第12話: 衝撃的事実
九月も下旬となると昼間は急速に短くなり、どこからともなく漂う金木犀の香りは、夏がとうに過ぎ去ったことを告げていた。そして、学校では、二学期制の期末試験が終わった。これをほぼ乗り切ったあたしは、体の筋肉も頭の中身もすっかり弛緩していた。ほぼと言ったのは、一科目、赤点(50点未満)があったからだ。でも問題が悪かったのだと思う。例えば、こんな問題があった。
次の文の正誤を答えよ。
『サッカーにおけるオフサイドは、試合後にユニフォームを交換することである』
『双子や三つ子の妊娠は多胎妊娠と呼ばれるが、これは、一人目の妊娠後の性行為によるものである』
そう、赤点を取ったのは保健体育の試験。すべて二択問題だったから、赤点は、運にも見放されていたからだと思う。追試代わりのレポートも散々だった。『避妊方法を三つ上げ、説明せよ』という課題だったので、弛緩した頭を使って、『異性に触れないこと、去勢すること、行為後30分以内に黒酢を200cc飲むこと』と書いたら、大目玉をくらって、『実技指導をしましょうか』と先生に脅された。ちなみに、保健体育は女の先生だ。どうも、うちの高校は、女先生の方が厳しい気がする。
小島絵美があたしと小野寺巧に相談があると言ったのは、後期が始まったその日の朝のことだった。
「ねぇ、秘密の花園を探しに行った時、豚小屋のオジサンが助けてくれたでしょう?」
「豚小屋のオジサン? ああ、あのエロ縄文人ね」
と、あたしは、勝手につけたあだ名を口にしてしまった。
「えっ、アロエ譲二?」
「なんでもないわ。忘れて」
「その人は佐原譲二さんって名前なんだけれど、昨日の晩、うちに電話をかけてきたの」
あれ? いつの間に絵美の電話番号を聞いたのだろう。油断もすきもないわね。
「どうも、うちの親の知り合いらしいの」
「知り合い?」
「そう。なんでも大学の時のサークル、園芸サークルで一緒だったらしいの。佐原さんが後輩で、母さんと父さんが先輩なんだって。で、私が電話に出たら、佐原さんが、花園の事で相談があるって言うのよ」
「相談?」
「ウン。詳しいことは、今日、話すって。それで、由梨子にも巧にもつきあってほしいの」
「今日? いつ? 夜?」
「さあ? 一応、私の携帯とメアドを教えておいたから、連絡があると思うの」
結局、携帯もメアドも必要なかった。なぜなら四限目の授業で会ったから。
物理の女の先生が隣に立っている佐原譲二を紹介した。
「……というわけで、後期からは、佐原譲二先生が、私の代わりに物理を教えることになります」
つまり、その若い女先生の出産前後の代理が佐原譲二とのこと。
「えー 佐原と申します。物理の基礎をみっちり教えたいと思います。好きなものは綺麗なもの。花と星と女の子です。よろしく!」
そう言って、挨拶をした。若い女先生は露骨に眉をひそめた。エロ縄文先生がこちらに視線を向けたので、あたしは慌てて目を伏せた。なんだかイヤな予感がしたのだ。
昼休みに入って、戸惑っているあたし達三人に、佐原先生は
「よっ、そこの少年少女諸君、久しぶり!」
と声をかけ、先の欠けた前歯を見せてニッと笑った。昼食を食べながら花園の相談をしたいからと食堂に誘われた。なぜか、食堂が気になるらしい。
その理由は直ぐわかった。佐原先生は愛想のいいお姉さんを見つけて、眩しそうに目を細めたかと思うと、一呼吸して声をかけた。
「楓姉さん、ご無沙汰しています。またお世話になります」
少し驚いた食堂のお姉さん(名前は結城楓さんという)は、いっそう愛想のいい笑顔で
「あら、譲二君じゃない。随分久しぶりね。五年ぶりぐらいかしら」
と答えた。佐原先生は
「六年ぶりです。今回は半年だけですけれど、お世話になります。大昔のようにサービスしてくださいよ」
と挨拶を交わす。
「大昔? ダメよ。ここは、生徒優先なんだから。大人は自重しなさい」
「冷たいですね、楓姉さんは。前の時には、自重していたら、中島にやられましたからね」
「えっ? あはは、そうね。で、譲二君の方はどうなったの? いい人見つかった?」
「残念ながら、まだ独身ですよ。それより、中島は元気ですか?」
「ええ、昼間は娘の面倒を見て、夜は塾講師よ」
「そうですか、よろしく伝えておいてください」
「ウン、わかったわ」
佐原先生と楓さんの会話は、男子生徒には衝撃的な事実を含んでいた。あたし達は、渋る先生から根掘り葉掘り聞き出した。
衝撃的事実:楓さんは結婚していて、旦那も子供もいる。
補足的推測:楓さんが結婚指輪をしていないのは、調理の邪魔になるからだろう。結婚しても姓の結城を変えなかったのは、楓さんの実家が旧家だったからではないか。
興味深い事実:佐原先生は六年前に一年ほど緑が丘高校で教鞭をとった。同僚の国語教師の中島先生と楓さんをめぐって競い、佐原先生は負けた。結婚後、中島先生は、高校をやめて、塾講師になった。
最初の事例:佐原先生が緑が丘高校の三年生の時に、当時、未婚の楓さんが食堂で働き始めた。楓さんに最初に『お姉さん、俺とつきあってもらえますか』と言ったのが当時の佐原少年。もう十年以上前のこと。この時以来、楓さんは『自分の稼ぎでご飯を食べられるようになったらそのセリフを聞いてあげるわ』と答えているらしい。
絵美にとっては、その後の話が衝撃的だったと思うわ。佐原先生は、絵美の両親と知り合った経緯を話してくれた。
「由美先輩がいたから、園芸サークルに入ったようなものだったのですが……」
と佐原先生は、遠くを見ながら話し始めた。由美先輩とは、絵美のお母さんのことらしい。
「僕がサークルに入ったときは、もう、小島先輩とできていたらしい。でも、僕は先輩達に随分可愛がってもらえて、結婚後も時々、先輩達の家に出入りしていました。直ぐに、絵美ちゃんが産まれて…… あの頃の先輩達は幸せそうでした。僕には、理想的な家庭に見えたんですけれどねぇ……」
絵美は暫くうつむいていたが、顔をあげて、無理やり笑顔を作った。
「先生、私の事を『絵美ちゃん』って呼ばないでいただけます? 私はもう子供じゃありませんし…… なれなれしいじゃないですか」
と絵美が抗議した。すると先生は、絵美に視線を戻して
「そんな~ 冷たいですね。裸のつき合いもしたことだし」
と言った。
「は、裸のつき合い? そんな覚えはありません!」
そして、先生は衝撃的事実を告げた。
「小さかったから覚えていないのでしょう。ある時、先輩達が食中毒で寝込んで、当時、まだ学生だった僕は、手伝いに行ったのですよ。絵美ちゃんのおしめを替えたり、一緒に風呂に入ったり…… そう言えば、一緒に入った湯舟にウンチが浮いていてびっくりしたなあ。あのころの絵美ちゃんは可愛かった。おちんちんはなかったけれど、可愛かったよ」
あたし達は、先生の思い出を想像した。絵美はゆでダコのように顔を赤くして、耳をふさいで叫んだ。
「先生! やめてください!」
「その絵美ちゃんがこんな美人になるなんて…… 由美先輩より美人ですよ」
そう言って、先生は眩しそうに目を細めて、絵美のサラサラ髪を手に取った。そして、人差し指と親指でつまんだその髪をすり合わせた。絵美は赤い顔をあげて、ぼーっと先生を見つめていた。
そんなやり取りがあって、あっという間に昼休みは終わり、肝心の花園の相談はできなかった。結局、相談するよりも見た方が早いと言うことで、次の日曜日に佐原先生の車で連れて行ってもらうことになった。
あたしの家に来た迎えに来た時には、すでに小野寺君が車に乗っていた。普通の車より少し車高が高く、タイヤも太い車だ。それから、絵美の家に行った。絵美の母はすでに仕事に出かけていて、先生は会えなかったことを残念がっていた。
運転しながら語った先生の話によれば、秘密の花園は、もともと、絵美のお父さんが持ちかけてきた話で、種をまくのを先生も手伝ったらしい。あたしは、落雷の直前に見た黄色い花群を思い出した。花は黄色いコスモスで、夏から咲き始める珍しい品種だそうだ。先生の話に絵美も疑問を抱いたのだろう。
「先生。そもそも、父さんはどうして花園を作ろうと思ったの?」
「そりゃ、決まっているじゃないか。絵美ちゃんを驚かそうと思ったんだよ」
「あっ…… そうだったの」
そう言って、助手席の絵美はうつむいた。先生は運転しながら話を続けた。
「ちょっとしたハイキングをして、小山の頂上を越えると、林の中にぽっかり空間が空いていて、陽光が降り注いでいる。ふと下に目をやると黄色い花が群生している。どこからも見えない、誰も知らない秘密の花園…… 可愛い愛娘が目を丸くする…… 小島先輩のちょっとしたいたずら心かな。僕も、最初に花が咲いているのを見た時は感動して、先輩に電話したよ。直ぐに飽きちゃったけれど」
あたしは気になって先生に尋ねてみた。
「でも、結構大変だったんじゃないですか? 林を切り開いて、整地して、耕して…… 種をまいて育てたんでしょう?」
「う~ん。本当の所はそれほどでもなかった。コスモス自体は種をまけば放っておいてもいいので、手がかからないし…… もともと、あそこは畑だったんですよ。秘密のそば畑だった」
「秘密のそば畑?」
「先祖伝来の家宝といってもいい」
「どうして、そば畑が家宝なんですか?」
先生は、佐原家に伝わる家宝の由来を語ってくれた。
佐原家は、少なくとも江戸時代中期には、あのあたりの山林を有する庄屋だった。米と材木を年貢として納めていた。年貢の取り立ては厳しく、天候不順で米が凶作の時は、本当に大変だったらしい。村人は飢餓に苦しんだ。それを見かねた庄屋は、村人とともに山中にコッソリそば畑を作った。そばは天候不順に強く、生育期間も短く飢餓対策にはうってつけだった。だけど、折角そばを収穫しても年貢として取り上げられてはたまらない。ということで、検地役人に見つからないように山中に畑を作った。庄屋ぐるみの検地逃れ、見つかればタダでは済まないが、皆が黙っていれば、そうそう見つかるものでもない。そうやって、長い間、そばを栽培していた。でも、ある時、とうとうそれが検地役人にばれた。
その時の庄屋は、まだ若い青年で、家督を継いだばかりだった。青年はよく働き、よく学び、経験が浅いながらもよくやっていた。が、やはり青年である。ある小作の娘に恋をした。まだ幼さの残るきれいな娘だったという。そば畑は逢瀬の場であったのかもしれない。青年は娘の髪にそばの花を飾った。小さな白い花である。その花を役人は見逃さなかった。青年は青ざめた。検地逃れは重罪であり、しかも、庄屋は検地役人とともに検地をする立場である。娘は青年の命乞いをし、役人の目の前で自害した。そうして、佐原家は生き延びた。青年は畑のそばに石塚を築き、毎年、そばの花を飾ったと言う。先生はこう締めくくった。
「それ以来、佐原家はそば畑を家宝として大事に守ってきたらしい」
あたしは、先生の最後の言葉が気になって
「らしいって、曖昧なんですか?」
と聞いた。
「ウン、それらしい畑が幾つかあって、どれが家宝の畑なのか、もしかしたら全部そうなのかわからないんだ」
「だって、石塚のあるそば畑なんでしょう。わからないの?」
「いや~ それが…… 親父の代ではもうそばは栽培していなかったし、石塚も見あたらないんだ」
「呆れた、本当に家宝なの?」
「家宝じゃないかも…… ま、そんな畑の一つ、荒れた畑の一つを小島先輩が花園に変えたんです。でも、その花園も、ゴルフ場の造成で半分なくなってしまったし、これからの整備を考えると花園を残すことはできない。で、ここからが相談なのですが、別の畑を花園にしたいと思うですが、どうでしょう?」
それまで、黙っていた絵美が口を開いた。
「私達に花園を作らないかということ?」
「そうです。今日は、幾つか候補の畑、畑だった所を見てもらおうと思います」
例の豚小屋には、豚も犬もいなかったし、テレビもついていなかった。あの時の、異様な雰囲気は微塵もなく、ガランとした飼育小屋には、ほこりが舞っていた。ゴルフ場造成と、高校の臨時教員で忙しく、豚は売り払ったそうである。そう語った先生は、少しさびしげだった。
それから、あたし達は歩いて三つほどの畑の跡を回った。いずれも、ちょっと登った小山の頂上近くにあった。
この日、あたしは新しい杖を使い始めた。新しい杖はロフストランド型というタイプで、一本の杖の中ほどより少し上に握りがあり、上端は、上腕を支えるための輪がついている。松葉杖よりも数段かっこいいと思う。本当は折りたたみ式の杖がよかったのだけれど、まだ、体重を支えないといけないので、この杖になった。
最初は、足も杖も調子は良かったが、三つ目の畑に行く途中でばててしまった。仕方なく、落雷の時と同じように先生におぶってもらった。あの時は干し草の匂いがしたけれど、この日は洗濯の匂いがした。おぶってもらっている時に先生は小声で
「前は、気がつかなかったけれど、ちゃんと胸がありますね」
と言った。あたしは、降ろしてくれるよう頼もうかと思ったが、やめた。歩きたくなかったから。
どの畑を候補にするかは、耕運機を運ぶ経路も考えてから決めたいと先生は言った。いつのまにか、あたし達が花園作りを手伝うことは決定事項になっていた。
最後に、ゴルフ場の花園も見に行った。あたしが、この世で最後に見る風景と思った花は残っていたが、すでに花の季節は過ぎており、あの時、瞼に焼きついた鮮やかな黄色の面影は少しもなかった。完全に枯れたら、種をとるので、手伝ってほしいと言われた。
そこまで、おんぶしてくれた佐原先生は、疲れたといって、小野寺君に代わってもらうよう頼んだ。あたしは、恥ずかしかったが、折角だからと思って、お願いした。彼は何も言わずにあたしをおぶってくれた。この時ばかりは、もう少しバストが小さかったらと願った。
豚小屋に着いて、小野寺君の背中から降ろしてもらったら、先生がこう言った。
「巧君、由梨子ちゃんの胸は気持ちよかった? バスト83センチだそうですよ」
げっ、先生、どうして、覚えているの。一方、小野寺君はキョトンとした顔を見せて、こう答えた。
「えっ、気がつきませんでした」
この時ばかりは、もう少しバストが大きかったらと、心から悔んだ。
火曜日放課後、楠に絵美と小野寺君とあたしの三人が集まった。特に何かをしようとしたわけじゃない。あたし達は、ベーグルを細かくちぎって鳥達にやった。三人三様に物思いにふけっている。いや、もしかしたら、小野寺君は何も考えていないかもしれない。
足音がすると思って、振り返ると思わぬ人々、思わぬ組み合わせの二人がいた。声をかけてきた。
「よっ、少年少女諸君、久しぶり!」
佐原先生だ。
「久しぶりじゃないですよ。一昨日会ったばかりじゃないですか」
とあたしが言った。隣にいる担任の早坂先生が
「あなたたち、しょっちゅう、ここに来るの?」
と尋ねて、絵美が答えた。
「しょっちゅうというほどではありませんが、時々かしら」
絵美はあたしと小野寺君の顔色を伺っている。どうやら小野寺君とあたしがしょっちゅう、ここで密会しているのではないかと疑っているのだ。
「そう、時々ね」
とあたしは答えて疑いを晴らした。それにしても早坂先生と佐原先生の組み合わせは異色だ、科目も、年齢も、部活も共通点はないと思う。そして、早坂先生が衝撃的事実を話すのを耳にした。
「まるで、昔の私達みたいね。あの頃は、佐原君と、耕介と私という組み合わせだったわね。最初に耕介に呼びだされた時も佐原君が居たから、ここで会う時はいつも3人だったような気がする。ホントに懐かしいわ」
そう言って、早坂先生は、楠の幹に手を当て、見上げた。まるで、過去が見えているかのように。佐原先生は眩しそうに目を細めて早坂先生を見つめた。
感傷に浸る二人を邪魔したくはないと思いつつ、興味の方が勝った。
「あの~ 早坂先生と佐原先生は知り合いなのですか?」
とあたしが聞くと、早坂先生は、お腹の皮下脂肪を揺らしながら答えてくれた。
「私が、この緑が丘高校に新米教師として赴任した時、佐原君と耕介、早坂耕介は、生徒だったの」
あれ、今、早坂耕介って言ったの? まさか……
「そう、早坂耕介は夫よ。でも、その時は高校生。ある時、二人があたしをこの楠に呼び出したの。何かと思ったら、二人して……」
佐原先生が続けた。
「僕ら、二人とも、ここで先生に告白したんですよ。好きです、つき合ってくださいって。今の早坂先生からは想像もつかないと思うけれど、当時は、それはそれは別嬪だった」
「想像もつかないは余分ね」
と早坂先生は笑いながら抗議して、こう続けた
「まあ、当時の雰囲気では、先生と生徒がつき合うなんて前代未聞だったのよ。だから、私は大人しくしていた。そもそも、子供とつき合う気は毛頭なかったしね」
今度は、佐原先生が説明を続けた。
「ところが、耕介はあきらめなかった。アイツの情熱は本物だった。で、耕介が大学を卒業して直ぐに先生と結婚したんだ。アイツは無職だったから、周りはずいぶん反対したみたいですけれど…… 今は、立派になった。ですよね、先生!」
そう言って、佐原先生は早坂先生の方に振り向いた。
「立派なのかどうなのか…… 半分、専業主夫みたいなものだから、役に立っているのは確かだけれど……」
「耕介は、今や売れっ子作家ですから、十分立派ですよ」
佐原先生はそう言って、売れっ子ラノベ作家のペンネームを挙げた。あたしのお姉ちゃんが好きなファンタジー作家だ。早坂先生の旦那さんがそんな著名作家だなんて、別嬪だった早坂先生と同じくらい想像が難しかったけれど、二人の先生にとっては、今を気にするよりも昔を思い出す方が大事みたいだった。
それにしも、佐原先生の悲恋体質には、同情するというか、呆れるというか…… 絵美と目を合わせたら、肩をすくめたから、彼女も同じことを考えていたと思う。




