愛とは、互いに見つめ合うことではなく、共に同じ方向を見つめること
「それで……ぶっちゃけ、沙龍さん的には、景皇子のこと、どう思ってるの?」
おばあちゃんの「とんかつ談義」で誤解が解け、胃袋も心も満たされてすっかりリラックスした私は、空になった木の椀を指先で回しながら、恋バナにおける鉄板にして最強の質問を投げかけた。
女子会。それは時と場所を選ばない。
たとえここが逃亡先の隠れ家で、外にはいつ追っ手が来るかわからない漆黒の闇が広がっていようとも。相手が初対面の「乳兄妹」だとしても。
女が二人集まり、夜が更ければ、話題が「男」に向かうのは、万有引力の法則と同じくらい絶対的な宇宙の真理である。
それに、私の中の眠れる獅子――もとい「お節介なおばちゃん人格」が疼いていた。
クールでミステリアス、だけどちょっと抜けている美形皇子と、それを影から献身的に支える地味だが家庭的な幼馴染。
このカップリング、現代の漫画やドラマなら王道中の王道だ。もしここに真実の愛があるなら、私は潔く身を引いて、二人の仲を取り持つ「いい人」ポジションに収まるのもやぶさかではない……かもしれない。(ちょっと惜しいけど。だいぶ惜しいけど)。
沙龍は、私が食べ終わった食器を手際よく重ね、表情一つ変えずに即答した。
その動きには一切の無駄がなく、長年染み付いた従者としての矜持と、鉄壁の理性が感じられる。
「どう、とは? 景様は私の主です。この命にかえてもお守りすべき方であり、心から尊敬申し上げております」
模範解答だ。
就職面接なら百点満点だが、女子会では赤点ギリギリのつまらなさである。
教科書通りの答えに、私は「あーあ」とわざとらしく息を吐き、唇を尖らせた。
「ふーん……。尊敬、ねぇ。忠誠心、ねぇ」
私はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべ、テーブルに肘をついて、彼女の顔を下から覗き込んだ。
ろうそくの頼りない灯りに照らされた彼女の横顔は、そばかすこそあるが、凛としていて意志が強そうだ。だが、その頑なな「鉄仮面」の裏に、何か柔らかく、甘酸っぱいものを隠している気がしてならない。
「それだけ? 本当に? 心臓がトクンってなったり、『好き』とか思ったりしないの? ほら、異性として」
その瞬間。
ガタンッ!
沙龍の手から、木のお盆が滑り落ちそうになった。
慌てて空中でキャッチしたものの、乗っていた茶碗たちがカタカタと小刻みに震え、カスタネットのような音を立てる。
静寂に包まれた室内に、その音はやけに大きく、気まずく響き渡った。
「は……はいっ!? な、ななな、何を仰るのですか!?」
さきほどまで「氷の侍女」のごとくクールで、私のATM体質を一瞬で見抜くほど鋭かった彼女が、みるみるうちに顔を真っ赤にして狼狽え始めた。
頬だけでなく、耳の先、首筋までが見る見るうちに朱に染まっていく。視線は泳ぎまくり、まるで捕らえられた小動物のようだ。
「と、とく、得、『好き』とかそういう不埒なアレじゃないに決まってるでしょ! 現に立場が違いすぎます! あの方は高貴な皇子様、私はただの侍女……天と地、月とスッポンほどの差があるのです! そのような不敬な感情、抱くことさえ許されません! あってはいけないのです!」
早口でまくしたてる彼女の声は、最後の方は裏返って悲鳴のようになっていた。
図星だ。分かりやすすぎる。
「あらあら〜? 沙龍さーん、お声が大きいですよ〜? この家、壁は薄いですよ〜? すぐそこの部屋で寝ている景様に、全部聞こえちゃいますよ〜?」
私はここぞとばかりに、のんべえのOLが新入社員をいじる時のトーンで囁いた。
「っ……!」
沙龍はハッとして、慌てて両手で自分の口元をギュッと押さえた。その瞳には、羞恥のあまり涙さえ浮かんでいる。
この反応。
今まで「仕事の出来るクールビューティー」だと思っていたのに、恋愛の話題になった途端に露呈するこのポンコツぶり。
このギャップ。
私は驚くと同時に、猛烈に面白くなってきた。
(これは……完全に脈ありだわ。しかも、『身分違いの恋に自ら蓋をして、自分の気持ちを殺して陰ながら支えている健気なヒロイン』タイプ!)
私の脳内データベースが高速検索をかける。
『幼馴染』『主従関係』『身分差』『密かな恋心』『絶対服従』。
萌え要素のフルコースじゃないか。ロイヤルストレートフラッシュだ。
私の中の「応援スイッチ」兼「面白がりスイッチ」が完全にオンになった。
「でもさ〜、乳兄妹ってことは、小さい頃からずーっと一緒だったんでしょ? オムツ替えたりとか、一緒にお風呂入ったりとか、泥んこ遊びしたりとかの仲なんでしょ? ほんとうは情が移ってたりして〜?」
私は更に畳み掛ける。逃がしはしない。
「ち、違います! そんな、そんなことじゃありません!」
沙龍はブンブンと、首がちぎれそうな勢いで横に振った。その勢いで、きっちり束ねていた髪が乱れ、後れ毛が顔にかかる。
「あの方は……そう、弟みたいなものです!
手のかかる、わがままで、すぐに無茶をして、放っておくとすぐ死にそうになる、どうしようもない弟!
それ以上の感情など、断じてございません! 私は姉として、乳母の娘として、お尻を叩いてお世話をしているだけです!」
「ふーん……弟、ねえ……(血、繋がってないけどね)」
「そうです! 弟です! それ以外ありえません! ありえてたまるもんですか!」
彼女の必死すぎる否定は、逆に肯定にしか聞こえなかった。
「手のかかる弟」と言い切るその表情には、ただの家族愛と呼ぶにはあまりにも湿度が高く、熱っぽい感情が混じっていた。
それはまるで、煮えたぎる鍋に無理やり重たい蓋をして、「これは煮物ではありません」と言い張っているようなものだ。
吹きこぼれている。完全に恋心が吹きこぼれているよ、沙龍さん。
私は乱れた彼女の髪を見ながら、ニヤリと笑った。
なるほど。景皇子はとんだ罪作りな男だ。
そして、この旅は思った以上に「複雑な三角関係」になりそうだぞ、と私は密かに身震いしたのである。
◇
私がさらに調子に乗って突っ込みを入れ、彼女の可愛らしい本音を引きずり出そうとした、その時だった。
ふっ、と。
沙龍の周りの空気が、変わった。
それは、窓の隙間から冷たい夜風が入り込み、ろうそくの火を一瞬だけ大きく揺らした時のような、劇的な変化だった。
先ほどまでの、赤面して取り乱し、手をパタパタとさせていた純朴な村娘の気配が、嘘のように霧散した。
代わりに室内に満ちたのは、絶対零度の冷気。
彼女の猫背気味だった背筋がピンと伸び、乱れた髪を無造作にかき上げたその仕草には、歴戦の兵士のような、一切の隙のない殺気が宿っていた。
彼女は、真顔で私を見据えた。
その瞳からは感情の色が消え失せていた。暗く、深く、底知れぬ沼のように静まり返り、その奥底に剃刀のような鋭利な光だけが怪しく明滅している。
「……でも」
低く、静かな声。
さっきまでの上ずった可愛らしい声とは別人のような、腹の底に響くドスの効いたトーン。
「もし、景様を害するものがいたら。あの方の輝きを曇らせ、その御心を傷つける不届き者がいたら……私が始末します」
「え?」
私はスプーンを持ったまま、石像のように固まった。
始末?
今、平和な女子会には相応しくない、穏やかじゃない単語が飛び出してきませんでした?
沙龍は、台所のまな板の上に置いてあった果物ナイフを、音もなく手に取った。
柄は古びているが、刃は怪しいほど美しく研ぎ澄まされている。
彼女はそれを指先で弄びながら、無意識なのか、それとも演出なのか、ろうそくの揺れる炎にその切っ先を反射させた。
キラリ、と冷たい銀色の光が私の眼球を射抜く。
「景様は、優しすぎます。才能に溢れ、誰よりも王の器をお持ちなのに、情に厚く、非情になりきれない」
沙龍は独り言のように、うっとりと、しかし呪詛のように呟く。その視線は私を通り越し、虚空の彼方を見つめていた。
「宮廷は魔窟です。狐と狸が化かし合い、笑顔で毒を盛り合う地獄です。あの方の清らかな優しさは、あそこでは致命的な弱点にしかならない。
……だからこそ、私が守らねばならない。影となり、盾となり、時には剣となって、あの方の足元にある泥を全て排除せねばならないのです」
彼女の言葉には、狂信的なまでの忠誠心と、そして煮詰めたジャムのように重く、歪んだ愛が滲んでいた。
それは「恋」などというパステルカラーの甘酸っぱいものではない。もっとどす黒く、逃れられない業のような執着だ。
「……あの方を傷つけたり、裏切ったり、利用しようとする害虫は、たとえ誰であろうと排除します。物理的に、社会的に、この世から跡形もなく消し去ります」
彼女は私の方へ一歩、音もなく踏み出した。
ミシッ、と床板が悲鳴を上げる。
そして、彼女はニッコリと――口角だけを吊り上げ、目は全く笑っていない能面のような笑顔で私を見下ろした。
「杏花姫様。……貴女も、例外ではありませんよ?」
「ヒッ……!」
私は思わずスープを鼻から吹き出しそうになり、椅子ごと後ろにひっくり返りそうになった。
怖い。
めちゃくちゃ怖い。
訂正する。この子、ただの「ツンデレ幼馴染」じゃない。
「忠誠心」という名の皮を被った、ガチの「ヤンデレ」だ。
しかも、精神的に追い詰めるタイプではなく、包丁を持たせたら右に出る者はいない「物理攻撃力カンスト型」の実力行使派だ。
(やばい……ここに新たな恋のライバル登場!? しかも私なんて瞬殺できる武闘派!?)
私の背中を、冷や汗が滝のように流れる。
この隠れ家、追っ手から逃れた安全地帯だと思っていたけれど、実は虎の穴だったのではないか。
景皇子という唯一の猛獣使いが寝てしまった今、私は檻の中で腹を空かせた猛獣と二人きりなのだ。
「け、景皇子が貴女を大切に想っているから、私もお世話をします。貴女が景様の役に立つ限りは、最高の待遇でおもてなししましょう」
沙龍はナイフの切っ先を、ゆっくりと、私の鼻先へと向けた。
「ですが……もし貴女が、景様を悲しませるような真似をしたら。あの方の信頼を裏切り、危険に晒すようなことがあれば」
彼女の手が、目にも止まらぬ速さで動いた。
ストン。
乾いた、しかし重たい音が響いた。
沙龍はナイフを、まな板の上に転がっていた小さな林檎に突き立てたのだ。
正確無比に、その芯を貫いて。
「その時は、どうなるか……わかっていますね?」
パカン、と林檎が綺麗に真っ二つに割れた。
まるで、私の首が胴体からお別れする未来を暗示するかのように。
「は、はいぃぃ! 肝に銘じますぅぅ! 私は景様の忠実な下僕ですぅぅ!」
私は直立不動で敬礼した。
膝の震えが止まらない。
おばあちゃん、助けて。
ここ、全然安全地帯じゃなかったよ。
イケメン皇子とのロマンチックな逃避行、その先に待っていたのは、最強の守護者にしてラスボス候補との同居生活だったなんて。
前門の虎(皇帝)、後門の狼(景皇子)、そして家庭内のヤンデレ(沙龍)。
私の周り、命を脅かす危険人物しかいないじゃない!
私の完全降伏を確認すると、沙龍はふっと表情を緩め、憑き物が落ちたようにいつもの「無愛想だが働き者の侍女」の顔に戻った。
ナイフを置き、手ぬぐいで丁寧に手を拭く。
「聞き分けが良くて助かりますわ。さあ、お湯が沸きました。旅の汗を流してらしてください。着替えも用意してあります」
「あ、ありがとう……ございます……」
「湯加減を見ておきました。……景様がお好きな温度にしてありますから、きっと姫様にも合うはずです」
「……っ!」
彼女は優雅に浴室へ案内してくれた。
「景様がお好きな温度」。
その言葉の端々に滲み出る、「あの方のことは全て私が一番知っている」という強烈なマウントと執着に、私は再び戦慄した。
その背中は、あまりにも頼もしく、そして私の命運を握るかのように恐ろしかった。




