第5話: 絶滅危惧種
うちの店での一件、つまり、母さんが正村にあたしと結婚してパン屋を継いでほしいなんて冗談を言って以来、真美は正村とあたしの関係を気にしている。正村とあたしは腐れ縁がある。ただ、それだけのこと。正村を意識したこと、恋愛の対象として意識したことはない。きっと、それは正村も同じはずだ。が、意識していないのかと詰問されると、かえって気になってしまうから不思議だ。
お昼を食べながら、青木芽衣が新谷真美をからかう。
「やっぱり、結婚式は、純白のウェディングドレスがいいと思わない? 真美はどう思う?」
「えっ? ウェディングドレス?」
「でもって、男の方はやっぱり純白のタキシードかしら? 背が高くてすらっとしたアイツなら似合いそうね」
そう言って、視線で正村を指す。
「あ、あ、……そうかもしれない」
真美は真っ赤になる。正村とのツーショットを想像したのだろう。つられて、あたしも想像してしまった。あたし自身と正村のツーショットを。
「真美はよくわからない。由梨子は?」
と急にあたしにふってきた。
「へっ? あたし? さ、さあ」
どうやら、あたしが何を想像していたのか、わかったみたい。珍しく真美がつっかかってくる。
「由梨子は、翔と一緒にパン屋を継ぐの?」
「へっ? 正村と? 考えたこともなかったけれど……」
正村が調理白衣を着て、パン生地をこねる所を想像してしまう。正村なら、調理服でもタキシードでも似合いそうだ。
「想像できるんでしょう?」
「えっ、えーと…… できないこともないけれど…… 真美は何が言いたいの!」
「由梨子がうらやましい。真美は…… 真美は、結婚式までしか想像できないの。その先が真っ白なの」
「真っ白?」
真っ白と言われても、あたしが勝手に決めるわけにもいかないし…… それまで、黙って聞いていた木川碧が口を開く。
「真っ白があたりまえよ。」
「あたりまえ?」
「そう。普通は結婚式も想像できないわよ。だって、相手が想像できないもの。でも、真美は想像できる相手がいる。だったら、その人に聞いてみたら? もしかしたら、政治家になりたいのかもしれない。そうしたらのその奥さんは、政治家の奥さんよ。もしかしたら、画家かもしれない。売れない画家なら、その奥さんは、働いて家計を支えなければならないでしょう」
「そっか、翔に聞いてみればいいんだ」
「そう言うこと」
碧は、いつだって優しい。それに対して、芽衣はいつだってサドだ。
「一生結婚するつもりはないって言うかもしれないし、早いうちに聞いておいた方がいいわよ」
「……」
真美がみるみる落ち込んでいく。真美は幼い。が、同時に純粋だ。あたしは真美のショートヘアをくしゃくしゃになるまで撫でた。
数Yと呼ばれるのは、数学Iを担当する吉田先生だ。好々爺といった外見と物腰に惑わされてはいけない。演習の時間になると数Yは鬼である。授業が始まると前の黒板と後ろの黒板に1m程の間隔で縦線を引いていく。そして、演習書の問題番号とそれを解くべき生徒の名前を書いていく。当てられた生徒はデスマッチに突入する。つまり、解けるまで、もしくは、休み時間のチャイムがなるまで、黒板の前に立っていることになる。ちなみに、前後の黒板を使うので、あたしは、あきらめて、メガネを買った。銀縁の細いフレームのメガネだ。よく見えるようになると、なんだか賢くなったような気がして来るから不思議だ。それに、星が綺麗に見えるようになったのが嬉しい。
演習問題は、ほぼ出席番号順に生徒を割り当てていくので、自分がどの問題に当たるかを予測できる。そして、大半の生徒はそれに備えている。が、数Yは『この問題は面白くないので飛ばしましょう』とか、『この2つは易しいので、まとめて解いてもらいましょう』なんてことを言ったりして、当たる問題がずれていく。そして、教室には声にならない悲痛な叫びがあふれる。もちろん、そんなことで動揺しない優秀な生徒もいるが。
今日も、午後一の数学I演習を前にして、教室はざわついている。自分の当たる問題を互いに確認しているのだ。動揺組の守山雅夫が叫ぶ。
「えーっ! 正村が5番なんか? 何でや? わしが5番とちゃうんか?」
「俺が5番、守山は6番。間違っているのはお前の方だぜ」
「そんなアホな。わしが数えまちごうたんか?」
「そういうこと」
「正村、お願いや、わしと代わってくれへんか?」
「そう言われても、それを決めるのは数Yだから、俺にはどうしようもない。あきらめろ」
「くーっ、折角、昨日は、AKCの歌番も見んと5番を解いたのに。わしの青春返してくれ~」
そう言って、守山はゴンゴンと額を机にぶつけ始めた。黒縁メガネが当たらないようにしているから、加減しているのは間違いない。だから、彼には誰も同情しないはずだった。
「やめて!」
と甲高い声が響く。えっ、誰?
「痛いからやめて!」
真美が怖い顔をして、守山のそばに立っていた。はて? 何で真美が彼に同情しているの?きっと、教室の誰もがそう思ったに違いない。
「はあ? なんで、お前が、痛いんや? これは、愚かなわしの問題や」
「真美が痛いの」
「ほー おもろいこと言うな。なら、これやったらどうや」
そう言って、守山は筆箱からコンパスをとりだし、左手の甲をチクチクやりだした。アイツは、本当にマゾだ。オリエンテーリングでそれがわかってから、アイツをひそかに見ていたけれど、額をぶつけるのは第一段階。さらに、マゾが高じるとコンパスの針で手をつつきだす。これが第二段階。真美が第二段階を見るのは初めてかもしれない。真美の顔が真っ青になっていく。
「お願い、やめて」
囁くように哀願する。
「お前、アホか?」
そして、なおもコンパスでつつこうとした。と、その時、真美が守山の左手に自分の手を重ねた。その真美の手をコンパスの針がつく。これには、皆、唖然とした。
「どっ、どアホ!」
シーンとした教室に、守山の叫び声が響く。真美は、目に涙を浮かべながら、彼を睨んでいる。守山も真美を睨んでいる。睨みあいは授業開始のチャイムが鳴るまで続いた。
一緒に帰る途中、あたしは真美に詰問した。
「真美って変よ。守山なんかほっとけばいいのに。アイツはマゾ夫よ」
「真美が痛いの。だから見ていられないの」
「どうして痛いの?」
「感じるの」
「感じる? そんな他の人の痛みをいちいち感じてたら、やってられないじゃない」
「しょうがないわ」
「そんな、バカな! 例えば、ニュースで、誰かが刺されたなんて報道されたらどうするの?」
「由梨子、お願いだから変なこと言わないで、想像しちゃうから」
「それじゃ~ ニュースは……」
「ニュースは見ない。新聞も社会面は読まない。真美には残酷すぎるの」
「えーっ! それじゃ~ 例えば、ホラー映画は」
「もちろん見ない。ホラー映画に限らず、ドキドキするものはダメ」
「…… 呆れたというか…… 真美は繊細なのね」
「どうしようもないの」
肩を落とした真美は本当に哀れだ。他人の痛みを自分の痛みのように感じる。今の時代、真美のような子は絶滅危惧種と言っていい。あたしには想像できないけれど、きっと、辛いと思う。
コンパスの一件以来、真美と守山の関係がおかしくなってきた。真美は、守山を監視するようになった。当然、彼は気づいている。いつものように額を机にぶつけようとすると真美に見つめられていることに気づく。そして、ため息をついてあきらめる。が、何度か繰り返すうちに、我慢できなくなったみたい。筆箱からコンパスを取り出し、それを持って教室を出て行こうとした。真美は、彼の進路をふさぐ。
「どこへ行くの?」
「便所や」
「じゃあ、真美も行く」
「お前、アホか? 男子便所やで」
「なら、これは置いていきなさい」
そう言って、守山の手からコンパスを奪い取った。
「あ、こら! わしのコンパス、返せ!」
「どうせ、こんなことしようと思っていたのでしょう」
そう言って真美は自分の左手をコンパスでつつきだした。ちょ、ちょっと、真美、冷静になって……
「あ、アホなことすんな!」
「それは、真美が言いたいセリフよ」
守山は、真美の両手をがっしり握った。
「わかった。とりあえず、便所には行かん。そやからコンパス返せ」
真美は大人しくコンパスを返した。守山は頭をかきむしりながらぶつぶつ呟いていた。
そのうち、守山は、頭をかきむしりながら、真美を睨むようになった。が、それも我慢できなくなり、ある時、頭をかきむしろうとして、ふと、立ち上がった。そして、真美の方へつかつかと歩いていくと、真美の頭に手を載せて、ショートヘアをくしゃくしゃにした。真美はキョトンとしている。それが、何度か続くと、真美は、嬉しそうな顔をするようになった。一方、真美のショートヘアをくしゃくしゃにする守山は微妙な表情だ。怒っているわけでもない、もちろん、嬉しそうにしているわけでもなければ、申し訳なさそうにしているわけでもない。ただ、ただ、不思議そうに真美を見つめている。不思議そうに見つめているのはあたし達も同じだったが、そのうち、教室の誰もこの二人の日常を気にしなくなった。守山のマゾが直ったかと言うとそうでもない。
「おい、守山。新谷真美が出ていったぞ」
そう、正村が声をかけると、守山は
「おお、そうか。息抜きができるわ」
といって、静かに額を机にぶつけ始めた。
「ああ、この机の感触。生き返るわ~」
守山は変人だ。コイツも絶滅危惧種だ。
真美が守山を好きになったのかと言われれば、それは違う。真美は、相変わらず、正村にぞっこんだ。部活も正村と同じ弓道部。ちょっと覗いてみると、二人とも真剣にやっている。もっとも、ジャージを着て、1m先の俵に向かって弓を射っているから、想像していたようなカッコよさはない。つまり、袴を穿いて射った矢が静謐な空気を切り裂いていく、と言ったカッコよさは、初心者には無縁だ。それでも二人を含め、新人たちは真剣だから、オタクの集まりのような自然科学部とは随分雰囲気が違う。
同じ部なら、当然帰りもいっしょになる。真美の目論見通り、二人は一緒に帰る。かと言って正村は真美に惚れているようには見えない。べたべたするわけでもないし、つき放すわけでもない。多分、正村にとって真美は妹のようなものなのだろう。真美の方もそんな微妙な距離を変えようとはしない。いや、本当は変えたいのだろう。
一方、あたしは、妙な妄想に悩まされていた。未来の旦那が調理白衣を着て一心にパン生地をこねている。その後ろ姿はたくましく、頼りがいがある。が、妄想の中の旦那は決して振り向かないので顔が見えない。無理矢理、想像してみる。正村、守山…… 挙句の果てに生徒会長にも調理白衣を着せてみる。が、喜んでパンを焼いてくれそうな男はいない。かと言って、一人でパン屋をやるなんて想像できない。パン屋は夫婦でやるものと決まっている。妄想と焦燥感はあたしに灰色の影を落とした。その灰色の影から逃れるために、部活に精を出した。そして、部活のない日には、楠に立ち寄り、カラスのナナにパンをやったり、黙って空を見るのが日課になった。
この日も楠の辺りには強い風が吹いていた。あいにくパンは持っていなかったし、鳥も来ていなかったが、空には絹雲が張りついていた。その時、一瞬、風が凪いだかと思うと、不思議なことが起きた。何もない足元から旋風が湧きあがったのだ。そして、スカートがめくれあがったかと思うと旋風はふっと消え、スカートがふんわりと降りてくる。一体、なんだったのかしら、まあ、ここなら誰も見ていないし、気にするほどのことはない。念のためと思って、後ろを振り返ると、アイツがいた。小野寺巧だ。
「見た?」
「な、何も見ていませんよ、僕は」
小野寺の返答が少し引っかかった。
「何色だった? 白だった?」
「いえ、黄色でした」
答えたあとで、小野寺はしまったという顔をした。
「ということは見たのね」
「あ、は、はい」
彼は、珍しい旋風がおきた現場に偶然居合わせたのだろうか? そう言えば、入学式の時は桜旋風が起きて、やっぱり、スカートがめくれ上がった。その時、男の子が一人見ていたけれど、小野寺だったりして。ヒントは他にもあった。彼は、あたしが静電気を溜めていたのを見破った。そう、ヒントは幾つかあったが、この時のあたしは、彼のもう一つの秘密を見破ることはできなかった。




