表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
姫失格 〜恥の多い後宮生活を送って来ました〜  作者: 俊教授 オーバーシー大学
女官奉公編
28/42

人間海苔巻き

私は迷路のような回廊を抜け、ようやく景陽宮の自室に戻った。

扉を開けると、そこには既に異様な空気が充満していた。

「敬事房」の太監たちと、数人の無表情な宮女が、まるで獲物を待つ狩人のように待ち構えていたのだ。

「杏花姫様、お迎えに上がりました。さあ、刻限が迫っております。急ぎご準備を」

太監長らしき男が、抑揚のない声で告げる。

その瞬間、私の意思決定権は剥奪された。ここからは、ベルトコンベアに乗せられたマグロのように、私の意志とは無関係に、厳格かつ奇妙な儀式が進んでいった。

① 洗浄と化粧

「さあ、こちらへ」

有無を言わさず、私は部屋の奥にある湯殿に放り込まれた。

湯気の中に、数人の宮女が待ち受けている。彼女たちは私を見ると、一斉に襲いかかってきた――いや、体を洗い始めた。

「痛い痛い! 皮が剥ける!」

宮女たちは無言で、ヘチマのようなもので私の全身をゴシゴシと洗う。隅々まで、それこそ指の先から耳の裏まで、執拗なまでに磨き上げられる。それは「入浴」というよりは「洗浄」、あるいは「消毒」に近い作業だった。

そして風呂から上がると、今度は顔面工事だ。そとで女官たちが待っている。

「姫様、今宵は陛下のお好みである、古風で艶やかなお化粧を施します」

宮女が重々しく告げると、私の顔に白粉おしろいが塗りたくられた。

パフパフと粉が舞う。喉が詰まりそうだ。

現代のナチュラルメイクとは対極にある、能面のような厚塗り。眉は剃り落とされたかのように細く描かれ、唇には血のように赤い紅が差された。

鏡の中の私は、もはや山田花子でも杏花でもなんでもない。昔から「粉飾太平(ふんしょくたいへい)」とはよく言ったものだ……

② 武装解除

「では、お召し物をすべて脱いでいただきます」

「……すべて着替えるということですね……」

「はい。御存知の通り、かんざし一つ、布切れ一枚残してはなりません。暗殺の武器を隠し持っていないことを証明するためです」

太監の声は事務的だが、その視線は私の全身を値踏みするようだ。

私は簡素な、内衣したぎのみとされた。

恥ずかしいとか言っている場合ではない。これは検疫だ。危険物を持ち込ませないための、徹底した身体検査なのだ。

心臓が早鐘を打つ。怖い。このまま、本当に皇帝の元へ運ばれるのか。逃げ場はないのか。

③ 簀巻きの刑

そして、太監が巨大な黄色い厚手の布団を床に広げた。

龍の刺繍が施された、皇帝専用の寝具だ。

「さあ、こちらへ」

私は布団の端に転がされた。

そして、海苔巻きの具材のように、くるくると厳重に巻かれていく。

手足の自由が奪われる。視界が塞がれる。

厚い綿の感触と、独特のお香の匂いが鼻孔を満たす。

私は完全に拘束された「荷物」となった。

足首だけが外に出され、そこを太監がガシッと掴んで担ぎ上げる。

「いざ、参る!」

太監の掛け声とともに、身体が宙に浮く。

私はミノムシ状態で担がれ、夜の渡り廊下を運ばれていった。

視界は真っ暗。揺れる振動だけが伝わってくる。

太監の足音、遠くで聞こえる夜番の鳴らす拍子木の音。

恐怖で呼吸が浅くなる。

(戻りたい。帰りたい。誰か助けて……)

心の中で叫んでも、声は布団に吸い込まれて消えていく。

養心殿。

どれくらいの時間が経っただろうか。

扉が開く重厚な音と共に、周囲の空気が変わった。

温かく、そして甘い龍涎香りゅうぜんこうの香りが漂う寝室。

ここが、国の中心。皇帝の寝所だ。

ドサッ、と私は巨大な龍の寝台の上に置かれた。

「陛下、お連れいたしました」

太監の恭しい声と共に、毛布の端がめくられる。

まぶしい光が目に飛び込んでくる。

私は目を細めながら、恐る恐る視線を上げた。

そこには、寝衣姿の皇帝陛下が座っていた。

「おお……杏花。待っていたぞ」

皇帝は、簀巻きから転がり出た私を見て、満足げに頷いた。

白粉で塗り固められ、緊張で強張ったその顔を、彼は愛おしそうに見つめる。

「昼間見た時とはまた違う美しさだ……。やはり余の目に狂いはなかった。」

皇帝は優しく、しかし拒絶を許さない力強さで私の手を取り、引き寄せた。

彼の指が、私の頬を撫でる。

その手は熱く、湿っていた。

恐怖で喉が張り付き、声が出ない。ただ、操り人形のように頷くことしかできなかった。

「時間でございます――!!」

その鋭い声は、甘美な夢を切り裂く処刑人の刃のように、養心殿の重厚な空気を震わせた。

30分。それが、皇帝の健康と、後宮の秩序を守るために定められた絶対的な刻限だった。

蝋燭の炎がゆらりと揺らぎ、壁に巨大な龍の影を落とす。皇帝陛下は名残惜しそうに、けれど規則には逆らえぬという諦めを含んだ溜息を漏らし、寝台から身を起こした。

再び太監たちが、影のように音もなく、けれど迅速に入ってくる。

彼らの手つきには一切の無駄がなかった。再び物言わぬ「荷物」として処理される。

鮮やかな黄色の羅紗らしゃでできた巨大な布団が広げられ、私はその中心に転がされた。

抵抗など許されない。私はまな板の上の魚のように、あるいは出荷を待つ絹織物のように、手際よく、かつ厳重にくるまれていく。

視界が遮断され、分厚い綿の匂いと、皇帝の残り香である龍涎香りゅうぜんこうの甘ったるい香りが鼻腔を満たす。

ミノムシのような簀巻き状態。手足の自由は奪われ、ただ呼吸をするだけの存在となる。

「いざ、参る!」

太監の低い掛け声とともに、身体が宙に浮く。

再び、あの暗く長い回廊の移動が始まった。

ゆらり、ゆらり。

担ぎ手たちの規則正しい足音が、心臓の鼓動と重なる。

厚い布団越しに伝わる夜風の冷たさが、火照った頬をかすめる。

暗闇の中で、私は安堵の息を吐いていた。

終わったのだ。

最も恐ろしく、最も長く感じられた夜が、ついに幕を下ろしたのだ。

全身の力が抜け、泥のような疲労感が襲ってくる。張り詰めていた糸が切れ、指先が微かに震えているのがわかった。

どれほどの時間が経っただろうか。

景陽宮の自室に戻り、慣れ親しんだ寝台の上に、ドサッと重い音を立てて降ろされた。

布団の隙間から、見慣れた天井の梁が見える。

太監たちは「お務めご苦労様でした」と事務的に、感情のこもっていない声で告げると、足早に去っていった。彼らにとってこれは毎夜繰り返される業務の一環に過ぎないのだ。

部屋に、重苦しい静寂が戻る。

いや、完全な静寂ではない。衣擦れの音が近づいてくる。

そこに一人の老女官があらわれた。老女官と言っても30前後だろう。しかし、周りの女官は皆10代であるからして、相対的に老女官だ。彼女は、部屋の隅で様子を伺っていた若い宮女たちを一瞥した。その眼光だけで、すべてを悟らせる威厳があった。

「杏花姫様、お疲れでございましょう。そなたたちも下がりなさい。後のことは私が引き受けます」

謎の老女官はその場にいるすべての宮女を下がらせた。

扉が閉められる音が響き、かんぬきが下ろされる。

部屋は私と老女官だけである。

誰の目もない、完全なる密室。部屋には、張り詰めた静寂だけが満ちていた。

もぞり。

私は毛布を必死にもがき、芋虫のように這い出した。

幾重にも巻かれた拘束を解き、冷たい空気を肌に感じる。

乱れた髪、汗ばんだ肌、そしてまとわりつくような残り香。

「はぁ……はぁ……死ぬかと思った……」

全身汗だくだ。それはただの暑さのせいではない。極限の緊張と恐怖が噴き出させた冷や汗だった。

足が震えて立ち上がれない。這うようにして、部屋の奥にある化粧台へと向かう。

鏡の前。

揺れる灯火に照らされたその場所へたどり着くと、私は水桶に手を突っ込んだ。

氷のように冷たい水が、熱を持った肌を刺す。

濡らした手拭いで、顔を覆う厚塗りの化粧を、皮膚が剥がれるほどの勢いで乱暴に拭い取った。

ゴシゴシと擦るたびに、水が白く濁り、朱色の紅が血のように滲んでいく。

塗り固められた「皇帝好みの仮面」が剥がれ落ち、その下から、隠されていた真実の肌色が露わになる。

そして、鏡の中に映った「すっぴん」の顔を見て――

そこにいたのは、杏花こと山田花子ではなかった。

そこに映っていたのは、恐怖と緊張で青ざめ、目元を赤く腫らし、魂が半分抜け落ちたような表情をした、侍女の蘭馨(らんけい)の顔だった。

「……ひ、姫様ぁぁぁ……!!」

鏡の中の蘭馨が、堰を切ったように泣き出した。

身代わりとして務め上げたのは、この忠実で健気な侍女だったのだ。

彼女は震える手で顔を覆い、子供のようにしゃくりあげた。

どれほど恐ろしかっただろうか。

バレれば即座に処刑される極限状況。正体を隠し通したその精神的負荷は計り知れない。

老女官は、ゆっくりと蘭馨に近づいた。

その表情は、先ほどまでの冷徹な策士の顔ではなく、慈悲深い母のような温かさを帯びていた。

「よくできました……」

短く、しかし深い労りのこもった一言。

そう言い残した。

蘭馨は鏡の前で泣き崩れたーーー

うわーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

蘭馨の口から、押し殺していた絶叫に近い慟哭が溢れ出した。

床に崩れ落ち、体を小さく丸めて泣きじゃくる彼女。

その小さな背中が、あまりにも痛々しく、そして尊かった。

老女官は彼女をそっと抱いた。

震える肩を包み込み、乱れた髪を優しく撫でる。

「宮女にあるまじきことですが……今日は泣くことを許しましょう……。そなたのその涙が、主君の未来を繋いだのですから」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ