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姫失格 〜恥の多い後宮生活を送って来ました〜  作者: 俊教授 オーバーシー大学
逃亡編
30/42

かんじんなことは、目に見えないんだよ

「もうすぐだ、杏花。あの丘を越えれば……」

手綱を握るけい皇子の力強い声が、夜風に乗って耳元で響く。

背中からは、彼の逞しい胸板の熱が伝わってくる。

私は彼の腕の中にすっぽりと包まれながら、月の光が照らす荒野を疾走していた。

ドラマティックな逃避行。命懸けの脱出。

これぞまさに「吊り橋効果」の極み。私の心臓は早鐘を打ち、胸のトキメキは最高潮に達していた。

……だったのだが。

ふと、私の脳裏に、ある記憶が稲妻のように閃いた。

それは、トキメキというピンク色の霧を一瞬で吹き飛ばす、冷ややかな警告だった。

「わああああああああっ!! む、無理無理無理! ストップ! ストップですぅぅぅ!!」

「なっ!?」

私は半狂乱で暴れ出した。

突然腕の中で暴れだした私に、景皇子は驚愕し、敏感な黒馬が大きくいななく。

バランスを崩した私は、景皇子の腕をすり抜け、宙に投げ出された。

「あっ」

危うく落馬して首の骨を折る――かと思われたが、そこはさすが武芸の達人・景皇子だ。

彼は瞬時に手綱を離し、私の体を空中でガシッと抱き止めた。

そのまま二人して、もつれ合うように草むらに転がり落ちる。

ドサッ、ゴロゴロ……。

枯れ草の匂いと土の匂い。

回転が止まると、私の上には景皇子が覆いかぶさるような体勢になっていた。

「杏花! 大丈夫か!?」

景皇子が血相を変えて私を揺さぶる。

その瞳は、いつもの冷静さをかなぐり捨て、真剣そのものだ。

「敵襲か? それとも毒矢でも受けたのか!? どこが痛む!?」

彼は素早く周囲を警戒し、私の体に怪我がないか確認しようとする。

私はといえば、草まみれの頭を上げ、気まずそうに視線を泳がせた。

「あ、いえ……あの……敵とかじゃなくて……」

「では何だ? 発作か?」

「ええと……その……」

私は小さくなりながら、蚊の鳴くような声で言った。

「今考えたら、そんな重大なことじゃないんですけど……」

「重大なことじゃないだと?」

景皇子の眉間に、深い皺が刻まれる。

「突然叫び出して暴れ、あわや落馬という事態を招いておいて、重大ではないと? 正気の沙汰ではないぞ。説明しろ」

「すみません……。でも、これには海より深いわけがありまして……」

私は膝を抱え、夜空を見上げながらポツポツと語り始めた。

私の、山田花子としての、切なくも温かい「呪い」の話を。

前にも話した通り、現代での私――山田花子は、家族の中で極めて影が薄い、あるいは「道具」としてしか認識されていない存在だった。

姉にとっては、自分の美貌を記録させるための都合の良いカメラマン兼侍女。

弟からは、欲しいものを買わせるための便利なATM。

そして母親に限っては、人間としてすら見てもらえていなかった。「一姫二太郎」という理想の家族構成を崩した「余計なパーツ」。それが私だった。

リビングにいても、私の居場所はなかった。

姉と母が楽しそうに服の話をし、弟がゲームをしている横で、私はただ空気を読んで、愛想笑いを浮かべているだけ。

「花子はいいわね、悩み事がなさそうで」

そんな言葉を投げつけられるたびに、私はへへへと笑っていた。

そんな孤独な環境の中で、唯一、私を一人の人間として、いや、目に入れても痛くない孫として愛してくれた人がいた。

父方の祖母、おばあちゃんだ。

実家から電車で三十分ほどの距離にある、古びた一軒家。

そこにはいつも、線香と畳の匂い、そして甘辛い味噌の香りが漂っていた。

「花子はええ子だがね、花子はほんとにええ子だがね」

これがおばあちゃんの口癖だった。

皺だらけの手で私の頭を撫で、何度も何度もそう言ってくれた。

花子がいくら「姉ちゃんのほうがきれいだし、弟は男の子だけど、私は何にもいいとこないよ」といじけても、おばあちゃんは首を横に振った。

「いーや、花子が一番ええ子だがね。優しいし、器量良しだがね。あいつらは目が節穴だで、わかっとらんだけだわ」

頑としてそう言い張る人だった。

そんなこんなで、お母さんが「あの人の世話は大変だから」と介護を嫌がり、姉や弟が「お小遣いが貰える時しか行きたくない」と寄り付かないのに対し、花子はずっとおばあちゃんと一緒にいた。

学校が終わると、あえて実家には帰らず、おばあちゃんの家に直行した。

縁側で宿題をし、おばあちゃんが畑で育てた野菜を食べ、テレビの時代劇を一緒に見て、夕飯を食べてから帰る。それが私の青春だった。

高校生になった頃のことだ。

ある日、おばあちゃんが私の大好物であるたくさんの「手羽先」を作ってくれていた。

名古屋の赤味噌をたっぷり使い、砂糖と味醂で甘辛く仕上げた特製ダレ。

揚げたての手羽先にそのタレをたっぷりとかけると、ジュワッという音と共に、香ばしい湯気が立ち上る。

「うわぁ、美味しそう!」

私が目を輝かせて手羽先に齧り付くと、おばあちゃんは向かいに座り、嬉しそうに目を細めてお茶を啜った。

「たくさん食べやぁ。花子はもっと肉つけんと」

「うん! おばあちゃんの手羽先、世界一だよ!」

口の周りを味噌だらけにして頬張る私。

その時、おばあちゃんがふと、真剣な顔をして問いかけた。

「花子、彼氏はできたかん?」

私は味噌カツを喉に詰まらせそうになった。

「なにおばあちゃん、急に! 彼氏なんて……できるわけないじゃん(笑) クラスの男子なんて、私のこと空気だと思ってるよ」

私は自虐的に笑った。

姉からは「あんたみたいな地味な子が色気づいても痛いだけ」と言われ続けていたから、恋愛なんて自分には無縁のものだと思い込んでいたのだ。

しかし、おばあちゃんは笑わなかった。

コト、と湯呑みを置くと、私の目をじっと見つめた。その瞳には、いつもの優しさの中に、強い意志のようなものが宿っていた。

「花子、これだけは言っとくでね」

おばあちゃんの声が低くなる。

「あんたは自分を卑下しとるけど、あんたは宝物だでね。きっと、ええ人と出会って、結婚して、ええ子を生むがね! 幸せになるに決まっとる!」

「おばあちゃん……」

「ええ子を生む」まで叶えられるだろうかとへへへとまた笑う。

「でもな、これだけは覚えとかないかんよ!」

そんな私に真剣な眼差しておばあちゃんはいった。

「ぜったい結婚するまで、男の人と二人っきりになったらいかんでね!」

「……え?」

唐突な貞操観念に、私はきょとんとした。

「急にどうしたの? 昭和じゃあるまいし……」

「ええか、よう聞きやぁ!」

おばあちゃんは私の手を取り、ギュッと握りしめた。その手は温かく、ごつごつとしていた。

「これはな、将来の花子のことを、本当に大事にしてくれる人への誠意だがね!

軽い男や、花子を安く見る男に、隙を見せちゃいかん。

『私は大事にされるべき人間なんだ』って、胸を張っとかなあかんのよ。

安売りしちゃいかん。お前は高い高い宝石なんだで」

おばあちゃんの言葉は、私の心の奥底に染み込んでいった。

家では「いらない子」扱いされている私を、「宝石だ」と言い切ってくれる。

その愛が嬉しくて、そして少し重たくて、私は涙が出そうになった。

「これだけは約束してちょうーよ。おばあちゃんとの約束だでね。結婚するまで、男の人と二人っきりになったらいかんよ!」

おばあちゃんは小指を差し出した。

指切りげんまん。

子供っぽいけれど、おばあちゃんにとっては大切な約束だった。

私は、泣き笑いのような顔で、自分の小指を絡めた。

「わかったよ、おばあちゃん〜。約束するよ〜。大事にするね、自分を」

「ほうだ、ほうだ。ええ子だ」

おばあちゃんは満足そうに笑い、また味噌カツを勧めてくれた。

その数日後、おばあちゃんは嘘のように苦しむことなく亡くなった。

家族の中で、私だけが本気で泣いた葬式だった。

そして、その「約束」は、私の心の中に「呪い」のように、いや「用心棒」のように残り続けたのだ。

悲しいかな、長年家族の中で培われた「ダメンズメイカー」は、そう簡単に拭えるものではなかったのだ。

「宝石」だと言われたその瞬間は心が震えたけれど、日常に戻れば、私はまた「石ころ」以下の自分に戻ってしまう。

だから私は、社会に出てもなお、見事なまでに「ダメンズ」ばかりを引き寄せる磁石と化していた。

バンドマン志望のフリーター、夢ばかり語る起業家崩れ、いつも財布を忘れる年下の大学生。

彼らは私の心の隙間に、甘い言葉と共にスルリと入り込んでくる。

「花子ちゃんって、本当に癒やされるよ」

「俺の夢、応援してくれるのは花子だけだ」

そんな言葉を囁かれるたび、私は条件反射のように財布を開いた。

かつて弟にそうしたように。姉の機嫌を取るために動いたように。

食事代を出し、生活費を貸し、ブランドの時計を貢ぐ。

お金を使っている瞬間だけは、私は彼らにとって「必要な人間」でいられた。「嫌われたくない」「捨てられたくない」という恐怖心が、私の理性を麻痺させ、ATMとしての機能をフル稼働させるのだ。

「私なんて、お金を出さなきゃ、助けてあげなきゃ誰にも相手にされない」

心のどこかでそう諦めながら、私は自分を安売りし続けていた。

しかし――。

そんな泥沼のような関係の中でも、奇妙な現象が起きていた。

あと一歩、決定的な瞬間になると、脳内で強烈なアラートが鳴り響くのだ。

例えば、終電を逃したふりをした彼が、「近くのホテルで休もうか」と私に手を回そうとするとき。

あるいは、「今度の週末、温泉旅行に行かない?」と、甘い声で誘われた時。

その瞬間、私の小指が、ズキリと熱く疼くのだ。

『花子、これだけは約束してちょう』

『安売りしちゃいかん。お前は高い高い宝石なんだで』

とたん、ネオン街の喧騒がかき消え、鼻の奥にふわりと赤味噌と線香の匂いが蘇る。

瞼の裏に、あの日の祖母の真剣な眼差しが呼び覚まされる。

皺だらけの手の感触、小指を絡めた時の強さ、そして「幸せになるに決まっとる」という言葉。

――ああ、おばあちゃんが見てる。

その感覚は、背筋が凍るような恐怖でもあり、同時に、温かい毛布で包まれるような安堵でもあった。

「ご、ごめん! 今日はもう帰らないと!」

「え、でももう終電ないよ!」

「ミカんちに泊めてもらうから大丈夫〜〜」

もう時代は令和なのに、相手からすれば興醒めもいいところだろう。

けれど、私の口は勝手にそう紡ぎ出し、体は拒絶反応を示して強張ってしまう。

「ごめーん、旅行はちょっと……仕事がいそがいいの〜〜」

男たちは一様に呆れ、苛立ち、そして去っていった。

お金という「餌」は撒いているのに、肝心の「獲物」には指一本触れさせない。彼らにとって私は、理解不能な、そして都合の悪い存在になり果てるのだ。

男に振られるたび、私は一人、安いアパートの部屋で膝を抱える。

貯金通帳の残高は減り、心には虚しい風が吹いている。

「ATM」としての役割すら果たしきれない自分に、今日も焼酎のみながら苦笑いが漏れる。

「おばあちゃんの嘘つき。……全然、本当に大切な人なんておらんよ〜〜」

そう毒づいてみるけれど、心の奥底では分かっていた。

おばあちゃんのあの約束は、最後の最後で私が「私自身」を完全に捨ててしまうことを食い止める、最強の防波堤だったのだ。

金は失った。時間も無駄にした。

けれど、尊厳だけは、あの約束のおかげで、なんとか歪まずに残っている。

「二人きりにはならない」

その幼い約束を守り続ける私は、滑稽で、不器用で、どうしようもなく孤独だった。

それでも――私は今日もまた、踏みとどまることができたのだ。

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