表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
姫失格 〜恥の多い後宮生活を送って来ました〜  作者: 俊教授 オーバーシー大学
女官奉公編
29/42

風立ちぬ、いざ生きめやも

時を少し遡ろう。

「無理! 無理無理無理! やっぱり無理ーーー!!」

湯気が立ち込める景陽宮の湯殿。

薔薇の花びらが浮かぶお湯に浸かりながら、私(杏花)は錯乱状態に陥り、パニックを起こしていた。

お湯の温かさなど感じない。全身の毛穴から冷や汗が噴き出している。

「断れない病」でここまで来たが、いざ現実が数十分後に迫り、私のチキンハートは粉々に粉砕されたのだ。

皇帝陛下。国の最高権力者。

昼間は「寂しい」という言葉にほだされたが、冷静になればなるほど事の重大さに押しつぶされそうになる。

それに、何より。

脳裏にちらつくのは、夕暮れの庭園で見た、あの景皇子の悲しそうな顔だ。

『必ず奪い返す』という、背筋が凍るほどの執着と情熱を秘めたヤンデレ宣言。

これじゃあ景皇子への裏切りとなる。

それだけは嫌だ! 絶対に嫌だ!

「蘭馨! 助けて! 私、お腹痛い! 仮病使う! 『正体不明の急性の疫病、そう、新型コロナ陽性が出た、パンデミックだ』って言って!」

「ひ、姫様!? ぱんでみっく とはバンバンジーの仲間ですか?! 今更そんなこと、通用しません! 皇帝陛下を愚弄した罪で、その場で首が飛びます! 姫様だけでなく、わたくしも、華妃様も、全員道連れです!」

「じゃあどうすればいいのよぉぉ! もう窓から飛び降りたいぃぃ!」

泣き叫び、湯船のお湯をバシバシと叩く私を見て、蘭馨はだいぶ呆れていた……いや、彼女もまた絶望的な表情で、一緒にオロオロするしかなかった。

ところが!

私が湯殿から上がり、濡れた髪もそのままに、宮女たちに取り囲まれて白粉を塗られ始めた時のことだ。

「失礼いたします」

不意に、部屋の空気が変わった。

音もなく、まるで影から滲み出るように入ってきたのは、見慣れぬ年配の女官だった。年配と言っても年はおそらく30前後。だがこの宮中では、精神年齢が現代と比べて20歳くらい増々に見える。

目つきが鋭く、その所作一つ一つに洗練された無駄のなさが宿っている。

彼女が懐から、龍の紋章が刻まれた小さな印籠のようなものを見せると、周りの宮女たちはハッとしたように顔を見合わせ、まるで催眠術にかかったかのように、一言も発さず無言で部屋から退出していった。

(えっ、なに? 新手の暗殺者!? 口封じ!?)

私がタオルで胸を隠しながらガタガタと震えていると、その女官は私の目の前に立ち、私の顔をじっと見つめた後、短く告げた。

「杏花様。これより『入れ替わり』を行います。時間はありません」

「い、入れ替わり……?」

彼女は私の返事を待たず、手際よく私が着せられかけていた高級なシルクの寝間着を剥ぎ取ると、あらかじめ用意していた粗末な下級女官の服を押し付けた。

「これを着て、裏口から出てください。北の城壁沿いにある『古井戸』のそばまで走るのです。そこで待っている者がおります」

「えっ、でも、皇帝陛下が……! 待っておられるのに、誰も行かなかったら……!」

「陛下のお相手は、こちらに務めさせます」

謎の女官は、ものすごく鋭い視線を、部屋の隅で小さくなっていた蘭馨に向けた。

そして、躊躇することなく蘭馨の手を引き、強引に化粧台の前に座らせたのだ。

「ひぃっ!?」

老女官は、マジックのような手つきで蘭馨の顔に筆を走らせ始めた。

白粉を厚く塗り、眉の形を変え、唇に紅を引く。その手際は、メイクというよりは「変装」のプロフェッショナルだった。

「蘭馨、そなたは顔の骨格が杏花様に似ている。目元の配置も近い。厚化粧で化け、部屋の明かりを落とせば、特に観察力がいいわけでもない陛下には、暗がりなら誰も気づきません。……覚悟はできていますね?」

「か……覚悟とは……それは……つまり……!」

蘭馨の声が裏返る。

それはつまり、皇帝との時間を、姫の代わりに務めるということ。

それはつまり“すべて”を捧げるということ。

そして何より、バレたら「皇帝を欺いた大罪人」として、最も残酷な方法で処刑されるリスクを負うということだ。

「覚悟ができているのかと聞いているのです!」

女官の一喝が飛ぶ。

蘭馨はあまりに突然のことで、恐怖とあまりの任務の膨大さに涙目になり、唇を血が出るほど噛み締めた。

しかし、彼女は私の顔を見た。

震える私を見て、彼女の目に光が宿った。

「は、はいっ……! 姫様のためなら……! この命、惜しくはありません!」

蘭馨は、ギリギリのところで涙腺の防波堤を貫き通し、悲壮な決意で頷いた。

やはりここは後宮で仕える宮女だ。主君のためなら己を殺す、その忠誠心は本物だった。

「蘭馨……っ! ごめん、本当にごめん……!」

私は泣きながら謝った。

自分の尻拭いを、この大切な友人にさせてしまう。その罪悪感で押しつぶされそうだった。

老女官は私に向き直り、鋭く言った。

「さあ、早く! 蘭馨の献身を無駄になさるな! 景皇子様がお待ちです!」

「け、景皇子……!?」

やはり、これは彼の手引きだったのか。

私は頷き、下級女官の服の帯を締めた。

私は蘭馨の手を一度だけ強く握りしめ、その冷たく震える指先に自分の体温を伝えた。

「絶対に戻ってくるから! 死なないで! 必ず迎えに来るから!」

そう叫んで、私は振り返ることなく裏口から飛び出したのだった。

背後で閉まる扉の音が、私の退路を断つ音のように聞こえた。

夜の闇が、私を飲み込む。

ここからは、私自身の戦いだ。走り続けなければならない。蘭馨が命懸けで作ってくれたこのチャンスを、無駄にするわけにはいかないのだ。

そして現在。

私は下級女官の服を纏い、夜の闇に紛れて走っていた。

冷たい夜風が頬を切り裂くように吹き抜ける。粗末な麻の衣擦れの音が、静まり返った紫禁城の裏道に不気味に響いた。

心臓が破裂しそうだ。

ドクン、ドクン、ドクン。

肋骨を内側から激しく叩くその音は、まるで早鐘のようだった。

もし、ここを通る巡回の衛兵に見つかったら? もし、誰かが私の顔を覗き込み、それが「皇帝の寵愛を受けるはずの杏花姫」だと気づいたら?

即、打ち首獄門。

言い訳も、弁解も通用しない。私だけでなく、身代わりになった蘭馨、手引きをした老女官、そして関わった全ての人間の命が、露と消えるのだ。

(北の古井戸……北の古井戸……!)

頭の中で呪文のように繰り返す。

足がもつれる。履き慣れない布靴の底が、石畳の冷たさをダイレクトに伝えてくる。

恐怖で足がすくみそうになるたびに、蘭馨の泣き顔と、彼女の手の最後の温もりを思い出した。

「走れ」

私の足に力を込めるのは、生存本能ではない。友への誓いだ。

息を切らし、喉が焼け付くような痛みを覚えながら、ようやく指定された場所にたどり着いた。

そこは、華やかな表御殿とは無縁の、鬱蒼とした木々に囲まれた一画だった。

長く使われていない古井戸が、黒い口を開けて静かに鎮座している。周囲の空気は澱み、湿った土と枯れ葉の匂いが鼻をつく。人目につかない、まさに密会にはうってつけの場所だ。

月明かりの下、一頭の黒馬が静かに佇んでいる。

闇に溶け込むような漆黒の毛並み。筋肉の隆起した逞しい脚。鼻息が白く蒸気となって立ち上り、生き物としての圧倒的な熱量を放っている。

そして、その手綱を握っている人影があった。

「……遅かったな」

その声に、私はへなへなと座り込みそうになった。

低く、涼やかで、けれど微かに焦燥を含んだその響き。

張り詰めていた緊張の糸が、一気に緩んだ。

「け、けい皇子……!」

そこにいたのは、夜の闇よりも深い漆黒の外套に身を包んだ景皇子その人だった。

月光が彼の整った横顔を照らし出す。いつもの氷のように冷ややかな表情の中に、隠しきれない焦燥と、そして私を見つけた瞬間の安堵の色が混じっているのを、私は見逃さなかった。

「謎の女官に言われて……。あれは、貴方の差し金ですか?」

まだ信じられない思いで尋ねる。

あの厳格な、しかしどこか温かみのある老女官。彼女の鮮やかな手引きがなければ、私は今頃、皇帝の寝台の上で絶望に泣いていただろう。

「私の乳母だ。宮中で、私が最も心を許せる人間だ」

景皇子は短く答えた。

その言葉の裏に、彼がこの宮廷で抱えてきた孤独と、乳母への深い信頼が垣間見えた気がした。彼は、私を救うために、自身の最も大切な「切り札」を使ってくれたのだ。

彼は私の返答を待たず、黒革の手袋に包まれた手を差し伸べた。

「来るんだ、杏花。ここから出るぞ」

「で、出るって……どこへ?」

「どこか遠くへだ。父上の手の届かぬ場所へ」

彼の瞳には、迷いなど微塵もなかった。

皇帝から女を奪う。それは、実の父への反逆であり、皇族としての地位を捨てるに等しい行為だ。

それを、彼は事もなげに言ってのけた。

彼は有無を言わせぬ力強さで私の腕を引き、軽々と馬上に引き上げた。

私の体が宙に浮く。

次の瞬間、私は鞍の上に座らされ、すぐ背後に景皇子が飛び乗ってきた。

私の背中に、彼の温かい胸板が密着する。

ドクン、と心臓が跳ねた。これは恐怖ではない。ときめきだ。

分厚い外套越しでも伝わる、彼の体温と、力強い鼓動。

白檀の香りと、夜露の冷たい匂い、そして馬の獣臭が混じり合い、私の感覚をくらくらとさせる。

「しっかり掴まっていろ。舌を噛むぞ」

耳元で囁かれる低い声。吐息が耳にかかり、背筋がゾクゾクと震えた。

「えっ、ちょっ、タンマ! 心の準備が――!」

ヒヒィィン!!

私の抗議も虚しく、景皇子が手綱をさばくと、黒馬はいななきを上げ、矢のように駆け出した。

「きゃあああああ!!」

悲鳴は、瞬く間に後方へと置き去りにされた。

風が、ごうごうと耳元で唸る。

景色が流れる。いや、溶けるように後方へすっ飛んでいく。

私たちは宮廷の裏道を、信じられないスピードで疾走した。

かつてOL時代、終電間際のタクシーで飛ばしたことならある。

だが、生き物の背に乗って疾走する感覚は、それとは別次元の恐怖と高揚感があった。

馬の背中が波のようにうねり、そのたびに私の体は大きく揺さぶられる。

振り落とされないように、私は必死で景皇子の腕にしがみついた。彼の腕は鋼のように硬く、手綱を巧みに操っている。

「誰だ!」

「止まれ! 曲者だ!」

衛兵たちの怒号が聞こえる。松明の灯りが、あちこちで揺れる。

城内は騒然とし始めていた。

だが、景皇子は止まらない。

彼は迷路のような後宮の道を熟知しているようで、衛兵の死角を縫い、暗がりを選び、風のように駆け抜けていく。

「あそこだ……!」

景皇子が短く呟いた。

目の前に、巨大な北門が迫ってきた。

紫禁城の裏門にあたる、堅牢な鉄の門。

閉ざされた門。その前には槍を持った数十人の兵士たちが、蟻の這い出る隙間もないほどに立ち塞がっている。

絶望的な光景だ。

あの壁を、この馬で飛び越えることなど不可能だ。

「景皇子! 門が閉まってます! 激突します! 死にます!」

私は目をぎゅっと閉じた。

だが、景皇子の腕に込められた力は緩まない。

「問題ない!」

彼は叫ぶと、片手で手綱を操りながら、懐から何かを取り出した。

月光を浴びて黄金色に輝く、重厚な金属の板。「通行手形」だった。

「緊急勅命である! 道を開けよ!!」

雷鳴のごとき怒声。

その声には、単なる大声ではない、生まれながらの支配者だけが持つ「覇気」が込められていた。

凄まじい気迫と、闇夜でも隠しきれない皇族のオーラに圧倒されたのか、兵士たちは咄嗟に道を開け、門のかんぬきに手をかけた。

「開門――ッ!!」

兵士長の震える声が響く。

ギギギギ……と、錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、重たい門がゆっくりと開き始めた。

完全に開ききるのを待つ時間はない。

「行けッ!」

景皇子が馬腹を蹴る。

黒馬がさらに加速する。

私たちは、開きかけた扉のわずかな隙間へ、弾丸のように飛び込んだ。

一瞬の暗闇。

そして。

抜けた。

外だ。

外界の空気が、顔に当たる。

それは、澱んだ宮廷の空気とは違う、冷たく、乾燥した、自由の匂いがする風だった。

馬はそのまま速度を緩めず、広大な平原へと躍り出た。

「はぁっ、はぁっ……!」

私は荒い息を吐きながら、後ろを振り返った。

背後に遠ざかっていく紫禁城。

赤い壁、金色の屋根。あんなに巨大で、絶対的で、私を閉じ込めていた牢獄が、みるみるうちに小さくなっていく。

それはまるで、悪い夢が夜明けと共に消え去っていくような光景だった。

「はぁ……はぁ……すご……本当に、出ちゃった……」

私は馬上で、景皇子の腕にしがみついたまま、震える声で呟いた。

これは誘拐? 駆け落ち? それとも亡命?

どれも正解で、どれも違う気がする。

私は今、歴史の表舞台から転がり落ち、名もなき荒野へと逃げ出したのだ。

「……言っただろう」

頭上から、低い声が降ってきた。

夜風に消え入りそうな声だったが、私の耳にははっきりと届いた。

鼓膜を震わせ、心臓を直接掴むような、重く、熱い響き。

「必ず、奪い返すと」

私は恐る恐る顔を上げ、彼の顔を見た。

月明かりに照らされたその横顔。

整った鼻筋、長い睫毛、そして固く結ばれた薄い唇。

いつもは能面のように感情を見せない彼が、今は少しだけ口角を上げ、清々しく、そしてどこか楽しげに見えた。

父の呪縛を断ち切り、自分の意志で運命を選び取った男の顔だ。

「景様……。でも、こんなことをしたら、貴方の立場が……」

皇位継承権の剥奪はもちろん、反逆罪で追われる身になるかもしれない。

私のために。たかが、一人の女のために。

「構わぬ」

彼は前を見据えたまま、言い放った。

「父上と女を奪い合うなど、反吐が出る。だが……そなたをあの薄暗い後宮で腐らせるよりは、よほどマシな選択だ」

その言葉に、胸が熱くなった。

彼は、私の「価値」を認めてくれた。

都合のいい女としてではなく、一人の人間として、リスクを冒してでも救う価値があると判断してくれたのだ。

それは、私が今までの人生でずっと求めていた、何よりも欲しかった「肯定」だった。

彼は手綱を握り直し、馬の速度をさらに上げた。

黒馬は風になり、荒野を切り裂いていく。

「行くぞ、杏花。私の秘密の隠れ家がある。そこなら、誰も追っては来れない」

「隠れ家……」

私は、彼のたくましい腕の中に身を預け、前を向いた。

背中の温もりが、冷え切った私の心を溶かしていく。

私の心のエネルギーも、今は満タンだ。

「はい! どこへでもお供します! ……私、もう戻れませんから!」

私の叫び声が、夜空に吸い込まれていく。

馬は夜の荒野を、風のように駆けていく。

行く手には、果てしない闇と、無数の星々が広がっているだけだ。

身代わりになった蘭馨のことだけが気がかりだが、あの謎の女官(乳母さん)がついているなら、きっと上手くやってくれるはずだ。(と信じたい。ごめんね蘭馨、必ず迎えに行くからね!)

こうして、杏花こと山田花子は、皇帝との約束をすっぽかし、イケメン皇子と共に宮廷を脱出するという、前代未聞の大罪人にしてヒロインとなったのである。

行き先は不明。明日の運命も不明。

確かなのは、今、私の人生がドラマのクライマックス並みに盛り上がっているということだけだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ