血よりも濃い
たどり着いたのは、深い山ひだに隠されるようにして存在する、小さな寒村だった。
月明かりさえも鬱蒼とした木々の梢に遮られ、地上には墨汁をぶちまけたような濃密な闇が広がっている。
馬の蹄が乾いた土を踏みしめるたび、その音は夜の静寂という巨大な綿に吸い込まれ、消えていく。
紫禁城からの決死の逃避行。
脳内を駆け巡っていたアドレナリンが枯渇した今、代わりに鉛のような疲労感が全身にのしかかっていた。背後で私を支えてくれていた景皇子の体温だけが、この冷たい世界で唯一の、確かな熱源だった。
「……ここだ」
景皇子が手綱を引き、馬を止めた。
目の前には、長年の風雪に耐えてきた古木のようにひっそりと佇む、一軒の古びた民家があった。
豪華絢爛な宮廷とは対極にある、質素で、どこか懐かしさを感じさせる佇まい。
しかし、私の心臓は安堵よりも先に、けたたましい警鐘を鳴らしていた。
こんな人里離れた場所に、皇子の「隠れ家」?
まさか、愛人を囲っている別宅とかじゃないでしょうね?
景皇子は馬を降り、私を抱き下ろすと、慣れた足取りで扉へと近づいた。
トントントン。
独特のリズムを刻むノックの音が、夜気に響く。
「……景様?」
やがて、錆びた蝶番がきしむ音と共に扉がわずかに開いた。
漏れ出した暖かなオレンジ色の灯火の中に、一人の若い女性の姿が浮かび上がった。
「おかえりなさいませ。……まあ」
彼女は私たちを見るなり、小さく息を呑んだ。
「お二人ともずぶ濡れで泥だらけではありませんか。夜風は体に毒です。その格好では目立ちますし、まずはお着替えを」
彼女は警戒する様子もなく、慣れた手つきで私たちを中へ招き入れた。
そのあまりにも自然すぎる振る舞い。
「おかえりなさい」という言葉の、日常に溶け込んだ響き。
そして何より、景皇子に向けられた、遠慮のない親しげな眼差し。
(えっ! 景皇子に……女!? 誰よこの女!!)
私の脳内で、空襲警報級の「ジェラシー・アラート」が鳴り響いた。
私の「ダメンズ・ウォーカー」としての悲しい経験則が叫んでいる。
これは怪しい。非常に怪しい。
「実は幼馴染の許嫁がいて……」とか、「身分違いの恋人を人目を忍んで囲っていて……」とか、そういう昼ドラ展開じゃないの!?
私は案内された奥の部屋で、渡された村娘風の簡素な綿服に着替えながら、モヤモヤとした嫉妬心でキャンプファイヤーができそうなほど燃え上がっていた。
「……ふん、なによ。私なんて所詮、行きずりの『ATM兼カメラマン』ってこと?」
ブツブツと文句を言いながら、私は帯を締める。
鏡はないが、手触りでわかる。ゴワゴワとした麻の感触。数時間前までの宮廷でのシルク生活が、遠い前世の記憶のようだ。
でも、不思議と嫌ではなかった。むしろ、この土の匂いのする服の方が、本来の「山田花子」には似合っている気がした。
「お食事の準備ができていますよ」
着替え終わった私が一人で脳内会議を開催していると、先程の女性が呼びに来た。
彼女は扉枠に寄りかかり、私の顔をじっと観察した後、ふっと小さく、自嘲気味に笑った。
「杏花姫様。……そんなに警戒なさらないでください。私から、貴女様を食ってやろうという気概は感じられませんか?」
「えっ?(心読まれた!?)」
私はビクリとして後ずさった。
彼女はため息をつき、家事のために乱雑に束ねた髪をかき上げた。
「私は、景皇子の侍女の沙龍と申します。……そうですね、誤解を解くには、まずはお顔を拝見するのが一番かと」
彼女は近づき、手燭の明かりを自分の顔に向けた。
ろうそくの揺れる火に照らされた彼女の顔を、私は改めてまじまじと観察した。
そこにあったのは、「傾国の美女」でも「薄幸の可憐なヒロイン」でもなかった。
顔中に散らばる無数のそばかす。
髪は艶がなく、実用性重視でひっつめられている。
そして何より、目元には現代日本で激務に追われていた頃の私と同じくらい、濃く、深い「クマ」が飼い慣らされている。
手を見れば、あかぎれとささくれだらけ。明らかに、長年の過酷な水仕事と労働に耐えてきた「生活者の手」だ。
(……ふっ。大丈夫。このルックスなら、私、圧倒的に勝てる(笑))
私の失礼極まりないマウント思考が、光の速さで駆け巡った。
いや、人として最低なのはわかっている。でも、これは恋する乙女(と書いてATMと読む)の生存本能なのだ。
ライバルが絶世の美女なら勝ち目はないが、この「お疲れ気味の苦労人」オーラ全開の女性なら、少なくとも「色恋」の線は薄そうだ。
私の安堵を知ってか知らずか、沙龍は「やれやれ」といった顔で背を向けた。
「さあ、こちらへ。温かいものを召し上がってください」
彼女の後ろをついていき、居間に入る。
そこには、湯気を立てる鍋と、素朴な木の器が並べられていた。
そして、そこへ。
「沙龍、世話をかけるな」
着替えを終えた景皇子が入ってきた。
その瞬間、薄暗い部屋の照度が一段階上がった気がした。
彼が着ているのは、私と同じ、村人が着るような藍染の粗末な麻服だ。装飾など一切ない。
それなのに。
なぜかパリコレの一流モデルが「あえてヴィンテージを着崩しました」という風にしか見えない。
長い黒髪は無造作に下ろされ、濡れた毛先が白い首筋にかかっている。開いた胸元から覗く鎖骨のラインが、無駄に色っぽい。
(素材が良ければ、ボロ布を着てもオートクチュールになるというのは本当らしい……)
私は自分のヨレヨレ具合と比べて、少しだけ落ち込んだ。
「いえ。……とりあえずこの村の人達には銀子をバラマキ、仲間になってもらっております」
沙龍は淡々と報告しながら、私に視線を向けた。
「それで、景様。こちらの方が例の?」
景皇子は椅子に座り、私を紹介した。
「彼女は杏花。……とある事情で、宮廷から連れ出した。私の大事な……協力者だ」
「協力者……母からは……その、”いい人”だと……」
「……まあ……そんなところだ」
沙龍は意味ありげに片眉を上げたが、それ以上は追求しなかった。
景皇子は私を見つめ、そして沙龍を指差して言った。
「杏花、紹介しよう。彼女は沙龍。私の『乳兄妹』だ。普段は私のいる東宮で私に仕えている。この度は、この村に拠点を作るために先に遣わしたんだ」
「チキョウダイ……?」
私の頭の上に、巨大な「?」マークが浮かぶ。
チキョウダイ。地兄弟? 血兄弟? 知兄弟?
いや、さっき見た限り、似ても似つかない。
景皇子は天上の彫刻、沙龍は地上の苦労人だ。遺伝子の仕事ぶりが違いすぎる。
「先程の、私の乳母の実の娘が彼女ってことだ」
「あー、なるほど! あの宮廷で私を助けてくれた、強そうな女官さんの娘さんね!」
私はポンと手を打った。
確かに、あの老女官のテキパキとした仕事ぶりと、沙龍の無駄のない動きは似ている気がする。
でも……はてな?
ただの使用人の娘だからって、なんで「ちきょうだい」なんて、家族みたいな呼び方をするの?
血が繋がっているわけでもないのに、兄弟?
私の顔があまりにも「わかってない顔」をしていたのだろう。
景皇子は呆れたようにため息をつき、箸を置いた。
「もしかして、乳母という意味を知らんのか?」
「あー、えー、はい。ちょっとよくわからなくて……」
私は正直に答えた。現代日本にはない概念だ。
私の脳内辞書で「ウバ」といえば……。
(ウバといえば……ウーバーイーツ? 姥捨て山? 乳母車? 結局、おばあさんってことでしょ? おばあちゃんの子供だから、おばさん?)
「知らないならいい! 説明するのも手間だ」
景皇子は説明を放棄し、匙を投げた。
彼は少し不機嫌そうに、しかしどこか照れくさそうに私から視線を逸らした。
そして、立ち上がりながら言った。
「私はとりあえず、向こうの部屋で眠る。沙龍、杏花姫を頼む。……これなら、その、『二人きり』にはならんだろ?」
彼は私の顔を見ずにそう言うと、耳を赤くして、そそくさと別室へ行ってしまった。
バタン、と扉が閉まる。
「…………」
残された私と沙龍の間に、沈黙が流れる。
律儀だ。
あの人、本当におばあちゃんとの「結婚するまで二人きりになってはいけない」という約束を、こんな逃亡中の極限状況でも守ってくれている。
ただの逃避行のパートナーなら、同じ部屋で雑魚寝しても誰も文句は言わないはずなのに。
私の貞操と、おばあちゃんへの誓いを、何よりも尊重してくれているのだ。
「……不器用な方ですね」
沙龍がくすりと笑い、沈黙を破った。
彼女は手際よくスープを私の前に置いた。
「さあ、冷めないうちに召し上がってください。宮中のようには材料が揃わなかったのですが、根菜と干し肉のスープです」
「ありがとう……」
私は匙を手に取ったが、どうしても気になって仕方がなかったことを聞いた。
「ねえねえ、沙龍」
「はい?」
「あなたと景皇子って結局どんな関係なの? 『ちきょうだい』ってなんなの? ただの幼馴染とは違うの?」
「はあ……」
沙龍はやれやれといった様子で、自分の分のスープをかき混ぜながら答えた。
その口調は、出来の悪い生徒に教える忍耐強い教師のようだ。
「姫様のお国には乳母の習慣がございませんので? 簡単に言いますと……この国の習慣で、皇族の彦君は強くあらせねばならぬと、実母ではなく、その年に女の子を生ませた健康な女性から一人選び、その者が乳をやり育てるのです」
「うんうん」
「そこで、私の母が『乳母』として選ばれました。景様は、私の母の乳で育ったのです。当時、私も生まれたばかりでしたから」
「えっ!」
「つまり、私たちは同じ時期に、同じ母の乳を分け合って飲んで育った仲。血は繋がっていなくとも、同じ生命の源を共有した兄弟同然の間柄……それを『乳兄妹』と言うのです」
「お、お乳を……分け合った……!?」
衝撃の事実に、私はスプーンを取り落としそうになった。
私の脳内で、強烈すぎるイメージが再生される。
あのクールで、ミステリアスで、ちょっと俺様な景皇子が。
まだ言葉も話せない、ふにゃふにゃの赤ちゃんだった頃。
沙龍のお母さんの温かい胸に抱かれて、必死に、一生懸命に、バブバブとお乳を飲んでいた……!?
そしてその横には、同じく赤ちゃんの沙龍がいて……。
(か……可愛い……!!)
(そして……尊い……!!)
想像してしまい、鼻血が出そうになるのを必死で堪えた。
今の彫刻のような美貌からは想像もつかない、無防備な赤ちゃんの姿。
その姿を知っている沙龍。
なるほど、それは確かに「兄弟」だ。恋愛感情とかそういう次元ではない、もっと根本的な、生存本能レベルでの結びつきだ。
そして同時に、沙龍への嫉妬心は完全に霧散した。
彼女はライバルではない。景皇子の「黒歴史(赤ちゃんの頃)」を知る、親戚のお姉さんみたいな絶対的なポジションなのだ。
「なるほど……そういうことだったのね。疑ってごめんなさい」
私は素直に謝った。沙龍は「いえいえ」と苦笑した。
「それにしても、景様があそこまで女性に気を使うなんて……初めて見ました」
沙龍は真面目な顔になり、私をじっと見つめた。
「よほど、杏花姫様を大切に想っていらっしゃるのですね」
「えっ……そ、そうかな?(照) ただの責任感じゃない?」
「いいえ。あの景様ですよ? 普段なら、『邪魔だ』と言って切り捨てるところです。ご自分の安眠よりも、貴女様の『約束』や『名誉』を優先して、わざわざ不便な部屋割りを選ぶなんて……あり得ませんから」
沙龍の言葉に、私は胸がじわじわと温かくなった。
ただの道具として扱われることに慣れきっていた私。
「ATM」としてしか価値がないと思い込んでいた私。
でも、彼は違った。
私の、今は亡き祖母との小さな約束を、皇子のプライドよりも優先して守ってくれている。
それは、何よりも雄弁な「愛」の証明のように思えた。
(おばあちゃん……)
私、約束を守ってよかったよ。
頑固に守り通したおかげで、本当に「大切にしてくれる人」がどんな人なのか、少しだけわかった気がするよ。
「さあ、召し上がれ。明日は早いですよ。追手が来ないとも限りません」
沙龍に促され、私はスープを口に運んだ。
一口すする。
根菜の甘みと、干し肉の旨味が溶け出した、素朴な塩味。
決して宮廷料理のような洗練された味ではない。
けれど、冷え切った体に染み渡り、強張っていた心をほぐしてくれるような、深い味わいだった。
「……おいしい」
自然と涙が滲んだ。
幼い頃、学校で辛いことがあった日に、おばあちゃんが作ってくれた料理の味に似ていた。
ただそこにいるだけで許されるような、無条件の肯定の味。
沙龍の入れてくれたスープは、思い出の中の、世界一美味しかった手羽先と同じくらい、優しくて温かい味がした。




