1/3の純情な感情
「それでは、私は片付けがありますので。失礼いたします」
沙龍が手際よく、まるで舞うような所作で空になった食器をまとめ、鼻歌交じりに台所の奥へと消えていった。彼女の後ろ姿からは、朝の光のような健全さと、揺るぎない生活力が漂っている。パタン、と古びた木の扉が閉まり、遮断された空間には、私と、先ほどから居心地が悪そうに身じろぎしている美貌の元・悪徳宦官、姚明だけが残された。
部屋の空気が、急に重く、そして妙に擽ったいものに変わる。朝の静けさの中、パチパチと薪が爆ぜる音だけが響く。姚明は、私と目を合わせようとせず、窓の外の景色を眺めているふりをしているが、その横顔は明らかに硬い。
(……ふふん。これは、好機だわ)
私の「お節介おばちゃん」スイッチが、カチリと音を立てて入った。私は木のスプーンをことりと置き、テーブルに身を乗り出した。獲物を追い詰める刑事のように、あるいは恋バナに飢えた女子高生のように。恐る恐る、しかしダイレクトに、核心を突く。
「ねえ、姚明。……ぶっちゃけ、まさかとは思うけど」
私の声に、姚明がわずかに反応する。彼はゆっくりとこちらを向き、ガラス玉のような瞳で私を見下ろした。
「な、なんです? その、ねっとりとした視線は。気味の悪い」
「あんた、沙龍のこと……好きなの?」
「っ!!」
図星だったのか、それとも予想外の角度からの攻撃だったのか。姚明がビクリと、椅子がガタつくほど大げさに肩を跳ねさせた。いつもは氷の彫刻のように冷たく、感情を一切映さないその顔に、劇的な変化が訪れる。透き通るような真っ白な陶器の肌が、カッと音が出そうな勢いで耳の先まで赤くなり、ハッと我に返って青ざめ、そしてまた羞恥で赤くなる。まるで壊れかけた信号機のように、忙しい点滅を繰り返しているのだ。
「な、ななな、何を仰るのですか! そ、そのような不敬な! 滅相もない! 言語道断です!」
彼は早口でまくしたて、袖で口元を隠した。その瞳は泳ぎまくっている。
「不敬って、相手は皇族じゃなくて沙龍でしょ? ただの侍女相手に、なんでそんなに動揺するのよ。そこまで取り乱す方が怪しいわよ」
「た、ただの侍女ではありません! あの方は私にとって……闇の中に差した一筋の光! 泥沼から私を救い上げてくれた人なんです! 」
「重い重い……つまり?」
姚明は深く深呼吸をし、乱れた呼吸を整えようとしたが、その声はまだ上ずっていた。
「もちろん、幼少期よりの長き付き合いですので、姉のように慕っております。人として尊敬しております。心から敬愛しております!」
「敬愛って……教科書みたいな答えね。そうじゃなくて、ほら、もっとこう……」
私はニヤニヤしながら、さらに彼を追い詰める。
「『異性』として! 男として、女として! ふとした瞬間にドキドキするとか、守ってあげたいとか、一緒にいたいとか、そういうのないの!?」
私が畳み掛けると、姚明の表情がふっと、風に吹かれた蝋燭の火が消えるように、暗く沈んだ。先程までの狼狽や赤面が嘘のように消え失せる。そこにあったのは、いつもの冷徹な仮面の下に隠されていた、深い深い「諦観」を纏ったような、静かで哀しい、壊れそうなガラス細工のような顔だった。
「……男として、ですか」
彼は自嘲気味に口の端を歪めた。それは笑顔の形をしていたけれど、泣き顔よりもずっと痛々しかった。彼はゆっくりと、自分の下腹部に視線を落とした。その視線の先にある、決定的な「不在」を確認するかのように。
「そんな。……貴女もお忘れですか? 私は宦官です」
静かな声だった。感情を押し殺した、凪いだ水面のような声。
「貧しさゆえに売られ、5歳で後宮に入る際、とうの昔に『男』を捨てた身。そのような俗世の欲、持ち合わせているはずもありません。……いいえ、持ち合わせていては、いけないのです」
「あ……」
しまった。私は息を呑んだ。現代の感覚で、恋愛トークの延長線上で、あまりにも軽はずみなツッコミを入れてしまった。ここは清朝。そして彼は太監(宦官)だ。彼らは去勢されることで、皇帝の女たちに手を出さない「安全な存在」として、後宮での権力と生存を許されている。それは、男性としての尊厳を代償にした、過酷な契約だ。彼にとって「男として好きか」という問いは、自身の喪失を抉り、古傷に塩を塗り込み、人間としての尊厳を土足で踏み荒らすようなものだったかもしれない。
「ご、ごめん。デリケートな話だったわね……。私、現代のノリでつい……本当に、悪気があったわけじゃなくて……」
私がしどろもどろになって謝ると、姚明は静かに首を横に振った。その動作は優雅で、そしてどこか寂しげだった。
「いいえ。……貴女のような天衣無縫なお人には、理解し難いことでしょう」
「天衣無縫……?」(それって、褒め言葉なの? それとも『デリカシーがない』って遠回しに言われてる?)
彼は一度長い睫毛を伏せ、そして再び私を見た。その瞳の奥には、消え入りそうな、けれど決して消えることのない、熾火のような残り火が揺らめいていた。
「ですが、そうですね。……男を失っても、心まで切り取られたわけではありません」
「え?」
「愛でる機能は失っても、愛しいと思う心臓は、まだここに動いているのです」
彼は、白く美しい手を、自身の左胸に当てた。麻の服の上からでも、その鼓動が伝わってくるようだ。
「美しいものを見て美しいと思い、大切な人を守りたいと願い、その笑顔のために全てを捧げたいと願う……たとえこの身が枯れ木となろうとも、想いだけは……朽ちることはないのです」
その仕草があまりにも切なく、私は言葉を失った。身体の一部を失っても、人は人を愛してしまう。報われないとわかっていても、物理的に結ばれることが不可能だとわかっていても、その想いは消せないのだ。いや、手が届かないからこそ、その想いは純化され、結晶のように硬く、美しくなっていくのかもしれない。彼の沙龍への想いは、恋というよりは、願いなのだろう。
姚明は、ふと我に返ったように咳払いをした。
「ゴホンッ!」
そして、瞬時にいつもの冷徹な仮面を貼り直す。甘い感傷も、人間らしい弱さも、すべて鉄壁の理性の下へ封じ込める。
「……お耳汚しをいたしました。今の戯言は、全てご放念を。他言無用ですよ。もし忘れないと、貴女の寝首をかきますよ」
「う、うん。ご放念しといてやるわ。……でも、姚明」
「なんです? これ以上喋ると、舌を抜きますよ」
彼は鋭い眼光で私を威嚇する。だが、今の私には、その威嚇すらも、傷つきやすい自分を守るためのハリネズミの棘のように見えた。
「あんた、意外といいやつなんじゃね?」
私がニカっと笑って言うと、彼は心底嫌そうな、虫唾が走るといった顔をした。
「……は! 心外です。侮辱ですか? 私は冷酷非道、血も涙もない悪徳太監・姚明です。利己的で、計算高く、残忍な男です。貴女のことも、隙あらば井戸に突き落とそうと虎視眈々と狙っていますので、ゆめゆめお忘れなきよう」
彼はフンと鼻を鳴らしてそっぽを向いたが、朝日に透けるその白磁のような耳は、まだ少し赤く染まっていた。素直じゃない。でも、その不器用さが、なんだか人間らしくて憎めない。
ふと、台所の方を見る。そこでは、沙龍が何事もなかったかのように、鼻歌交じりで鍋を磨いている。彼女の背中は明るく、たくましく、そしてどこまでも鈍感に見える。
彼女は気づいているのだろうか。この、血の繋がらない「弟」が向ける、深淵のような深く重い感情に。自分のために「男」を捨て、悪魔に魂を売り、それでもなお影から支え続ける、この献身に。
いや、聡明な彼女のことだ。気づいていて、あえて「手のかかる弟」という安全な枠に押し込めているのかもしれない。その枠から出してしまえば、二人の関係は壊れてしまうから。あるいは、彼女の心にはもう、他の誰かが住んでいて、他の誰も入り込む隙間がないから。
彼女にとっての一番は、揺るぎなく景皇子なのだから。
姚明は遠い目で、鍋を磨く沙龍の背中を見つめていた。そこには、決して届かないと知りながらも、手を伸ばさずにはいられない哀しい星を見上げるような、一方通行の情愛が漂っていた。
(前途多難だなぁ……この一行)
景皇子をみる沙龍。その沙龍をみる姚明。そして、その輪の外側で、冷めきったお粥の残りをすすっている私。
この奇妙で、切なく、一方通行だらけの逃亡劇。私の「ダメンズ・ウォーカー」としての勘が告げている。この旅は、きっと波乱に満ちたものになるだろうと。




