人間海苔巻き
私は迷路のような回廊を抜け、ようやく景陽宮の自室に戻った。
扉を開けると、そこには既に異様な空気が充満していた。
「敬事房」の太監たちと、数人の無表情な宮女が、まるで獲物を待つ狩人のように待ち構えていたのだ。
「杏花姫様、お迎えに上がりました。さあ、刻限が迫っております。急ぎご準備を」
太監長らしき男が、抑揚のない声で告げる。
その瞬間、私の意思決定権は剥奪された。ここからは、ベルトコンベアに乗せられたマグロのように、私の意志とは無関係に、厳格かつ奇妙な儀式が進んでいった。
① 洗浄と化粧
「さあ、こちらへ」
有無を言わさず、私は部屋の奥にある湯殿に放り込まれた。
湯気の中に、数人の宮女が待ち受けている。彼女たちは私を見ると、一斉に襲いかかってきた――いや、体を洗い始めた。
「痛い痛い! 皮が剥ける!」
宮女たちは無言で、ヘチマのようなもので私の全身をゴシゴシと洗う。隅々まで、それこそ指の先から耳の裏まで、執拗なまでに磨き上げられる。それは「入浴」というよりは「洗浄」、あるいは「消毒」に近い作業だった。
そして風呂から上がると、今度は顔面工事だ。そとで女官たちが待っている。
「姫様、今宵は陛下のお好みである、古風で艶やかなお化粧を施します」
宮女が重々しく告げると、私の顔に白粉が塗りたくられた。
パフパフと粉が舞う。喉が詰まりそうだ。
現代のナチュラルメイクとは対極にある、能面のような厚塗り。眉は剃り落とされたかのように細く描かれ、唇には血のように赤い紅が差された。
鏡の中の私は、もはや山田花子でも杏花でもなんでもない。昔から「粉飾太平」とはよく言ったものだ……
② 武装解除
「では、お召し物をすべて脱いでいただきます」
「……すべて着替えるということですね……」
「はい。御存知の通り、簪一つ、布切れ一枚残してはなりません。暗殺の武器を隠し持っていないことを証明するためです」
太監の声は事務的だが、その視線は私の全身を値踏みするようだ。
私は簡素な、内衣のみとされた。
恥ずかしいとか言っている場合ではない。これは検疫だ。危険物を持ち込ませないための、徹底した身体検査なのだ。
心臓が早鐘を打つ。怖い。このまま、本当に皇帝の元へ運ばれるのか。逃げ場はないのか。
③ 簀巻きの刑
そして、太監が巨大な黄色い厚手の布団を床に広げた。
龍の刺繍が施された、皇帝専用の寝具だ。
「さあ、こちらへ」
私は布団の端に転がされた。
そして、海苔巻きの具材のように、くるくると厳重に巻かれていく。
手足の自由が奪われる。視界が塞がれる。
厚い綿の感触と、独特のお香の匂いが鼻孔を満たす。
私は完全に拘束された「荷物」となった。
足首だけが外に出され、そこを太監がガシッと掴んで担ぎ上げる。
「いざ、参る!」
太監の掛け声とともに、身体が宙に浮く。
私はミノムシ状態で担がれ、夜の渡り廊下を運ばれていった。
視界は真っ暗。揺れる振動だけが伝わってくる。
太監の足音、遠くで聞こえる夜番の鳴らす拍子木の音。
恐怖で呼吸が浅くなる。
(戻りたい。帰りたい。誰か助けて……)
心の中で叫んでも、声は布団に吸い込まれて消えていく。
◇
養心殿。
どれくらいの時間が経っただろうか。
扉が開く重厚な音と共に、周囲の空気が変わった。
温かく、そして甘い龍涎香の香りが漂う寝室。
ここが、国の中心。皇帝の寝所だ。
ドサッ、と私は巨大な龍の寝台の上に置かれた。
「陛下、お連れいたしました」
太監の恭しい声と共に、毛布の端がめくられる。
まぶしい光が目に飛び込んでくる。
私は目を細めながら、恐る恐る視線を上げた。
そこには、寝衣姿の皇帝陛下が座っていた。
「おお……杏花。待っていたぞ」
皇帝は、簀巻きから転がり出た私を見て、満足げに頷いた。
白粉で塗り固められ、緊張で強張ったその顔を、彼は愛おしそうに見つめる。
「昼間見た時とはまた違う美しさだ……。やはり余の目に狂いはなかった。」
皇帝は優しく、しかし拒絶を許さない力強さで私の手を取り、引き寄せた。
彼の指が、私の頬を撫でる。
その手は熱く、湿っていた。
恐怖で喉が張り付き、声が出ない。ただ、操り人形のように頷くことしかできなかった。
◇
「時間でございます――!!」
その鋭い声は、甘美な夢を切り裂く処刑人の刃のように、養心殿の重厚な空気を震わせた。
30分。それが、皇帝の健康と、後宮の秩序を守るために定められた絶対的な刻限だった。
蝋燭の炎がゆらりと揺らぎ、壁に巨大な龍の影を落とす。皇帝陛下は名残惜しそうに、けれど規則には逆らえぬという諦めを含んだ溜息を漏らし、寝台から身を起こした。
再び太監たちが、影のように音もなく、けれど迅速に入ってくる。
彼らの手つきには一切の無駄がなかった。再び物言わぬ「荷物」として処理される。
鮮やかな黄色の羅紗でできた巨大な布団が広げられ、私はその中心に転がされた。
抵抗など許されない。私はまな板の上の魚のように、あるいは出荷を待つ絹織物のように、手際よく、かつ厳重にくるまれていく。
視界が遮断され、分厚い綿の匂いと、皇帝の残り香である龍涎香の甘ったるい香りが鼻腔を満たす。
ミノムシのような簀巻き状態。手足の自由は奪われ、ただ呼吸をするだけの存在となる。
「いざ、参る!」
太監の低い掛け声とともに、身体が宙に浮く。
再び、あの暗く長い回廊の移動が始まった。
ゆらり、ゆらり。
担ぎ手たちの規則正しい足音が、心臓の鼓動と重なる。
厚い布団越しに伝わる夜風の冷たさが、火照った頬をかすめる。
暗闇の中で、私は安堵の息を吐いていた。
終わったのだ。
最も恐ろしく、最も長く感じられた夜が、ついに幕を下ろしたのだ。
全身の力が抜け、泥のような疲労感が襲ってくる。張り詰めていた糸が切れ、指先が微かに震えているのがわかった。
どれほどの時間が経っただろうか。
景陽宮の自室に戻り、慣れ親しんだ寝台の上に、ドサッと重い音を立てて降ろされた。
布団の隙間から、見慣れた天井の梁が見える。
太監たちは「お務めご苦労様でした」と事務的に、感情のこもっていない声で告げると、足早に去っていった。彼らにとってこれは毎夜繰り返される業務の一環に過ぎないのだ。
部屋に、重苦しい静寂が戻る。
いや、完全な静寂ではない。衣擦れの音が近づいてくる。
そこに一人の老女官があらわれた。老女官と言っても30前後だろう。しかし、周りの女官は皆10代であるからして、相対的に老女官だ。彼女は、部屋の隅で様子を伺っていた若い宮女たちを一瞥した。その眼光だけで、すべてを悟らせる威厳があった。
「杏花姫様、お疲れでございましょう。そなたたちも下がりなさい。後のことは私が引き受けます」
謎の老女官はその場にいるすべての宮女を下がらせた。
扉が閉められる音が響き、閂が下ろされる。
部屋は私と老女官だけである。
誰の目もない、完全なる密室。部屋には、張り詰めた静寂だけが満ちていた。
もぞり。
私は毛布を必死にもがき、芋虫のように這い出した。
幾重にも巻かれた拘束を解き、冷たい空気を肌に感じる。
乱れた髪、汗ばんだ肌、そしてまとわりつくような残り香。
「はぁ……はぁ……死ぬかと思った……」
全身汗だくだ。それはただの暑さのせいではない。極限の緊張と恐怖が噴き出させた冷や汗だった。
足が震えて立ち上がれない。這うようにして、部屋の奥にある化粧台へと向かう。
鏡の前。
揺れる灯火に照らされたその場所へたどり着くと、私は水桶に手を突っ込んだ。
氷のように冷たい水が、熱を持った肌を刺す。
濡らした手拭いで、顔を覆う厚塗りの化粧を、皮膚が剥がれるほどの勢いで乱暴に拭い取った。
ゴシゴシと擦るたびに、水が白く濁り、朱色の紅が血のように滲んでいく。
塗り固められた「皇帝好みの仮面」が剥がれ落ち、その下から、隠されていた真実の肌色が露わになる。
そして、鏡の中に映った「すっぴん」の顔を見て――
そこにいたのは、杏花こと山田花子ではなかった。
そこに映っていたのは、恐怖と緊張で青ざめ、目元を赤く腫らし、魂が半分抜け落ちたような表情をした、侍女の蘭馨の顔だった。
「……ひ、姫様ぁぁぁ……!!」
鏡の中の蘭馨が、堰を切ったように泣き出した。
身代わりとして務め上げたのは、この忠実で健気な侍女だったのだ。
彼女は震える手で顔を覆い、子供のようにしゃくりあげた。
どれほど恐ろしかっただろうか。
バレれば即座に処刑される極限状況。正体を隠し通したその精神的負荷は計り知れない。
老女官は、ゆっくりと蘭馨に近づいた。
その表情は、先ほどまでの冷徹な策士の顔ではなく、慈悲深い母のような温かさを帯びていた。
「よくできました……」
短く、しかし深い労りのこもった一言。
そう言い残した。
蘭馨は鏡の前で泣き崩れたーーー
うわーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
蘭馨の口から、押し殺していた絶叫に近い慟哭が溢れ出した。
床に崩れ落ち、体を小さく丸めて泣きじゃくる彼女。
その小さな背中が、あまりにも痛々しく、そして尊かった。
老女官は彼女をそっと抱いた。
震える肩を包み込み、乱れた髪を優しく撫でる。
「宮女にあるまじきことですが……今日は泣くことを許しましょう……。そなたのその涙が、主君の未来を繋いだのですから」




