人生には二つの悲劇がある。一つは愛されないこと、もう一つは愛されてしまうこと
「……杏花。貴女、正気?」
景陽宮に戻り、荷物をまとめている私を見て、華妃様は氷点下の声を出した。
その声は、怒鳴り声よりも遥かに恐ろしく、部屋の空気を一瞬にして凍てつかせた。
いつもなら甘い伽羅の香りが漂う寝室が、今は針の筵のように痛々しい。
華妃様は、豪奢な長椅子に座り、震える手で何かを握りしめていた。
私がプレゼントした「盛れる鏡」――スマートフォンだ。
画面には、数時間前に私たちがキャッキャと笑いながら撮影した、加工済みの美しいツーショットが映し出されているはずだ。
だが今の彼女には、それを見る余裕すらない。美しい顔が、裏切られた怒りと屈辱で般若のように歪んでいる。
「裏切り者。恩を仇で返すとはこのことね。私が目をかけてやったのに。泥の中から拾い上げ、専属の地位を与え、あまつさえ私の寝室で寝ることも許してやったのに……!」
彼女の長い爪が、スマホのカバーに食い込む。
「よりにもよって、陛下に取り入るなんて。私の目の届かぬところで、陛下を誘惑したのね? そうでしょう?」
「ち、違います華妃様! 誘惑なんて滅相もない! 取り入ったんじゃなくて、なんかこう、陛下が寂しそうで、断れなくて……気がついたら『はい』って言っちゃってて……!」
私は必死に弁明した。
嘘ではない。本当に、私の「NOと言えない病」と「ダメ男ホイホイ体質」が化学反応を起こした事故なのだ。
「同じことよ! 結果がすべてだわ!」
華妃様が立ち上がった。
右手に握られたスマホが振り上げられる。投げつける気だ。
私は身をすくめた。あの中に、私の全財産と、景皇子との絆と、AIの知恵が詰まっているのに!
「死になさい!」
振り下ろされた腕。
しかし、その手は寸前でピタリと止まった。
彼女の視線が、画面の中の「奇跡の一枚」に吸い寄せられたのだ。
これを壊せば、彼女の「真実の美」も永遠に失われる。その葛藤が、彼女の理性をギリギリで繋ぎ止めた。
「……っ、ああもう! 腹立たしい!!」
華妃様はスマホを投げるのを思いとどまり(やはり惜しいらしい)、代わりに手近にあった私の枕を、全力で投げつけた。
バフッ!
枕が私の顔面に直撃し、無力に床に落ちる。
「出てお行き! 今すぐによ! 二度と私の前に顔を見せないで! 次に会うときは、貴女が古井戸に沈む時よ!」
「か、華妃様……」
騒ぎを聞きつけて、麗華姫も駆けつけてきた。
事態を聞いた彼女は、扇子で口元を覆い、信じられないものを見る目で私を見つめた。
「杏花……貴女、バカ!? ほんもののバカなの?」
麗華姫の声には、いつもの棘はなく、純粋な呆れと、隠しきれない心配が滲んでいた。
「せっかく華妃に取り入って、安全地帯を確保したと思ったのに。あの好色爺(陛下)の毒牙にかかるなんて……。皇帝の寵愛なんて、一時の幻よ。飽きられたら終わり。その後は後ろ盾もなく、後宮の女みんなから敵にされて、死ぬよりも恐ろしいことになるのよ! 安息なんてどこにもないんだからね!」
「ううっ、否定できません……! 自分でもなんであんなこと言っちゃったのか……!」
麗華姫は呆れ果て、そして悔しそうに唇を噛んだ。
彼女なりに、私との「動画仲間」としての友情を大切にしてくれていたのだ。それが、私の浅はかな行動で壊れてしまったことが、悲しいのだ。
「こうなったからには、何としてでも赤ちゃん、それも男の子を作るしかないわよ! できなかったら、そのへんの庶民だろうがなんだろうがこっそり赤ちゃんを連れてきて皇帝のご子息ですっていいと押すしかないでしょうね! そしてその男の子をなんとしてでも……立太子は無理でも……郡王以上にはさせないといけないわ。それしか生き残る方法はないわよ!」
「そ、そんなーーーー」
ここまで来て、事の重大さがやっと飲み込めてきた。もう皇帝の妃というアイデンティティを命をかけて守らねばならないのだ。宮廷の諍い女の、あの泥沼の権力争いに身を投げ打たねばならない! でも、それじゃあもう景皇子は! OL山田花子はーーーーーー
「姫様……どうして……いいえ、わたくしが悪うございました……」
蘭馨は、冷静を取り繕おうとしているが、明らかに目の奥に恐怖が曇っている。
「わたくしが……わたくしがもっと厳しく、殿方を見る目を養う訓練をしておけば……。シャシャシャシャ歩きよりも、そちらを優先すべきでした……!」
「蘭馨、ごめん……。本当にごめん……」
こうなったからには蘭馨にも大きな影響が出ることだろう。
私も泣きたい。
なんで私の「NOと言えない病」は、時空を超えて、宮廷に来てまで発動するのよ!
しかも相手は皇帝。
一度あやふやに言ってしまった以上、もう後戻りはできない。




