月が綺麗ですね、とでも訳しておけ
そして、場面は中国宮廷ドラマのあの時代へと戻る。
荒涼とした荒野。頭上には冷ややかな月。
そして私の背中には、この世のものとは思えない絶世の美男子の体温がある。
夜風を切って走る馬の上。
これはもしや、おばあちゃんとの約束――『結婚するまで男の人と二人っきりになったらいかん』という鉄の掟に抵触しているのではないか?
いや、馬がいるから三人(?)か。いや、まだグレーゾーンか……?
思考がパニックを起こし、馬上で暴れてしまった私を、景皇子はなだめて馬を止め、地面へと降ろしてくれた。
「……というわけでして」
私は一連の事情――祖母との「指切り」の話――を終え、しょんぼりと肩を落とした。
足元の砂利を見つめながら、私は身を縮こまらせる。こんな子供騙しのような約束を、いい大人が真に受けてパニックになったのだ。呆れられるに決まっている。あるいは、「面倒な女だ」と捨て置かれるかもしれない。
「おばあちゃんとの約束を思い出したら、急に罪悪感とパニックで……暴れてしまいました。ごめんなさい」
静寂が痛い。
しかし、頭上から降ってきたのは、罵倒でも嘲笑でもなかった。
「なるほど……。亡き祖母との誓い、か」
顔を上げると、景皇子は呆れたように、けれどどこか興味深そうに私を見下ろしていた。月の光が彼の銀色の髪を透かし、その美しさは人間離れして見えた。
彼はフッと、夜風に溶けるような笑みを漏らした。
「そなたの祖母は、極めて賢明な方だったのだな。自分の孫娘が、男を見る目のない、騙されやすいお人好しであることを痛いほど理解し、最期の最期に『防波堤』を築いていったわけだ」
「うっ……否定できません」
図星すぎて何も言えない。おばあちゃんは、私の「安売り癖」を誰よりも見抜いていたのだ。
「だが、安心しろ。私はそなたを『安く』見るつもりはない」
景皇子は優雅な動作で私の前に歩み寄ると、躊躇なくその場に膝をついた。
まるで忠誠を誓う騎士のように、あるいは求婚者のように、私の目線よりも低くなる。
そして、さきほど暴れたせいで泥だらけになった私の服の裾を、白く美しい手で丁寧に払い、そのまま私の手を取った。
「結婚するまで、二人きりになってはいけない、だったな?」
「は、はい……」
「ならば、こうしよう。……私は今、そなたと二人きりではない」
「え?」
景皇子は、空を指差した。
そこには、満月が皓々と輝き、荒野を青白く照らし出していた。無数の星々が、ダイヤモンドを散りばめたように瞬いている。
「まだ人々は外にたくさんいる。月が見ている。天が見ている。私は決して天に背くことはしていない。多くの目撃者に囲まれた、公明正大な旅路だ」
「……っ」
なんという屁理屈。
なんという強引なイケメン理論。
冷静に考えれば「何言ってるの?」とツッコミを入れるところだ。けれど、真っ直ぐな瞳でそう断言されると、不思議と「そうなのかも」と思わされてしまう。これがカリスマというやつなのだろうか。
「それに」
不意に、彼が立ち上がり、距離を詰めた。
私の耳元に唇を寄せ、悪戯っぽく、甘い声で囁く。
「そなたの祖母君との約束を破らぬよう、私が責任を持って、そなたを『大事に』扱ってやる。……結婚するまでは、な」
――結婚するまでは。
その言葉に含まれた意味、未来への含みに、私の心臓が早鐘を打つ。
全身の血液が沸騰したかのように熱くなり、顔が先ほど食べた思い出の手羽先――いや、たっぷりとかけた味噌カツのソースのように真っ赤に染まったのが自分でもわかった。
「さあ、行くぞ。約束は守られた。旅を続けるぞ」
彼は呆然とする私を軽々と抱き上げ、再び馬上の人とした。
私の背後に彼が乗り込み、手綱を握るために腕が私の体を囲む。
先ほどまでは「罪悪感」で針のむしろだったその背中の温もりが、今度は絶対的な「安心感」として伝わってくる。
(この人は私のことを「安くない」って言ってくれたよ。「大事にする」って言ってくれたよ)
夜風の中で、私は小さく呟いた。
「はい! どこへでもお供します!」
馬は再び荒野を走り出した。
冷たい風が頬を撫でるが、胸の奥は温かい。
そして、ふと気づく。
「(……でも『結婚するまで』ってことは、裏を返せば、結婚しちゃえば二人きりでもいいんだよね……?)」
そんな淡い期待と、図々しい解釈。そして新たな種類のドキドキを胸に、私たちは夜の荒野を駆け抜けていった。




