表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
姫失格 〜恥の多い後宮生活を送って来ました〜  作者: 俊教授 オーバーシー大学
逃亡編
37/42

君がため 惜しからざりし命さへ 長くもがなと 思ひけるかな

「……で、宮廷はどうなっている?」

部屋から戻ってきたけい皇子が、飲み干した白湯の器をコト、と音を立てて卓上に置いた。

その乾いた音は、先ほどまでの「乳兄妹ちきょうだい」としての柔らかな空気を断ち切る合図だった。

彼の纏う空気が、一瞬にして変わる。

それは、安らぎを求める青年の顔から、冷徹な指揮官の顔への変貌だった。

窓の外では空が白み始め、朝霧が立ち込めている。

世界が目覚める前の静寂。しかし、この狭い室内には、一刻の猶予もない張り詰めた緊張感が満ちていた。

姚明ようめいもまた、スッと表情を戻した。

数分前まで、姉への歪んだ恋慕を吐露して頬を赤らめていた、あの情けない弟の顔はもうない。

そこにいるのは、後宮の暗部を支配し、人の弱みを握り潰してきた優秀なスパイ、そして感情を持たぬ冷酷な宦官としての顔だった。

この切り替えの早さと深さこそが、彼らが修羅場を生き抜いてきた証なのだろう。

正直、背筋が凍るほど恐ろしい男たちだ。

「はい。一言で申しますと……少々、いえ、極めて厄介なことになっております」

姚明はガラス玉のような瞳で瞬きひとつせず、淡々と、しかし抑揚のない声で報告を始めた。

「まず、杏花きょうか姫様の失踪について。皇帝陛下はまだ『すり替え』が行われたことはご存知ありません。蘭馨らんけいは上手に身代わりを果たしてくれているようです」

「蘭馨……」

(蘭馨……!! 私のために、あんな魔窟で体を張ってくれているんだね! 本当にありがとう! 帰ったら絶対、最高級のスイーツとコスメを貢ぐからね!)

「しかし、皇帝はかなりご満悦なようでして、『1日と15日以外はそなたが朕に仕えよ、いや、毎日そばに居れ』とおおせられまして……」

姚明はやれやれと肩をすくめる。

「皇帝が興奮のあまり、宦官を通して夜中に何度も後宮に召喚の命を出したところ、『杏花がいない』ということになり……騒ぎになったのです」

(ぎゃーーーー!! 蘭馨、まじでごめーーーん!!)

私は思わず頭を抱えた。

これは、私の「断れない病」と、誰にでもいい顔をする「八方美人スキル」が招いた歴史的な大惨事だ。罪悪感で胃に穴が開くどころか、胃酸で床まで溶けそうだ。

「そして、ここからが重要です」

姚明の声が一段低くなり、室内の温度が下がった気がした。

彼は景皇子を直視し、告げた。

「皇帝陛下は、ご自身の召喚に応じなかったことに激昂……ではなく、深く傷つき、こう解釈されました。『朕が杏花と過ごし、彼女を帰らせたあと、杏花は何者かにさらわれたに違いない』と。錯乱と嫉妬、そして愛憎のあまり、禁軍(近衛兵)の中でもえり抜きの精鋭部隊に極秘命令を出されました」

「内容は?」

「『杏花を連れ去った賊を見つけ次第、殺しても構わぬ。いや、八つ裂きにして首を刎ねて持って参れ。ただし――杏花は無傷で連れ戻せ』……と」

「殺しても構わぬ、か……。ふっ、まああの父上ならば当然の沙汰だな」

景皇子の目が、鋭く細められた。

その瞳の中で、蒼い炎が揺らめいたように見えた。

皇帝はまだ知らないとはいえ、実の息子に対し、処刑許可を出したということだ。

あの昼間、「好きだ」「孤独だ」と甘い瞳で語り、私に高価な装飾品を贈ってきた皇帝が。

我が子を、恋路を邪魔する「賊」として排除しようとしている。

親子という血の繋がりさえも、あの人の渇望の前では紙切れ同然なのか。私は恐怖で震えた。

「そして華妃かひ様ですが……彼女もまた、重篤な禁断症状が出ております」

姚明の美しい顔が、侮蔑と哀れみで微かに歪んだ。

景陽宮けいようきゅうからは、昼夜を問わず獣のような悲鳴と、陶器が割れる破壊音が響き渡っております。

スマホは手元にあれど、『封印パスワード』なるものがわからず、画面は真っ暗なまま。

『私の顔が! 真実の美が見えないわ!』

『あの鏡がないと、私はただの醜いおばさんになってしまう! 明かりを消して! 鏡を割りなさい!』

そう叫び回り、手当たり次第に物を投げつけ、宮女たちに当たり散らしております。すでに何人もの女官が、額から血を流して運ばれました」

「……スマホ依存症の、成れの果てね」

私は深く溜息をついた。

加工アプリという「電子ドラッグ」の味を知ってしまった人間に、現実ノーマルカメラの世界はあまりにも過酷で、残酷だ。

彼女はもう、フィルター越しの虚構の自分しか愛せないのだ。

私はかける言葉が見つからなかった。

華妃様の自業自得はおいておくとしても、私のせいで、景皇子は実の父親に命を狙われている。

これはもう、「ごめんなさい」で済むレベルの話ではない。私の存在そのものが、彼にとっての災厄になってしまっている。

「景皇子……私、やっぱり……」

私が弱気な言葉を吐こうとした、その時だった。

景皇子は顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめた。

その瞳に、迷いも、後悔も、恐怖さえもなかった。

「だが、渡さない」

力強い宣言。

低く、しかし部屋の空気を震わせるほどの覇気。

「杏花はモノではない。父上の寂しさを埋めるための愛玩人形でも、華妃の美しさを保つための便利な機械でもない」

彼は立ち上がり、私の椅子に手をかけた。

至近距離で、彼の熱っぽい視線が私を捕らえ、逃がさない。

「それに……お前は、私が生まれて初めて『生きたい』と願った、たった一つの理由だ」

ズキュゥゥゥン!!

本日二度目の心臓直撃弾。

待って。タイム。

今のセリフ、録音していいですか? いや、脳内ハードディスクの最重要保護領域に永久保存します。

何事にも冷めていて、生きることに執着を見せなかったあの皇子が、「生きたい」と言った。

それも、私のために。

でも、ちょっと待って。一度冷静になろう。

この隠れ家のパーティーメンバーと、私を取り巻く状況を見渡してみる。

皇帝(殺意レベルの独占欲と重い愛)→ 私 ← 景皇子(生存理由レベルの激重な愛)

沙龍(狂信的な献身と重い愛)→ 景皇子

姚明(人生捧げた崇拝と重い愛)→ 沙龍

この相関図、湿度が高すぎる。

日本の梅雨もびっくりの湿気だ。昼ドラなら視聴率30%超え確実のドロドロ加減だ。

全員が全員、矢印の太さが極太マジックだ。

唯一、私だけが「えへへ、みんな仲良くしようよ~(涙目)」みたいな、ふざけた軽い矢印を出しているのが申し訳なくなってくる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ