第9話: 鍛錬
昼休みに入ると、教室のあちこちに島ができる。3人島、4人島が一番多いだろうか。もちろん、離れ小島も無人島もある。由梨子のいる島は4人島だったのだが、最近5人島になった。小島絵美が加わったのだ。誘ったのはあたしではなく、木川碧。不思議な組み合わせだと思ったが、碧には下心があるらしい。
「実は、絵美にはモデルになってもらおうと思っているの」
「ええっ! モデル!」
あたしは思わず叫んでしまった。絵美は恥ずかしそうにうつむいている。芽衣と真美の視線も絵美に集まる。碧が続けた。
「そう、モデルよ。前に話したと思うけれど、あたしは通販のカタログのモデルをやっているの。主婦向け、ミセス向けの通販だから、あたしだと目立ちすぎて、服の方がかすんじゃうんだって」
「なんとなくわかるわ。だって、碧なら、百人いれば百人とも振り返るぐらいの美人だから」
「それは、大げさな気がするけれど…… とにかく、あたしは個性があり過ぎるみたい。で、ミセス向けの通販としては、隣に住んでいるちょっと綺麗なお姉さんって感じがベストなの。と言うわけで、目をつけたのが絵美」
「でも、どうして絵美なの?」
とあたしは、本人を前に失礼な質問をした。
「絵美って顔のつくりが整っているの。十人並みの美人というか、そこそこの美人だから、丁度いいのよ。後は、肌と髪の手入れをして、化粧をすればばっちりよ。あたしが見違えるような美人にして見せるから楽しみにしてて」
そう言って、碧は、塩もみしたキュウリをもぐもぐやっている絵美の顎のラインを手の平でなでた。絵美はビクッと肩を震わせたかと思うと咀嚼を中断し碧を見つめた。不安そうな顔を見せている。あたしだって、碧にそんなことをされたら不安になるだろう。そしてその不安は適中した。碧は舌を出して自分の人差し指を濡らしたかと思うと、その指で絵美の唇をなぞった。絵美の唇が教室の蛍光灯を反射して光る。
「とりわけ、この唇がエロチックなのよねぇ…… 吸いつきたくなるわ」
あたしは、2秒ほど凍結保持された。その後、向こうに2人島を作って弁当を食べている男子2名が、絵美と碧を凝視しているのに気がついた。二人とも箸を口に入れたまま、固化されていた。
あたしが学校に復帰して、間もなく夏休みに突入した。高校1年生だから、皆、好きなことをやるみたい。部活とその合宿で忙しい生徒、予備校の夏期講習に参加すると言う秀才たち、家族と海外旅行に行くとひそひそ話している生徒もいる。が、あたしは、リハビリと、補習授業で忙しい。もちろん、補習仲間はいて、全学年で30人程度の補習クラスが各科目でつくられる。あたしの場合、全科目とも強制参加となる。学期中と同じ時間(つまり、朝早くから)から補習が始まり、午前中で終了する。真昼の帰宅時には太陽が容赦なく降りそそぐ。バス停への道中では、ミンミンゼミの途切れない鳴き声が暑さをいっそう盛り上げる。
そんなわけで、トレパンはやめて、短パンをはいた。ぶよぶよとした筋肉のない両足、きらきら光るサポート金具をつけた右足に太陽光線が突き刺さる。それが、不思議なことに心地よい。なんだか、両足にエネルギーが注ぎ込まれるような気がするのだ。こうして、あたしの貴重な夏休みのほとんどが補習とリハビリでなくなっていく。
義理堅い友人達は休み中も時折、やってくる。正村はうちのパン屋に寄ってシナモンベーグルを買って、あたしの自宅へ立ち寄った。そして、お前にもやると言って半分くれた。夜に来た碧は、お姉ちゃんと一緒に晩御飯を作った。作りながら小島絵美変身計画の進行状況を報告していった。小野寺君は、毎週水曜日にリハビリ病院まであたしを迎えに来てくれる。以前は、リハビリの様子をしつこく聞いてきたけれど、最近は、何も言わず、短パンから伸びたひ弱なあたしの足をじっと見ていることが多い。
芽衣達は海に行こうと言って誘ってくれたけれど、余計な気遣いをしてもらうのも疲れるので、断ってしまった。そのくせ、絵美からの秘密の花園を見に行こうという誘いには迷いもせずに快諾したから不思議だ。絵美に同族の匂いを嗅ぎ取ったからかも知れない。
秘密の花園というのは、絵美が小学生だった頃に父親に連れて行ってもらった所。歩道が整備され、オバサン連中が雲霞のごとく押し寄せるスポットでもないし、お金持ちが自分のためだけに整備したバラ園でもないし、農家が栽培する切り花の畑でもない。それは、自生の花群で、どうしてそこに花があるのか誰も説明できない。そもそも、誰も知らない秘密の花園らしい。それをもう一度見てみたいと絵美が言うのだ。彼女によれば、あたしでも行けるぐらいの道のりで、小野寺巧も一緒に来ると言う。この世のものとは思えない景色が見られるというので、あたしは快諾した。実際、一生に一度有るか無いかというものを見ることになったのだけれど。
8月下旬の土曜日、天気は晴れているがところどころに小さな入道雲が輝いている。待ち合わせは人の多い駅前。
「おはよう由梨子」
可愛らしい少女が、元気のよい、それでいて落ち着いた声で挨拶してきた。久しぶりに会う小島絵美だった。淡色のジーンズに、ゆったりした薄青の半袖ブラウス、可愛い麦わら帽子という質素ないでたちは今までの地味な印象と符合するが、蛍光色のラインの入ったスニーカーとブランドものの3色リュックは、旅慣れたハイカーのようであり、絵美の変化の一端を示している。変わったのは服装だけではない。太陽光をきらきらと反射する茶色がかった髪と血色のよい頬は、あたしの記憶にあった艶のない黒髪、平面的な頬とは一致しない。一番驚いた点は、明るい穏やかな表情。あたしが知っていた暗く決意を秘めたような表情は欠片も残っていなかった。もし、待ち合わせたのではなく、偶然出会ったのであれば、わからなかったと思う。それほどまでに、絵美は変わっていた。一言で言うなら、美女に変身したのだ。
少し、遅れてやってきた小野寺君も直ぐにはわからなかったみたい。
「山崎さん、おはようございます。えーと、その子は…… ええっ! もしかして、小島さん?」
「あたしがいることに何か問題でも?」
と答える絵美は、いたずらっぽい笑みを漂わせて小野寺君を見つめた。昔の絵美だったら、自虐的で捻くれた応答をする所だけれど、やっぱり自分の変身に自信があるのだろう。小野寺君は、目を伏せて
「えっ、いや…… も、問題ありません」
と顔を赤くして、言いわけをした。あたしは彼女に軽い嫉妬を覚え、それを確かめるために彼にこう尋ねた。
「小野寺君は、絵美があんまり可愛いんでびっくりしたんでしょう?」
「いえ、そんなことは…… ないことはない……」
と彼は、絵美とあたしを交互に見ながら何と答えたものか迷っている。面白くなって、あたしは彼を突っついてみた。
「男ならはっきりしないさいよ。絵美を可愛いと思っているの? 思っていないの?」
「か、可愛いです」
と彼は答えさせられた。さすがに絵美の方はうつむいて顔を赤くしている。
目的地までは、電車で30分程行って、駅からさらに歩くそうだ。電車の中で絵美は国土地理院の2万5千分の1の地図を広げた。
「目的地はここ。鉛筆で印されている所よ。駅から直線距離で5キロ程」
そう言って彼女は、折り目の所がすりきれている地図を見せてくれた。使い込んであるのだろう。目的地は山の中、薄茶色の等高線が一杯描かれている。
「もしかして、山の中?」
「そう。目的地のそばのこの三角点の所で344メートル、駅の標高がおよそ100メートル弱。太い等高線を5本横切るから、ちょっとした登り」
「大丈夫かしら」
そう言って、あたしは1本になった松葉づえを少し持ちあげた。
「小学生だった私が苦労せずに行けたから大丈夫よ」
そう言って、絵美は地図を示しながら、コースを説明し始めた。
「最初は車道沿いに平地を歩いていく、両側には田んぼが広がっているわ」
「よく、そんなことを覚えているわね」
「ううん、覚えているのじゃなくて、地図に書いてあるのよ」
「どこに? ……なるほど、地図記号ね」
真ん中が長い三本線が記されている。稲を模したのだったっけ。
「それから、この集落の所から細い道に入って、緩やかな登りを歩く。周りは広葉樹が主ね。途中から歩道になって、小川沿い、つまり谷を歩く。ところどころに家屋や果樹園があるわ。ここで歩道は切れるけれど構わず小川沿いを歩く」
「ええっ! 道のない所を歩くの?」
とあたしが騒ぐと
「大丈夫よ、地図には全ての道が載っているわけじゃないわ」
と絵美は平然と答えた。それって論理になっていない気がすると思っていると絵美はさらに驚くようなことを言った。
「それに、けもの道ならどこにでもあるわ」
「けもの道?」
「そう、狼とか虎とかが通る道よ」
この時は、『絵美も冗談が過ぎるわ』と思っていた。
「最後は、この谷か、この尾根を直登して、三角点のある頂上まで行く。頂上の向こう側の少し平らになった所が花園…… のはず」
絵美の最後のその言葉は自信の無さを露呈させた。
「本当に花園があるの? 確かに鉛筆での書き込みはあるけれど地図記号は何も記されていないわよ」
「もちろん、お花の地図記号はない。でも、何かがあるのは間違いないわ」
そう言って彼女は、クリアホルダーから数枚の航空写真を取り出した。ネット上のものをプリントしたものだ。途中の家屋の屋根の形までわかるほど精細だが、起伏はわからないし、道も見えない。絵美によれば、細い道は樹木の影になって見えないのだそうだ。肝心の花園にあたる所は、周りと違って薄茶になっている。
「ねぇ、花園だとしても、この色からすると枯れているんじゃない」
「あはは、そうね。由梨子は鋭いわ。あたしも最初はそう思ったの。でも、考えてみるとこの写真は今、今の季節を表わしているとは限らない。」
「……」
「秋に撮影したものかもしれないし、冬に撮影したのかもしれない。小野寺君が裸で日光浴していたとしても写っているとは限らないわ」
「してませんよ」
と小野寺君が短く反論した。
あたし達3人は無人駅に降り立ち、歩き始める。中型のトンボが飛び交う田園の中を、あたしは必至で二人の健常者についていく。
「ねぇ、少しはあたしのペースに合わせてくれない?」
「あ、ごめん。ついつい速くなってしまって」
そう言って、小野寺君はペースを落とし、あたしの横に並んだ。それに対して、数歩先を行く絵美は容赦ない。
「小野寺君、図に乗るから由梨子を甘やかしちゃだめよ」
「ひぇ~ 絵美、ちょっとは加減してよ」
そうあたしが言うと、絵美は立ち止まって、恐い顔をした。
「由梨子はわかっていないようね。あなたは足が悪い。だから、周りは皆配慮してくれる。つまり甘やかしてくれる。そのうち、由梨子は甘やかされることが当り前と思うようになる。そして、気がついた時には…… こうよ」
そう言って、絵美は右手を自分の顎の下に持ってきて横に引いた。つまり首を切るまねをした。絵美は、今度は、にっこりほほ笑んで話を続けた。
「前にも言ったことがあると思うけれど、世の中には、本当の不幸を知っている人と、不幸に同情できるふりをする人がいる」
「覚えているわ」
「大抵の人は後者。同情するふりをする。如何にも自分が聖人であるかのようにふるまう。そして無理をするのよ。無理が利かなくなったら、『ハイ、さようなら』。そう言って不幸な人を突放すの」
「つまり、甘えるなって言うこと?」
「できるだけね。限界まで我慢する必要はないけれど…… 他人はあてにしない。小野寺君だっていつまでも由梨子をちやほやしてくれるとは限らないわよ」
これには、小野寺君は真面目に反論する。
「僕は、そんな軽い気持ちではありません。いつだって……」
絵美が割り込む。
「いつだってって言っていても、そばに可愛い子がいれば目移りするでしょう」
彼は、あっと言って黙ってしまった。今朝のことを思い出したのだろう。そうだ、あたしもここで彼に言っておかないと……
「小野寺君、あたしのことは構ってくれなくてもいいのよ。お姉ちゃんに一生面倒をみるって約束したのかもしれないけれど、無理をしなくてもいいのよ。というか、そんなこと無理に決まっている。あたしは、その言葉だけで十分満足だわ」
あたしはそう言って……そう言ったことを後悔した。本当は一生面倒を見てほしい。この先、どこまで一人で頑張れるか全く自信はない。だから、本当は小野寺君に構ってほしい。でも、そうは言えない。あたしも見栄っ張りな似非聖人なのだ。そして小野寺君の反論を期待した。が、彼は何も言わなかった。
絵美の優しい言葉が気まずい沈黙を破る。
「さ、歩きましょう。今日の目的は、由梨子の鍛錬だから」
「ええっ! やっぱり、あたしの鍛錬が目的だったんだ」
「それも目的の一つ。でも、あくまでも秘密の花園がメインディッシュよ」
時折、松葉づえをはさんだ左脇をタオルでぬぐいながら、黙々と歩く。そして、細い道に入った所で、音をあげた。
「ちょ、ちょっとだけ休憩しないない? 疲れたし、喉も渇いた」
あたしは、自販機の前で立ち止まった。そこで売っている炭酸に限りない魅力を感じたのだ。リーダーの絵美が休憩に合意する。
「それじゃ、ちょっとだけ休憩しましょう。持ってきたお茶を飲んでもいいわよ。でもあんまりたくさん飲まないでね。飲みすぎるとかえって疲れを感じるから」
そう言って、彼女はリュックから自分の水筒を取り出して一口飲んだ。
一方、あたしの方では、帽子をかぶった頭あたりで発生した汗が一滴、頬を伝って、熱くなったアスファルトに落ちた。その瞬間に、あたしの頭の中で妄想が始まった。口の中で冷たい炭酸の泡がシュワっとはじける。そして、その液体はなおも泡を吐きながら食道を刺激して、ついには胃に流れ込む。冷えた液体は胃の温度を急速に下げて、その冷気は胃からじわじわと体へ広がっていく…… あ~ 炭酸を一気飲みしたい!
あたしが自販機から視線を外せないのに彼女は気がついた。
「もしかして、由梨子は自販機の冷えたジュースが飲みたいの?」
ウンウンと頷く。
「しょうがないわねぇ。私がおごってあげるわ」
そう言って、彼女は財布からコインを取り出して自販機に入れた。もしかして、あたしがお金を持っていないと思ったのだろうか? でも、おごってくれるならいいかもと『甘え』た。そしてその『甘え』の結果は……
「どれにする?」
彼女が尋ねたので
「上の段の左から2番目の赤いやつ」
とあたしが妄想した炭酸の銘柄を指定した。すると彼女は
「ええっ、炭酸じゃない。由梨子はまるで子供ね。こっちにしなさい」
そう言って、彼女は一段下の冷たいレモンティーのボタンを押した。
あたしは、『子供なんだけれど……』と小さくつぶやいた。
レモンティーを飲みながら、さっきから気になっていたことを絵美に尋ねた。
「絵美は変身した。綺麗になった。だけどそれだけじゃないでしょう」
「それだけじゃないって?」
「例えば、インターネット。前は使えないって言ってなかった? でも、今日はネットからダウンロードした航空写真を持ってきた。それに、携帯も持っているんじゃない? この間、うちに電話した時、携帯使ったでしょう?」
そう、電話番号が見慣れない携帯の番号だったのだ。
「ばれたか…… 色々あったのよ」
「色々?」
「そう。心に余裕ができたの。きっかけは二つあるわ。母さんが隣町の駅ビルにできた花屋の店長を任されることなったの。昔の経験を買われたのね。それで、今まで毎日2つやっていたパートはやめて、花屋に専念することになった。収入はあまり変わらないけれど、母さんに時間的な余裕ができた。それがドミノ倒しのように広がって、私にもバイトをする余裕ができたの」
以前は、絵美はバイトをする余裕もないと言っていたから、随分変わったのだろう。
「で、もう一つのきっかけは?」
「それについては由梨子達の暗躍に感謝しなくちゃならないわ」
暗躍と聞いて…… 思い当たる事があった。
「知っていたの?」
とあたしは絵美に聞いた。
「由梨子達が解決してくれた後で、たまたま知ったのよ」
と絵美は答えた。
「言わなくてごめんね。その方がいいと思ったの」
とあたしは謝った。
「私が知っていても知らなくてもどちらでもよかったけれど、由梨子達の行動がきっかけになって、父さんに会えたの。だから感謝しているわ」
そう言って、絵美は視線を空に向けた。そこで、小野寺君が口をはさんだ。
「その事とか、解決とか、暗躍って何なんですか?」
「巧は知らなくていいの」
絵美はピシャリと言ったが、言いすぎたかと思ったのか口調を和らげて言いわけをした。
「話すのも面倒なくらいつまらない話よ。とにかく、その結果、私は父さんに会った。離婚して顔を見せないばかりか、養育費も送ってくれない薄情な男だと思っていた父さんにね」
「養育費って何ですか?」
と小野寺君が聞いた。
「親は未成年の子を養う義務があるわ。離婚調停で毎月決まった金額を養育費として送ると約束したのだけれど、わずか半年で途絶えた」
「その離婚調停って何?」
とあたしが聞いた。
「離婚するにも色々な過程があるの。普通に話し合って離婚する場合もあるけれど。離婚するかどうか自体、子供の親権をどうするか、財産をどう分けるかと言ったことで合意できない場合は裁判所の仲介で離婚をする。裁判所という場所で調停委員というオジサン、オバサンが二人を説得して離婚をするのが調停離婚。その時に養育費なんかも含めて取り決めをする。調停委員の説得でも二人が合意できない場合は弁護士も出てきて裁判、訴訟を行い。裁判官が結論をだすの」
「なんだか、難しそうね。でも何となくわかった気がする。で、そこで決めたはずの養育費がどうして滞るの?」
「調停で約束しても、いつでもそれが守られるわけじゃないわ。法的な対抗措置もあるけれど、養育費を出す側の事情によっては、約束を履行したくてもできないことがあるのよ」
「それじゃ、約束の意味がないじゃない」
絵美は、ますます饒舌になる。
「でもしょうがないこともあるわ。法律は万有引力の法則みたいな真理じゃないのよ…… 話を元に戻すと、父さんは父さんなりの事情があったみたい。で、とても養育費を出す余裕なんかなかったらしいの。今でも余裕はないみたい。でも、由梨子達の活躍がきっかけで、父さんが私に逢いに来て、謝ってくれた。そして、今、父さんができる精一杯のことと言ってあたしに携帯電話をくれたの。通信費も月数千円なら気にしないでいいって言われたの。でも、それでわかっちゃったのよ」
「わかったって?」
「つまり、父さんが自由にできるお金はそのぐらいだってことが。とても養育費を出す余裕なんかないってことが」
「……」
あたしは考え込んでしまった。少しはましになったのかもしれないけれど、まだまだ絵美は苦労しそうだ。でも、憑き物がとれたようなすっきりした表情を見ていると、今の彼女なら何とかやっていくだろうという気がした。それに対してあたしの方は、まだまだトンネルの出口は見えてこない。
小野寺君が口をはさんだ。
「そろそろ出発しませんか? 雲行きも怪しくなってきたし」
そう言う彼の視線の先には、灰色の雲があった。さっきまで太陽がギラギラ照りつけていたはずだったのに。彼は面白いことを言う。
「あの雲は雷雲です。水分もたっぷり抱えこんでいますので雨も降るのでしょう」
「小野寺君ってすごいのね」
と絵美は普通に驚く。本当は普通に驚いてはいけない。彼は、知識でそう言っているのではない。実際にそう感じているのだ。病院で風を操れるという話を聞いた時は驚いたが、どうやらそれだけではないようだ。彼は、おそらく、いや、かなり『空気が読める』。文字通り空気の物理的状態を感じ取ることができるのだ。そしてあの雲に静電気と水を感じ取ったに違いない。
舗装されていた細い道は、直ぐに砂利道に変わり、周りの茂みが厚くなるのと反対に家屋は姿を消した。砂利道を歩くザックザックという心地よい足音に混じって、アルミ製の松葉づえがカシャカシャと乾いた音を立てる。杖の先のゴムがすり減ってアルミが露出しているのだ。先週から先ゴムを注文しなければならないのはわかっていたけれど、合う商品を探して注文するのが面倒だと思って放っておいたのだ。この砂利なら、アルミが完全に露出するのは時間の問題だ。
しばらく歩くと騒音が聞こえてくる。
「何の音かしら? 大勢の人が集まっている?」
とあたしが言うと、絵美は直ぐに疑問を呈した。
「でも、こんな軽自動車がやっと通れるくらいの道の先に大勢が集まれる所があるかしら?」
「そうよね」
歩き続けるとと音源の正体がわかった。低めのトタン屋根の長い長い建物が砂利道沿いにあった。豚の飼育小屋である。数百匹のブーブー、ブワブワ、フゴフゴという鳴き声が群衆のような音をだしていたのだ。これだけでも十分迫力があるのだけれど、一番驚いたのは、テレビ。民放の番組が大音量で流されている。豚たちにテレビ番組を聞かせるのだろうか。あたし達は雑踏と大音量のテレビの中を静かに静かに歩いた。まるで、彼らの邪魔をすることが悪であるかのように。が、伏兵がいた。
突然、けたたましく、吠えられる。
「ワウワウワウ、ウー ワウ、ワウ」
飼育小屋の端に黒斑の白い犬がいた。スリムな中型の欧米種で、猟犬タイプの犬。
「ワウワウワウ、ウー ワウ、ワウ」
吠えやむ気配はない。絵美はいつの間にか小野寺君の肘を両手で抱え込んでいる。あたし達は、ピンと張った鎖を確かめながら、犬の視界の外へとゆっくり歩いていった。




