君がため 惜しからざりし命さへ 長くもがなと 思ひけるかな
「……で、宮廷はどうなっている?」
部屋から戻ってきた景皇子が、飲み干した白湯の器をコト、と音を立てて卓上に置いた。
その乾いた音は、先ほどまでの「乳兄妹」としての柔らかな空気を断ち切る合図だった。
彼の纏う空気が、一瞬にして変わる。
それは、安らぎを求める青年の顔から、冷徹な指揮官の顔への変貌だった。
窓の外では空が白み始め、朝霧が立ち込めている。
世界が目覚める前の静寂。しかし、この狭い室内には、一刻の猶予もない張り詰めた緊張感が満ちていた。
姚明もまた、スッと表情を戻した。
数分前まで、姉への歪んだ恋慕を吐露して頬を赤らめていた、あの情けない弟の顔はもうない。
そこにいるのは、後宮の暗部を支配し、人の弱みを握り潰してきた優秀なスパイ、そして感情を持たぬ冷酷な宦官としての顔だった。
この切り替えの早さと深さこそが、彼らが修羅場を生き抜いてきた証なのだろう。
正直、背筋が凍るほど恐ろしい男たちだ。
「はい。一言で申しますと……少々、いえ、極めて厄介なことになっております」
姚明はガラス玉のような瞳で瞬きひとつせず、淡々と、しかし抑揚のない声で報告を始めた。
「まず、杏花姫様の失踪について。皇帝陛下はまだ『すり替え』が行われたことはご存知ありません。蘭馨は上手に身代わりを果たしてくれているようです」
「蘭馨……」
(蘭馨……!! 私のために、あんな魔窟で体を張ってくれているんだね! 本当にありがとう! 帰ったら絶対、最高級のスイーツとコスメを貢ぐからね!)
「しかし、皇帝はかなりご満悦なようでして、『1日と15日以外はそなたが朕に仕えよ、いや、毎日そばに居れ』とおおせられまして……」
姚明はやれやれと肩をすくめる。
「皇帝が興奮のあまり、宦官を通して夜中に何度も後宮に召喚の命を出したところ、『杏花がいない』ということになり……騒ぎになったのです」
(ぎゃーーーー!! 蘭馨、まじでごめーーーん!!)
私は思わず頭を抱えた。
これは、私の「断れない病」と、誰にでもいい顔をする「八方美人スキル」が招いた歴史的な大惨事だ。罪悪感で胃に穴が開くどころか、胃酸で床まで溶けそうだ。
「そして、ここからが重要です」
姚明の声が一段低くなり、室内の温度が下がった気がした。
彼は景皇子を直視し、告げた。
「皇帝陛下は、ご自身の召喚に応じなかったことに激昂……ではなく、深く傷つき、こう解釈されました。『朕が杏花と過ごし、彼女を帰らせたあと、杏花は何者かにさらわれたに違いない』と。錯乱と嫉妬、そして愛憎のあまり、禁軍(近衛兵)の中でもえり抜きの精鋭部隊に極秘命令を出されました」
「内容は?」
「『杏花を連れ去った賊を見つけ次第、殺しても構わぬ。いや、八つ裂きにして首を刎ねて持って参れ。ただし――杏花は無傷で連れ戻せ』……と」
「殺しても構わぬ、か……。ふっ、まああの父上ならば当然の沙汰だな」
景皇子の目が、鋭く細められた。
その瞳の中で、蒼い炎が揺らめいたように見えた。
皇帝はまだ知らないとはいえ、実の息子に対し、処刑許可を出したということだ。
あの昼間、「好きだ」「孤独だ」と甘い瞳で語り、私に高価な装飾品を贈ってきた皇帝が。
我が子を、恋路を邪魔する「賊」として排除しようとしている。
親子という血の繋がりさえも、あの人の渇望の前では紙切れ同然なのか。私は恐怖で震えた。
「そして華妃様ですが……彼女もまた、重篤な禁断症状が出ております」
姚明の美しい顔が、侮蔑と哀れみで微かに歪んだ。
「景陽宮からは、昼夜を問わず獣のような悲鳴と、陶器が割れる破壊音が響き渡っております。
スマホは手元にあれど、『封印』なるものがわからず、画面は真っ暗なまま。
『私の顔が! 真実の美が見えないわ!』
『あの鏡がないと、私はただの醜いおばさんになってしまう! 明かりを消して! 鏡を割りなさい!』
そう叫び回り、手当たり次第に物を投げつけ、宮女たちに当たり散らしております。すでに何人もの女官が、額から血を流して運ばれました」
「……スマホ依存症の、成れの果てね」
私は深く溜息をついた。
加工アプリという「電子ドラッグ」の味を知ってしまった人間に、現実の世界はあまりにも過酷で、残酷だ。
彼女はもう、フィルター越しの虚構の自分しか愛せないのだ。
私はかける言葉が見つからなかった。
華妃様の自業自得はおいておくとしても、私のせいで、景皇子は実の父親に命を狙われている。
これはもう、「ごめんなさい」で済むレベルの話ではない。私の存在そのものが、彼にとっての災厄になってしまっている。
「景皇子……私、やっぱり……」
私が弱気な言葉を吐こうとした、その時だった。
景皇子は顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめた。
その瞳に、迷いも、後悔も、恐怖さえもなかった。
「だが、渡さない」
力強い宣言。
低く、しかし部屋の空気を震わせるほどの覇気。
「杏花はモノではない。父上の寂しさを埋めるための愛玩人形でも、華妃の美しさを保つための便利な機械でもない」
彼は立ち上がり、私の椅子に手をかけた。
至近距離で、彼の熱っぽい視線が私を捕らえ、逃がさない。
「それに……お前は、私が生まれて初めて『生きたい』と願った、たった一つの理由だ」
ズキュゥゥゥン!!
本日二度目の心臓直撃弾。
待って。タイム。
今のセリフ、録音していいですか? いや、脳内ハードディスクの最重要保護領域に永久保存します。
何事にも冷めていて、生きることに執着を見せなかったあの皇子が、「生きたい」と言った。
それも、私のために。
でも、ちょっと待って。一度冷静になろう。
この隠れ家のパーティーメンバーと、私を取り巻く状況を見渡してみる。
皇帝(殺意レベルの独占欲と重い愛)→ 私 ← 景皇子(生存理由レベルの激重な愛)
沙龍(狂信的な献身と重い愛)→ 景皇子
姚明(人生捧げた崇拝と重い愛)→ 沙龍
この相関図、湿度が高すぎる。
日本の梅雨もびっくりの湿気だ。昼ドラなら視聴率30%超え確実のドロドロ加減だ。
全員が全員、矢印の太さが極太マジックだ。
唯一、私だけが「えへへ、みんな仲良くしようよ~(涙目)」みたいな、ふざけた軽い矢印を出しているのが申し訳なくなってくる。




