第8話: 復帰
あたしは、梅雨明けに松葉杖を2本持って、緑が丘高校に復帰した。杖は伝統的な二等辺三角形のもの。底辺を脇に挟み、底辺に近い側にあるグリップをしっかり握って体重をかける。杖自体はアルミ製なので見た目ほど重くはない。
骨折は完全に治ったが、右足のひざとその下に麻痺が残る。感覚はあるが、膝も足首も足の指も全く動かない。左足の筋肉もまだ戻っていない。生活のほとんどすべてに影響がでる。学校に復帰してからの最初の1週間は、父さんに車で送り迎えをしてもらうが、その後はバス通学。最寄りのバス停から学校まで健常者で5分。あたしだと10分。路面の凹凸に注意しながら慎重に歩くが、右足に重りを引きずっているような感覚。転倒すると、麻痺があるので、起きあがるのも苦労する。制服は免除してもらっている。右足の金属製のサポーターを隠すトレパンとTシャツで過ごす。涼しげなスカートから惜しげもなく太ももをさらして、さっそうと歩く女子生徒がまぶしくてしょうがない。
学校に復帰して、最初にしたことは、先生方への謝罪。もちろん、自然科学部の幹部である顧問の先生、3年生の部長、2年生の副部長にも直ぐに謝りに行った。彼らは、屋上の鍵を渡した責任、管理がいい加減だった責任を問われたのだ。おまけに、あたしのせいで、屋上の天体ドームを利用する天文班の活動は制約を受けそうだ。天体ドームを利用するには、あらかじめ当日の利用者名簿を提出しなければならない。さらに、教職員が1名、当日の活動終了を確認することになっている。今の所、問題はないが、夏休みには、夜まで残ってくれる教職員を確保するのが難しいとのこと。そういうわけで、天文班に居づらくなったあたしは、小野寺巧や小島絵美のいる物理班への移動を願い出た。天文班の班長でもある副部長は気にする必要はないと言ってあたしを引きとめたが、部長はもっと冷静であった。あたしに暫く部活を自粛してほしいと言った。ほとぼりが冷めるまで様子を見るという判断だ。リハビリやなんかで、当面部に顔を出す暇はないから、丁度いいと思うことにした。
三日もすれば、クラスメートも先生もあたしを普通に扱ってくれる。もちろん、時々、優しくしてくれるが、普通に接してくれるのがありがたい。例外は数学の吉田先生、通称数Yだ。数Yは休んでいた間の数学で理解していなかった部分を対面で指導してくれた。これは助かった。そして、少しだけ数学に興味を持った。数Yによれば、数学とは、世の中でもっとも自由な学問で、想像力さえあれば、宇宙まで羽ばたくこともできるらしい。
右足の麻痺と放課後のリハビリはしょうがないとして、それ以外の点では、順調に学校生活に復帰したと思っていた。青木芽衣から不愉快な文面を見せられたのはそんな時だった。
「由梨子、ちょっと部室まで来てくれる」
報道部の部室には、ノートパソコンを抱えた守山雅夫がいた。
「あれ、山崎も来たんか?」
「うん。由梨子は知っておいた方がいいと思ったのよ。それに、手掛かりがつかめるかもしれないし」
芽衣はそう言って、あたしを見つめた。何かよくないこと、あたしが関係していることがあるのだろうか。芽衣が話を続ける。
「守山君、例のもの、見せてくれる?」
「ほんまに山崎に見せてもええんか?」
「由梨子ならだいじょうぶよ」
何だろう? 徐々に不安が大きくなっていく。見せられたパソコンの画面にはこんな文章が記されていた。
『名無しの権兵衛:
学校に虫が来た
**足の悪い虫だ**
全く迷惑だ。
早く俺たちAから消えてほしい』
「何これ!」
あたしは思わず声をあげた。『足の悪い虫』があたしのことを指しているのは直ぐわかった。
「うちの学校の裏掲示板。そして書きこんだ『名無しの権兵衛』は、小島絵美を誹謗中傷しとるヤツのハンドルネームの一つや」
あたしが疑問符を顔に浮かべたのがわかったのか、守山君はさらに詳しく説明してくれた。
「『名無しの権兵衛』、『名無しの俺』、『名無しの梨』、とか幾つかのハンドルネームを使っているんや。前に病院で話したことがあったと思うけど、そいつが、わしらが追いかけとる犯人で、いまだに小島絵美の誹謗中傷はやめてへん。それどころか、今回は山崎のことを書いとる。今まで、二つの掲示板を閉鎖してもろうたけど、これが三つ目の掲示板や。なんとか犯人を突き止めようと、芽衣と二人で頑張ってるんやけれど、あかん。だいぶヒントは集めたんやけど、絞り込むこともできてへん。そこで、山崎にこれを見てもらって手掛かりにしたいんや」
「つまり、あたしに心当たりはないかということね。いろいろ迷惑かけたし、よくは思われていなのは確かだけど…… 萎えるわね」
「気にしちゃだめよ」
と芽衣が慰めてくれる。確かに気にしてもしょうがない。起きてしまったことはどうしようもない。
「そうね。あたしのことはしょうがないけれど、小島さんを悪く言うのは許せない。協力するわ」
「で、文面の後半の『Aから消えてほしい』ってのは何かわかるか?」
と守山君が聞いた。
「A? う~ん、あ、そうか」
「わかったんか?」
「あたしが一番迷惑をかけているとしたら、自然科学部、そしてその中の天文班だから。Aは天文、Astronomyの頭文字のAだと思う」
「なるほど天文班か」
「と言うことは天文班の男が犯人?」
「いや、男やない」
「えっ、だって『俺』って言っているわよ」
あたしの疑問に芽衣が答えてくれた。
「偽装よ。いつも『俺』って書いてるから、私たちも最初は男だと思ったの。でも、これまでの書き込まれた文章を調べた所、ちょこちょこと女らしい口調、言葉づかいがあるのよ。だから、本当は女だわ。それをごまかすために、わざと『俺』を使っているの」
「すごいわね。そんなことがわかるの。でも、天文班の女子が犯人だとしても、1年から3年までで30人はいるわよ。まだまだ絞り込めないわ」
今度は、守山君が答える。
「学年はおそらく2年生や。ある平日、昼間から書き込みが何件もあったんや。普通、平日の昼間は授業がある。だから掲示板への書き込みなんてそうそうでけへん」
「それなら、2年生も同じじゃない」
「ところが、その日、2年生だけは遠足やった。バス借りきって、博物館に行ったんや。つまり、バスの中で携帯から掲示板に書き込んだんやと思う」
「なるほど、守山君って頭いいわね」
「誉めてくれるんは嬉しいけれど、似たような話が映画にあったんや。とにかく、山崎のおかげで、天文班の2年女子まで絞り込めたわ。あと一息やな」
さすがわ、芽衣と守山君ね。二人がタッグを組めば何でもできそうな気がするが、もっと大きなヒントの方はどうなったのかしら。
「そう言えば、小島さんの線はどうなったの? つまり、小島さんに恨みを持ちそうな人は見つかったの」
芽衣が答える。
「それが、ほとんど進展はないのよ。皆から好かれてないのは確かだけれど、そんなに恨みを買うようなことはしていないわ。小学校、中学校がいっしょだった小野寺君にも聞いてみたけれど、あんまり、教えてくれないの。彼自身、昔のことは語りたがらないのよ。でも、3年ほど前に親が離婚してから生活が苦しくなったらしいとは教えてくれたわ。掲示板にも3年前とかいう記述があったから何か関係しているのかもしれないけれど、小島絵美の家庭のことが学校や他の生徒に影響するわけはないと思うし……」
あたしは、少し迷ったが、話すことにした。
「それなんだけれど、やっぱり、その離婚が発端だと思うの」
「どういうこと?」
「離婚は離婚だけれど、駆け落ちなのよ。つまり、小島さんの父がある女性と駆け落ちしたの」
「駆け落ちかぁ。で、それが関係あるか?」
「もしもの話しだけれど、その女性が家庭を持っていて、そこに子供がいたとしたら…… その子供は、小島さんの父を恨んでもおかしくないし、父の子である小島さんをよくは思わないでしょう。で、その女性の子供が高校2年生になって、1年生として入学した小島さんを発見したら……」
「そうか、そういう線があったか。完全に見落としとったわ。と言うことは、母がいない父子家庭を探せばええのか」
「天文班の2年生女子に聞いて回るの?」
と思いついたことを言ってみるが、芽衣に反対される。
「簡単には教えてくれないでしょう。自分のことも同級生のことも。だいたい由梨子だってうちのクラスメートの誰がひとり親かなんて知らないでしょう? 例えば、碧の所が父子家庭だなんて知らないでしょう?」
「ええっ! そうだったの? 知らなかった。あたし、変なこと言って碧を傷つけたりしなかったかしら……」
「少なくとも、今の時代、両親と同居していれば、幸せだと思った方がいいわよ」
守山君が口をはさむ。
「それは、言えてる。わしの家は、親父が単身赴任しとるし」
「……」
色々な人がいるのね。確かに、あたしは幸せを幸せと思っていなかった初な乙女だったのかもしれない。
芽衣が父子家庭を探す別のアイディアを思いついた。
「例えば、高校に提出した緊急連絡先を閲覧できれば、父子家庭かどうか、母がいないかどうかはわかるわ。でも個人情報だから見せてはくれないでしょう。」
「かと言って、職員室に忍び込んで盗み見するなんてこと無理」
「いっそ、小島絵美の父の戸籍を辿ってみる?」
「それだって個人情報だから簡単じゃないはずよ」
「……」
あたし達は、黙り込んでしまった。万策が尽きたのだ。
次の週になって、芽衣が守山君とあたしに声をかけた。進展があったらしい。部室に入って開口一番に芽衣は言った。
「わかったわ。2年4組の竹田さんよ」
確かに天文班で2年生で女子だ。ただ、あたしはどういう生徒かはよく知らない。辛うじて、顔がわかる程度だ。しかし、一体どうやってつきとめたのだろう。説明を求めると芽衣は口を濁した。
「どうやったかって? それは…… 言えないわ。とにかく、竹田さんの母が小島絵美の父と駆け落ちしたのは確かよ」
「よっしゃ! ホンなら早速、行こう!」
守山君はすぐにでも出て行こうと椅子から腰を浮かした。
「待って! 行ってどうするの? 掲示板への書き込みをやめてくださいと言うの? 本人が書き込んだことを否定したらどうするの? そもそも証拠がないじゃない。恨みを持っているらしいことだけでは、証拠にならないわ」
「由梨子の言う通り、証拠はないわ。だけど、あたし達の目的は犯人を捕まえることでも、その実名をさらすことでもないわ。目的は掲示板への悪質な書き込みをやめさせることだわ」
「だけど、証拠がなければ、納得させることはできない。どうするの?」
「あたしに任せて」
芽衣はきっぱり言い切った。自信にあふれていたわけではない。どちらかというと、自分がやるしかないと覚悟を決めたみたいだった。
芽衣と一緒に部室に入ってきた女子は、髪が長く、少しきつめだけれど、綺麗な子だった。彼女はしぶしぶ連れてこられたという様子だった。松葉杖をついたあたしを見て、ほんの一瞬だけ目を見張ったが、その後は、あたしと守山君の存在を無視した。芽衣が話を切り出す。
「竹田先輩においでいただいたのは、少々お聞きしたいことがあったからです。ええ、もちろん4組の教室で聞いてもよかったのですが、不特定多数に私たちのやり取りを聞かれるのはよくないと思いまして……」
「そんな、人に聞かれて困るようなことはした覚えがないわ。それに、1年生が2年生を呼びだすなんて、前代未聞よ。報道部の2年生の部員が出てくるのならわかるけれど」
如何にも、1年生につきあってあげているのだと言う態度だ。もちろん、芽衣は、そのぐらいのことは最初から想定していた。
「申しわけありません。でもうちのクラスメートのことだったので。実は、クラスメートのある女子が掲示板で誹謗中傷されているのです。うちの高校の裏掲示板で、『名無しの八兵衛』とか、『名無しの俺』とか、『名無しの梨』の名前で酷い書き込みをしているのです。色々調べて、どうやら2年4組の生徒らしいと言うことがわかりました」
「2年4組?」
彼女の声は少し震えていた。
「そう2年4組の男子です」
あれ、芽衣は今『男子』と言ったけれど、『女子』じゃなかったっけ? なんで間違えたのかしら。それとも本当は男子だったのか。だとすると、今連れてきた彼女は犯人じゃないと言うこと? 芽衣に任せたのは失敗だった? 守山君の方を見ると、彼は黙っていろと目で合図した。
「それで、女子の私がなんの関係があるの?」
そう答えた彼女の声は、少し大きくなっていた。自分が疑われていないとわかってほっとしたのだろう。
「竹田先輩なら、何か知っていないかと思って……」
「どうして私が知っているの?」
「知りませんか? これは、その子、うちのクラスの子のプライバシーに関わることなんですけれど、他の生徒は知らない情報です。でも、竹田先輩のお父さんは、貴金属店を経営している」
「それがどうかしたの?」
「同じビルで、その子の親は店をやっていた。3年前まではね。だけど3年前に、その子の父が駆け落ちをした。その後、その店は人手に渡り、その子の家庭は経済的に困窮した。今もそれは変わらない。父親に捨てられた子、かわいそうだと思いません」
「さあ…… そんなことあたしに言われても、なんとも言いようがないわ。それに、あたしはそんな子知らないわ」
「あれ、竹田先輩の家は、あの店でよく買っていたのではなかったですか?」
「買っていた? 確かに、よく母さんが花を…… 花なんて大っきらい!」
竹田さんはそう叫ぶと、宙を睨んだ。芽衣が静かに喋り出す。
「父親に捨てられた子、母親に捨てられた子、同じようにかわいそうだと思います。大人は身勝手で自分のことしか考えない。都合の悪いことは他人のせいにして、そのくせ子供には偉そうにしている。まったく、最低の母親ね」
「違う!」
怒りに身を震わせて竹田先輩が激昂した。部室の窓ガラスがビリビリと不協和音を奏でた。あたしは思わず身をすくませたが、芽衣は動じない。
「そうね。実際、いい母よ。今でも子を思っている」
あれ? 芽衣は母、駆け落ちの相手を知っているの? 芽衣が続ける。
「それはそうと、やっぱり先輩は知りませんか?」
「何を?」
「その~ 掲示板に書き込んだ 名無しの…… なんでしたっけ、名無しの……」
「知らないわよ! 名無しの権兵衛なんて知らないわ」
「そうですか」
芽衣は肩を落として、あたし達に振り向いた。その表情はほっとしたという感じだ。
「守山君と由梨子は席をはずしてくれる?」
「えっ、わ、わかった」
あたし達は廊下に出て、部室の扉を閉めた。部室の中はすりガラスで遮られていて見えない。廊下の反対側、校舎の外に裏山が見える。あたし達は裏山への入り口に近いところに置かれたベンチに座って待つことにした。守山君が長くなるかもしれないと言ったからだ。杖をベンチに立てかけて、あたしは座った。暑い暑い日であったが、座った所は、丁度、日陰になっていて、わずかに風もふいているから、それほど不快ではない。守山君が隣に座る。正面の廊下の窓越しに部室の扉が見えるのを確認して、彼に話しかけた。
「なにか知っているの?」
「知っているって?」
「中で何が起きているか? 芽衣が何をしようとしているのか?」
「さあ、わしも知らん。そやけど、知らん方がいいような気がする。どちらにしろ、アイツが犯人なのはほぼ間違いないわ」
「えっ! どうして?」
「どうしてって、芽衣の罠にはまって白状したやないか?」
「罠? 白状? 何も言わなかったじゃない」
「山崎、お前、どんだけ鈍感なんや…… 一つ目の罠はハンドルネームの『名無しの権兵衛』や。最初、芽衣はわざと間違えて『名無しの八兵衛』って言うたんや」
「そう言えば、私もあれっと思った」
「ところが、最後にアイツは『名無しの権兵衛』って自分から言いよった。だから、アイツは犯人か、そうでなければ掲示板をよう見とるヤツや」
「なるほど~」
「二つ目の罠は店。芽衣は、何の店か言わんかったけど、母親のことを持ち出して、花屋であることを言わせた。最初に、わしらが犯人は男子と考えていると思わせて油断させたのも巧妙やったな」
「そうだったの。芽衣はすごいわね」
「ああ、敵には回しとうないわ」
守山君は詰襟の制服のボタンをだらしなく外して、自分の手であおいだ。
その後、あたし達は黙って、部室の扉を見ていた。その沈黙に耐えられず、あたしは、口を開いた。
「それにしても、罪な大人たちねぇ。二つの家庭を壊してまで駆け落ちするなんて……」
「大人の恋、大人の愛はようわからん。うちの両親も、親父が帰ってくると、わしの方が恥ずかしゅうなるぐらいラブラブやで。全く大人はようわからんわ」
「ふ~ん。守山君の家もそうなの。あたしの家も似たようなものね…… それはそうと、守山君と真美はどうなったの」
「どうもこうもあるか。近々、キスして別れることにした」
「キスして別れる?」
「そうや。つきおうて、わかったんや。わしらは好きあっているわけやないっちゅうことが。確かに、真美はかわいい。だけど、何かが違うんや。大げさに言えば、人生に対する考え方がちがうというか…… 向いているベクトルが違うんや」
「でも真美は守山君に恋していたのじゃないの?」
「いいや。真美は…… 真美の言葉を借りれば、恋する自分に恋をしていたらしい」
「複雑というか、考えすぎじゃない?」
「そうかもしれん。とにかく、別れることになったんや。でも、折角つきおうたのに悔しいやろ。それで、二人で、キス、ファーストキスをして別れることにした」
「ファーストキス? わかるような、わからないような……」
その時、部室の扉が開いて、竹田先輩が飛び出した。ほんの少し走ったかと思うと、立ち止まって拳で目をぬぐった。それから握りしめていた拳を開いて、くしゃくしゃになった紙を廊下の壁に広げて丁寧にしわをのばした。時々、ハンカチを顔に当てている。そして、のばした紙を丁寧に折りたたんでスカートのポケットに入れて走り去った。
芽衣は、昨日、日曜日に都内に住んでいる彼女の母親に逢ったそうだ。その時に母親から託された手紙を彼女に渡したらしい。それ以上のことは、芽衣は何も教えてくれなかった。ただ、事件は解決しただろうと言った。実際に、書き込みはなくなり、掲示板も閉鎖された。
パンを持って、復帰以来、初めて楠へ行く。こんもりと茂った葉が作る日陰には二人の先客がいた。
「あら、小島さんじゃない」
楠で小島さんを見かけるのは初めてだ。常連の小野寺君もいる。二人とも穏やかな表情をしている。ここに来れば誰でも穏やかになると思う。いや、むしろ、荒れた心を癒すためにここに来るのかもしれない。
「もう、歩き回れるのか?」
小野寺君があたしに聞いた。
「まあまあね。少なくとも松葉杖の使い方には慣れたわ」
そう言って、あたしは片方の松葉杖を少しだけ持ち上げた。医者には、松葉杖を1本に減らしてほしいと言っているが、まだ許可は出ていない。右足が自由にならず、バランスを取るのが難しいからだ。肩掛けカバンからビニル袋に入ったベーグルをとりだし、それを小島さんに渡す。
「そのベーグルを三つに分けてくれない?」
「どうするの?」
「ちぎって、野鳥やカラスにやるの。小島さんも手伝ってくれない?」
3人で、鳥達にパンをやる。カラスもいる。
「小野寺君。あのカラスはナナ?」
「そう、ナナだ」
小島さんが不思議そうな顔で聞く。
「ナナって?」
それにあたしが答える。
「カラスの名前。小野寺君があのカラスにつけた名前よ。カラスに名前をつけるなんておかしいでしょう。最初にあたしがそれを聞いた時は、大笑いしたわ」
「全く、あの時の山崎さんはひどかった。それに…… 色々ありましたね」
小野寺君が言う通り色々あった。平手打ちしてもらうはずだったのだ。もう、随分昔のことに思える。それにしても、二人が楠の所に一緒に居たと言うことは……
「ねえ、小野寺君と小島さんは、ここでデートしていたの?」
そうあたしが言うと、彼は不思議そうな顔をした。反対に、小島さんは顔を赤くしてうつむいてしまった。ということは彼女の方はデートかデートもどきと思っていたのだろう。それならばと、彼の方を突っついてみる。
「デートじゃないの?」
と問うと、小野寺君がとんでもない応答をする。
「違いますよ! カラスのナナと会うのはデートじゃないですよ」
「……」
彼の応答に、あたしも、小島さんも絶句してしまった。
「あははは…… 小野寺君って、やっぱり変人だわ」
またもや、大笑いしてしまった。失礼だとは思うけれど、笑いをこらえることはできなかった。あたしは、小島さんの方を振り向いて言った。
「小島さん、ナナに負けているわよ」
「そうみたいね」
彼女も呆れたという顔をしていた。
「この分だと花言葉も知らないじゃない」
あたしは、病院でもらったピンクのバラを思い出して言った。
「きっと、知らないでしょう」
あたしと小島さんは顔を見合わせて笑った。状況を理解できない小野寺君は、不満そうに顔をしかめたかと思うと、あたしの手元に残ったパンを取り上げて、小さくちぎって鳥の居る辺りにばらまいた。




