! なんですか、この暴力的な味は……!

薬膳の調和を全て破壊するような……でも、悔しい……美味しいです……!!」

陥落。

完全勝利だ。

私の「名古屋めし」が、旅路の途中、北の大地の片隅で異世界の宮廷人たちを制圧した瞬間だった。

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