毒をもって毒を制す
食事が一段落し、お茶(といっても、茶葉は貴重なので、ほんのりと香りがついただけの白湯に近いものだが)を飲んでいる時だった。
窓の外が白み始め、柔らかい朝の光が室内の土壁を照らし、宙を舞う埃さえも黄金色に染め上げていく。
沙龍がふと、茶碗をコトリと置き、改まった表情で切り出した。
「景様」
「ん?」
「今後のために、一人、『極めて有能で、使い潰しのきく人材』を引き抜いてまいりました」
「人材? 誰だい?」
景皇子が片眉を上げる。
こんな人里離れた山奥の隠れ家に?
我々は追っ手から逃げている身なのに、人を増やすのか? リスクが高すぎるのではないか。
沙龍は立ち上がり、入り口の扉に向かって声をかけた。
その声色は、景皇子に向ける絶対的な敬愛を含んだものとは違う。少し厳しく、冷たく、しかしどこか奇妙な親愛を含んだものだった。
「入りなさい」
ギィィ……。
油の切れた蝶番が軋む音と共に、扉がゆっくりと、重々しく開いた。
強烈な朝の逆光を背負って、一人の男が静かに入ってきた。
その姿が影から光の中へと歩み出た瞬間。
私は飲んでいた白湯を、気管支の限界を超えて盛大に吹き出しそうになった。
「ぶふっ……!! げっ!!」
そこに立っていたのは、見間違いようのない、脳裏に焼き付いて離れないあの人物だった。
透き通るような、病的までに白い肌。日光の下で見ると、青い血管が透けて見えそうなほど儚い。
整っているが、作り物めいた冷たさを放つ鼻筋。
そして何より、一切の感情を映さない、磨き上げられたガラス玉のような瞳。
あの華妃の腰巾着にして、私を追い詰め、スマホを「妖術の板」呼ばわりして没収し、死刑にしようとした冷徹な太監(宦官)。
「よ、姚明!? あの悪徳宦官! なんでここに!?」
私はガタッと椅子を派手に鳴らして立ち上がった。
反射的に懐のスマホ(最強の武器兼命綱)を探すが、今は充電中で手元にない。丸腰だ。
敵だ。こいつは敵だ。
華妃の命令で私を始末しに来たのか?
それとも、景皇子の隠れ家を嗅ぎつけた追っ手か!?
「景皇子、逃げて! こいつは華妃の手先です! ヤバい奴です!」
私は叫んだ。
しかし、景皇子は動かない。むしろ、珍しい生き物を見るように、興味深そうにその男を見ている。
そして、姚明の様子もおかしい。
いつもの、人をゴミ屑のように見下ろす氷のような威圧感がない。
どこかバツが悪そうに視線を逸らし、肩をすぼめている。その美しい顔には、華妃の豪華な宮殿で見せた絶対的な傲慢さはなく、むしろ親に叱られた子供のような気まずさが漂っていた。
彼は、私の前ではなく、沙龍の前まで進み出た。
そして、その場に膝をつき、恭しく頭を下げたのだ。
「……お呼びでしょうか、姉上」
姚明が、まるで女神に祈りを捧げる信徒のように恭しく頭を下げたその瞬間、私の喉から言葉にならない悲鳴が迸った。
「はああああああああ!?」
私の絶叫が、狭い隠れ家の土壁に跳ね返り、梁に積もった煤をパラパラと落とさせるほどにこだました。
窓の外では、驚いた雀が一斉に飛び立つバサバサという羽音が聞こえる。
あねうえ?
今、この男は確かに「姉上」と言った。
あの感情を持たない冷徹なサイコパス宦官・姚明が。
華妃の腰巾着として、私をゴミのように見下し、スマホを「妖術の板」と断じて斬首しようとした、あの氷の彫刻のような男が。
この、そばかす顔で働き者、生活感溢れる沙龍のことを?
私は目を白黒させながら、二人を交互に見比べた。
右には、湯気を立てるお粥をよそっている、麻の前掛けが似合う「肝っ玉姉さん」風の沙龍。
左には、朝日を背負い、場違いなほど優雅な所作で跪く、白磁のような肌を持つ「ビスクドール」のような姚明。
「え、ちょっと待って。脳の処理が追いつかない。沙龍と姚明が、実の姉弟なの!?」
私はスプーンを持ったまま、食い入るように二人を観察した。
「似てなくない? DNAの仕事が雑すぎない? 沙龍はなんていうか、大地の恵みを感じさせる健康的な『そばかす美人』だけど、姚明は……無機質なAIロボットというか、工房で作られた最高傑作の『人形』みたいだし……」
肌の質感からして違う。沙龍は太陽に愛された小麦色、姚明は月の光でできたような青白さ。
目つきも違う。沙龍は意志の強い温かい瞳、姚明は全てを拒絶するガラス玉。
共通点が見当たらない。強いて言えば、二人とも「本気で怒らせると物理的にヤバそう」というオーラくらいか。
私の失礼極まりない感想を聞き流し、沙龍は涼しい顔でお茶(白湯)をすすりながら言った。
その態度は、弟(仮)の登場にも眉一つ動かしていない。
「いいえ、杏花姫様。私たちに血の繋がりはありません」
「へ? 血が繋がってない? じゃあなんで……」
すると、それまで無表情を貫いていた姚明が、急にモジモジとし始めた。
あの絶対零度の能面が崩れ、人間らしい、いや、恋する乙女のような恥じらいの色が浮かんでいる。
「いや、その、血縁などという些末なことは問題ではなくて……あねうえ……その…… やはりここでは格格様と呼んだほうがいいですか……」
彼は頬をほんのりと桃色に染め、視線を泳がせている。
気持ち悪い。いや、失礼。
あまりのキャラ崩壊に、背筋がゾワゾワする。
あの冷酷な太監が、初恋の中学生みたいな反応をしているのだ。
しかし、姚明は胸に手を当て、うっとりと沙龍を見上げた。
その瞳に宿る光は、単なる家族愛や、恩人への感謝といった健全なレベルを遥かに超えているように見えた。
熱い。
ドロドロと熱く、それでいて崇拝に近い、重たくて粘着質な湿度がそこにある。
これはなにかある。
私の「ダメンズ・ウォーカー」としての勘と、長年培った「昼ドラ・少女漫画脳」が警鐘を鳴らしている。
こいつ、沙龍に対して「ただの姉弟」以上の感情を持ってる。しかもだいぶ拗らせてる!
一方、沙龍の方は全く気にしていない様子。
「はいはい、また始まった」という感じでスルーしている。
一方通行な想いと、噛み合わない温度差。この狭い空間に、奇妙な空気が充満している……!
「沙龍、これはどういうことだ?」
景皇子が冷静に問いかける。彼も初耳だったらしい。
沙龍は大きくため息をつき、腕を組んで姚明を見下ろした。
「この子が宮廷ではずる賢いことを多くしているということを聞きます。……根は悪い子ではないのですが、どうも性格がひん曲がって育ってしまいまして」
「あねうえ、じゃなかった、格格様、人聞きが悪いです。出世は実力です。生き残るための知恵です」
姚明がむっとした顔で言い返す。
その表情は、私が知っている「無機質な能面」ではなく、姉に口答えする生意気な弟のそれだった。
「黙りなさい。今回、華妃の不興を買って便所掃除に左遷されたと聞きましたよ。だから私が拾ってやったんでしょう」
沙龍が冷たく言い放つ。
そうだった。私のスマホ加工写真のせいで、彼は華妃に見限られ、エリートコースから転落したのだった。
それが回り回って、ここで再会することになるとは。運命の悪戯にも程がある。
「便所掃除……」
姚明の美しい顔が歪む。屈辱の記憶が蘇ったのだろう。
彼はゆっくりと私の方を向き、ガラス玉のような瞳でじっと睨みつけた。
「……全ては、そこの方のせいです!」
「ひっ」
「この方が持ち込んだ『妖術の板』のせいで、私の完璧な計画は音を立てて崩壊し、華妃様の審美眼は狂い、私は汚物まみれになりました」
殺気。
明確な殺気が私に向けられている。
ヤバい。恨まれている。逆恨みもいいところだが、彼にとっては私が全ての元凶なのだ。
「ま、待って! あれは生き残るための正当防衛で……!」
「言い訳無用。……ですが」
姚明はふっと殺気を消し、再び沙龍に向き直った。表情が瞬時に「忠犬」に戻る。
「あねうえ、いや、格格様の命令とあらば、従うほかありません。……景皇子。本日より、この姚明、不本意ながら貴方様の陣営に加わらせていただきます」
彼は不承不承といった様子で、しかし優雅に景皇子に一礼した。
「華妃の弱点、後宮の裏ルート、資金の隠し場所……全て把握しております。あの女狐がどこにへそくりを隠しているか、誰と繋がっているか、全てデータとして私の頭に入っております。必ずやお役に立つでしょう」
「ほう。それは心強い」
景皇子がニヤリと笑う。
悪役が味方になった瞬間の、あの頼もしさと不安が入り混じった感覚。
「毒をもって毒を制す」ということか。
昨日の敵は今日の友……になるのか? 本当に? 寝首をかかれない?
「ただし」
姚明は立ち上がり、私をビシッと指差した。
「その女の『顔加工』だけは、二度と御免です。あれは文明を滅ぼす邪法です。人の顔をあそこまで歪めるとは……吐き気がします」
「同感ね。あれは詐欺よ」
沙龍があっさりと同意する。
私はガクッと項垂れた。
私の唯一の特技(顔加工)が、この陣営では「邪法」扱いされている。前途多難だ。




