失われた胃袋を求めて
チュンチュン……。
静寂な山間の朝を告げる、控えめな小鳥のさえずり。
それと共に、鼻腔をくすぐる香ばしい、そしてどこか懐かしい穀物の甘い匂いが、まどろみの底にいる私を現実へと引き戻した。
「……んあ?」
重い瞼をこすりながら、私はのっそりと半身を起こした。
見慣れない低い天井。煤けた梁。土壁特有の乾いた匂い。
一瞬、ここがどこかわからなくなり、記憶の糸を手繰り寄せる。
ああ、そうだ。私は昨日、イケメン皇子と命がけの、そしてちょっとときめく逃避行を繰り広げ、この隠れ家にたどり着いたのだった。
冷宮の廃墟でもなく、華妃様の豪華絢爛な寝室でもない。ここは、地図にも載っていないような名もなき山村の、古びた民家だ。
薄い布団を跳ね除けると、山の冷気が容赦なく肌を刺す。
ブルッと身震いしながら視線を向けた先、土間にある小さな台所では、すでに白い湯気が優しく立ち上っていた。
窓の外はまだ、夜と朝の境界線にある深い群青色だ。
太陽さえ顔を出していないというのに、そこに立つ人物――沙龍は、とっくに起きて活動していた。
一糸乱れぬ動作で髪をきっちりと結い上げ、薪をくべ、鍋をかき混ぜている。
その背中は凛としていて、一切の無駄がない。かまどの赤い火が彼女の横顔を照らし出し、質素な麻の服を着ているにもかかわらず、そこには一種の「聖域」のような神々しささえ漂っていた。
「おはようございます、杏花姫様。お目覚めですか?」
私が起きた気配を背中のセンサーで察知したのか、彼女は鍋から目を離さずに声をかけてきた。
「お、おはよう……沙龍、早いね……」
「これくらい当然です。陽が昇る前に主の食事と支度を整えるのが、私の務めですから。さあ、井戸端に水を用意してあります。お顔を洗ってらしてください」
完璧だ。
手際が良すぎる。
かいがいしく働くその背中を見ながら、私は心の中で(悔しいけど)認めざるを得なかった。
(この子……絶対にいい奥さんになるわ……。景皇子の胃袋も、生活リズムも、こうやって赤ちゃんの頃からガッチリ掴んできたわけね……)
昨日聞いた「乳兄妹」という関係。
それは単なる幼馴染以上の、同じ命の源を分け合い、生存を共にした絆だ。
彼女は景皇子の影となり、生活を支え、こうして温かい食事を作り続けてきたのだろう。その積み重ねた歴史の重みを感じると、ポッと出の「ATM兼カメラマン」である私など、入り込む隙間なんて1ミリもない気がしてくる。
だが、昨夜の「ナイフ突き立て事件」――『景様を悲しませたら始末します』という、あの背筋も凍るヤンデレ宣言――を思い出し、私は喉まで出かかった称賛の言葉をぐっと飲み込んだ。
ここで彼女を褒めるのは、ライバルに塩を送るようなものだ。
負けてたまるか。私はまだ、土俵に上がってすらいないのだから。
「い、いただきまーす!」
顔を洗い、いてつくような冷たい水で無理やり目を覚ました私は、負け惜しみのように大きな声を出して食卓についた。
そこには、昨夜の質素なスープとはまた違う、清の時代の庶民の朝食が並んでいた。
煌びやかな宮廷料理のような派手さはない。金箔もフカヒレもない。
だが、その湯気の向こうに見える料理は、不思議とどんなご馳走よりも食欲をそそる輝きを放っていた。
主食は、粟をじっくりと煮込んだ黄金色の**『小米粥』**。
とろりとしていて、穀物の素朴な甘い香りが漂う。米のお粥よりも黄色味が強く、見るからに栄養が凝縮されているようだ。
おかずには、小皿に盛られた**『辣蘿蔔』**。
千切りにした大根を、唐辛子と酢、そしてごま油で漬け込んだものだ。鮮やかな赤色が、黄金色のお粥によく映える。
そして、主食の横に添えられているのは、黄色い円錐形をした不思議なパンのようなもの。
**『窩頭』**だ。
トウモロコシの粉を練って蒸し上げた、北方の主食。底に指で穴を開けて蒸す独特の形が、鳥の巣(窩)に似ていることからそう呼ばれるらしい。
「ん〜っ! 温まるぅ〜!」
木のスプーンで小米粥を一口すすると、優しい甘みが冷えた胃袋にじわじわと染み渡る。
砂糖を入れているわけではないのに、穀物本来の甘さが引き出されている。
手間暇かけて、弱火でコトコトと、愛情を込めて煮込まれた証拠だ。
次に、窩頭を手に取る。
ずっしりと重い。フワフワのパンとは違う、密度の高い重量感。
かじりつくと、少しボソボソとした食感だが、噛めば噛むほどトウモロコシの香ばしさと素朴な旨味が口いっぱいに広がる。
そこへ、辣蘿蔔を一切れ放り込む。
カリカリッ!
心地よい歯ごたえと共に、唐辛子のピリッとした辛味と、酢の酸味が弾ける。
これが、お粥や窩頭の淡白な味と絶妙にマッチする。
甘み、辛味、酸味、そして穀物の香り。
無限に食べられそうだ。
華美ではないけれど、体の底から生命力が湧いてくる味。
これが「生きるための食事」なのだと実感する。
向かいでは、景皇子も無言で、しかし満足そうに窩頭をかじっている。
粗末な木の椅子に座り、継ぎ接ぎだらけの麻の服を着ていても、彼の所作は優雅そのものだ。長い指が窩頭を割る仕草さえ、絵画のワンシーンになる。
彼は小米粥を最後の一滴まですすり、ふう、と白く美しい息をついた。
「……美味いな、沙龍。やはりお前の作る飯が一番落ち着く。生き返るようだ」
「もったいないお言葉です。宮廷のような食材が手にはいらず、このような粗末なもので申し訳ございません。景様」
沙龍が嬉しそうに頬を染め、絶妙なタイミングでお茶の入った器を差し出す。
その阿吽の呼吸。入り込む隙がない。
二人の間には、言葉にしなくても通じ合う「生活の空気」が流れている。
ちくしょう、見せつけやがって。
今の私には、彼の胃袋を満たす術がない。
おばあちゃんの思い出の手羽先くらいしか、武器がない。
くそう、見てなさいよ。
いつか、その胃袋のデータを上書き保存してやるんだから。
私は残りの窩頭を力強く噛み締めながら、新たな野望(レシピ開発)に闘志を燃やすのだった。




